肉桂樹

牧野信一





 枳殻からたちの生垣に、烏瓜の赤い実が鮮やかであつた。百舌鳥が栗の梢で、寒空を仰いで激しく友を招んでゐた。武兵衛さんが、曲つた腰を伸して、いつまでも、鳥の声の方を見あげてゐた。彼の口から立ちのぼる呼吸いきが、ふわふわとする煙であつた。――武兵衛さんのことを皆は、ぶうさんと称び慣れてゐた。武さんは、蜜柑山の向方の村から、馬を曳いて、僕のうちの母家のまはりの野菜畑やら、果樹や竹藪の手入れに来る厳丈な年寄りである。
 僕はこの前の時、武さんの馬から墜落して、左腕を首から吊つてゐた。遊びをとめられてゐた。納戸の北側の窓から、長持の上に乗つて、憾めしく武さんの馬を眺めてゐた。馬は巴旦杏の幹につながれて、飼馬桶にうな垂れてゐた。
 祖母がしきりに僕の名前を呼び、もう遊びに出かけたのか知ら、未だ少しばかり熱があるといふのに仕様のない子だよ――と、うろうろしてゐるらしかつたが、僕はそつと納戸のに内から、木刀をしんばり棒にかつて息を殺してゐた。
 やがて祖母は、武さんの傍に現れて何か訊ねると、武さんはかぶりを振つてゐた。そして、ふたりは籔ぎわの日向で尾を振つてゐる馬を振り返つて、うなづいた。祖母はいくらか安心の態で、柚の実を二つ三つ武さんの長竿で落して貰ふと、首をかしげながら引きあげて行つた。馬はちやんとつないであるし、一体あの子は何処へ行つたのだらう、だが、まあ馬にさへ戯れてゐないのなら安心だわい――祖母はおそらく、そんなに呟いてゐたに相違あるまい。
 僕は、もう馬に乗りたくて堪らなかつたのだ。武さんは、いつも蜜柑山の天辺てつぺんで、朝日を拝むといふ早起で、僕のうちの朝餉の頃には既に一仕事を終つて、噴井戸に面した縁側に腰かけながら一本の酒徳利を傾けてゐた。毎朝僕は、祖父と祖母の感情を非常に昂ぶらせても容易に眼醒めた験としてもなかつたが、
「えゝ、お早うござい……」
 といふ武さんの声を耳にする朝だけは、蝗のやうに勢ひ好く飛びあがつて、朝飯も食はなかつた。
 武さんの馬は赤毛の牡で、「どん」といふ通称だつた。僕が、どんに夢中過ぎることを祖父達は武さんに気の毒がつたが、武さんは寧ろ僕を悦ばすためにどんを曳いて来るのだから一向かまはぬ――と云ひ、腕をかして僕を鞍の上へすゝめた。
肉桂ニツキをお呉れ、肉桂をお呉れ!」
 僕の姿を見出した子供達は、必ず斯う叫びながら僕のまはりをとり巻くのが慣ひであつた。肉桂樹につけいの細根は、ほろ甘さを含んでハラハラと辛かつた。子供達は肉桂の根を噛むことの刺戟に、中毒性を覚えてゐるかのやうであつた。僕のうちの桑畑の、裏山との境ひにあたる木立の中に、評判の肉桂の大樹が繁つてゐた。二抱えもある幹で、瘤々の根が赤土の上へ下へと四方にはびこり、根は更に数本の若木を育てゝ小さな林を成してゐた。梢の下にただずむと、若い樹皮が豊香を漂はせて、僕等の胸を掻き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)つた。山を滑つたり、生垣を破つたりして忍び込む肉桂盗棒の絶え間がなかつた。甘辛い樹皮の香りに魂を奪はれた彼等は、シヤベルや箆を携へては朝となく夕べとなく来襲した。
