F村での春

牧野信一




 夜、眠れないと云つても樽野たるののは、それだけ昼間熟睡するからなので、神経衰弱といふわけではなかつた。朝寝と宵ツ張りが次第に嵩じて、たゞ昼と夜とが入れ違つてゐた。寝つきの悪さと、朝の目醒め時の不機嫌さでは小さい頃から樽野は、周囲の人達に酷い迷惑をかけ続けて来た。彼の母親は、寝せつけようとすればする程如何しても鎮まらない彼を抱いて、夜更けに屡々海辺をさ迷ひ歩かなければならなかつた。何といふ強情な、煩い赤ん坊なんだらう! と、奥の方で彼の祖父が舌を鳴すのが聞えるからだつた。自殺を覚悟してゐる者と、母は見誤られたことも一度あつたが、それを打ち消す気もしなかつた――と母は云ふ。自分が悲しくなつて幼児を抱いたまゝ砂の上に坐つて途方に暮れてゐたのだから、
「未だ浜などに降りる人は珍らしい、薄ら寒い春先きだつたもの!」
「…………」
「夜更だつたかしら? いや、朝早くだつた! 背中を叩いた人は見知らない浜の者だつた、今だにあの人の顔を覚えてゐる! 暫く背後うしろで様子を窺つてゐたんだつて!」
 青年の樽野が、母から常に昼寝と夜明しを批難される言葉のうちで何よりも堪らなかつたのは、母が自分もテレ臭さうにわらひながら述懐した斯んな挿話だつた。
 彼は、息苦しく退屈な夜の生活ばかりを送つてゐた。その為に、この頃誰よりも辛い思ひを嘗めさせられるのは彼の妻だつた。
「眠くならないうちに出かけませう。」
 斯う云つて彼女は、折々、明方彼の部屋を叩いた。煙草の煙りが一杯だつた。彼は、夜を徹して天井を瞶めてゐたのだ。
「今朝も、とても駄目だよ。」
「また!」と彼女は、小さな洋酒の罎を指差した。
「あゝ、もう眠い!」
 その時刻になつて襲ふ眠気は、これはまた不可抗な力を持つて迫る――彼は、遊び疲れた子供のやうに昏々として眠つてしまふのであつた、お午過ぎまで――そして夜、如何しても眠れなかつた。彼は、孤りの部屋で、苦い顔をして煙草をきつし続けるばかりだつた。彼の思索は、如何したらこのわづらはしい夜昼を正当に取り返せるだらうか? の一つより他になかつた。
 彼の妻は、彼に、朝の眠気を退けて一日起き通させようと努めるのであつた。堪えられるならば彼は、勿論努めたかつた。
「今朝は酔つてゐないから、出かけて見よう。」
かまはないから、烈しく歩いて御覧な、駈けつこをするつもりよ。」
 彼等は、明けかゝつてゐる海辺に降りた。
「おかげで、あたしは気分が好いわ、時々斯んな早起きをするので――」
 彼女は、今はもう眠りのことより他に何の思慮もなくたわけて脚どりも怪しい夫を目醒すために手をとつて、駈け回つた。彼女は、一枚で来た毛糸の上着を汗で滲ませた。だが、彼の昼間の眠りを一層長引かせた以外に彼女の努力も彼の辛棒も役立なかつた。彼女は、わらひながら涙を滾したことがあつた。
 彼は、寧ろ、種類の差別なく望んだ! が、昼間彼を必要とするやうな何の出来事も起らなかつた。彼の昼寝が一脈の汚線を滲ませてゐる他には、そこの家庭は至極平和だつた。そして海辺の薄ら寒さが日増に快くなる春に入つてゐた。――彼等の父は、とりわけ忙しい仕事があつて街に別に持つてゐる家の方にばかり住んでゐた。彼等は、直ぐ近くに停車場が開けたので間もなく取り壊さなければならない昔からの草葺屋根の家に母と一処に住んでゐた。
 ほゞ彼の起きる時間を知つてゐる妻は、昼間のうちは毎日父の方へ行つて何かの計算係りをつとめてゐた。
 或る朝、この日も早朝彼は妻に誘はれて、二人は裏の空地でテニスの練習をした。彼女はこの遊戯をあまり好まないのだが彼が海は今朝は厭だと云つたら、
「今日こそは、せめてお午まで起きて御覧な! 堪らなくなつたら直ぐに駈け込むつもりで――」とすゝめたのだ。彼女が球を拾ふ間でさへも彼は眠気に襲はれた。テニスの技は彼女の方が遥かに拙かつた。彼は遠慮なく無闇に打つた。
「何だか脚がつる? 何だか変だ!」と、珍らしく彼女は折々眉を顰めながら、それでも彼が、いよ/\堪らなくなつて家に駈け込むまで如才なく相手をしてゐた。
「あゝ、今日はあたしも疲れた、あつちは休んでやらうかな?」
「御免よ、俺はもう口を利くのも堪らない。」
 さう云つて彼は、シヤツの儘眠つてしまつた。二時間とは眠らないうちだつた、杉田の電話で彼は起された。
「起してしまはうと思つてゐるんだ!」と彼は、それは彼女の計画に違ひない、が起きるのは死ぬ程苦しいと母に歎願した。
