僕はこの前の時、武さんの馬から墜落して、左腕を首から吊つてゐた。遊びをとめられてゐた。納戸の北側の窓から、長持の上に乗つて、憾めしく武さんの馬を眺めてゐた。馬は巴旦杏の幹につながれて、飼馬桶にうな垂れてゐた。
祖母が
やがて祖母は、武さんの傍に現れて何か訊ねると、武さんはかぶりを振つてゐた。そして、ふたりは籔ぎわの日向で尾を振つてゐる馬を振り返つて、うなづいた。祖母はいくらか安心の態で、柚の実を二つ三つ武さんの長竿で落して貰ふと、首をかしげながら引きあげて行つた。馬はちやんとつないであるし、一体あの子は何処へ行つたのだらう、だが、まあ馬にさへ戯れてゐないのなら安心だわい――祖母はおそらく、そんなに呟いてゐたに相違あるまい。
僕は、もう馬に乗りたくて堪らなかつたのだ。武さんは、いつも蜜柑山の
「えゝ、お早うござい……」
といふ武さんの声を耳にする朝だけは、蝗のやうに勢ひ好く飛びあがつて、朝飯も食はなかつた。
武さんの馬は赤毛の牡で、「どん」といふ通称だつた。僕が、どんに夢中過ぎることを祖父達は武さんに気の毒がつたが、武さんは寧ろ僕を悦ばすためにどんを曳いて来るのだから一向
「
僕の姿を見出した子供達は、必ず斯う叫びながら僕のまはりをとり巻くのが慣ひであつた。
それらの襲来が次第にものものしくなつて、負傷者が現れたり、収穫の奪ひ合ひで乱戦が演ぜられたりする始末となつて、果しもなかつたので祖父と武さんが謀つて、禁制の立札をつくつた。その代り、武さんが折りに触れてはその根を掘り出し、食用に適するように日向干しとして、適度に裁断したものを肉桂中毒者連へ分配することにした。その分配の役目が僕にあてられてゐた。僕は、武さんから渡される品物の詰つた手さげ籠を携へて、附近の広場へ赴いて、呼子の笛を吹き鳴らすのであつた。ところが、合図の呼子を耳にするやいなや、全くそれは誘蛾灯に殺到する甲虫類と云はうか、野獣と申さうか例へやうのない物凄さで、ワツといふ鬨の声といつしよに、女となく男となくまつしぐらに僕の上に飛びかゝつて、あはや僕の五体はきれぎれに引き裂かれまじき勢ひだつた。
だから僕は、どんに跨がつて籠を持ち出した。鞍の上から、ふり撒いた。皆が夢中になつて僕の馬のあとを追ひかけて、僕はおもしろかつたが、町端れの植木屋の鯛ちやんひとりは、物欲しさうな顔もなく、いつもこの騒ぎを門口の槙の木の下でぼんやりと眺めてゐるだけだつた。両掌に、赤と青の糸でかゞつた鞠を持つて、鈴のついた
「だつてうちにだつて肉桂の樹はあるんだもの……」
僕は鯛ちやんが騒がぬのが不満だつたので、空になつた籠を肩にかけて鞍から飛び降りると――欲しいのならお前には皆にかくれて持つて来てやるが? とさゝやいたのだ。ぢや何か他に欲しいものはないか、アメリカのリボンを上げようか、それともヱハガキが好いか、幻灯の画でお前の顔を硝子板に描いてやらうか……。
「アツ、金公が此方を向いてゐるよ、気を付けよ……」
鯛ちやんは、僕が肩にかけようとした腕を払つて、とんとんと鞠を突きはじめた。そして、はやぐちでそつと僕に告げた。
「あいつはね、この間あたしをつかまへてね、俺と夫婦にならないんかなんて云ふのよ。大嫌ひなのよ、あたしはあいつの顔が……あツ、来た/\、屹度意地悪をするよ。」
僕も金公は苦手であつた。乱暴で意地悪でまことに猜疑心が深かつた。彼の父は新聞社の社長であつたが、牢に這入つてゐるとのことだつた。――僕の腕力は如何しても彼の敵ではなかつた。
やがて彼は僕等の傍に来ると、肉桂の根をしやぶりながら、
「やい/\……」
と薄気味悪い苦笑ひを浮べながら、
「手前はお鯛を口説いてゐるのか……」
と顎をしやくつた。僕は、どきりとして、
「その
とお世辞をつかつた。
「武爺いに云つてやれよ、あいつは太いところを自分ちへ運んで、こんな毛バ見てえのばかりを俺達へ呉れやがる。」
俺がこいつよりも強かつたら、あの獅子つ鼻へガンと喰はせてやるんだがと僕は悲しみながら、
「幻灯やらうか?」
と誘ふのであつた。彼は弁士を得意として何時もこの誘ひには有無なかつたが、鯛ちやんの姿を執拗にじろ/\眺めるばかりで動かなかつた。そして、更に憎々しいしやがれ声で、
「こいつを口説くには銭が要るんだつてよ、お前知つてゐるのか、こいつはそのうち芸者に……」
そんなことをほき出したかと思ふと、突然鯛ちやんがワツと泣き出した。鞠がころころと転げて、一つは
「子供のくせに何をませたことを云やあがるんだ、新聞なんぞは怕くないぞ。」
鯛ちやんのお爺さんが、震へ声で飛び出して来た。金公は一目散に逃走して、向方の
僕は屡々鯛ちやんの夢を見た。腕を吊つてゐるので遊ぶことが出来ないが、治つたら、誰が何と云つたつて、お前とばかり遊ぶよ――僕は、鯛ちやんに、せめてそれだけのことは通知しておきたいと希つて、時々人の目を盗んで、植木林の方へさ迷つたが、鯛ちやんの姿を見出すことが出来なかつた。
