祝福された星の歌

An episode from the forest

牧野信一





 麓の村から五哩あまり、馬の背で踏み入る森林地帯の山奥――苔むした岩々の間を、隠花植物の影を浮べて、さんさんと流れる谿川のほとりに営まれた伐木工場の丸木小屋の事務所に、その頃私はアメリカ生れのフロラと共に働いてゐました。私達の夫々の父親ダツデイ達の共同の仕事だつたからです。たしか、私が、文科の大学生活を終へた同じ年のことで、何故か私は文学よりも、哲学に憧れを寄せはぢめて、身をもつて健やかな生活に、つまり、いとも花々しい労働に没頭することから端を発して幽遠な精神上の光りの国へ憧憬の翼を差し伸したい――そんな風な、云はゞエピクテイタス流の希ひに胸をふくらませて居りました。で私は、毎朝々々、頑固な目醒時計ベビー・ベンを鳥共と一処に鳴らして、飛び起きると、働け/\の「森の鍛冶屋」の歌を口吟みながら、馬に乗つて朝霧の深い谷間を飛んで、斧の音の丁々と打ち響く伐採場へ走ります。空に唸りを巻き起しながら倒れて行く大木の倒れるのを眺めて、夢にもない朗らかな叫びを挙げました。鈴を鳴らして急坂を滑る橇に打ち乗つて、ブレイキを握りながら風を切つて、口笛を吹きます。夜ともなれば、終日の働きで爽やかな疲れを覚へた身を、炉端の、ランプを低く灯した小屋の窓下で、フロラに日本語を教へたり、読書に吾を忘れて、膝の上から書物が滑り落ちるまで現の遠い幻の国に遊びました。
 それはさうとして、いつの間にか夏が過ぎ、秋が暮れて――いつそ、このまゝ、今年のクリスマスは、この小屋で迎へようと語らふ冬となりました。ダツデイ達は、私とフロラの決心をまことに勇壮なものと認めて、ほのぼのとしながら山をくだりました。
 そこで、降誕祭の“on the one”が、麗らかな天気つゞきのまゝに目睫に迫りました。山に働く他の凡その人々はこの宗教に全く関心を持たぬ麓の部落の村人達でしたから、この師走のおしつまつた日のなかで、あの辺から来てゐる二人の学生は何の戸惑ひをしてのぼせあがつてゐるのだらうか? などと囁くのを、しば/\フロラが、その故を説明などしながら、たつた二人で、花やかな祭りを催すために丸木小屋の中の飾りつけにいそしみました。――それにしてもあの人達、信仰は持たなくても、こんなに綺麗な祭りの悦びだけは迷惑ではあるまい、楽しい夕べが訪れたならば、サンタクロースには山番の老人を頼まうよ――。
「あの白髪のゆたかな、常に円満な微笑を湛へた呑気さうな山番は、普段のまゝでもサンタクロースそつくりだ。」
 フロラは、そんなことを云ひながら、カーテンをとりはづして袋を縫つたり、とんがり帽子をつくつたり、その忙しさと云つたらありません。
「いゝえ、その話を僕が昨ふ山番に告げたら、手を打つて悦び――そんなら、その袋一杯、わたしが森の土産をつめこんで、吃驚りさせてやりたいものだ――なんて大いに勇み立つて、さうだ、ほんのさつき、これと同じ位ひに大きいランチ袋をかついでから、橇を引いて出かけて行つたよ。」
 何んな土産であらうか、森の土産が、妾のスタツキングに入るかしら? フロラは、愉しさうな不安のまなざしをしばたゝいて、
「こんなに太くなつたら、何うしよう?」
 と、脚の太さを両指をもつて、太く現はしながら、突然、真つ赤になつて、噴き出したりしました。
「決して――」
 と私は、フロラの手の輪をこわして、慰めました。「お前のスタツキングを見守つてゐる山彦の精が……」
 とかと云ひかけて私は、あまりの無稽気な形容詞に次の言葉がつゞかなくなつて、たゞ、大きく笑つて、その手の甲に頬を刷り寄せたりしました。それから、また、山中の若者を招待して、カンナ屑のテープを投げ合はうではないか、赤、青、緑と染めて五彩の雪を降らせてやらうと、ついでに彼等の村踊りを所望しよう、此方は吾輩が腕によりをかけて手風琴を弾くから、フロラと一つお得意のロココ舞踏を披露すべし、だ――。
「フロラのあれは、ほんとうに観る者の心を恍惚の空へ案内さすに充分だ。僕は、未だ二三度より見物したことはないのに、今だつて、斯うしてちよいと眼をつむると、いつかお前がヨコハマの家で誕生日のお祝ひか何かの時に踊つたおれが――さうだ、さうだ、山彦の精の踊りでもあるかのやうに、はつきりと眼の前に浮んで来るからね……」
「だつて、ドレスなんて、一枚もない。」
「そいつは、例の工夫だ、サンタクロースの衣裳にならつて、カーテンを応用するなんて何んなものだい、丸木小屋気分がいよ/\濃厚となつて面白いではないか。」
「スタツキングとか、スカートとかの問題になるとお前は、仲々騎士らしいことを云ふが、情熱の眼を不図輝やかしたりしないように注意したまはれよ! Hurrah!」
 私は、一本参らせられたりしました。そんな、こんな冗談を交しながら大方の飾りつけを終つた時分になつて、フロラが、
「mistletoe がない!」
 と気づきました。