「馬鹿な! 病気だと云ふんぢやないか。眠い位ゐ何だ!」と母はたゞならぬ気色で叫んだ。
「お母さんには云はない方が好いぜ、お前にそんな病気があつたといふこと!」と彼の父は、法でも犯したやうに打ち沈んで食卓に突ツ伏してしまつた悴に注意した。「彼女あれの家には何と云ふんだ、一体!」
 彼は、五体が縮まつたかと思ふと、体中が火のやうに熱くもなつた。
「あれがおこつてゐる間は、余ツ程要心しないと何時怖ろしいやつがやつて来るかも知れないんですからな……」と杉田は、呑気さうに云つた。
「僕は、何も気がつかなかつたので!」と彼は杉田の呑気さに縋るやうに云つた。(飛んだことになつてしまつた。あの苦しい夜の時間を少しでも縮めたい希ひだけで、面白くもないあんな処に俺は出入して……)
 まつたく彼は、それだけの希ひで、時々誰にも気づかれずに自分の部屋を抜け出すと、街の怪しげな青楼におしあがつた。其処で、ひたすら酒に酔つて、眠つて夜を過さうと計つたのだ。変な奴だ! といふ風にばかり扱はれた。――一寸と気持の悪い病気やまひを感じたが、こんなに突然怖ろしい結果になるやうなものとは思はなかつた。はぢめの一週間ばかりで、解る症状は無くなつてゐたので彼は、それでお終ひかとばかり思つてゐたのだつた。――勿論、妻も今まで一言の苦痛も訴へなかつたのだ。「あゝ失敗しまつた! あゝ、どうしたら好いだらう。」
「……これで、あなたが朝起きが出来るようになれば、あたしは返つて嬉しいわ。」と妻は上向あほむきの儘で自分では横も向けない医院の寝台の上で微かに眼を見開くと朗らかに呟いた。彼女は、急性のある内膜炎で四十度あまりの発熱だつた。怖ろしい苦痛が一分毎に彼女の五体を駈け廻つた。彼女は、うごめく力もなく圧しつぶされさうな苦痛を唇だけで怺えるより他なかつた。彼女は、
「眼も見えない!」と云つた。
 注射を施されて、痛々しい眠りに彼女は陥ちた。
 樽野は、感覚を失つて、たゞ体中がカーツとほてつてゐるのを知るだけだつた。あの執拗な眠気が、あのまゝ石のやうに凝固して頭の何処かの隅にこびりついてゐるまゝで、胸はたゞ火のやうに踊つた。そして、五体はあぶられるスルメのやうに思慮のない狂ほしさで苛々した。彼は、夜、愚鈍な眼差しで煙草を喫してゐる己れの姿を、憎々しく回想して、
「あの! 畜生奴!」などゝ叫んだ。彼は拳を固めてあいつの頭を擲りつけた。「何といふ図々づう/″\しい、悪い男なんだらう。何といふ愚かな計画をたてゝ、あのやうな処に出入したことだつたらう。夜に呪はれてゐたのだ、俺は!」
 彼は、妻の苦悶の姿を見るに忍びなかつた。今、そこにゐたかと思ふと彼は、あたふたと父の家へ走つた。
「引ツ越しは巧い考へだ。勉強だとでも云つて置いたら好いんだらう。」と父は云つた。
「そして、あんた、周子かねこさんの代りに当分此処に仕事に来て貰ふんですね。」と杉田が云つた。杉田は、仕事は彼の父とは別らしかつたが、同じ町に自宅があるのに何時でも其処の家に来て、何となく碌々ごろ/\としてゐる風だつた。むしろ彼の方に近い年輩だつたが、全く父の友達だつた。「心配はいりませんよ、ハヽヽ、どうせ、やられる病気だ。」
 杉田は自分の経験などを支細に告げて彼を慰めた。其処にも彼は、三十分とは凝ツとしては居ない。また、医院へ走つて、彼女が眠つてゐると、そして傍に誰もゐないと、そつとその手をとつて自分の頬におしつけた。そして、また彼は、あわただしく其処を立ち去つて母の家へ走つた。
「朝、皆なと一処に起きて呉れるのが、あたしは一番救かることなのよ。」
 さう云ふ妻の言葉を彼は、幾度も/\空に思ひ返しては、
「大丈夫だ、他易いことだ。あゝ、今迄の俺は何といふ……」
 途々みち/\そんな風に独語して、天に誓ふ気で唇を噛んだ。「斯う忙しく立ち回つてゐれば、これで今日は一日起き通せるわけだ。夜は、お前の傍へ行つて好く眠るよ……そして、あしたからは朝早く――」
 彼は、哀れな悦びを感じた。
「私も朝だ。」と母も云ふのである。「そして一日でも好いから当り前の人らしい日を送つてお呉れ、務めが厭なのなら吾家うちに居るのも好からう。お父さんは吾家をあけてばかりゐるのだし、吾家にだつて男でなければ出来ない用事もある。」
「はあ――」と彼は、端座してゐた。
「そして、用事と自分の勉強とを半分づゝしても好いでせう。」
