円卓子での話

牧野信一





 の昨日の今日である、樽野の――。
 今朝はまた昨日にも増した麗かな日和で、長閑で、あんなに遥かの沖合を走つてゐる漁船の快い発動機の音までが斯んなに円かに手にとるかのやうに聞えるほどの、明るい凪は珍らしい。だから云ふまでもなく、海原は青鏡で、ただ、波を蹴たてて滑つて行く舟の舳先で砕ける飛沫が鮮やかに白く光るより他に目を射るものもないのだ。――樽野は、醒めきらない微かな眠さが反つて快かつた。
 心忙こゝろせはしい筈の樽野は、眠気を醒すつもりであるかのやうに大股で道を急いでゐるのだつたが、もう少し歩を速めるか(それはもう駈足になる。)伴れを探して、酒にでも酔つた時のやうな饒舌家にでもならないと、何か斯う目に見えぬものに対して気まりが悪過ぎるとでもいふ風な心地だつた。
 樽野は晴れた日だけを朝起きして、半年前までは皆で住んでゐたのだが今は彼の書斎だけが残つてゐるN村のうちへ出かけるのだつた。――競売にされるといふ話を聞いて、吃驚りして逃げ出したのだつたが、また当分はそんな話も有耶無耶になつたと見へて、其処の門柱には彼の知らぬ間に、彼の名前の誌された新しい表札が出てゐた。現在住んでゐる町はづれの傾きかかつて彼方此方に支柱がかつてある家には、樽野の部屋がなかつたし、おまけに、いろいろな悲しい事情を持つて東京からその身を寄せて来た妻の兄妹きやうだい達が居た。悲しい、困つた境遇に追ひつめられた彼等であるから樽野は屹度、溜息でもつきながら静かに引き籠つてでもゐることだらう、可哀想なことだが――と思つたのだつたが、好いあんばいに彼等の元気好さと云つたらない、決して事に屈托を持たぬ朗らかな楽天家ぞろひだつた。
 彼の妻は彼等のことを、少々体が弱いので転地傍々の保養に来てゐるのだ、と吹聴してゐるが、おそらく誰の目にも彼等が病弱な身であるとは映るまい。此頃、もう余程前から樽野家の酒樽は空になつたまゝで、酒を口にしない主は、自分ながら不気味な程悪おとなしくて彼こそ体でも悪くて引き籠つてゐる者のやうでさへあつた。何んなに家の中が騒々しくても決してその騒音の中に樽野の声が混ることはなかつた。
 ――兄妹達は、人に好かれる質だと見へて遥々と会ひに来る友達が何時も絶えなかつた。いつもズボンのポケツトに両手を入れたままで、その微かな身振りで、歩いてゐる時も、談笑してゐる時も、頭の中ではダンスのことばかり考へてゐるに違ひないことが誰の目にも窺はれる二十二三歳の伊達者、稍ともすれば流行歌はやりうたを口にして一句毎に「……てえんだらう」といふ呟きが口癖の何々フアン、とかいふ仇名の青年、これはまた酷く気軽で拭掃除でも、常に飯盒で飯を炊いてゐるこの家の飯焚きでも進んで引きうけ、そして食物のうまいまづいを決して云はない水泳選手だといふ学生、口だけは怖ろしく達者だが稍低脳であるらしい高慢鼻の二十歳の妹に恋してゐるといふギタアを携へて来た憂鬱気な洋画青年……次々に左様そんな人達が、滞在したが、樽野と口を利いた者は殆どなかつた。顔を合せれば何となく微笑を浮べるが、酒を口にしない樽野は真に在れども無きが如き存在だつた。
 勿論、樽野は滞在者のあるなしに関はらず、行ける間はN村の家を使はずには居られなかつた。浜辺を廻つたり、田圃を寄切つたり、滑り易い坂を降つたりして、それからまた十銭の切符だが汽車にも乗る程の遠さだつたから、雨だと樽野は必ずN村行きを休むのであつた。
 昨日も好い天気だから出掛けたのであるが、途中で、海辺の宿にゐる大酒飲みの義父につかまつて夜になつてしまひ、頭だけが厭に白々しい怪し気な足どりで引き返したのだつた。帰りついた時分にはすつかり醒めてしまつた上に、眠らうとするとギターの青年が何時までも憂鬱気な曲を奏でながら恋人の気嫌をとつてゐるのが耳について樽野は一層眠れなかつたのだ。