 それらの襲来が次第にものものしくなつて、負傷者が現れたり、収穫の奪ひ合ひで乱戦が演ぜられたりする始末となつて、果しもなかつたので祖父と武さんが謀つて、禁制の立札をつくつた。その代り、武さんが折りに触れてはその根を掘り出し、食用に適するように日向干しとして、適度に裁断したものを肉桂中毒者連へ分配することにした。その分配の役目が僕にあてられてゐた。僕は、武さんから渡される品物の詰つた手さげ籠を携へて、附近の広場へ赴いて、呼子の笛を吹き鳴らすのであつた。ところが、合図の呼子を耳にするやいなや、全くそれは誘蛾灯に殺到する甲虫類と云はうか、野獣と申さうか例へやうのない物凄さで、ワツといふ鬨の声といつしよに、女となく男となくまつしぐらに僕の上に飛びかゝつて、あはや僕の五体はきれぎれに引き裂かれまじき勢ひだつた。
 だから僕は、どんに跨がつて籠を持ち出した。鞍の上から、ふり撒いた。皆が夢中になつて僕の馬のあとを追ひかけて、僕はおもしろかつたが、町端れの植木屋の鯛ちやんひとりは、物欲しさうな顔もなく、いつもこの騒ぎを門口の槙の木の下でぼんやりと眺めてゐるだけだつた。両掌に、赤と青の糸でかゞつた鞠を持つて、鈴のついた木履ぽくりをはいてゐた。
「だつてうちにだつて肉桂の樹はあるんだもの……」
 僕は鯛ちやんが騒がぬのが不満だつたので、空になつた籠を肩にかけて鞍から飛び降りると――欲しいのならお前には皆にかくれて持つて来てやるが? とさゝやいたのだ。ぢや何か他に欲しいものはないか、アメリカのリボンを上げようか、それともヱハガキが好いか、幻灯の画でお前の顔を硝子板に描いてやらうか……。
「アツ、金公が此方を向いてゐるよ、気を付けよ……」
 鯛ちやんは、僕が肩にかけようとした腕を払つて、とんとんと鞠を突きはじめた。そして、はやぐちでそつと僕に告げた。
「あいつはね、この間あたしをつかまへてね、俺と夫婦にならないんかなんて云ふのよ。大嫌ひなのよ、あたしはあいつの顔が……あツ、来た/\、屹度意地悪をするよ。」
 僕も金公は苦手であつた。乱暴で意地悪でまことに猜疑心が深かつた。彼の父は新聞社の社長であつたが、牢に這入つてゐるとのことだつた。――僕の腕力は如何しても彼の敵ではなかつた。
 やがて彼は僕等の傍に来ると、肉桂の根をしやぶりながら、
「やい/\……」
 と薄気味悪い苦笑ひを浮べながら、
「手前はお鯛を口説いてゐるのか……」
 と顎をしやくつた。僕は、どきりとして、
「その肉桂ニツキは辛いか、金ちやん!」
 とお世辞をつかつた。
「武爺いに云つてやれよ、あいつは太いところを自分ちへ運んで、こんな毛バ見てえのばかりを俺達へ呉れやがる。」
 俺がこいつよりも強かつたら、あの獅子つ鼻へガンと喰はせてやるんだがと僕は悲しみながら、
「幻灯やらうか?」
 と誘ふのであつた。彼は弁士を得意として何時もこの誘ひには有無なかつたが、鯛ちやんの姿を執拗にじろ/\眺めるばかりで動かなかつた。そして、更に憎々しいしやがれ声で、
「こいつを口説くには銭が要るんだつてよ、お前知つてゐるのか、こいつはそのうち芸者に……」
 そんなことをほき出したかと思ふと、突然鯛ちやんがワツと泣き出した。鞠がころころと転げて、一つはどぶへ落ち、青い方のが反対側へはづんでどんの腹の下へ転げて行つたのを僕は見た。口惜し紛れに力一杯叩きつけたのだつたらう。鯛ちやんは、袂で顔をおさへるとあらん限りの悲鳴をあげて、植木林の中の小屋へ駈け込んで行つた。
「子供のくせに何をませたことを云やあがるんだ、新聞なんぞは怕くないぞ。」
 鯛ちやんのお爺さんが、震へ声で飛び出して来た。金公は一目散に逃走して、向方のどての上で振り返るとべつかんこをおくつた。


 僕は屡々鯛ちやんの夢を見た。腕を吊つてゐるので遊ぶことが出来ないが、治つたら、誰が何と云つたつて、お前とばかり遊ぶよ――僕は、鯛ちやんに、せめてそれだけのことは通知しておきたいと希つて、時々人の目を盗んで、植木林の方へさ迷つたが、鯛ちやんの姿を見出すことが出来なかつた。