 母は、毎晩彼が夜を徹してゐるのは、何かの研究に耽つてゐるものと思つてゐた。早寝である一家の者は、彼が時々裏口から忍び出て、明方未だ誰も起きないうちに立ち帰つて寝入つてゐるので、妻も夜の彼の外出に気づいたことはなかつた。彼の思惑が当つて出先きで彼が寝入つたならば、吾家の者にも気づかれた筈なのだが――。
「お前の勉強といふのは――」と母は続けた。「それでお前が自活出来るといふ類ひのものではなささうだね。気を永くしてコツコツと研究するといふ種類のものぢやないの?」
「…………」
 彼は深く点頭うなづいた。そして下向いて眼をつむつた。彼は、心底から、だらしのない悲愴感に打たれてゐた。――「今日、F村へも行つて、あの家を見て来た……」
「住める?」
「好い……もう掃除――を始めてゐます。あしたから移つて――」
「遠いだらう? だつて――。尤も病院へは返つて都合が好いだらう。病院があるうちはお前も吾家の用も出来ないだらうから――」
 彼は、此処でも落ついて話合つてゐることは出来なかつた。眠気とも解らない熱ツぽさが頭の中でジーンと鳴つてゐた。時刻は午を過ぎてゐた。
 それから、そんな家財道具では? と母が云つたのを彼は諾かずに、甲斐/″\しく先に立つて外の物置に埃まみれになつて投げ込まれてある奇妙な家具を運び出した。以前、外国人である父の友達が滞在した時、ここの田舎町の家具屋で急拵きふごしらえにつくつた箱のやうな寝台があつた。涼み台のやうな長椅子があつた。武骨な食卓テーブルがあつた。
 彼は煤掃きの時のやうな騒ぎで藁蒲団や絨氈の埃を叩いた。アメリカ製の昔の台ランプを持ち出してネジの具合を験べた。父の古いトランクを持ち出した。自分が学生時分に使つた鉄亜鈴や棍棒を探し出した。急に思ひ立つて、厳しい日課時間表を作成して運動時間の運動種目までをめて、それが続かなかつた、またその続きを決めたい気がしたりした。
「幾日続くことか――」と母は、彼が莱畑の方を向いて試しに棍棒を振つてゐる姿を見て苦笑を覚えたが、それでも快く呟いだ。彼は、緊張気分が如何かして衰へるハズミに、飛びつくやうに襲つて来る眠気と闘つてゐたのである。
 荷物は運んで幾日か経つたが彼は、未だF村へ落着く余猶はなかつた。――あわたゞしく、医院を、日に何度か訪ねた。勿論、用事はない、また落着いて話し込むわけでもないのに医院への往復の途中にはいちいち父の家に立ち寄つた。いつも杉田は、そこに居て何か彼の父に相談をしてゐた。母の家へ立ち帰ると紛失物でも探すやうにそわ/\と家中をさ迷つた。終日彼は何かの物にでも憑かれた患者のやうにきよと/\としてゐた。夜は半ばを取り返してゐた。宵のうちから夜中の十二時頃まではぐつすりと眠れたが、その先は醒めて、その儘彼は昼間を起き通すのであつた。午後になつて襲ふ眠気が夥しかつた。
 父の家の裏庭には何時でも杉田の自動自転車インヂアンが置放しになつてゐた。古くなつて乗り心地でも悪いのか、杉田が恰で顧みなかつたので樽野は、始終これに乗つて、あの日以来あのやうに彼方此方と駆け回つたのである。石ころの多い街道を、まつしぐらに、屡々F村の新居へも駆つた。これが無かつたならば彼は、到底昼間を過すことが出来なかつたに相違ない。彼は、凝つとしてゐるのが堪えられなくなると、何の当もないのに、車を駆つて、彼方此方と無闇に飛び回つた。そして妻に対する苦痛、後悔、午後の夥しい眠気、何といふこともない気分の果敢なさ、漠然とした焦慮等を蹴散らした。
「冬になると猪が出る。兎位はお午休みに鉄砲を担いで一回りして来れば一羽は無論獲れますな、山鳥、雉子――。山の連中は仕事の合間々々にする山狩を、立派な内職にしてゐる位ですよ。」
「そんな深い山なのかね!」
「小屋の附近にはワナをかけて置きますよ、猪は滅多にかゝらないけれど、稀には兎のワナに狐などが掛ることがある、猪のワナは工場のあたりからはずつと離れた奥の方に、それでも冬中は張つてあるんですぜ。」
「そんな余興があるのは愉快だね。」
 杉田は、よく父に何処かの山の話をしてゐた。父の姿が見えないと、杉田は、独りで二階にぼんやりしてゐる事があつた。どうかすると昼寝をしてゐることもあつた。
 午後の彼女の診察の時間だつた。うつかりその時間に出遇つたことに気づくと樽野は、胸を圧しつけられる切なさで、慌てゝ医院から抜け出すと当もなく街はづれに出て松並木の道を無闇なスピードを出して疾走した。理髪所の安楽椅子見たいな手術台に仰臥させられる浅猿あさましい彼女の姿を想像すると途方もない嫉妬感さへも伴ふ苦しみだつた。
