務めの帰途、村瀬は銀座へ廻つて、この間うちから目星をつけておいた濃緑地に虹色の模様で唐草風を織り出したネクタイを一本購つた。六円あまりだつた。――少々自分の分在には不相応のやうでもあり、失敗したかな? といふ軽い不安と、別に、つゝましく豪華な買物をしたやうな秘かな興奮を覚えながらいそいそとしてバスに乗つた。然し、バスに揺られながら尚もポケツトにしまつたネクタイのことを考へると、たつたそれ一本が若者らしくもなく何時も地味な暮しをしてゐる自分の傍らに突然不似合にも開いた美しい花のやうでもあり、彼はひとりでに顔のあかくなる思ひに襲はれた。
「少々、のぼせ過ぎてしまつたかな!」
彼は思はず口のうちで、そんなことを呟くと、厭に胸の先がわくわくとして来て、後悔の念に襲はれたりした。……「自分が若し斯んな派手なものを結んだら、さぞアパートの連中がひやかすことだらうな!」
左う思ふと村瀬は益々テレ臭くなつて、途方に暮れた。――村瀬が居る六階建の独身アパートは、元気一杯な朗らかな学生や若い務め人で満員だつた。まつたくネクタイ一本でも、誰それは近頃急におしやれになつたとか、恋人が出来たに違ひないとか――皆な奇妙に仲が善くて寄るとさわると、若々しい冗談を飛し合つて、恰でハイデルベルヒの学生達のやうだつた。その中で村瀬ひとりだけが、変なはにかみやで冗談はおろか、大きな声では笑ひ声ひとつたてられぬ程の内気者で、これはまた明るい花園の中のたつた一本の日蔭の蔓のやうであつた。自然彼だけは別物扱ひにされて、却つて滑稽視される傾きで彼等は彼だけを、
「村瀬さん――」
と、さんを付けて称ぶといふ風だつた。身装でも物腰でも誰に比べても自分が一番野暮であると村瀬は知つて居たが、これまでついぞそんなことを気にもかけなかつたのに、どうも近頃、やはり青年は青年らしく陽気で、酒も飲め、唄も歌へて、そして身装なども相当にパツとしてゐる方が、
「幸福に違ひない……」
と考へられてならなかつた。彼は稍ともすれば
「この顔だつて、仲々凜々しいところがあるではないか!」
と眼を据ゑて呟いた。それから彼は、
「よしツ!」
と、下肚に力を容れて決心するのが癖だつた。「明日から生れ変つたやうに、快活な男となつてやるぞ!」
だが、ひとりの部屋では繰り返し/\堅固な覚悟に奮ひ立つたが、一度び部屋の外で他人の顔に接すると、絶対に抗し難い奇妙に重く鬱陶しい、別に理由とてもないのに無性に/\「気恥しい!」思ひが、全身を恰も身に合はぬ窮屈な外套と云はうか、鎧と云はうか、手枷足枷と云はうか名状し難い強さで絞めつけられて来て、それこそほんたうに「穴があれば這入りたい!」といふ諭への通りに、
「おうい、諸君……」
恰度村瀬が、いつものうつむき加減で首を傾けたテレ臭さうな格構で、こそ/\と食堂に這入つて来た時、村瀬の隣室の友である加藤が、水のコツプを取りあげたまゝ中央の食卓から、明るい微笑を浮べて立ちあがつたところだつた。加藤は村瀬と同じ大学を去年卒業した村瀬よりも二年の後輩にあたる男で、就中近頃の村瀬の羨望を代表するが如き溌溂さや物事の恬淡さを兼備して、見るからに近代的な好青年だつた。彼は著名な新聞社の社会部に活躍して隆々たる名声を博してゐたが、まことに道理だ! といつも村瀬は感心やら圧迫を強ひられてゐた。或時などは村瀬は漠然たる悶々の情に駆られた揚句、
「僕も中学の教師なんて止めて、新聞記者を志願すれば好かつたな。そしたら斯んな因循な性格などは否応なく吹き飛んで、少くとももう少しは元気な男になれると思ふんだが……」
