雪景色

牧野信一





 滝は、あまり創作(小説)のことばかり想つてゐるのが重苦しくなつたのでスケツチ箱をさげて散歩に出かけた。――石段を降つて、又ひよろ/\と降つて行く海辺へ近い松林の中途であつた。彼は、風景よりも人通りを気にして小径を出はずれると頭につかえる松の矮林の中へ腰をかゞめて姿を没した。そして、丘の切れ端に来て月見草の間に胡坐をした。遥かの距離だが、灰色に光つてゐる砂地に風にもてあそばれてゐる風呂敷のやうなものが四つも五つも切りに堂々廻りをしてゐるので、何だらうと思つて見あげると低く大輪を描いて舞つてゐる鴎達の影であつた。
 暑い二日日の夕方、遠見の海のスケツチ板を仕上げて、だが滝は、たゞボーツとしてぶらぶら帰つて来ると石段の下あたりで彼の行衛を探してゞもゐたらしくうろうろしてゐる細君に出遇つた。
「今来たところなの? 遊びに来たの?」
「鯡鯉をつかまへるのを見に来たのよ、だけど、どうしてもつかまらないんだつて!」
「また……止めた方が好いんだがな。第一あんな泉水へ持つて行つたつて何の見栄えがするわけぢやなし、無惨に鼻を衝くばかりだらうがな――」
「だつて、その為にわざ/\掘つたんぢやないの、小さいけれど割合に深いから大丈夫なんだつて!」
「あれは何処かに土が入用で寄んどころなく掘つた穴だつて話だぜ。――金魚や駄鯉が少しばかり入つてゐるらしいが、あれで丁度好いと思ふがね。」
「だつて此処に置いたつて仕様がないぢやないの、誰かゞ此処に住むんなら未だしもだけれど、すつかり取り払ひになつてやがて此処には何処とかの倉庫が建つんだつて話ぢやないの――それともあなたに何か考へでもあるの?」
「ないね――」と滝は嗤つた。
「ないんなら黙つてゐらつしやいよ、変ね、何でもそこにあるものゝことには妙に冷たさうに――」
「…………」
「こゝも――」と彼女は蜜柑の樹がくれになつてゐるそこの家を見あげながら、何といふこともなしに可笑しさうに云つた。「これでいよ/\近いうちに片づくらしいけれどあなたはつまらないでせう、一文にもならないんぢや!」
「思ひ出は、あまり、無い家だからな、これは――」滝はそんなことを云つた。
「でも、もう、これであなたはさつぱりでせう、いよ/\お終ひね。」
「さうだらうね――」
「鯡鯉が残つたわけか!」と彼女は独語らしく呟いた。「焼けないと思へば此処の家には道具はなんにもないし――それでもあなたいくらかセンチメンタルな気分がしやしないこと、例へば鯉のことなんかに就いてさ。」
「どういふわけか――」と滝は生真面目らしく沈着な態度でうなつた。「何の感じもない、吾ながら不安を覚える程――」
「自分の仕事にだん/\身が入つて来るからでせう、結構だわ。」
「うむ。」
「一ト頃のやうに、此頃はあなたが愚痴を滾さないので――お母さんもそれが何より安心だと云つて悦んでゐたわよ。」
「悦んでゐる!」
「安心させるのは結構だけれど、いくらお母さんの前だつて、どうせ誰もほんたうにしやあしないけれどさ、あんまり空々しいことを云ふのは……どうも恐縮の態だわ、あたし達! なみの空々しさぢやない、大変なケタ外れの夢見たいな途方もないこと……」
「どんなことを云つたか知ら、忘れた! だけど僕は何も嘘は――」
「聴手の心を神妙にさせるやうな言葉は、あなたは知らないのね。いざ他人を慰めるやうなことを云ふ段になると、飛んでもない大きなことを――でもまア好いツてさ、愚痴やふくれ顔よりは!」