 人通りは全く絶えてゐた。海の上には白い夕月が懸つてゐた。彼は、矢避やよけを背おつた昔の軍人のやうに袷着物の背中に風をはらんで、砂埃りに消えて疾走してゐた。何処まで走るんだ! と叫んだ。……ふと、普通たゞならぬ寒気を身内に感じた。異様なおぞ気がふるつた。風邪を引くのかな! と思つた。では、汗をしぼつてやれ! と呟いた。そして、獲物をねらふ獣のやうに身構えると速力を倍にして突進した。
 だが、一度感じた寒気は凝り固まつた儘見る見る蔓つた。彼は、氷雨を浴びる思ひがした。疾走に伴れて五体が急流に溶け込んでしまふ不気味な寒気が殺到した。間もなく下肚に、焼石を蔵したかと思はれる位に夥しく痛い熱の塊を感じて、思はず両脚をペタルから浮かせて、奇妙な曲乗りを演じた。
「やられたんだ/\! だから、あたしア、こいつは危い! と此間うちからさう思つてゐたんだが――」彼の呼び声で駆け出して来た杉田は、斯う云ひながら赤塗りの自転車オートバイから唇を震はせてゐる樽野を救け降した。「こいつでは、あたしもやられたことがあるんだ、思つてもゾツとする。夫婦そろつては、少ウし不運過ぎるな! だから此間から注意してゐるのにあんたは諾かないんだもの、乱暴過ぎらあ! しつかり、凭りかゝつて関はない!」
「まさかと思つてゐた!」
「酒どこの毒ぢやありませんや。」
 その晩のうちに彼は、うめき声以外には何の言葉も発することなしに、妻が寝てゐる医院へ寝台俥で運ばれた。
「その苦しみは解る! もう直ぐ着くから、うなり声を少ウし我慢して下さい。俥屋さん、成るべく裏通りを行かうね。」つき添つて来て呉れた杉田の声を、幌の外に彼は微に感じた。杉田が云つた通り急性睾丸炎と診断された。苦悶の状態は妻と全く同様だつた。
 彼等は、歩行がかなふやうになるまで医院で暮した後に、漸くF村に引きあげた。蕾にも気づかなかつたと妻が云ふ堀ふちの桜は、大方散つて新芽の方が目立つてゐた。
「こゝだけがお花見の場所なんですつてね。」
「うむ。」
「あたしは東京でもお花見といふものを見たことがないので、今年は此処のを見ようと思つてゐたのに!」
「僕も――。此処のは何でも三四年前から始まつたので、僕も、さう云へば未だ見たことはない。」
 二人は、葉桜の下を歩く時にはそんなことも話し合つた。彼等は毎日F村から町の医院まで一日がかりで通ふのであつた。静かに注意深く歩いた方が好もしいといふ医家のすゝめだつた。だから彼は、嘗てオートバイで疾走した相当の道程みちのりを、人目のないところでは妻に肩を借して、自分は武骨なアツシユの杖を突き、一方の脚を義足のやうに剛直させたまゝ、ぶらり/\と歩くのであつた。一度回復しかゝつた夜昼のことなどは入院以来一たまりもなく元に戻つてゐたが、この頃こそは、朝、否応なく起されなければならなかつた。町への往復、眠さとの闘ひは、肉体が健康でないだけに夥しい苦しさだつた。
「だが、今度こそは余儀なく、取り戻せるに違ひない。やがて、ほんとうの朝起きの習慣がついて呉れるだらう。」さう思つて彼は、自分を励まして明るい希望を持つた。さういふ習慣がついた後の健康な生活を花々しく空想した。健やかに母達に会へる日を希つた。母は、彼の病名を聞き知つた時に、汚らはしい! とほき出して横を向いたきりだつたといふことを彼は人伝に聞いた。
 毎朝の樽野の惨めさは、見苦しかつた。……屹度、その刹那に彼は、明るければ明るい程不気味な夢の中で若少し続けづには居られない何かしら弁解風な言葉を誰かに向つて放つてゐる途中が多かつた――決して、その儘では手のとゞかない隅棚の上で労働向きの真新しい目醒時計が、人を突き飛ばすかのやうに鳴り出した。
「…………」
 折角、もう少し前に眠つたばかりだといふのになあ! あゝ、とても堪らない! 爪の先の神経まで掻き乱されるんでは! ――それならば起き上つて止めれば好いんだが、動いて、目醒めてしまふのが彼は悲しかつた。彼は、異様な注意深さで飽くまでも眠気に対して忠実に、凝つと、怖ろしい注射に堪える時のやうに眼を閉ぢて凄まじいベルに逆つた。丸くなつて夜具の奥底にかくれると、恰度光りを怖れる悪魔のやうに頭を抱へ、耳を覆つて、辟易した。ひたすら眠気にのみ従順に、因循な動作で凡ゆる消極的な反抗を試みるのであつた。時には、夢中になつて、いきなり寝台から飛び降りると、生きた鳥でもつかむやうに時計に武者振りつく、自分の騒ぎで目醒されてしまふこともあつた。