うつかり彼は、加藤にそんなことを滾したことがあつた。すると同時に加藤は、突然堪らなさうに腹を抱へて、
「ハツハツハ……、村瀬さんが新聞、ハツハ……新聞記者になり度いツ……てハツハツハ……大した野望もあつたものだな……」と笑ひ転げるのであつた。「それは恰で、跛者がマラソン競争を望むやうなものだ!」
笑ひつゞけるばかりで、てんで加藤は村瀬の悲しみを案ずるどころではなかつた。村瀬は恥かしさと、嘆かはしさで今にも泣き出しさうになつて額を壁におしつけてしまつた。そんな村瀬の様を見れば見るほど加藤の笑ひは止まらなかつた。
「そんな煩悶が村瀬さんにあるんですかね! 然しね、村瀬さん、それあ左程心配するには当りませんよ。貴方のそれはね……」
と加藤は笑ひ顔を消して、事務的な口調で云つた。「つまりその Girl-shy といふ病気で、それが途徹もなく内攻してしまつたんだな。勿論、神経病の分野なんですが、あたり前の神経衰弱とは違つて、或る時機が来れば、必ず治る――明日にでも、いや、次の瞬間に於いてゞも……」
加藤は、苦笑を浮べた。
「或る時機とは?」
村瀬は、からかはれてゐる気がしてならなかつたが、然し何やらギヨツとするものに打たれて思はず反問した。
「結婚――」
加藤は故意とらしく厳然として、言下に唸つた。然し村瀬は、単なる結婚などゝいふことでこの頑迷な病ひが救はれるとは何うしても考へられなかつた。もつと深い因果な性癖に根ざすものとしか思はれなかつた。……「
あれ以来加藤は村瀬に出遇ふと、「早く結婚のことを考へなさいよ。」とか「何うも近頃、村瀬さんの様子は
加藤が稍おどけたジエスチユアと一緒にたうとう試みた演説に依ると――二十八号室の大森君の部屋に今日も亦「例の佳人」――即ち吾々のケテイが訪れてゐる。ケテイは遂に大森君の熱意を汲んで、あゝ、悦ぶべし彼の掌中の珠と抱かれました、一昨夜の出来事だとのことゝ現に大森君が私に披露いたしました、或ひは諸君の中には、いや斯く云ふ私なども敗惨の憂目を覚ゆる点では
その時加藤が再び声をあげて、
「時に吾等の花嫁花婿の御出馬は仲々手間がとれるではありませんか、これは吾々にとつてはちよつと息若しい次第ではありませんか、舞台の用意は済んだ、花形の仕度は何うなつてゐるものか、様子は如何か? この使ひを誰方かにお願ひ申し度いと思ひますが、それに就いて私をはじめ皆様方の中では断乎たる冷静の脚どりで階投を昇つて行かれる勇士は絶無であらうと察します。ところで、この勇敢なる探検を、吾々は、吾々の尊敬する村瀬梧八氏にお願ひ致さうではありませんか――」
と一同の上を見廻した。
村瀬は喉が塞つて声も出ず、夢中で手を振つたが、拍手ばかりが圧倒的で誰の眼にも止らぬらしかつた。――村瀬は夢遊的にふらふらと立ちあがつて、食堂から逃げ出さうとすると、承諾したものと感違ひした加藤が追ひついて来て、
「跫音を注意して下さいよ。貴方はアパート全員の代表なんですから、決して臆するところはありません。あの
と
大森の部屋は、其処から廊下を鍵の手に曲つた突きあたりであつた。仄かな電灯が点つたまゝ深夜のやうに静寂な廊下を、跫音を消して歩くためには吐息さへも遠慮しなければなるまい――村瀬は必要の五倍もおどおどとして、家守のやうに影に吸ひつきながら大森の部屋を目ざした。だが、非常な罪でも犯してゐる者のやうな身震ひに襲はれて、稍ともすれば脚がすくんで、二三歩進む毎に膝を折つて丸くなり、懐ろへ向つて溜息を衝いた。