 別々の家に住んでゐるので遇ふと斯んなに彼女は能弁になるのかしら? それとも何かの皮肉かしら? などと滝は思つた。
「そんなこと如何でも好いのよ。それより勉強は出来て? 随分熱心らしいわね。」
「半分位ひ――」と彼は何の顧慮もなさげに云ひ放つた。――彼は、この頃全くの架空的な物語の構想に没頭してゐた。ペンを執りさへすれば半分も何もない何時からでも一気呵勢に書き綴れると思つてゐた。いや、書くことなどは懸念もしなかつた。どうかするとあまりに放縦な想ひに眩惑されて重苦しくなることさへあつたが、ペンを執つて散文化してしまふことが、丁度他人ひとと言葉を交へる時と同じやうに稚拙な文章が廻りくどかつたりして折角の感興にそぐはなかつた。
「それが済んだらほんたうに旅行に行く?」
「行つても好い。」
「行つても好い――ツて! あなたから先に云ひ出したことぢやないのよ、もう先から。」
「だから行くよ。行きたいんだよ。」
 意志と反対にそんな風に言葉のうけ渡しを間違へるのも彼の癖であつた。
「あたしが考へた処で関はないのね、でなければいつもの通り行かないことになつてしまふでせう。」
「まさか、今度は――。考へてお置きよ、何処も僕は知らないんだから何処だつて珍らしくて面白いに違ひない。住むつもりでも好い。」
「住むつもりは重ツ苦しいわね。それはさうと貸家も探さなければならないわね、そのうちに。また東京にする?」
「東京が好いね。」
「お母さんは何時一所になつても関はないと云つてゐるわよ、だけど彼処にあなたが来るとなると書斎がないでせう。」
「書斎がないことは今迄の東京生活で慣れてしまつたけれど。」
 そんなことを話し合ひながら彼等が庭へ廻つて来ると、二人の鳶職が向ふ鉢巻の裸体で縁側に腰を降してゐた。二人は汗を拭ひ茶をのみながら如何しても鯉がつかまらないことを嘆じてゐた。赧土色の水を見降して、直ぐに斯う濁つてしまやアがるんでね――などとAが腕をこまねくと、
「駄目だ、すつかりおぢけがついてしまやアがつてもう此方が一ト足入れると、キヤツ等の方で先に暴れて濁してしまふんだもの!」とBが眉をひそめた。
「これぢや、またあさつてにでもならなけれア元通りにあ澄むめえよ。」
「盲滅法にやつつけて見るか、もう一ト息!」
「どうせ斯うなれあ見当も何もあつたもんぢやねえからなあ。」
「手前え(註、一人称也)が、追ひ込みの中へ、ツツぺえちやツたんだから熱アねえや、けつツぺたあ、どうでせ厭ツてえほどひツつりむいちやツたあエ! 水がしみやあがるだんべえなあ?」
「思えの他これあアてえ変な仕事だぜえ、間抜け臭くつて骨を折らせること酷えや、俺ア頭も何もガーンとしちやツたあエ!」
「商売人を呼んで来なけれア駄目らしいな、無闇にフンづかめえれア好いで殺してしまつたひにあ片なしだからなあ!」
 Aのは見事な竜が背中一杯に見得を切り物凄い巻雲が両腕の先きまで翼を伸してゐる素晴しいほりものだが、Bのは何故か仕上げまでに至らないうちに中止したものらしく素地の皮膚に般若の面の輪廓だけが八分通り型どられてゐた。滝はいつかBに何故それだけで中止したのかといふ理由を訊ねて見ようかと思つたが、何となく悪い気がして控えてしまつたことなどもあつた。