 で私は早速、
「こんな森の中だもの、何処にでもあるに違ひないよ。……僕が一走り行つて探して来るのは容易だが、愉快な形式を尊重して一枝の mistletoe を、二人がゝりで索めに行くといふ古風な夢を実現して見ることにしようではないか。」
 と申し出て、フロラと手を携へて森の中へ出かけたところが、梢ばかりを見あげながら終ひには首筋のあたりが変になつてしまつた程熱心に探し回つても、一向それらしいものが見当らぬのです。
「ヤドリ木御存じ?」
 私は出遇ふ人毎に訊ねましたが、皆な同じやうにぼんやりして、知らぬ/\、名前も聞いたことがないと答へるばかりです。
「あれは、寄生する親木の類ひが特別な種類ではなかつたかしら。植物学ボタニーの書物を見ておくべきだつた!」
 私がついそんな嘆息を洩すと、フロラも思はず眉を顰めて、
「こんなに歩き回らねばならなかつたのなら、妾は橇小屋から馬を借り出して来たのに。」
 といふ不満など述べて、暗に私の無責任を詰るのです。無理もありません。ほんの五分か十分の片手間と云つて誘ひ出したのに私達は既に二時間あまりも完全に上ばかり眺めて、尋ね回つたのでしたから。
 私は無論、手をのばせばとゞくであらうほどの高さの幹を目あてにしてゐましたところが、フロラは、
「お前は樹の幹をよぢ登ることは出来るかしら?」と質問しました。
「余り太い幹でなければ……」
 私は、可細い喉の底で唸りました。私は少年の頃、果物をとる目的で高い枝を伝ふてゐた時、突然枝が折れて地上に転落し左腕を折つた経験を持つて以来、木登りと聞くと迷信的な怖れを抱いて、忽ち脚がすくんでしまふのです。
 私はギツクリとして眼を白黒させてゐた途端に、ずつと先の方へ踏み入つてゐたフロラが、
「ハロー、ハロー!」
 と気たゝましい歓喜の声を挙げました。そして、恰で逃げてしまふ生物を見出したかのやうに慌てゝ、
「ハリヤツプ/\! 見事な一株の、幸福の木を発見した。」
 と叫びました、森閑とした森に、その声が真に山彦の精に似て鳴り渡りました。私が、驚いて駆け寄るとフロラは、
「おゝ、妾は終に幸ひを見出した。」
 と、とても仰山な声を挙げながら、悦びに亢奮して私の胸に抱きつきました。
 で、私がフロラの指差す上を眺めると、二抱へもある程の樅の大木で、成程、遥かにそよいでゐる寄生木のある枝までは、目測凡そ二丈も昇らなければなりません。――私の両脚は全々感覚を失ひました。
「おゝ、勇敢なる騎士よ。」
 とフロラは真面目に叫びました。――「樵夫の家から縄梯子を借りてお出で。妾はお前の手が幸ひの木枝に触れるのを注意深く視守るであらう。お前が剪りとつて来る幸福の枝に妾は、二人の永久の幸ひを祈る最初の接吻を捧げるであらう。妾の勇敢な、より好き半身よ。ハリヤツプ/\。……光りを拾ふための梯子を……」
 私は夢中で縄梯子を運んで来ると、つぎ竿の先で辛うじて梯子の一端を「幸福を宿す木」が私達のために緑の翼を拡げてゐる樅の枝に懸けることが出来ました。
