(満里子の手帳から――)
冬のお休みになつたら今年もまた兄さん達といつしよに赤倉のスキーへ行くことを、あんなに楽しみにしてゐたのに、いざとなつたら母さんが何うしてもあたしだけを許して下さらないのだ。
「お前さんはもう学生ぢやないんだから、そんな遊びごとに耽つてはゐられないよ。」
「今年はもう海水浴もお止めと云つてゐたのに夏のうち叔父様のところへ行つてゐる間にすつかり真つ黒になつてしまつて……それが漸く治つたかと思へば、またスキーだなんて、あの雪やけの色艶と云つたら!」
母さんは云ひかけて、烈しくかぶりを振つて、そして、とう/\、また、この田舎の叔父様のところに
「満里子、今度といふ今度は一切もうお前は
叔父様が示した父からの手紙を、チラリと見ると、まるで憤つたやうな筆太の達筆で――貴兄御飼育の鵞鳥と同様に……云々といふ文字が読まれた、その時のあたしの胸の中といつたら、あゝ、形容の
この叔父さんは六十幾つかになる陸軍の退役大佐である。冬でも夏でも決つて暗いうちに起きて、シヤツ一枚になつて、裏の池に五十羽も飼つてゐる鵞鳥の群を軍隊式の号令で馴らしてゐた。
学校を出て以来、九時より早く起きたことのないあたしである。叔父様は、ひとわたり鳥の運動を済せて池の上に放つたかとおもふと、丁度あたしの窓の下に立つて、
「起床せんか、満里子、五時だぞ!」
と虎のやうな声で怒鳴るのであつた。それといつしよに廊下から叔母様が、
「満里子さん、あたしがもう落葉はすつかり掻き寄せておきましたから叔父様の焚火のお手伝ひをして下さいよ。」とか「緋鯉に餌をやるのを忘れたでせう、あなたのお役目よ。」とか「釣瓶の方の井戸が氷つてゐますから、桶の底を気をつけて水を汲んで下さいよ。」とか、大概いちどきに五つ以上の用事を気忙しく口走りながら、その用事の数と同じだけの度数を往来して、扉を叩いて行くのである。池があつたり、果樹園があつたりする位ゐだから相当に広い屋敷なのだが、これでも未だ手があまると御夫婦は常々物足りなさを喞つほどの働きもので、耳の遠い源さんといふ年寄りの馬丁兼男衆がたつたひとり居るだけで、女中さへ居なかつた。
「満里子、深呼吸は池の傍で行へ!」
叔父様が更に大声で、そんな皮肉見たいなことを呼ばはると、叔母様は叔母様で、
「霜柱が溶けはじめますよ、焚火の方を早くたのみますよ。」
などといふ風に扉を叩くので、まるでもうあたしの部屋は左右から半鐘を聞くかのやうであるし、加けに、叔父様の声で、直ぐその脚元の池のふちに集つて来た鵞鳥共が、叔父様が、あたしが出て行かないうちは決して餌を与へないもので、一勢に声をそろへて、ギヤア/\と喚き立てるのだから、ほんとうに火事場のやうな騒ぎに、寝呆けてゐるあたしの耳に聞えるのだ。
これでは、さすがのあたしも
朝も晩も、餌は、あたしが撒くことになつてゐた。
十二時が過ぎても、凡そ、夜、眠いといふことを知らなかつたあたしなのに、この頃では八時となると、もう眼蓋が重くなつて来るのであるが、ラヂオの天気予報が済んで、叔父様の目の前で、日記をつけてからでないと寝室へは引きあげられないのだ。これが又、朝にも増しての難儀であつた。日記といつても、あたり前の文章を書くのではなくて、いろいろな項目が一頁の罫紙に、例へば、「起床」「通信」「天候」などといふ風に、きまり好く分けられてあつて、その下に、時間や、温度や、通信の数や、また、備考の個所に家畜類の状態などを、毛筆で書き入れるのであつた。うつかり、「起床」の項に、前日の通りに「五時」などと書き入れると、直ぐに叔父様が眼を丸くして、
「何? 五時だつて――お前の今日の起床は六時ぢやないか、六時が三日続いたら懲罰のために四時をその後三日強行させる筈になつてゐるんだよ。」