 執拗にベルは鳴つた。
「金槌だ!」と彼は叫んで無惨に顔を顰めた。「誰か! あのベルを止めて呉れ、もう五分眠れば屹度起る!」
「随分我慢強いわね。あたしは時計が鳴り出すのを待つてゐるのが楽しみだわ、毎朝、そしてあなたが時計と争ふ様子を此方で窺つてゐるのが――だけど、もうあたし達は運動をした方が好い程度の病人なんだから、ほんとうにもう気分は何ともないんだから、いつそもつと早く起きませうよ。――ほら、鶯が鳴いてゐる。」
 ベルが鳴り止むと同時に襖を隔てた隣室から、何かの暗記練習をしてゐるやうな白々しく忠実な調子で彼の妻は様々な呼びかけをするのであつた。この間ぎはまで彼女は、息を殺してゐるのだ。
「うむ。」と彼は、自分の余外よけいな言葉を自分の為に怖れてうなるだけだつた。彼は、眼ばたきをしないで明るい障子を眺めてゐる――醒めきらないのだ。望ましい朝起きは、空しく遥かの処で光つてゐるばかりなのだ。……成る程、籔鶯の声が聞える。
「稀には落着いて吾家で朝御飯を食べてから出かけませうよ。ベルに驚かされないうちに眼を醒すようにした方が、あたしのやうに気分が晴々しい!」
 時には、ベルが鳴り出すと一処に彼は、おそらく夢中なのだらう、不思議なうなり声を発することもある――などと彼女は附け加へた。
「ベルが鳴らないうちに――」
「それぢや俺は、一睡もしないことになる。」
 と彼は、絶え入りさうに呟いた。妻は、一言でも言葉を止絶とぎらせたならば彼が再び眠つてしまふことを怖れて、彼が返事をせずには居られない問ひを考へて、矢継ぎ早やに放たなければならなかつた。彼女は目醒時計の代りを努めてゐることを思ふと、馬鹿々々しく苛々することが多かつた。
「ハヽヽヽヽ!」彼女は、わらひたくないが故意に干高かんだかい空笑ひをした。「だからさ、一日はつきりと我慢すればその晩からは、だん/″\に治るようになるんぢやないの。」
「そんなことは解り切つてゐら!」
 憤らせてしまふことも効があつたが彼女は静かに「帰りにお父さんの処に寄らないことにしませうよ。寄ると駄目だわ、どうしてもあなたは彼処あすこで夕方まで眠つてしまふんだもの!」
「寄らなければ、往来に倒れてしまふんだ。転げ込むんだ。」
「無理もないわ、だから我慢して――」
「我慢は超えてゐる!」
「一体何時になつたら?」
「俺は、慣れたい。毎朝のこれで少しづゝ回復するだらう、彼処に寄らないで済む日を待つてゐるんだ、俺だつて!」
「こんな好い! ホツホツホ……! まあ好いとするわ、あなたの為に、こんな好い機会はまたとないでせうに! また、あられては大変だが。」――「あら/\、もう半だ! さツ、起きなければ――」と彼女は、きつぱりと叫んで、合図するのであつた。彼は、眼を瞑つたまゝ石のやうな頭を持ちあげなければならなかつた。
 早朝から飴色の陽がみなぎる静かなうらうらとする朝ばかりが続いてゐた。二人は、釣籠井戸から汲まれる冷水で顔を洗ふと、もう家には上らずに蜜柑の樹の蔭で牛乳ミルクだけを飲んで出かけた。庭先も裏も、この家は蜜柑の古本で囲まれてゐた。近所には魚漁と農作とを半ばして営む、矢張り蜜柑の樹に取り巻かれた田家が五つ六つ点在してゐるだけだつた。
「夜、あなたは主に如何なことを考へてゐるの?」
「何んにも――」と樽野は云つた。目醒めてゐる人間が何んにも考へない――といふのは矛盾だ、と彼は気づく。翌日の不安をおもつてゐる、昼間になると猛烈な勢ひで圧し寄せるあの眠気の奴は、今は一体何処に潜んでゐるのか? と思ふ、あいつが夜のうちにやつて来て欲しい! などと思つてゐる――だが、答へれば、何んにも、と云ふより他はない――彼は、そんな気がしてゐる。「だから、なほ堪らないよ。午後のあの苦しみに比べて何方が? と訊かれたならば、恐怖が伴うてゐるだけに夜のあの方が救からないだらう。転げ込んで寝入つてしまふ時は、一種の強い快楽……かしら。」
「好いでせう、朝!」彼女は、言葉を反らして空を仰いだ。「好い! これは何よりも幸福だ。これで眠気さへなかつたならば――」と彼も空を仰いだが、朝の、ゆらゆらと浮游してゐる眠気には薄ら甘い陶酔を覚えた。「僕は、こんな風に朝の光りを浴びながら歩いてゐると、綺麗な思ひ出にでも耽つてゐる見たいな、だが何のかたちもない夢が、たゞ豊かに感じられるよ。」
 懶惰の果で――と彼は思つた。
「蜜柑の色がつくのをあたしは見たいわ、あれが一面にみのつたら綺麗でせう?」