彼は、まるで盲ひの盗棒のやうにとぼとぼとして、それでも漸く大森の部屋の前まで来ると、全くもう影ばかりの人物に変つてしまつたかのやうな心地で、そつと扉に耳をおしつけた。――こちらの耳が、があんといふ空鳴りに襲はれてゐるためか、それとも真に室内は沈黙の底に眠つてゐるのか、如何程耳をそばだてゝも虫の音ほどのものも伝はつては来なかつた。
誰の部屋の扉にも、厚紙を丸く切り抜いて二枚を重ね、「外出中」とか「在室」などの文字を時に応じて示しだすダイヤルを貼りつけて置くのが規定だつた。「在室」や「外出」の文字ばかりでなしに、「入浴中」とか「食堂」とか「散歩」その他様々な文字を記入して、訪客の為の便利をはかつたが、その頃、それらの余白に部屋主に悟られぬうちに、いろいろな滑稽な文字を書き入れて、部屋の主が外出中にその文字を廻し出して置く悪戯が流行してゐた。――随分と思ひ切つた悪計なども現れて「質屋へ用達中」とか「
それはさうと村瀬は、加藤達からの依頼に飽くまでも忠実に、大森の扉に尚も神妙に耳を圧しつけてゐたのであるが、何時まで経つても咳払ひ一つ聞えず室内は恰で棺のやうであつた。
「うつかり跫音を悟られて、失敗したらしい――」
彼は引返して、斯う食堂の人達へ告げようかと思つた。その時彼は、不図扉のダイアルが眼の先にあるのに気づいたので、多分「在室」の文字が出てゐることだらうと、注意して見ると在室には相違なかつたが、細字の註で「結婚会議中」としてあつた。然もそれは別人の鉛筆で走り書きされてあつた。――なるほど、到頭あのいたづらは斯んな風にまで発展して、あまり長々と婦人の訪客と語り合つてなどゐる者に対しては或る種の税を課さうといふやうなことを云つてゐた人があつたが、
「これだな!」
と、村瀬は却つて部屋の人達に同情するかのやうな思ひで眼を視張つた。――それにしても一体、大森達は居るのかしら? 自分がまた瞞されでもしたのではなからうか? 一層ノツクして見ようか――と彼が気色ばんで立ち直つた時「村瀬さんでせう!」
突然、苦笑を含んだ大森の声だつた。村瀬は思はず蝙蝠のやうに扉から飛びのいた。
「どうぞ……」
ケテイの冴えた声だつた。そして大森が内から扉を引いた。――「飛んだ役廻りを仰せつかつたものですね、村瀬さんが――ちつとは利き目がありましたか?」
「…………」
村瀬はわけもわからず戸惑ふばかりであつた。
「荒療治過ぎたかな?……まあ、水でも一杯……」
「……それは一体?」
村瀬の手の先は可笑しい程震えてゐた。
「ケテイが、さつきから僕のところに借金とりに来て、もう四五日待つて呉れと云ふのに何うしても動かないぢやありませんか――」
「だつて大森さんのもう四五日なんて、もう一ト月も前からなんですもの、マヽが決してその手に載つては駄目と……」
「まあ/\!」
と大森は大きな掌で、ケテイの口を圧へたりした。そして続けた。
「これ云つてしまつては加藤君との約束を破ることになつて申しわけないんだが、村瀬さんのその蒼ざめた真剣な顔を見ては黙つてゐるわけにはゆかない――ねえ、村瀬さん、貴方の病気を治したがつて、皆なで工夫したんですよ。」
「然し、君の結婚は……」
「冗談でせう!」
大森はソフアに反ると天井を向いてわらつた。「ケテイがこのアパート中で一番嫌ひなのは僕と加藤ですつてさ。そして一番好きなのは村瀬さんだつて……」
「大森さんの馬鹿!」