とばかりな厳重さである。四時では、鵞鳥よりも早起きである。何よりも怖ろしい。それでも思はず六時が二日も続いてしまつて、今朝のこと、斯うなると叔父様達は仲々意地悪で、いつものやうに起しては呉れない。――あたしは、鵞鳥に追ひかけられる夢を見てゐた、鵞鳥の喙が鶴のやうにのびてそしてまた鵞鳥のくせに、その駈足の速さが駝鳥のやうで、あたしは崖のふちを夢中で逃げてゐた、ところが例の長靴が逃げれば逃げるほど石のやうに重くなつて何うにも自由が利かなくなりかゝると、いつの間にか喙は槍のやうに長くなつて、あはやといふところであたしの背中を突き通さうとした。あたしは、思はず、キヤツ! といふ悲鳴を挙げて、眼が醒めると、枕もとの時計は丁度五時だつた。
「まあ、嬉しいツ!」
あたしは、驚いたり、悦んだりして、いきなり窓をあけて池のふちを見ると叔父様が、
「私は今、こゝで腕時計と睨めくらをしてゐたところだよ、余つ程四時が怖いと見えて……はつはつは! 何だ、その寝呆顔は!」
と、あたしの姿を見つけて騒がしい声を立てる鳥といつしよに大笑ひした。
「T様といふのは、これは何かね?」
日記の「来信」のところに、兄様のお友達の武田さんが、今日もまたTとだけ誌した封書を寄したのだが、生憎それを叔母様から手渡されたので寄んどころなく、さう誌すと、早速見とがめられてしまつた。
「T様とは一体これは、何の符号かね、奇妙な名前があつたものだね。」
あたしは仕方がないから、
「だつて斯う書いてあるんですもの。」
と不機嫌を一杯にして封書の裏を示した。
「男子かね、女子かね?」
「それまでは、でも、お答へする必要はないと思ひますわ。」
少々向つ肚がたつたので云ひ返した。「あたしはたゞ事実を誌しただけなんですもの。」
これには叔父様も参つてしまつて、パイプを磨きはじめた。
返事の手紙を書かうと思つたが、日記が終ると、無性に眠くなつて何うにも堪へられず、部屋へとつて返すがいなやよろけるやうに眠つてしまつた。幸ひ叔母様に渡されたのはその日だけだつたのだが、Tさんからは一日置きに手紙が来てゐる。裏門から来る一日一回の郵便配達の時間が決つてゐるので、いつも池のふちで、いろ/\な手紙を読んだ。音楽会の噂だの、映画の批評だの、スキー場の便りだのと、ほんとうなら羨しくなるところなのに、何故かこの頃は一向そんな花やかな話に接しても心が動じないのが吾ながら不思議でならなくなつた。
ひとわたり朝の仕事が終つたから、さてT様へ手紙を書かうと思つて井戸端で手を洗つてゐると、
「おうい、満里子!」
池の向ふ側から、また叔父様の号令だ。とても生優しい声では届かぬので、いつもあたしはほんとうの兵隊さんのやうに立ちあがつて声を限りに、はあい! と返事しなければならなかつた。おそらく一日のうちには十何遍もこの返事の声を挙げさせられるために、この頃では自分ながら自分の声が高く吹き切れてゐるのに感心する位ゐである。
「凡そ三百米、北方の上空にあたつて、敵機襲来! 戦闘用意!」
「はあい!」
とるものもとりあへず、あたしは納屋に駆け込むと二十年式のライフルを抱へ出して池を半周するのである。鯉を
「ねらへ!」……「打て!」
の号令で、爆音一発、火蓋を切つて朝霧の中に殷々と鳴り渡る。忽ち敵は翼を翻して河向ふの森へ逃走する。空弾なのである。いつの間にか敵もそれを弁へたと見えて、追つても追つても、少くとも一日のうちに三四回は襲来するので油断がならなかつた。それがまた発砲係りがあたしの役目と課せられてゐるので、何時何処で何んな仕事にたづさはつてゐようとも、あの非常召集のために不断の聴耳を立てゝゐなければならなかつた。さて、また夕闇の帷が池のほとりを囲みはじめる頃合になると、あたしは鵞鳥の群を塒へ追ひ込んだ後に、宵闇の層が水の上に接して池の在所が判別し
ともかく手紙の返事を書く余裕なんてありはしない。それは何故だかT様へ書く手紙だけは誰にも気づかれない時に書きたいと思ふせゐか、一層困難である。
武田が激しい神経衰弱に罹つて、まつたくもう見る眼も痛ましく日増に青べうたんになつてくる、凡そ彼と神経衰弱などといふ対照は空想も出来なかつたものだが、
「俺は何うも、たゞの神経衰弱とは、様子が違ふといふ気がしたので――」