 かたちのない夢! そんなものにばかり耽つてゐたら……だが、今は仕方がないんだ。
「相当忙しいんですつてね! 蜜柑の収穫時とりいれどきは?」
「一体俺には何が出来るだらう?」
「尤も、帰りがけに彼処あそこに寄らないとなるとあたしの仕事が溜つてしまふ。」
 帰りがけに父の家の二階で彼が昼寝をしてゐる間彼女は、前からの仕事を受持つてゐたのである。「寄つてゐれば、あなたの朝の苦しみは何時になつて治るか知れないし! でも、もう少したつたら寄つても、眠らないでも済むようになるでせう。」
「実務! 何かのビジネスに俺もたずさはつた方が幸せになりさうだ。」
 彼等は、各々の言葉に夢を持つて語り合ひながら村境ひの橋を渡つた。
「当分Fにばかり住まないこと。あそこからならお父さんの処に通ふのは不便ぢやないわ。直接あなたには云はないけれどお父さん、杉田さんの仕事の方にあなたを使ふんだつて云つてゐたわ。」
「杉田さんの?」
「えゝ、山の仕事なんですつて。杉田さんが持ち込んで、お父さんがすつかり乗り気になつてゐる山の材木工場の仕事。」
 猪が出たり狐が出たりするといふのはその山の話なんだな、と彼は思つた。「いや、これさへ治れば、俺にだつて自分の仕事があるんだもの!」
 彼は、自尊心でも傷けられたかのやうに云ひ返した。彼は六ヶ敷い顔をして青空を仰いだ。「材木山なんぞにやられて堪るもんか。」
「あら、そんなに速く歩いては駄目よ。」
「早く夏になつて呉れ! 朝、いきなり海へ飛び込むんだ、そしたら目だつて醒めるだらう。あの家からなら裸で駆け出したつて、平気なんだ。」
 彼等は、何時も決つてゐる松林の砂原で休息するのであつた。其処で、バスケツトを開いて玉子のサンドヰツチを喰べた。ふりかへるとF村が深緑の小山の裾で静かに朝陽を浴びてゐる。街道の行手には町が、紫色に煙つてゐる。弓なりの入江の中腹で彼等は、箱庭のやうな景色を眺めた。沖の水平線に晴れた日だけは薄く望める水色の島からは、微かな白い煙りが立ち昇つてゐる。
「寝転んぢや駄目よ。こんな好い陽気で、こんなに静かな海辺だもの、寝転んだりしてゐれば普通の人だつて眠くなるわよ。」
「うむ……」
「一ン! あたしは、あなたの目醒時計になつてゐるわけだわね。厭になつてしまふわ。」
「然し、これほどの無理を続けてゐたら、好い習慣がつかないうちに何か頭の、神経的な病気にでもなりあしないだらうか。」
「この習慣をつけなければ、それこそ何かの病気にでもなるかも知れないわ、胃病にでもなるかも知れない。」
「あの辺はね」と彼は、砂を払つて起きあがりながら遥かの岬を指差して説明した。「いろんな古戦場のあるところなんだよ。真田幸村が非業な討死を遂げた跡も残つてゐる。痰が喉につかえて如何しても声が出ない、闇の夜で、名を名のらうとするんだが、如何しても声が出ないんだ。」
「知つてるわ。」
「だから咳息ぜんそくに苦しむ人は今でもあそこの真田神社にお参りをする。――追手に追ひ詰められた頼朝公が森の中に迷ひ込んで、古木の洞穴に忍んでゐると、穴の入口に蜘蛛が巣を張つたので、遂に見逃された――彼処の山奥にはその古木が残つてゐるさうだ。」
「あら、小ちやい汽車見たいなものが走つてゐるわよ。あんな処を? あれ、何でせう?」
「軽便鉄道だよ。――岬がれてゐる、一寸と先きに豆粒みたいな島が見えるだらう。源義経は、此方の岬からあの島を眼がけて一足飛びに飛び越えることが出来たんだつて!」
「あれに乗つて見たいな。何処へ行く汽車なんでせう……おツ、笛を鳴らした!」
(蜜柑が漸く色づきはぢめた頃彼等は、その汽車で二時間あまりかゝる岬の裏側の村に移り住んだのであつた。)
「お前こそ、ほんとうに飛んだ目に遇はされたといふものだね。何と云はれても俺は一言も無い。」
「えゝ。」
「何時頃までかゝるだらう。」
「通つてゐればりがなさゝうね。」
「と云つて此方から訊くのは何だか厭だね。好い加減で止めてしまはうか?」
「あなたに好い習慣がついた時分に?」
「……目が回る見たいだ。脚が自分のものと思はれない! 眠さ!」
「ぢや、また今日も駄目ね。」