ケテイが大森の背中を打つのを、見ぬ振りをして村瀬は慌てゝ廊下へ飛び出してしまつた。
「あゝツ、腹が減つたぞ……」
と欠伸のやうな大森の声を、廊下の曲り角で村瀬は聞いた。――彼はもう到底食堂へ顔を出す勇気はなかつたので、四階の自室へ逃げ込むと中から錠をおろして、ベツドへもぐり込んでしまつた。
大森の云つたことは、ほんとうかしら。――村瀬は、もう到底ケテイの店へは跫踏みは出来さうもない。それにしても何うして自分は彼等よりも年上の癖に――と思ふと、何も彼も、世界が真暗になるほど、無茶苦茶に気恥しかつた。
「いよ/\第三期に近づいたらしい。」
と彼は唸つた。
村瀬が家庭教師へ通つてゐるのは、自分の学校の三年生である数学の不得手な竹下といふ少年だつたが、いつも村瀬は竹下の姉の冬子のためにさんざんに悩まされた。呑気なやうで神経が繊細で、庭球の選手だといふ冬子のやうな明快な女性を、村瀬はたゞ遠くに感ずるだけでさへ頭から圧倒されるのだが、弟の勉強がはじまる前後には屹度村瀬の話相手に出て来て、
「妾、先生のやうな謹厳な方が今時の青年の中にあるか知らと、いつもマヽ達と噂してゐるのよ……」
そんな類ひの尊敬を払ふのであつた。
「何も謹厳といふわけでは……」
村瀬は全身がほてるばかりで、口も利けなかつた。とても相手の顔などはまともには見られないのだが、敬まはれたりすればする程益々しやちこ張つて背中には重石を載せられてゐるやうな息苦しさに襲はれるのであつた。ほんのひとゝきでも好いから、斯んな麗らかな娘と、加藤や大森達のやうなさばけた態度でつき合ふことが出来たら、何んなに幸福なことだらうと沁々と羨むのであるが、自分が若しもあのやうな真似を演じたらおそらく荒唐無稽な気狂ひ沙汰になつてしまふだらうと、慄然とするばかりだつた。冬子には男の友達も多かつたが、孰れも颯爽たる運動家型の青年で、いつも朗らからしくサロンに集つて愉快な雑談に夜を更してゐた。
「先生も仲間に這入りませんか――」
村瀬は誘はれると、
「冬子さんがね、吾々のうちの誰に一番好意を寄せてゐるかといふことが、随分と前から大問題になつてゐるんだが、社交態度が全く万遍なくて何うしても見究められない――」
愛嬌に富んだ煙草の喫ひ方をしながら、斯んな冗談を喋舌る者があつた。
「そいつを聞いた上で、吾々はやはりつき合つて貰ひたい――どうも気になるぞ。」
などゝおどけて一同を笑はす者もあつた。
村瀬だつて運動雑誌や婦人雑誌に屡々現れる冬子の写真を切りとつて、秘かに眺めてゐたが、そしてそんな真似は重大な秘密としてゐるのだが、
「僕はもう冬子さんの写真を二十枚もためてゐるんだよ。やがては何んな奴が、彼女と結婚するか、或ひは僕が幸運の籤を引くか――さう云ふ空想に耽つて……ハハハ……」
などゝ「或ひは僕が――」だけは断然あきらめの他にして、村瀬が極秘に空想する悩ましい夢を、そのまゝ洒々と冬子の目の前で述懐する者さへあつた。何んなに夢を逞ましくしても村瀬には、自分を彼女の傍らに並べるなどゝいふ度胸は持てなかつた。夢の中でゞさへも彼女の手にさへ触れられなかつた。陰気な性質が、致命であつた。
「まあ気味の悪いことを云ふわね――」
冬子は別段気味の悪さうな様子でもなく、却つて嬉しさうに笑つたりした。実際、あのやうな身装の端麗な気の利いた青年達からなら何んなことを云はれたつて、気味の悪い筈はあるまいと――村瀬は推量するのでもあつた。
「妾、結婚なんて……」
「一生しないわ、か! 止めて呉れ。そんなセンチにのる奴なんてあるものか。」