「親がないとおもふと、あの子がもう不憫で/\風にもあてさせたくないと……」
「お前さんが優しいから、あの子だつて幸せぢやありませんか。」
「奉公の口もあるにはあるんですが、手離すことなんて出来やしませんや。」
一生懸命に働いて、あの子に相当な
「おばあさん、五目ならべしよう。」
僕は鯛ちやんのお爺さんとおしやべりしてゐる祖母を引つ張るのであつた。そして、祖母が即座に僕の云ふことをきかぬと憤つて、ワツと喚き出し、
「婆ア、しやべるな……」
と暴れた。鯛ちやんのお爺さんは呆気にとられて、這々の態で庭の仕事へ向はうとすると祖母が、
「これも、やつぱり親が側に居ないもので、とんでもないお代官さ。」
とお爺さんへ目配せしたりすると、一層僕は肚を立てゝ、押入れの中へ飛び込んで、ぴつたりと戸を立てた中で喚き罵つた。
「孫太郎虫を服ませにやならん――まるで気狂ひだ。」
祖母はおろ/\した。僕の見知らぬ父は外国へ遊び、母は東京へ遊学中だつた。
僕達は買つて来る幻灯の絵では飽き足りなくて、その大きさに切つた硝子板におもひ/\の画を
僕は、負傷の腕を抱へたまゝ納戸の窓から百舌鳥の鳴いてゐる空を眺めてゐた。その時、竹籔の中から突然、
「こらア……! 誰だア……!」
といふ大声が轟きわたつた。栗を拾つてゐた武さんの声だつた。すると野菜畑を隔てた遠くの肉桂の林の中から二三人の子供が驚いて飛び出すや、彼等は繋みの底を
「あつはつはつ……!」
天狗のやうな声で大笑した武さんの笑ひ声が、竹籔をとほして四方へ陰々とこだまを返してゐた。武さんの姿は、もう何処にも見えなかつた。巴旦杏につながれてゐるどんが、白い空に口を向けていなゝいた。僕が負傷のために、もう幾日も/\外へ出られなかつたので、彼等は肉桂の誘惑に堪へられなくなつたのであらう。
僕は不図もう一遍肉桂の林の方へ、何気なく視線を投げた。――おや! と僕は、自分の眼を疑つた。夢かな? と思つた。
――唐人髷の鯛ちやんが、胸の上に袂を重ねておいらん草のやうにしよんぼりとたゝずんでゐた。
で、危なかしく窓から脱け出すと上草履のまゝで畑を飛んで行つた。
「みんな逃げちやつたわ!」
鯛ちやんは、はちすの生垣にあいてゐる竹籔の奥の穴が光つてゐるのを指さした。
「どうしたの、
あしもとの地面は、あちこちと土がはね返され、傷つけられた樹根の皮が生々しくむき出されて、甘辛い刺戟の
「金公がね、あたしに沢山採つてやらうといふのよ。欲しくないと云ふとね、あたしの腕をつかまへて何うしても一緒に行け、見張り番をしろ……」
「泣いちやいけないよ、鯛ちやん!」
「いゝえ、可笑しいのよ。だつて金公は石川五右衛門だつて一番威張つてゐたくせに、あんなに夢中で逃げるんだもの。」
僕は、白い幹に凭りかゝつて斑らな空を仰いでゐた。この様子を垣間見て、金公の徒党が仕返しに来るだらうと思つた。――百舌鳥が高く鳴き、目白が竹籔の間を飛んでゐた。
「ほんたうは金公なんて弱いんだらう。」
「屹度弱いわ――でも、片腕ぢやとても適はないだらうな!」
鯛ちやんは繃帯で吊つてゐる僕の腕を見て、それが治つたらまた幻灯を写すか? といふやうなことを訊ねた。
僕は応へようともせず、
「若し仕返しに来たら、俺はもう決して逃げないよ。片腕だつて構やしない、屹度、喧嘩して見せるぞ!」
僕は、あれこれと思ふにつけ到底我慢もならず金公が癪に触つて来て、亢奮した。
「ね、メカケつて何? 金公たらあたしにね、お前が若しも芸者になつたら俺が身うけをして、メカケにしてやるから安心してゐろ――と云つたわよ。」
「お嫁さんのことだらう。」
「いくら親切だつて、あんな奴のお嫁さんになんかなつて堪るものか。」
からからん! と竹にあたつて、投げて来る石の音がひゞいた。
「鯛ちやん俺のうしろにかくれると好い、俺はもう少しも怕くはないよ。」
祖父の筆蹟で、何々、べからず――と誌されてある禁札の立札のうしろに鯛ちやんが顔をかくさうとしたのを、僕が颯つと引き寄せると、倒れる立札をつかんだまゝ鯛ちやんは、掘り散らかされた樹の根に躓いてどうとよろめいた。簪が土の上に落ちた。にはかに彼女は、カツとして、
「あたしだつて怕くはないぞツ!」
と狂気で叫んだ。そして力一杯に立札の棒を振り廻して、竹を擲つて、棒は折れ、矢庭に竹籔の奥を目がけて足袋跣足で向つて行つた。薄明りの射した籔の中を、袂を翻してあばれて行く彼女の姿が、この世のものとも見えぬ奇怪な美しさで僕の眼に幻灯のやうに映じた。僕は知らぬ間に拾ひあげてゐた一片の肉桂の根を、土のまゝ噛りながら、はら/\と全身を震はせて見惚れてゐた。
――その後、幻灯会は時々催されるやうになつたが、何故か金ちやんは、とてもおとなしい