兄様からの手紙は、あたしの胸を激しく震はせた。あたしは鵞鳥を池の上へ追ふと、朝陽がまともにあたつてゐる鳥屋の扉に凭りかゝつて、夢中で読みつゞけた。
「訊ねたのだ、君は余程煩悶してゐるらしいぞ、何かに就いて――と。」
あたしは、この次の文句を抜き書きすることが、何うしても筆が震へて、出来ないから飛ばせてしまふけれど、
「満里子の馬鹿!」
と兄様の手紙は結んであつた。「お前は武田が二十通も手紙を出したのに、ハガキ一つ寄さないといふぢやないか。嫌ひなら、嫌ひと云つてしまへよ。」
「違ふ/\/\!」
あたしは思はず声をたてゝ叫んでしまつた。すると鵞鳥が呼ばれたのかと感違ひして、あたしの足もとに群がつて来た。鵞鳥共はあたしの声を、餌をまく時の、トウ/\/\! といふ呼声と間違へて、あたしのまはりで切りと餌をねだつた。あたしは、思はず癇癪を起して、
「違ふわよ、馬鹿ツ!」
と叫んで、長靴の底で霜柱のたつた地面を力一杯蹴つた。愚かな鵞鳥は、突拍子もなく仰天すると水の上へ雪崩れを打つて飛び込んだ。そして、悲しさうにギヤア/\とあたしを見あげて鳴き喚いた。
「書かう――たゞ、一枚のハガキに、違ふ/\/\! とだけ、お父様が叔父様へあげた手紙の字のやうに大きく憤つたかたちで――兄様へ書かう。」
あたしがさう気づくと同時に、憤つて/\、思はず脚をバタ/\と鵞鳥のやうに鳴らしながら、池のふちを駆け出した時、あたしは、また打たれて、立往生だつた――。
「おうい、満里子!」
池の向ひ側の柿の木の下から叔父様が大声を張りあげた。
「森の上、五百米の上空に敵機襲来だぞ。」
「はあい!」
「戦闘用意!」
あたしは踵を回らせて、納屋へ走つた。――ライフルを構へて柿の幹に凭つた。
「三百米!」……「ねらへ!」……「打て!」……。
……あたしは、引金をひいた。二度ひいた! そして、三度ひいた時、弾薬の装填を忘れてゐるのを発見した。
「打てツ!」……「打てツ!」
叔父様の声は、三度目に、更に追ひかぶせて「打てツ!」と破裂したが、その声だけが発砲の代りに役立つただけだつた。然しあたしは、慌てゝ空弾を詰めると、後ればせに花々しい引金を引いた。
「おい/\、何処を覘つてゐるんぢや、敵は、はや北方の森の上に退却して錐もみ状態で姿を没しようとしてゐるのに、貴様の
「…………」
「打つのを止めよ。」
あたしは無闇に引金を引きつゞけてゐたのである。
あたしの来ない時分は、叔父様は敵を怯やかすのに、ただ声だけを役立てゝゐたといふやうなことを説明しながら、
「お前も、それだけの声の自信があるのなら、鉄砲は止めても差支へないぞ。」
何うだ、試みて見ないか! と云つた。
「閣下、承知いたしました。」
あたしは、何だか急に泣き出したくなつて、慌てゝさう答へることで紛らせた。思ひきり、大きな声を振りしぼつて、鳴子ともなつてみたら気も晴れるだらうと思ひながら、空を仰いで深く息を吸ひ込んだ。
「天晴れだぞ!」
閣下がを撫でてあたしといつしよに空を仰いだ時、不図、
「おゝ、これは素晴しいぞ――森の彼方を見よ、人の声に怖れを軽くした敵は再び姿を現したぞ。」
ござんなれぢや! と叫んだ。なるほど、点と見えた敵の影は忽ち翼を伸ばして、あはや池の真上にさしかゝらうと遠巻きの大輪を描いてゐた。
「若しも貴様の声で
「閣下、釣瓶の水汲みを御放免下さい。」
あたしは即座に申し出た。
「承知したぞ――私が代らう。」
「わたくしの姿が池のふちに見られぬ限り、何時敵が現れようとも、お呼びたてなさらぬやうに――」
「二つだな。それも賞与と約さう。」
「最後にもう一つお約束を願ひ度う存じますわ、黄昏時の警備のことをお許し下さい、そして、日記はわたくしの自由の時間に誌すことを……」
「一切を賭けよう。」
叔父様は銅像のやうにあたしの傍らで腕組をされた。――いつか、大胆な敵は池の真上に迫つて、まつたく人々が真似する通りの声でピーヒヨロ/\と鳴いてゐた。
「……!」