 二人の干高い会話が、素通りをして奥の部屋でスケツチ箱の蓋をあけてゐた滝の耳へ鮮やかに聞えるのであつた。つかまへる! つかまへる! ――そんな彼等の言葉に関心を持たされた彼は何か、さうしたところで魚などをつかまへる専門の商売人があるんだな? などゝ思つた、後になつてそれは金魚屋の意味であつたことに気づいたけれど――。
「それ、描いて来たの?」
「うむ。」
 さうすると細君は至極素直な調子で、
「未だ仕上らないんでせう。」と云つた。
 滝は、一寸と不自然に眼蓋をしばたゝいたが、努めて独断的に、
「いや、これでもう完成なんだ。」
 さう云つて、腕組みをした上体を反らせながら凝つと微かな眼で画面を瞶めてゐた。
「それで?」と彼女は思はず呟いたらしかつた。そして、
「何だか、雪景色みたいだわね。真夏だといふのに――」と難じた。
「…………」
 滝は、急に顔色を上気させて、何か口のうちで呟いた。細君は、悪るかつたのかしら? と始めて気附いた。
 滝は他人ひとの言葉が気になつたのは近頃珍らしかつた。――彼は、何といふこともなしに歪んだ神経に目醒めたかのやうに、不快な寒さに襲はれてしまつた。己れの眼が、明るみにある梟の眼である! そんな自嘲に陥つた。茫漠たる想ひにばかり酔つてゐる己れの存在が周囲の者の内心に如何どんな悲しみを与へてゐることだらう――そんな弱々しく尤もらしい屈托などにまで走つた。また、これまで自分が書いて来た現実風の小説も、そして己れが実に浮々と愚かな態度でこの世に処して来たこと――それらが悉く拙劣な間違ひだらけな「雪景色」になつて、すると忽ち怖ろしい吹雪が起り、彼は目を瞑ぢ胸を伏せて、一散に白皚々の曠野に逃げ出さなければ居られなかつた、何にも見えない……。
「あ……」と、うめき声を発する間もなく、見る間に牡丹の花弁程の大輪の罪深い雪屑がこんこんと五体を埋めてしまふのであつた。
「どうしたの?」
「…………」
「え?」
「おこつたんぢやないよ。――どうも田舎も好いが夕暮時は寂しくつて仕様がない! 厭に蒸暑いなア、あれでも手伝つて見ようかしら――」彼は、事更に苦笑した。
「お止しなさいよ、――変だわ。」
「ヤツ、脚にぶつかりアがつた!」
「おゝツ! 深え/\。」
 薄暮の泥水の中で二人の倶利加羅紋々が狂気の如く打ち騒いでゐる光景が、滝の眼に不気味に映じた。


 その日も彼等は日の暮れ合ひまで池の中で騒ぎ廻つてゐたが、また失敗だつた。彼等はこも/″\無念の舌を鳴らしながら留守居の老夫婦の居間へ引きあげると吾家には戻らうともしないで酒盛りを始めた。
 滝は、ガランとした座敷の真ン中に上向ふに寝転んで天井を眺めてゐた。昼間は天気でさへあれば海へばかり通つて游泳に余念がなかつた。……何といふこともなしに架空に韻文的な想ひに耽つてゐるのはいつまでも飽きなかつたが、金のことなどに気づいて、ぼつぼつ仕事に取り掛らうかなどゝ呟いた。
「一気呵勢!」
 それが口癖のやうになつてゐた、さう思つては彼は他易く楽天的になつて、更に余裕をつくつて「夢」の方へ没頭して来た。
 そして彼は、うと/\としながら容易に自分の部屋へ引き取らうとはしなかつた。滝が書斎に定めてゐる部屋には、どうしたわけか電灯が引いてなかつた。増築が出来かゝつた儘で四五年来も投げ放しになつてゐたのだが、察するところ其処は仏間にでもする思案があつたらしかつた。彼は永い間の昼夜の転換を取り戻すために、反つてそれを幸ひにして直ぐに引き込めるであらう電灯を其処だけは点さなかつた。そして昼間だけを、慣れないので極く稀であつたが海へも行かれない曇り日などに机に向つてゐた。夜にかゝる場合があると、半ば物数奇から行灯や燭台の光りを頼りにして読書をしたり、それこそ真に愚かな「雪景色」のやうな物思ひに耽つたりした。