 いつそ独りで朝から飲み直しをして眠らうかと思つたのであるが、一寸考へた後に彼は思ひ直して、故意に颯爽として、N村を目的めあてに綺麗な海辺へ飛び出して来たのだつたが、二日酔ともつかない胸苦しさが蟠つてゐてならなかつた。
 半ば駆けるやうな速さで渚ちかくを進んで行くと、先の方で、今や出帆の準備で勇みたつてゐる小舟が、友達の鴎丸だつたので、
「お早う、鴎丸!」と樽野は、こゝぞと云はんばかりの号令のやうな大声を挙げて、帽子を振つた。浜の人々は、浪の音に逆つて、生れながらに喧嘩をしてゐるかのやうな喚き合ひの会話を取り交すのが習慣だが、今朝はあのやうに静かな浜辺だつたから樽野の筒抜けた声が帰船の合図に吹き鳴らされる法螺貝の音のやうに響いた。
 樽野はそんな自分の声にたぢろいだが、恰度この朝に、今後以何なる場合でも雄弁を旨としよう、酒を口にすることなしに――といふ厳しい掟を定めてから、最初に出遇つた鴎丸だつたので妙に胸が鳴り、勢ひをつけて言葉を続けるのであつた。
「今日は、あまり好い天気だから僕を途中まで送つておいでと命じたのに、吾家うちの宵張りの連中は誰一人寝言でさへも返答しないよ、僕は飯も喰はずに出かけて来たので途中で君の家に寄つてパンを一片とビールを一本と……」
「鯵があつたらう、今朝の――」
 鴎丸に寄つたのは事実だつたが、途中まで送つておいで! とか、命じた! などゝいふのは樽野の空想だつた。妻か、妻の妹にでも送らせて来れば、部屋の窓を細目にあけて、好天気ならば必ず通るに違ひない樽野の来かゝるのを窺つてゐるあの親父に若しやつかまつても、云ひ逃れの代弁はして呉れるだらうが! と思つたのであるが、彼女等の気嫌を慮つて口には出さなかつたのである。あの頭頂部が台のやうに平たく頤にかけて三角的につぼんでゐる栗のやうに小さい顔の親父が喋舌り出したら堪らない、半ばまでは親父の言葉の意味は解らないのである、猛烈に勢ひの滑らかな彼特殊な東北弁で、樽野は三十分も対談してゐると、此方の頭が鑵になつて、無闇に叩かれてゐるだけのやうなカーツとした気分になつて全く意味のない騒音のうちに昏倒しさうになるのであつた。そして樽野は何もも意味が解らぬまゝでボツとして、一切力量もない癖につまらぬことを引きうけたことになつたりしてしまふのであつた。彼は、あの親父の業々さま/″\な漁色癖と、山国育ちの無抵抗的な悪度胸と、非人情性とに義憤を持ち続けてゐるのであつた。若し会つたら今後こそは此方こそ思惑通りの饒舌家に変つて、向方が油蝉なら此方はクツワ虫の勢ひで攻め寄せてやらう、などゝ決心した。
「何といふ好い天気だらうね、秋だか春だか、夏だか、解らないぢやないか。」樽野は浜人を真似た怒鳴るやうな声で鴎丸に呼びかけるのであつた。彼は秘かに声量の試験をしてゐるかのやうな力を奮つた。
「おゝ、俺達もこれで漸くつとしたわけだよ。」と鴎丸は滑らかに鳴り返した。樽野も気分だけは吻つとしたが、何故か一散にN村まで行き着き損ひさうな焦立ちをもつてゐた。――だが、まあ、これ位ひの大声で、怒鳴つてゐれば、何も彼も吹き飛んでしまつて清々としよう、焦立ちも気分もあつたものぢやない――
「昨日の天気でも、折角出かけたんだが僕はついやり損つてしまつたんだが、君の方は何うだつたア?」
「米代だけはとれたアよウ、あれでよウ、昨日今日とあと二日も雨が続いたら俺も、いよいよ釜を質屋へ持つて行かなければならなかつたところだつたよウ――」
「おお、おととひは雨だつたなア!」樽野は思はず不思議さうに空を見あげて、水々しい空気を呑んだ。