「違ふわよ。恋愛結婚はしないつもりなのよ――馬鹿!」
そんな話を聞いてゐても村瀬は、話してゐる人達は話すそばから忘れてゐるやうな恬淡さなのに、それらの一言毎にジクザクな稲光りで胸を打たれるやうな痛さを覚えたりするのであつた。
つい二三日前、弟の勉強が済んだところに冬子が紅茶を運んで来て、これから銀座まで出るから途中まで一緒の車で――と誘つた。
「アパートは女が訪ねても関はないんでせうか?」
不意に冬子がさう訊ねた。
「関はないらしいですよ。」
村瀬はまさか自分に関することではなからうと思つた。「お知合ひの方でもあるんですか、女の人の訪問はさう珍らしくもなさゝうですよ。」
「先生をお訪ねしても関はない?」
「え!」
村瀬は頓狂な声を挙げてしまつた。
「まあ、御迷惑なの?」
「……いゝえ!」
たしか冬子の写真で、他人には判然としない競技中の姿のが一枚壁に貼りつけてある筈だが、今来られては困る――と村瀬は突差の間で戸惑つた。
「妾ね、先生見たいな方のお部屋は何んなか知ら? といふ興味があるのよ、そしてアパートといふ処の全体も――」
「僕の部屋なんて、卓子と書棚と……」
寝台とがあるだけと云ひかけたが、彼には寝台などといふ言葉を口にするのさへ間が悪かつた。
「先生は恋をなさつたことがあつて?」
「――決して……」
「フエミニストの反対なんでせう。」
「女性は崇拝すべきといふことは知つてゐます、然し僕のやうな……」
村瀬は舌が吊れて声が出なかつた。
「母様がね、これからはもう男の友達とは一切つき合つてはいけないつて云ふのよ、そしてね、先生だけは男でも例外だから――といふのは母様は妾の三倍も先生の謹厳さを信じてゐて、弟の先生としてばかりでなしに妾の友達になつて戴けと云ふのよ。他の妾の男のお友達だつて決して口で云ふ程の不良ぢやないんだけど、あんまり露骨なことばかりを大びらに話すので母様の気嫌が悪くなつてしまつたのよ。それに妾もいつの間にかあんな風な交際に退屈しちやつたの……」
冬子は、半ば面白さうにひとりで呟いてゐたが、やがて片腕を静かに村瀬の肩に載せてゐた。「寄ると触ると結婚だとか恋愛だとか――その他には夢はないものなんでせうか知ら。結婚も恋愛もそれは結構なんだけど、あんまりそれが人間的なのが妾はとても可厭らしくつてならないの。先生は屹度妾が想像するやうな綺麗な夢を持つた人だと思はれてならないわ、だつて先生の悒鬱には何か近寄り憎い澄明さが感ぜられるのですもの。」
そんなに云はれると村瀬は涯しもなく寂しかつたが、不思議な爽々しさを覚えた。
冬子は度々村瀬に手紙を寄こすやうになつた。一週に二度も訪れるのだから手紙などは用もなさゝうなのに、村瀬が朝目醒めると扉のポスト口から女文字の封筒が滾れ落ちてゐるのであつた。今夜何時頃銀座へ出かけるからコロンバンで待つて呉れとか、映画見物へ行かないかといふやうなもので、何んな意味でゝも心持を展べるといふ風なものではなかつたので、村瀬は時々、男とも思はれてゐない安心な友達か! と苦笑を洩した。
だからアパートの友達が、散歩してゐるとこを見たとか、さかんに手紙が来るらしいなどゝいふことで「村瀬さんのガール・シヤイも大した飛躍をしたものだ!」とか「結婚式には是非とも招待して呉れ。」などゝからかつたが、村瀬は弁解の仕様もなかつた。それに街などを歩いてゐても、冬子の姿の日増に艶やかさを増して颯々たるところは、誰の目にだつてこんな野暮な自分が楽しい相手と映る筈もない――それが寧ろ村瀬は何故か安心だつた。