「御飯どうする?」
「此処で好いよ、何かおとりな?」
「日が暮れてしまつたからあたしを送りながら街まで行かないこと、稀には他所で何か喰べたいわ。それにお金ならあたしが今日少し位ひ持つてゐるわよ。」
 さうきくと滝は立所に賛同した。細君は、向ふの酒盛りが次第に陽気になつて、この次の鯉とりの日には別の手段を用ひて水を濁さないうちに手ツ取り早く捕獲してしまふことにしよう、気を永くして――。
「濁ツたひにやあ、何んチツたつて俺たちの手にやア負へねえなあ! アツハツハ……」
「俺アもう、ふんとに癪に触つて堪らねえ、斯うなれあもう意地づくだあ、水の澄むのなぞを気を永くして待つちやあ居られねえや。」
 そんな威勢の好い声に滝が、さつきから耳を傾けてゐるらしいのを気にして、出掛けることを促したのであつた。自分が居なくなれば屹度滝が彼等の酒盛りに加はるであらうことを彼女は懸念したのであつた。彼女は、滝が機会さへあれば如何な畑違ひの人間とでも取り組んで馬鹿/\しい騒ぎを演じる……それが想つても堪らないのであつた。
 時間で来るバスを待つたが容易に来なかつたので彼等は、また旅のことなどを話し合ひながら月あかりで松並木の道を歩いてゐた。
「真夏といふ感じは七月と八月の間のほんの一寸とした短い間のやうな気がする。」
「さう云はれて見ると、八月に入ると夜などは秋の感じの方が強いわね――でも、そんな風に考へれば、冬だつて春だつてほんたうに頂上の日つてものは幾日もないわね、一年中が夫々季節の移り変り見たやうなもので――」
「それアさうだね……」
「これからは、どうしたつて夜よ――あの部屋灯りがあれぢやいけないでせう?」
「好いぢやないか、あの方が――」
「そんな気分なんて――」
「いや、いくら秋になつたつて今度こそは俺は夜は絶対に止めるつもりだよ。」
 話が止れると彼女は、帯の間からハーモニカを取り出して吹奏しながら歩いた。他に彼女の得意なものと云つては何もなかつたが、奇妙なことには彼女はそれが器用であつた。そして彼女は、中学生の弟などから時に応じて流行の曲を仕入れて来ては練習に熱心であつた。近頃は「アイ・アイ・アイ」とか「ヴアレンチア」とか「ライト・キヤバレ」などといふ相当の難曲(?)を吹きこなした。
「東京マーチをやつて御覧な。」
「好きね、あなたあれ、昔の運動会が。――」
 ……「巧い! ――ぢや、今度はアメリキヤン・ペトロール。」
「好く知つてゐるわね! ――よしツ……」
 ……「巧い! 巧い! 俺には、それは口笛でも出来ない。……それでは、今度は――と! 何をやつて貰はうかな。」
 甚だ爽やかな気持で滝が、次の曲目をあれこれと思案してゐると、細君は彼の註文が煩くでもなつたらしかつた、何も彼の求めに応じて取り出したわけではなかつたのだ、自由にひとりの徒然を慰めるつもりだつたのだ――そんな心地でもしたらしい彼女は投げやりな口調で、
「ナンシー・リーは御免よ。」などゝ云つたかと思ふと滝の知らない「森の鍛冶屋」の練習にとりかゝつた。
「何だ妙に機先を制しやがるな。誰がナンシー・リーをやつて呉れだなんて云つた!」
 実際何を聴かうか? と迷ふ時に多くの曲目を知らない滝が直ぐに到達するのは「ナンシー・リー」に違ひなかつた。