 雨ならば樽野のN村行と同じやうに休みの鴎丸(日野)達なのであるが、此頃は雨の日には樽野が彼をその家に誘ふことが多かつた。樽野の家だと、鴎丸の波に慣れた音声が割れ鐘のやうで、それに伴れて酔ふ樽野の音声も五体に不釣合に高まり、恰で聾者同志が相会したやうだと云つて笑ふ者があつて鴎丸がテレたのと、酒樽が空続きであつたからとである。鴎丸は小学、中学からの樽野の同級生で、帝国水産学校を恋のために中途で止めて以来はその美しい細君ひとりに留守をさせて、己れは伝来の鴎丸の舵を専念に操つてゐるのである。
 一帯にここらあたりの海は波が荒くて、今朝のやうな静けさは数える程もないのだ。だから、ここの海辺で働く人達の言葉は背中合せの町の人達とさへ恰で違つて、何よりも特異なのは語調の抑揚が夥しく緩漫であるのに引きかへて、音声は悉く絶叫のかたちなのである。思想もそれに準じてゐたからこの一廓では一切のたくらみごとが計られることはなく、そして名誉心や不平心や貯蓄心を持つ者がなく、天に向つては屡々不平の舌打ちをするが、まつりごとに対して不満を持つ者はなかつた。あの持前の大声では秘密の相談や近隣の悪評などは試みたくも、つかみ合の喧嘩で叫ぶより他には喉が許すまい。彼等同志で、今宵はひとつ遊廓へ繰り込まうではないか? といふ類ひの相談をしてゐるのでも蔭で聞いてゐてさへメガホンを執つて呼ばれてゐる声の如く空太く響き渡り、賛同の返事などは虎が吠えるかのやうに物凄いのだ。
 彼等は云ひたいことをこらえるといふ必要もなかつた。思つたこと感じたことは何時もその場その場で喧嘩のやうに口外してしまふのである。彼等は悉く稍風変りな多弁家だが、ボケブユラリに貧しい代りに、瞬時々々に口をついて出る擬物的の形容語を発する才に長けてゐた。――一度彼等と相会すると屹度樽野の喉は翌朝、かすれるか潰れるのが慣ひだつた。
 樽野は鴎丸の漁屋うちで、雨の日には夫々天に向つて舌を鳴らしながら酒宴を催しに集つて来る老若の、七郎丸、大々だい/\丸、鱗丸、三郎兵衛丸、潮吹丸、づくにゆう丸、鯖子さばこ丸、般若丸、サイトウ丸、源太郎兵衛丸などといふ連中と相知つたが、その酒宴の騒々しいことと云つたら素晴しい! こん畜生奴! とか、間抜け面! とか、ぶんなぐるぞウ! などと、叫ばれる罵声が主なので、余程注意して判別しないと、それで彼等は相互ひに親しみを抱いて愉快に仕事の話を取りかはしてゐるのだ! といふことは解らない。
「おととひは失敬したね。」鴎丸は、舳先におしたてた公園の瓦斯灯のやうに巨大な新しい誘魚灯の手入れをしながら、あの日に、あまりの永雨で気をくさらせてゐる連中が誰を憎むといふわけでもなしに(つまり天を憾んで――)あられもない大立廻りの喧嘩が始まり、樽野が奇妙な仲裁役になつてしまつたことを云ふのであつた。「あれぢや、驚いたらう! つまり誰も彼も翌日が若し雨だつたら? といふことを考へると、怖ろし過ぎて、ひとりでに興奮したわけなんだよ。あゝして、互ひに、意地悪る野郎! 大馬鹿奴! などと怒鳴り合つて、果ては※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)り合ひだ、拳固が飛ぶ、あれから君、七郎丸は鼻柱を衝かれて目を廻はし、鯖子丸は頬つぺたを喰ひつかれて泣き出す騒ぎさ、だけど君、あれが皆々相手に憾みがあつての争ひぢやないんだからね、癪に触つてゐるのは天の黒雲なんだが、もう我慢が出来なくなつて最も手近かに居る生物に向つて鬱憤の拳を振ふわけなんだから、馬鹿々々しい話さ。現に潮吹丸が沁々と述懐してゐたが、あゝした日にあゝした酒盛りを続けて、あんな風に酔つてくると、実際に、其処に集つてゐるドテラを着たり祝着マイハイの古を羽織つたりしてゐる連中が、人間に化けてゐる黒雲の子分のやうに見えて来るんだつてさ。