「アパートの訪問は何うなつたんです?」
村瀬は彼女が訪ねて来たら、大森や加藤達が何んなに騒ぐだらうと考へた。そんな機会に自分も大胆な悪戯をもつて、彼女が自分の恋人でゝもあるかのやうに吹聴してやらうかしら? などゝ思つたりした。
「この頃、男の友達とつき合はなくなつたら、何だか男ばかりのところへ這入つて行くのが気遅れがしてならないのよ。」
――竹下冬子は結婚準備のために選手生活を切りあげて家事に親しんでゐるさうだが、相手は決つてゐるのか、運動界のゴシツプで大分それが問題になつてゐるんだが、
「村瀬さんには当りがつきさうなものですがね?」
などゝ加藤に、村瀬は訊ねられたこともあつた。「彼女は兼々、気の利いた近代青年よりも、貧しくつて内気な秀才に好意を持つといふはなしなんだから、全く案外なところに候補者があるんぢやないでせうかね。」
「――ぢや、約束しますわ。」
と冬子は決心したやうに云つた。「あしたお訪ねしますわ。何時頃が一番静か?」
「宵のうちは殆んど、何の部屋も空らしいですよ。」
「妾、サンドヰツチ持つて行くわ、先生のお部屋で喰べられて――」
「掃除しておきませう。――でも、何うして僕の部屋なんかに興味があるんだらう?」
「下宿屋とかアパートとか、さういふところを一度も訪ねたことがないんだけど、それよりも妾は先生みたいな謹厳な。」
「また謹厳か! 参るな――」
「大概の運動家の晴れやかさなんてものは決つてゐるけど。――何故か妾がこの頃求める気分はあの反対のハムレツト型の……」
「憂鬱な――か?」村瀬は思はずあかくなつて俯向いた。
「……すつかり妾はこの頃生れ変つてしまつたやうなのよ。考へることが、途方もなく感傷的で、死ぬんなら処女のうちに――とか、結婚は童貞と処女でなければ許されぬものとか――そんなやうなことばかりが思はれて……」
「…………」
「あなたのお部屋だつたら、ほんとうに静かな心持で自分のことがおはなし出来るやうな気がするの――」
いつの間にか二人は数寄屋橋を渡つて日比谷公園の方へ脚を運んでゐた。村瀬はこれまであちらこちらから冬子の噂を聴いた事もある。凡そ感傷性などは持合せない逞ましい近代娘で遊戯的な恋愛にも選手であるといふやうな噂を聴いたのだ。然し、失恋でもしたのかしら? と村瀬は思つたりした。
池のちかくまで来ると、冬子の脚どりは次第に
「でも、妾はもう明るいところで他人に顔を見られるのが、とても可厭になつてしまつたのよ。誰も居ないところで話したいんだけれど……」冬子は云ひかけて、軽くわらつた。
「はなし――とは一体何んな……?」
「嫌ひ――そんなに真面目さうにばかし追求する人!」
「済みません。」村瀬が帽子のふちに手をかけようとしたのを冬子は更にわらつて、
「ちつとも落ちつきがないのね。公園の散歩も駄目――」と呟いた。「アパートの部屋は、勿論錠がおりるんでせう?」
「えゝ。」村瀬は、不思議な感じで答へた。フアコートの襟元から白い息が煙つて、青白い灯光の中に浮び出る冬子の横顔が、村瀬の眼に夢のやうに冷たく美しく映つた。
村瀬は思ひ切つていつかの派手なネクタイをつけたりして冬子の来訪を待つたが、廊下へ出るのも気遅れがするばかりで凝つと慄える胸を圧えながら「疑問の幸福感」に浸つてゐた。珍らしく斯んな時刻に在室の隣りの加藤の部屋から、笑ひ声などが洩れたが、それさへ村瀬は自分が嗤はれてゐるかと思つたりして息を殺した。――然し彼は、もう部屋の中に凝つとしてゐるのさへ苦しくなつて、跫音を忍ばせて扉をおすと、人気のない階段を三階二階と降つたり昇つたりしてゐた。不図昇つて行くエレベーターの中に記憶の鮮かな冬子の外套姿らしいのを見たので慌てゝ村瀬は階段を駆け登つた。