「失敬な、何んでも俺をあれに決めてやがる。」
 彼女は滝の呟きごとなどは耳に入れぬらしかつた。
 ナンシー・リーは滝の亡くなつた親父が、彼等に覚えさせた「口笛」であつた。それは滝の親父が、昔アメリカの学校にゐた頃暑中休暇を利用して捕鯨船に乗り込んだ時そこの水夫から聞き覚えたのだと云つた。甲板で働く水夫は稍ともすればナンシー・リーを口吟むのが習ひであると云つた。捕鯨船が病みつきで、一時は何も彼も放擲してそれの水夫になつて働いたことがあるといふ父親は、海の話となると得意のあまり夢中になつて「船歌ナンシー・リー」を相の手にして身振り勇ましく追憶談を繰り返すのが好きだつた。
 滝は、「ナンシー・リー」の単純な朗らかさに加へて、独特なそこはかとない一脈の甘苦い哀音が漂うてゐる韻律に酔はされて、今もなほそれが口笛を吹く時の習慣になつて遺されてゐた。滝には、それ以外には殆んど口笛の習ひはなかつた。
 彼女は、物哀しさの甘さが厭に露骨で、懸声に似たコーラスの個所がワザとらしいといふ理由で、そしてアメリカ水夫の歌なんて古く俗つぽいといふ反趣味とで、滝が吾知らず口笛で吹いてゐるのをきいても鼻についたと称して耳をふさぐのであつた。帆綱を巻きあげ、舵を執り、マストに駆け昇る――そんな事実の行動に伴うて、伴奏される歌調が、力を惜まずロープを巻きあげる腕に合せて思はず叫ぶ「コーラス」が、安逸の素面から口吟まれゝば厭に露骨でワザとらしく見えるのも当然だが――大洋の真ツたゞ中で立ち働く者の胸のうち……そんなものは、都で生れ都でのみ育つた不良少女あがりの細君には夢にも想像し得ないに違ひない。
 汐風に吹かれながら人通りの全く止絶えた松並木の道を抜けて、橋を渡り、町にさしかゝつた時分には滝は、孤独感に堪えられぬ程の思ひに変つてゐた。――細君に対しては別段に怺える程の思ひがあつたわけでもなかつたが彼は、いつの間にか不気嫌な饒舌家に変つてゐた。
「アラ、まあだ飲むの、殆んど飲まないつもりで来たのに!」
「金はいくらあるの。」
「いくらだつて好いわよ。」
「よく金なんて持つてゐたな?」
「知らないわよ。」
「呉れツ!」
「…………」
「ぢや、借して呉れ。」
「厭――」
 未だそんなレストランを始めない前から知つてゐた其処の女房がカーテンの隙間から顔を出して、
「奥さん、まかれちやいけませんよ。」と囁いた。
 感心なのか、臆病なのか知らないが、金のことだと、この人は、はつきりしたアテがない限りはどんな借りも拵へない、だからいくら酔つたつて大丈夫だ――そんなやうな意味のことを細君は、誰に云ふともなしに呟きながら立ち上ると、彼に、
「十円しかなかつたんだよ。」と下唇をつき出して告げるや独りでさつさつと出て行つてしまつた。
 滝が、大歌をうたひながら帰つて来ると松並木の中途で、迎へに来たといふ提灯をさげた留守居の年寄に出遇つた。
 ……若し此方に寄らないとすれば直ぐに其方へ帰つて行くに違ひない、一本道だから確かだ――と決めて、細君が電話をかけて寄したので――と年寄は云つた。
「おや/\、提灯持が後になつてしまふ、何てまあお速い脚だらう!」
「…………」
 ――(さうだ、電話がある!)
「お声が聞えましたぜえ! あつしが石段を降りると間もなく――」
「…………」
 ――(あれはたしかに俺のものだ! どうして俺は斯んなことに気がつかなかつたんだらう!)