「親がないとおもふと、あの子がもう不憫で/\風にもあてさせたくないと……」
「お前さんが優しいから、あの子だつて幸せぢやありませんか。」
「奉公の口もあるにはあるんですが、手離すことなんて出来やしませんや。」
 一生懸命に働いて、あの子に相当な身装みなりもさせ、芸事の一つも習はせようとしてゐるのに、飛んでもない――と鯛ちやんのお爺さんが、金公の悪たれを口惜しがつて、僕の祖母へ告げてゐるのを聞いて、秘かに僕は金公と闘はうと決心したりした。――だが、斯んなにも鯛ちやんをいとしいと想ふ心を、何故自分は斯んなに他人に恥ぢ、秘しかくさうとするか? と考へると、僕はわけもなく何時でも泣き出したくなるのであつた。
「おばあさん、五目ならべしよう。」
 僕は鯛ちやんのお爺さんとおしやべりしてゐる祖母を引つ張るのであつた。そして、祖母が即座に僕の云ふことをきかぬと憤つて、ワツと喚き出し、
「婆ア、しやべるな……」
 と暴れた。鯛ちやんのお爺さんは呆気にとられて、這々の態で庭の仕事へ向はうとすると祖母が、
「これも、やつぱり親が側に居ないもので、とんでもないお代官さ。」
 とお爺さんへ目配せしたりすると、一層僕は肚を立てゝ、押入れの中へ飛び込んで、ぴつたりと戸を立てた中で喚き罵つた。
「孫太郎虫を服ませにやならん――まるで気狂ひだ。」
 祖母はおろ/\した。僕の見知らぬ父は外国へ遊び、母は東京へ遊学中だつた。


 僕達は買つて来る幻灯の絵では飽き足りなくて、その大きさに切つた硝子板におもひ/\の画をいた。金公が一番拙くて、彼が描いたクロバトキンの肖像などが映り出ると、見物人は思はず失笑した。笑つた奴は擲ると彼はいき巻いた。帰途の暗闇に待伏せしたが、笑はぬものはひとりもなかつたので詮議の術もつかず、おひ/\と彼は幻灯会に姿を現はさなくなつた。皆は内心悦んだが、会合が催されると闇に乗じて金公が投石などするので、幻灯会は立消えだつた。鯛ちやんは熱心な見物だつたが、金公の憾みを怕れてか、お爺さんに用事が出来ても慌てゝ引き返し、昼間だつて納戸の窓を閉めれば好く映るよと僕がすゝめても、逃げてしまつた。その上僕は、特に鯛ちやんばかりを誘ふと思はれるのを恥ぢてゐたから、やはりこれは金公を遠まはしに煽動して自由画の映画はつまらぬから止めようとでも云はうかなどゝ考へた。然し鯛ちやんは僕が描く日本海大戦の場面や凱旋門の光景に絶大な喝采を惜まず次々のものを望むので、僕は当惑した。
 僕は、負傷の腕を抱へたまゝ納戸の窓から百舌鳥の鳴いてゐる空を眺めてゐた。その時、竹籔の中から突然、
「こらア……! 誰だア……!」
 といふ大声が轟きわたつた。栗を拾つてゐた武さんの声だつた。すると野菜畑を隔てた遠くの肉桂の林の中から二三人の子供が驚いて飛び出すや、彼等は繋みの底をくゞつてバラ/\と逃げ出した。
「あつはつはつ……!」
 天狗のやうな声で大笑した武さんの笑ひ声が、竹籔をとほして四方へ陰々とこだまを返してゐた。武さんの姿は、もう何処にも見えなかつた。巴旦杏につながれてゐるどんが、白い空に口を向けていなゝいた。僕が負傷のために、もう幾日も/\外へ出られなかつたので、彼等は肉桂の誘惑に堪へられなくなつたのであらう。
 僕は不図もう一遍肉桂の林の方へ、何気なく視線を投げた。――おや! と僕は、自分の眼を疑つた。夢かな? と思つた。
 ――唐人髷の鯛ちやんが、胸の上に袂を重ねておいらん草のやうにしよんぼりとたゝずんでゐた。