あたしは胸一杯に息を吸ひ込み終るといつしよに、あらん限りの力で叫んだが、何故かあたしの声は笛のやうに細くかすれた。無論敵は平気で稍々低く翼の影を落した。
「……アーツ!」
「カケスの声に似てゐる。」
叔父様は腕組のまゝ呟いた。――三度、四度と、あたしはつゞけたが震へるだけで、一向声はとゞきさうもなかつた。
「いつそ泣き出した方が、効果があるかも知れんぞ。」
「……アツ!」
矢庭に敵は身を翻したかと見るがいなや、あツ! といふ間もなく見事な垂直線を曳いて水面に転落した。そして、あたしが、夢中になつて鉄砲の音を真似ようと、口をあける間もなく、最早敵は中天高く舞ひあがり、爪先に懸けられた一尾の鯉が、空に泳いでゐた。
「おい満里子、何うしたんぢや、これしきの失敗で泣き出すなんて、鵞鳥隊の大隊長らしくもないぞ!」
叔父様が、仰天して、ねんごろにいたはればいたはるほどあたしは無闇に悲しくなつて、叔父様の胸に飛びついたまゝ、思ひきりの大声で泣き出してゐた。
「やあ、大した声が出るぢやないか、それだけの声が出るんだつたら、敵に獲物をさらはれることもなかつたのになあ! ……さつきの賭はわしが譲るとしようよ。泣くな/\、もう泣くな、満里子、残念だらうが泣くな、大隊長……」
叔父様の脇の下から、向方の空を見ると、獲物をつかんだ鳶が、凱歌を挙げながら隼のいきほひで森の彼方へ飛んでゐた。
その日の夕暮ぢかく、突然訪れて来た兄様と、あたしは、池のふちで斯んな会話を交へてゐた。
「今夜こそは、だから、やうやく手紙を書く時間が出来たので、兄様と……」
「T様かえ? はつきり云へよ。ハヽヽヽヽ。」
「さうよ。書かうと思つて……」
「T様には、先づ何と書く?」
「とても大きな声で鳶を追ひ払ふのが名人になつたわ、神経衰弱なんて一ト息で吹き飛してあげるから、直ぐに遊びに来いヨ――先づ斯う書かうか知ら。」
「そいつは名文句だ――序でに鵞鳥の鳴き真似も名人になつたから、……と書いたら何うだい。」
「…………」
さう云へば、さつき、叔父様の胸で泣いてしまつた時のあたしの声は、何となく、鵞鳥に似てゐる見たいだつたが、若しや叔父様が兄様にそんなことを告げたのではなからうか? ……不図あたしは、そんな馬鹿々々しいことが心配になつて、
「ね、お兄様、あたしの声、ほんとうに太くなりはしないこと?」
えへん、えへん! と咳払ひしながら訪ねると、
「いや、うちでは皆なで、お前が何んな顔をして鳥の世話をしてゐるだらう、定めし鵞鳥みたいな情けない顔をして……なんて、笑つてゐたんだが、それどころか、見違へるやうに健康さうになつて、実にもう溌溂としてゐるんで羨しくなつたのさ。鵞鳥の声になんて決して似てゐやしないから大丈夫だよ!」
兄様は、わけもなく嬉しさうにあたしの肩を叩いたり、球投げのかたちで水の上の鳥へ餌を投げたりした。
「来月になると、ほんとうに狐が出るんですつてさ!」
「そいつは愉快だな、武田も俺も鉄砲には自信があるんだから、いくらでも、射止めて、うんとお前の襟巻をつくつてやらうぜ。」
「そんな襟巻御免だわ――出るつたつて精々一匹位ゐのものよ。」
「然し出ると決れば一匹の筈はあるまいぜ。」
兄様とあたしは、そんなとりとめもない冗談にはしやぎながら、いつそもう手紙も面倒だから電報としよう、武田へは――と一決して、腕をとり合つて歩き出したところだつた。
あたしの代りに、鼬の番人に成り変つた叔父様が、未だあたりは明るいといふのに、鳥屋の前に現れて、
「満里子、懐中電灯は何処にあるんだ?」
と声をかけた。
「電灯もピストルも、そこの餌箱の上にありますわ。」
「わしは電灯だけでよろしいんだよ。」
「狐の番や釣瓶の水汲みは、僕ともう一人の男がひきうけますよ、叔父様!」
「もう一人の男つて誰だい? しかし、そいつは大だすかりだぞ!」
あたしは、いつかの晩の日記のことを思ひ出して、
「T様つていふのがその方よ。」
と説明しかけて、云ひそびれて、駆け出した。
振り返ると、あたしの後を二羽の鵞鳥が、よた/\とついて来るのを、遠くから切りに叔父様が呼び返してゐた。