「奥さんにや敵はない、帰ると云はれゝば、テツキリだ!」
「…………」
 ――(あれを売らう、売つた/\、そこで一番息がつけるといふものだ。)――「お爺さん、誰か電話を買ふ人はないかしら?」
「それは、また、どうして? 突然な!」
「あゝいふものは即座には売れないものかしら? 明日にでも?」
「何だか、さつぱり訳がわからない。」
「お爺さん――俺はね、今、六ヶ敷い仕事を持つてゐるんだよ、それはね……何アに、やれア何時からやつたつて好いわけなんだがね、今の僕としてはね、出来るだけ頭の中に持ち応えてゐたいんだ、持ち応えツ放しになつてしまつても関はないんだ、面白いんだ! 阿母や女房には解りませんよ。」
「…………」
「旅へ行きたいてえから――俺だつて、それも望ましいさ、だから、ぢや出掛けよう……そんな君、切端詰つたところで、仕事をするなあ厭だ。」
「そんなこともないでせう。」
「売つて呉れ、売つて呉れ! 電話ア売つて呉れエ――」
「……尤も、この先此方には電話はいりませんね。」
明日あした/\! おゝ、何といふこともなく気分が明るくなつた。――朝、あいつで起されるのからして堪らねえや。」
「それあだつて、あんたが奥さんにお頼みになつたからぢやありませんか。」
「清々と好いだらうな、あいつが毎朝掛つて来なくなつたら……」
「不景気でね、さう直ぐには売れるか如何か? ――だが、あんたあれが今急になくなつたら困りますぜ――奥さんを呼べ、それツ! 何が喰ひたい、それツ! 花火を買つて来い、それツ! あつしがその度に飛び出したんぢや、あんたの間には合ひますまい、どうですかな?」
「居なくなつてしまふんだよ、僕ア、居なくなつてしまふんだから世話はないだらう、売れると一緒に――、大金をふところにして――か?」
「いやはや、どうも好い御気嫌で――。石段々のところは気をつけて下さい、段々のところ、石段のところ……未だ/\、もう少し先き、もう少し先き、まだ段々ぢやありませんよ、おつそろしい大股で! 危い腰つきだな! ハヤどうも、まるでどうも、大雪の中でも歩いてゐるやうな――」


 鳶職のAが、見物に来た金魚屋から鯡鯉の値打ちを聞いたといふことを滝に伝へた。離す気があれば、此方でつかまへて渡すなら、即座にこれ/\の価で引きとりたいが、どうだらう? といふ話を持ち込んだ。つかまへて見た上で、また数に準じて、値段は改めて相談しても好いが、
「お売りにならないでせうね、然しまあそれ位ひの値打ちのものなんですつてさ。」とAが滝に告げた。四百円前後といふ思はぬ高価な金額に滝は舌を巻いた。
「売る。」と彼は、はつきり点頭いた。
 晩、滝は、AとBを引き伴れて自動車を駆つて町の青楼へおしあがつた。不景気で滅多に絃の音もしない海辺寄りの茶屋の二階から、花々しい太鼓の音が打ち響いた。拍手の音が起り、トキの声が涌きあがつた。
 その翌日から石段の上の蜜柑の樹に取り巻かれた陰気な家はにわかに普請でも始まつたかのやうな活気を呈した。
 意地づくだから二人だけでやりとほして見せる、一尾も残さず生捕りにする――その時日に応じて懸賞を附せられたAとBの眼は血走つてゐた。
「澄んだぞ!」
「叱ツ!」
「一番投網をやつて見ようか?」
「馬鹿、それア濁つた後で使ふんだよ。」
えさでだまさうか。」
「とても今ぢや餌では浮かねえよ。」