一寸斯う雨を降らせてやつたゞけで彼等の弱り具合は何うだ、好いざまだ、その間に俺達はゆつくりと酒でも楽しまうぢやないか……そんな太平楽を並べながら悦に入つてゐる雲奴に見えて来る! といふんだから堪らない、そして自分ひとりがクヨクヨとした陰気な心を持つた人間であるかのやうな得体の知れないひがみが起つて来て、何かのハズミにカツ! と疳癪玉が破裂すると、この雲奴! がとばかりに逆上していきなり相手の胸倉に飛びついてしまふといふんだ、飛びかゝつて見ると案外手応へのある雲奴だ! そこで大格闘だ! ――皆な皆、夫々同じ人の心で悪雲退治のチヤムピオンになつてゐるんだから、必死のわけさ。潮吹丸は、もつと手短かな言葉で説明したが、――見方に依れば人間の顔なんて誰のでも種々様々に、雲奴の子分に似てゐるぢやないか! だつてさ――」


「僕は……」と樽野は、漁夫達の凄まじい黒雲騒動を思ひ出して胸を震はせた。まあ/\、あツ危い! 理由を聞かう、相方さうほうの理由を僕に聞かせて呉れ、そして喧嘩は僕に預けて呉れ――まさか理由がそんなわけではないと思つたから夢中になつて仲裁したのだが、決して誰も理由を云はない、任せようとはしない、口々に、うぬ! とか、悪魔! とか叫びながら相搏つのみで暫しは手のくだしようもなかつたのであるが、今始めて鴎丸に訳を聞いて見れば、無理もない……樽野は声を枯らし自分も遂には亜修羅になつて騒動の真ン中に飛び込んだのだが、結局悪魔払ひの邪魔をしたわけだつたのかと思ふとテレずには居られなかつた。そんなわけだつたのなら自分もあの時花々しい荒武者になつて此処ぞと云はんばかりの腕を奮つてやれば好かつたものを! といふ堪らない後悔の念が湧きあがつた。
 云はれて気づいて見れば、あの時、誰やらの猛りたつた声が、うぬも雲だ! うぬも雲奴の化物だ! とこの耳の傍らで叫ばれるや、ぽか/\とこの頭を殴つた勇士があつたが!
 などゝ樽野は思ひ出すと、むくむくと胸の血潮が高まり思はず空を見上げると、忽ちこの青空が真ツ黒に掻き曇つて、直ぐ目の先きに、嘗て St. Jeorge の楯に圧し潰ぶされた筈の“Burning Dragon”“Black King”“Giant Blanderon”などゝいふ巨大な怪物が再び勢ひを盛り返して押し寄せて来るのではないか……。
「おゝ、あんな入道雲が!」と思はず沖の空を指差した。
「今夜は屹度大漁だ、あれは君、マグロ雲といふ瑞雲だよ――」と云ひ終らないうちに鴎丸は、腰の法螺貝を取りあげて歓喜の合図を吹いた。すると、それに応じて彼方此方の船から相呼応する鬨の声があがつた。――それで樽野の一刹那の愚かな不吉な妄想も消え失せたから好かつたものの、一瞬前の逆上のぼせが続いたら、何んなかたちになつて現れたか知れないが兎も角樽野は平穏な己れの姿を再び此処に見出さなかつたらう。そして樽野は胸を撫でながら、
「僕はあと三日この天気が続いたら今度こそは吾家うちの酒樽を一杯に満して置かう。」
 と力を込めて云つた。
「君が雨の日を特に休むといふのは変だね。」
「僕の仕事だつてすなどりに違ひないよ。」と樽野は鸚鵡返しにうなつた。そして厳めしさうに口を歪め、不断の愚かし気な眉間に稍悲し気な立皺を寄せて、自分ながらさつぱり理由のわからぬことを続けた。「事実在つたこと、見たことで、別段それを空想の糸で釣りあげようとするわけでもないんだがな! 力なのだ。」
 鴎丸は聞かずに波の向方を指差した。
「御覧よ、あそこへ出て行くのは七郎丸と鱗丸だぜ、君に気づいて先程さつきから何かしきりに手を振つてゐたが君が上ばかり向いてゐる間に、もう声がとゞかぬ処へ出ちやつた。天気が好過ぎて、風が見つからないものであれだけ出たのに未だ帆もあげてゐやあしない。大汗だらう!」