 医院が済むと彼等は、許される限りの速歩で父の家の門をくゞつた。彼は、二階へ駆けあがつて眠りを貪つた。彼女は、何んな点でも彼に似たところのない此処の元気の好い事務家の仲間に加はつて働く時間が最も楽しい! と云つてゐた。彼女は樽野と結婚する前も、学校の帰りにはその父が経営してゐた運輸会社の事務所へ回つて今のに似た小事務を司つてゐた。東京と田舎、学校と医院――違ひはそれだけだ、などと云つた。たゞその頃は今のやうに事務の時間の方に安易を覚えるようなことはなかつたが――などと彼女は、それとなくわらつた。そんなことを聞くと樽野は、自責を募らせられた。
彼女あれは何処かへ出かけたんですか?」
 彼は、妻のデスクを指差して杉田に訊ねた。杉田は、独りで何かしきりに書きものをしてゐた。
「皆なと一処に芝居へ行きました。いくら起してもあんたは起きないんですもの。八時過ぎですぜ、戯談じようだんぢやない。」
「あなたは行かないの?」
「四五日うちに、あたしは山の方へ立つんで、こゝんところ、とてもせはしい。」
 樽野は二階に戻つてまた寝床へもぐつたが、もうはつきりと醒めてゐた。これから朝までの彼の夜が開けるのであつた。彼等はF村へ帰り損つた時は此処に泊つた。彼等が泊ると、父は母の家の方へ戻つた。彼は此処の様子から或る不快な疑ひを父に持つた。二階の様子におそらく常の父の趣味にそぐはないケバ/\しい雰囲気があつた。疑ひの目を見張ると彼は、独りであかくなつた。肉親であるが為に特に感ずる、理性の他の、云ひ憎ひ恥らひ、奇妙な不気味さだつた。互ひに解つてゐても彼のやうな種類の病気となると、明らさまには親と子では話し合へない――それと同じやうな変な息苦しさを感じた。
「泊るんだらうと云つて、お父さんは彼方へ帰つたわ。」と妻は、何となく戯れ気にわらつた。それだけなら彼は、凝つとしてゐたが、杉田やその仲間が二人もゐる間で彼女は芝居帰りらしい気易い浮れ調子で「あたし達に知られたくないことがあるんだわ、お父さんは……」などと喋舌つた。事務が済めば遊蕩的な無駄話に耽る彼等の安逸さに彼女も同化してゐた。それは関はなかつたが彼は、厭な寒さを感じた。
「わざ/\来る役者ぢやないんだ。箱根があるから遊び半分に来るんだね。」
「でも東京に居ればあたし達だつて滅多にわざ/\行きはしないわ。」
「さうかも知れないな、だけど吾々はこんな時でもなければね。」
 椅子を火鉢の囲りに集めて彼等は、観て来た芝居の批評を初めてゐた。
「ほんとう! 杉田さん?」干高い声で彼は、未だデスクに向つてゐる杉田に呼び掛けた。妻達の方は一寸と言葉を止絶らせた。彼は思ひ切つて何かに飛びついたやうな亢奮で痛く胸を打たれてゐた。
「さあ、如何ですかな……」杉田は、何となくにや/\してゐた。彼は、一段と屹とした切り口上で、
「此処の家には好く芸者が遊びに来るさうだが、ほんとうですか?」と叫んだ。
「それは、お客でもあつた時でせう。」
 時計の音が響いてゐた。妻が、皆なの気分を一刻前の平調に戻すために、
「そんな顰め顔をする資格なんてないわよ、あんたには――」と、投げやりにわらつた。
 彼は、ムツとして二階へあがつてしまつた。妻の無知な態度も肚立しかつた。彼等の当然の団欒を乱したのも悪い気がした。若し肉親のことを話材にしないのならば自分にだつて或る程度まで彼等の団欒に気易きやすさが求められる一面はある。……これは手前勝手といふものか? 彼は、そんな痴想を追ひながら、痛く如何しても拭はれない不快感で、唇を噛んでゐた。
「知らないんですか?」杉田は、樽野を意味して天井を指差しながら、生真面目らしく眼を視張つた。
「お蝶さんのことね! うすうすは知つてゐるかも知れないけれど、自分の家の人達のことは、強ひて品行方正だと決めて置かずには居られない人なんだから。」と彼の妻は、苦々し気にさゝやいた。
「はつきり解つたら如何でせう。」
「お父さんは、母さんが怖ろしいでせう、あたし達は此処には来られなくなるわね。」
 つい彼が機会をはづして二人は、もう三日もF村へ帰り損つてゐた。彼だけは医院へも行き損つてゐた。妻が一日の務めを終へて眠くなる頃に彼は漸く起きだして、これからF村へ帰らうかなどと云ふのであつた。彼の Breakfast が彼女の夕餉と一処だつた。二階で二人は、仕出屋からの晩飯を食べてゐた。
「今から帰るのは無理だわ。」
「俺は今夜からでも自分の仕事に取りかゝりたいんだよ。」
「紙を東京へ買ひに行つて来なければならないんでせう。」
 彼は、独白した。「力が欲しいんだ。何か!」
「詩?」
「ずつと俺は小説の創作を考へてゐたんだ。」
「前にあなたは小説を書いたことがあるんですつてね。学生時分?」
「あんなのは、思つてもゾツとする……」