 泥棒の忍び声のやうな囁きで滝は、目を醒すと一処に床を蹴つた。細君から電話が掛つて来る時分には彼は、酒徳利の載つた朝飯の膳を縁側近くに用意して、新しく取り寄せた箱根細工の脇側などに凭りかゝりながら深刻な眼つきでA・Bの活躍を視守つた。――滝は、「頭の中へ持ち応えてゐる六ヶ敷い仕事!」も「愉快な韻文的空想!」も「架空の物語!」も「眼の前の細事は一切没却した広大無辺な無呵有の空に咽んでゐた筈の忘我の詩境!」も「ナンシー・リー」も「電話!」も「怖ろしい吹雪!」も「たゞ見る一面の雪景色!」も「……一気呵勢!」も、何も彼も鵞毛の如く散乱して、ひたすら池を瞶め、獲物を待つ尊大なブルジヨアであつた。
「来ないでもよろしい! 邪魔になる。」
「……いゝの?」
「一切月末払ひにして俺の分も一通り仕度をしてお置き。――煩いツ!」
 ガチンと受話機を掛けると彼は、多忙な事務家のやうに元の座に取つて返した。
「腹ん逼ひになつて覗いてばかりゐたつて埒あ明くめえぜ、そんなに濁るのが怕けれあ、小ツちえのを先へねらつたらどうだい――やい、間抜け! 何をボヤボヤしてやがるんだい、此方の隅にマダラが浮いてるぢやねえかよ!」などとAの口調を真似たかのやうに殺気立つて横柄に叫んだり、
「それツ! 八ツ手の下に寄つたぞ、投げろ、網! 網! 網!」と指揮の腕を勇ましく打ち振つたり、
「チヨツ! のれえや/\、あゝ、もうあんなに濁つてしまつたぢやないか。」と歯がみをして卓を叩いたり、
「こゝんとこでしつかりやれ、まアだ朧ろ気には姿が見えるだらう、硝子箱で覗いて見ろや、波がたつてゐる!」などゝ勢援したり、さうかと思ふと、
「さあ/\、諸君、もうお午だぜ、休み給へ/\、今が今つかまへてしまはなければ何処へ逃げてしまふといふ相手ちやない、慌てることはないよ――飯にしろや、弁当はね、何んでも好きなものをお爺さんにさう云つて取り寄せて貰ひなよ。」などゝいふ世話も焼いた。
「影が見えてもひつこんでしまふんですからね、どうぞ此方らへ、どうぞお上りになつて――」
 垣根の間から覗いてゐる見物人に向つて彼は、そんな注意も忘れずに無理に上段の見物席に招じ入れたりした。
 見物人が加はつたりすると滝の威勢は、応揚な殺伐に変つて、
「濁つたら濁つたで好いぢやないか、どんどん踏み込んで行つて引つかき廻せ! 何アに、二つや三つ打ち殺したつて関やしないよ。」
 そんな愚にもつかない気前を示した。
 ――「そこんとこを脚で追つて見ろ!」――「逃げた? 今、たしかに追ひ込みん中へ逃げ込んだぞ、入り口をふさいで見ろ。」
 AとBは滝の傀儡であるかのやうだつた。滝は、のべつに喋舌り続けてゐた。
「駄目か、たしかに今、その中へ入つたと思つたんだがな? ぢや、もう一辺入り口をあけて今度は二人して手をつないで丹念に隅から隅を追つて、最後に、一ト息であの中へ追ひ込んでしまへ、その上での仕事としちやどうだい。」
 ……滝は、いつの間にか急を要する境遇のことなどは忘れてしまつた。徒然のあまりに地引網を引かせて高見の見物をしてゐる、そんな遊興に耽つてゐる人のやうな、獲物なんぞは如何でも好い――わけもなく豊かな呑気な気分にもなつてしまつた。
 いや/\どんな種類の目醒しい遊興よりも、これはまた不思議な興味を惹く、何とまあ楽し気な遊びごとだらう――滝は、眼をかすめて、春風にでも酔うたかのやうにうつら/\として来た。
 ギラギラとする真昼の陽が、生ひ繁つた青葉の面に白く光つてゐた。寂と、もう水の上は泥濁のまゝで板のやうな平静に返つてゐる。蝉の声が焦げつくやうにかまびすしい。
 戦ひに疲れた芝居の侠客に違ひないAが、槍に見紛ふ長柄の網にもたれて、八ツ手の間から半身をのり出して、凝つと何も見えない泥水を瞶めてゐる。対岸の石灯籠の傍では向ふ鉢巻のBが投げるばかりの姿勢で投網を抱えて、生人形になつてゐる。
 ぶくん! と水の上で泡が割れる。
「それツ!」といふAの懸声もろともに、Bの腕からは網が投げられる……。
「入つたらしいぞ!」
「チエツ!」