やはり冬子だつた。だが、廊下を曲つて行く彼女の後姿を見て村瀬は、思はずアツ! と口に出かゝつた。彼女は、加藤や大森達と慣れ/\しく肩を並べて歩きながら、加藤が指さす左右の扉を見て、面白さうに笑ひ合つてゐるのだ。彼等と彼女が知合ひのことに村瀬は驚いたが、考へて見ると大森は運動雑誌の写真部員である。
何を笑つたのかと村瀬は、彼等の姿が廊下の先へ曲るのを待つて、次々に扉のダイアルを験べて見ると、例のいたづら書きなのであつた。いつものやうにふざけたことが、
その場を過ぎれば莫迦/\しい悪戯で笑へもしなかつたが、
突きあたりの村瀬の扉の前に、ひとりで冬子はたゞずむでゐた。加藤や大森達は何うしたんだらう? と村瀬が思ひ惑ふ間もなく、彼の靴音に振り返つた冬子は、
「これ誰のために……?」と豊かな微笑の中で訊ねて他の部屋のよりも稍大型の村瀬のダイアルを指差した。誰のペン先のいたづらか村瀬は確かめる余裕もなかつたが、そこには“Welcome”――そんな文字が現れてゐた。
「…………」
「廻して見ても好くつて? 村瀬さんのこれ、やはり自分でつくつたのね。」
村瀬が目を白黒してゐるのも知らずに冬子は指先きで、ダイアルを廻した。
「在室にも、随分いろんな種類があるのね!」
「いゝえ、それは……」村瀬は吃つた。
「知つてゐるわよ。」
と冬子は肩をすぼませた。そして讚め言葉と共に村瀬のネクタイに指先きを触れた。
村瀬がふら/\と
「くすりが利き過ぎたかね、村瀬さん!」
などゝ騒ぎながら左右から彼を支へた。
「有りがたう、皆さん!」
冬子が突然さう云ひ放つて二人の腕から村瀬を奪はうとした。大森と加藤は驚いて村瀬を離した。村瀬は長椅子で気を失つてゐるかのやうだつた。――「はぢめはね、貴方達と一緒になつて、たゞ村瀬さんの臆病を治してやらうといふお手伝ひだつたのだけど、ひとりでも大丈夫といふ自信がついたから……。もう村瀬さんを苛めないで――」
――――――
「……(婚約行進中、面会謝絶)だつてさ、これは君が書いたんぢやないか?」
「村瀬のネクタイに、たゞ税をかけたゞけのことだつたのだが――やあ/\!」
「あの気絶は、たしかに擬態だぞ。」
「酷え目に遇つちやつたな。こつちこそ!」
「俺は断然、今後臆病になるトレイニングにとりかゝるぞ。」
「村瀬に手紙を書くやうに冬子さんにすゝめたのは、君だつたぢやないか。」
「然し
大森と加藤は、斯んなことを囁き合つて、村瀬の扉にウヰンクを送りながら、食堂へ引きあげて行つた。
それから間もなく、更に婚約者達を再び食堂へ迎ひ入れて、いつかのやうにテープの雨を降らせてやらうといふことになつたが、誰もその使命を携へて村瀬達の部屋へ出向ふとする者は現はれなかつた。「ケテイと大森なら安心だが、今度は俺達こそ、村瀬さんのやうに脚が震えて、とてもあの部屋の様子を窺ひに行く者にしろ、遣はす身にしろ、息苦しいぞ。」
「村瀬さんがはぢめて恋人を抱擁する有様は定めし戦慄すべき絶景だらうな。」
誰かゞそんなことを唸ると、一同の者はどつとどよめいた。そして一層、一刻も早く使者として遺すための一名のジヨーカーを抜き出すべく、一同の者は輪をつくつて、じやんけんの声をそろへた。