 で、危なかしく窓から脱け出すと上草履のまゝで畑を飛んで行つた。
「みんな逃げちやつたわ!」
 鯛ちやんは、はちすの生垣にあいてゐる竹籔の奥の穴が光つてゐるのを指さした。
「どうしたの、肉桂ニツキはとれたの?」
 あしもとの地面は、あちこちと土がはね返され、傷つけられた樹根の皮が生々しくむき出されて、甘辛い刺戟のにほひがつん/\と鼻先を突いた。
「金公がね、あたしに沢山採つてやらうといふのよ。欲しくないと云ふとね、あたしの腕をつかまへて何うしても一緒に行け、見張り番をしろ……」
「泣いちやいけないよ、鯛ちやん!」
「いゝえ、可笑しいのよ。だつて金公は石川五右衛門だつて一番威張つてゐたくせに、あんなに夢中で逃げるんだもの。」
 僕は、白い幹に凭りかゝつて斑らな空を仰いでゐた。この様子を垣間見て、金公の徒党が仕返しに来るだらうと思つた。――百舌鳥が高く鳴き、目白が竹籔の間を飛んでゐた。
「ほんたうは金公なんて弱いんだらう。」
「屹度弱いわ――でも、片腕ぢやとても適はないだらうな!」
 鯛ちやんは繃帯で吊つてゐる僕の腕を見て、それが治つたらまた幻灯を写すか? といふやうなことを訊ねた。
 僕は応へようともせず、
「若し仕返しに来たら、俺はもう決して逃げないよ。片腕だつて構やしない、屹度、喧嘩して見せるぞ!」
 僕は、あれこれと思ふにつけ到底我慢もならず金公が癪に触つて来て、亢奮した。
「ね、メカケつて何? 金公たらあたしにね、お前が若しも芸者になつたら俺が身うけをして、メカケにしてやるから安心してゐろ――と云つたわよ。」
「お嫁さんのことだらう。」
「いくら親切だつて、あんな奴のお嫁さんになんかなつて堪るものか。」
 からからん! と竹にあたつて、投げて来る石の音がひゞいた。
「鯛ちやん俺のうしろにかくれると好い、俺はもう少しも怕くはないよ。」
 祖父の筆蹟で、何々、べからず――と誌されてある禁札の立札のうしろに鯛ちやんが顔をかくさうとしたのを、僕が颯つと引き寄せると、倒れる立札をつかんだまゝ鯛ちやんは、掘り散らかされた樹の根に躓いてどうとよろめいた。簪が土の上に落ちた。にはかに彼女は、カツとして、
「あたしだつて怕くはないぞツ!」
 と狂気で叫んだ。そして力一杯に立札の棒を振り廻して、竹を擲つて、棒は折れ、矢庭に竹籔の奥を目がけて足袋跣足で向つて行つた。薄明りの射した籔の中を、袂を翻してあばれて行く彼女の姿が、この世のものとも見えぬ奇怪な美しさで僕の眼に幻灯のやうに映じた。僕は知らぬ間に拾ひあげてゐた一片の肉桂の根を、土のまゝ噛りながら、はら/\と全身を震はせて見惚れてゐた。
 ――その後、幻灯会は時々催されるやうになつたが、何故か金ちやんは、とてもおとなしいひらの見物人であるだけだつた。間もなく鯛ちやんは武さんの村の村長の屋敷とかへ、奉公とやらへ去つた。僕は前にも増して弱虫で、疳癪持ちの青白い子供で、幻灯にも馬にも飽きて、箱庭などをつくつた。





底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「若草 第十巻第二号」宝文館
   1934(昭和9)年2月1日発行
初出:「若草 第十巻第二号」宝文館
   1934(昭和9)年2月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月15日作成
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