 彼等は再び水の中へ躍り込むと、
「おゝ、深え/\!」など云ひながら、狐に化された図のやうな格構で脚をふまへ腕を躍らせた。
「滅茶苦茶に叩き込め!」と滝が命令する。
 AとBが、躍り上がつた魚のやうにも見える。噴水のやうなしぶきが雨のやうにパラパラと汀の河骨の葉を打つた。
「暑い時の水遊びだ!」とAが、テレたやうに呟いた。
「キヤツ! ふくらツぱぎをこすツて行きやあがつた、えゝツ気味が悪い!」とBが胸をさすつた。
「総攻撃!」とAが叫んで、二人はワツとばかりに追ひ込みの口へ詰め寄つた。
「あゝ、面白え/\。」と滝は、大口をあいて手を打つた。
 夕暮になると、二人は滝の傍に来て、
「この分ぢや、どうも――」
 さう云つて頭をかいた。
「何アに、ゆつくりやつて貰はうよ、明日からあまり手荒なことは控へて、何とか考へ直さうぢやないか――折角の代物を痛めてしまふのも馬鹿/\しいからね。」
「どうも、日ばかりかゝつて――」
「そんな遠慮はいらないよ。満足につかまへさへすれば、心配はないんだ、一匹残らず売つてしまふことに肚を決めた。」
「あつし達の面目がつぶれやしないでせうかね、あちらのお宅の方へ?」
「僕ア、主だよ、こゝの、こゝの、あつちのことなんて……おいツ!」と滝は、何となく声を落して「あのね、綺麗なお酌がゐたらう、ぴん子といふ――彼女がね、僕のことを好きだ! と云つたぜ。僕ア、今日、一ン日彼女のことを考へてしまつた。ひとりで行くのは気まりが悪いからさ、つき合はねえか、未だ三度や四度行つたつて、みんな売るとすれば、それならまだ余ツ程あまるねえ?」
 そんなことを云ひながら滝は、精細な胸算用を始めた。


 夜になると池のまはりには蛙の声が高くなり、虫の音などもするやうになつた。
 石段の上の蜜柑の樹に取り巻かれた家を、新たに、いろ/\な種類の債権者が訪れてゐた。
 AとBでは、出入の別荘から手おしポンプをかりて来て、一気呵勢に池の水を干してしまはうといふ相談が一決した。
 滝は、年寄が弾く算盤の面を眺めてゐた。
「旅」が、滝の書斎での「一気――な」仕事だけを待つた。
 土用半ばの曇り日が続いてゐた。波が立ち始めたといふ噂が伝へられた。
 池のまはりは、火事場のやうな騒ぎであつた。年寄りを初め、自動車屋の集金人、料理屋の掛け取り、女郎屋の「馬」、レストランの亭主、酒屋の番頭、待合の「お帳場」――それ等の人々が、各々双肌脱ぎになつてAの指揮にもとづきながら懸声そろへてポンプのハンドルをあをつてゐた。無駄口一つ叩く者がなく一同は息を切つて眼前の仕事に没頭してゐた。上げては降し、降しては上げる満身の力と共に思はずほとばしる彼等の懸声には恰もナンシー・リーのコーラスのやうな底力が籠り、颯爽の気に満ちてゐた。
 家根に向けてBが支へてゐる筒口からほとばしる泥水は、中空に小さな虻をふき、さんさんと砕けて雨になつて軒先をかすめた。
 滝は、ランプを買ひに行つて来ると云ひ遺して東京へ出かけて留守だつた。





底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「鬼涙村」芝書店
   1936(昭和11)年2月25日発行
初出:「文藝春秋 第五巻第九号」文藝春秋社
   1927(昭和2)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2012年4月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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