「書けさうな気がするの?」
「熱はあるんだ。」
 相手を意識しない風で呟いてゐる夫の態度から、珍らしく彼女は不気味な熱を感じた。
「東京へ行くんなら何か頼みたいことがあるツて、先刻さつきお父さんが云つてらしてよ。」
「熱があるのに、何故仕事のことを思ふと一種の憂鬱に打たれるんだらう。その憂鬱も極く小さい範囲で、その癖堅苦しい。常識的な何かに囚はれてゐる見たいな――兎も角、東京へは行つて来ようかな? ……よしツ、明日の朝行つて来る、ぢや、もう一晩Fへは帰るまい……往復の汽車の時間を眠つたら好いだらう。」
「汽車で眠れない方が好いかも知れないわ、さうすれば明後日あさつてから屹度昼間が取り戻せるようになるわ!」
「さうだ。」と彼は、突然拳を固めて膝を叩いた。そして、初めて微笑を浮べた。「そいつは巧い考へだ。俺は汽車で眠れない性分なんだ、それだけの目的で充分だ。仕事をするにしても、夜はもう閉口なんだ、碌なことは考へやしない。」
「ほんとうに――夜ぢや! 飛んだことに……」
「いや、それは……。F村で、あそこの朝はほんとうに快い。これは大丈夫だ、明日一番の汽車で出掛けよう。」
「遠過ぎたら途中で引き返しても好いわね、兎も角我慢して御覧なさい。」
「何アに、どんな苦しみと戦つても屹度、明日で取り返して見せる。」などと彼は、常態を失した態度だつた。――「お父さん、未だ居る? ぢや、一寸と待つて……」
 彼は、飯を食べかけて階下したへ駆け降りた。
「ハヽ……猛獣捕獲器とはどうもちつと名前が仰山だね、これは、どうも!」
「だから、見本に一つ、この三号といふやつを一台取つて見るんですよ。具合を見た上で注文しやうぢやありませんか。」
「こゝんところに、つまり、その猛獣が――かね、こゝんところに脚をかけると、フヽヽヽツ、このバネがはづれて――」
「がつちりと脚をくわへてしまふといふ仕掛けなんですな。」
 杉田は、熱心に手真似をした。彼の父も、熱心ではあつたが、厭に「猛獣捕獲器」といふ名称を可笑しがつてゐた。杉田は、飽くまでも真面目だつた。二人は、銃砲店の型録かたろぐを拡げて相談してゐるのであつた。
「猪が出るといふんなら一号だつて好いぢやないか。」
「だつて、構造は同じなんですもの。一号ぢや手に下げては来られないでせう。あたしが行かれる間があれば好いんだがな……」
「一寸と買ひ憎い品物だね品切れぢやないかしら!」と父は苦笑しながら彼に向つて、
「平気か? お前?」と訊ねた。
「平気――」彼は、済して点頭いた。
「これを草むらの中に忍ばせて置くといふわけか! 人間の方が余ツ程気をつけないと危なさうだな。僕には、何だか、それに獣がかゝるとは思はれないな。」と彼の父は、首をかしげたりした。「鉄砲だけあれば好いんぢやないのかね。」
「鉄砲ばかり打つてゐるひまがないからですよ。これは余外な仕事なんですもの。それに、あなたは未だあの山の様子を御存じないから。」と杉田は不平を洩した。
「何と云つて買ふ?」とまた父は、型録を指差しながら彼に云つた。「これを見せて、これを呉れと云ふか? それとも、たゞトラツプと云ふか、店先きでさ。何だかお前には買へさうもない気がする。」
「あんたはつまんないことを気にしてゐるんですね。」杉田は仰山に顔を顰めながら彼の父を圧す真似をして、彼に同意を求めた。「買物なんですものね。何と云つたつて関ふもんですかねえ。」
「えゝ。」と彼は、さつきと同じやうに呆然と点頭いてゐた。――彼は、眼に見えない何かに自分だけが、くどくからかはれてゐる気がしてならなかつた。
 彼自身は気づいてゐなかつたが、傍の誰でもの眼には、彼が可成り激しい神経衰弱に罹つてゐるのがもう、大分前から明らかだつた。だから彼の行動を皆な内心では案じてゐたが、症状に就いては誰も彼に告げなかつた。
(十五年・十一月)





底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新進傑作小説集12 瀧井孝作集 牧野信一集」平凡社
   1929(昭和4)年12月15日
初出:「女性」プラトン社
   1927(大正16)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2011年5月3日修正
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