「二人で昇つて行つても安全であらうから、妾も、妾の頼る者の後に続いて、あの枝に腰をかけて共々に(祝福された星の歌)を歌はうではないか。」
 宙を腰木の枝からブランコになつて垂れてゐる梯子を、さすりながらフロラは切りと私の登攀を促します。
「では――」
 と私は、決心の瞑目をして云ひ切りました。――「おゝ、歌はう、幸福の枝を抱へたお前の肩に凭つて私達が橇道を降つて行く帰りの、橇の上で歌はう、未だ、あの幸福の枝は完全に吾々の手に帰したとは云へぬであるから、――一刻の猶予を与へてお呉れ。」
 その一刻の猶予が、真に私にとつては天国と地獄の岐れ道とも思はれるのでした。私は梯子の中途で、脚を滑らせさうな危惧にばかり襲はれてなりませんでした。単なる幹を伝ふよりも危い、ブラ/\とする縄梯子は全く私にとつて初めての冒険であります。
「よしツ!」
 と私は覚悟して、一振りの山刀を腰のバンドにたばさむと、神妙な脚どりで一段一段と縄梯子を昇りはぢめました。
 目が眩む――と思ふと、それは何も迷信的な臆病のみがさせる業ではなくて、橇に乗つた帰り途の想像が、私の魂を恍惚の吹雪で粉々と打ちはためかせて居るのでした。――脚は梯子を履む想ひもなく、宙に、雲の中を行く如く、腕は、ときめきに震へて、ひたすらに光りの影を追ふが如く、眼は、ハラハラと五彩の雪に降り込められて、今にも呼吸いきがとまつてしまふかのやうな烏頂天の宙に、吾を失ひさうでありました――。といふのは、あの「祝福された星」の歌の唱歌者うたひては、歌の初めと終りで、未来を約す熱い接吻をとりかはすのが慣ひである、ミスルトウの枝の蔭で――といふ話を私は、もう一年も前からフロラに聞いて、誰があの歌を、このフロラと歌ふことであらう――と、羨望ともつかず、いつも/\夢幻ゆめうつつに想像しつゞけてゐたところの、云はゞ悲し気な夢だつたのが、――あゝ、今や、この憐れな夢想家が、忽ち、その歌の合唱者に選まれようとしてゐるのか……。
 脚がふるえる、胸に止め度もない花やかな竜巻が疾風に追はれて、生きた心地も忘れて――私は、梯子の中途に、烏のやうに翼を休めると、それが大波と揺れてゐるのを感じ、と、氷のやうに冷い稲妻に似た光りが、烈しい勢ひで五体をかすめて行くおののきに襲はれました。





底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「蝋人形 第三巻第四号(四月号)」蝋人形社
   1932(昭和7)年4月1日発行
初出:「蝋人形 第三巻第四号(四月号)」蝋人形社
   1932(昭和7)年4月1日発行
※副題は底本では、「“An episode from the forest”」となっています。
入力:宮元淳一
校正:砂場清隆
2008年1月28日作成
2016年5月9日修正
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