 七郎丸と鱗丸は発動機を持たない手おしの漁舟である。乗り手の顔かたちは、とうに見定めがつかなかつたが八丁櫓と六丁櫓の夫々の漕ぎ手が此処を先途と腕をそろへ、息を合せて漕げや漕げ、曳哉えいや、曳! の奮迅の勢ひで突き進んで行く綺麗に黒い裸々はだか人形の歌声だけが微かに聞えてゐた。そして、合間々々にはつきりと伝はつて来る懸声が樽野に、ヤウ・ハウ・ヘツヴ・ハウ! と聞きとれた。樽野が酒に酔ふと必ず歌ふナンシー・リーなのである。何時の間にか彼等は覚えてしまつたと見える。――歌はおろか、普段でも言葉も怪しい白面の樽野は、自分の――と決めてゐる歌が、爽やかな海の上を爽やかに滑つて行くのを見て奇妙な快感に打たれた。本来は舟の中で働く者が働きながら歌ふべきナンシー・リーなのだが、呪はれたる樽野は自分の――バツカスを讚ゆる歌に決め通してゐた醜態が見事に裏切られる愉快と恥を覚えた。
「歌つてゐるようだね!」と樽野は顔をあからめて、ヘツヴ・ハウ! を指差した。そして半ば呟くやうに秘かに感心しながら、
「舟歌はやはり舟で歌はなければ――滑稽なものだな。」などと口走つた。いつも彼が歌ひ出すと並居る者が悪擽つたく堪らない顔をして顔を反向けるのが無理もなく思はれて、彼は胸を冷した。酔つて、酔つて、しどけなく胸をはだけて、場所もかまはず連呼する自分の夢のやうな顔が惨めに映つてならなかつた。此間も彼は、酔つて酔つて例の如く「不思議な歌ナンシイ・リー」を歌ひながら銀座通りのカフエーをおし歩いて伴れの者に恥を掻せた。紳士淑女の列席する芸術座談会にも出席した。始めのうちは諸種の議論を傾聴してゐたが、間もなく樽野はさつぱり解らない混沌の煙りに巻きこまれて悶絶してしまつたことがある。ここでは並居る綺羅星だつたから、混沌としても、漁屋での騒ぎのやうに黒雲のつかみ合ひは感じなかつたが、香りの高い煙草の煙りが濛々としてゐる中に眩んでゐると、やはり結局は同じに吹雪のやうな“Clouded swans”の羽ばたきに窒息しかかつたのである。
「その歌を聞かせて頂きに、妾屹度あなたの村に参りますわ。」樽野は斯ういふ声を耳にしたので不図眼を醒して見ると、隣席にゐた美しい女優が自分の背中を撫でてゐて呉れるのであつた。
「有りがたう!」と樽野は吃驚りして、その手を恭々しくおしのけたのである。「歌つた! これは失敗つた、こんなところで!」
「いいえ、大丈失よ、微に妾にだけ聞える程度の呟きでしたから……」
 一座はざわめきたつてゐたから隅の方で昏倒した樽野の存在などは彼女より他に誰にも知られなかつた。彼女の言葉に依ると、徹頭徹尾沈黙を守つて盃ばかりをあげてゐる隣席の男が、不図頭が見えなくなつたので振り向いて見ると上向けに倒れて何か口のうちでブツ/\云つてゐるので、まあ、この人はお酒が弱いのだらう、気の毒に! と思つて見守つてゐると、そのうちに彼は胸の先で虚空をつかんだりするのだ、癲癇かな! と思つた、そして人騒がせになつては悪いと思つて、それとなく介抱の眼を向けてゐると、彼の呟きは歌なのである、仲々面白さうな歌だと思つて彼女は耳を傾けたのである……。
「それ、何の歌なの?」と、そつと訊ねて見たが一向に応へがない。そして、これはおぢいさんが舟乗りだつたといふFといふアメリカの娘に習つたのだ! とか、Fに会ひたい! とか、妙なことばかりを口走つたといふのである。
 その人が近いうちに遊びに来るといふんだが、何うかして僕だけはその時姿をくらましてしまひたいよ――と樽野が云ふと、
「Sweet Chanty だな!」と鴎丸も、赤くなつて叫んだ。「君は、大変な芝居をしたわけだよ、歌で女を誘惑した者と思はれても仕方がないぜ、あれぢや!」
「…………」
 平素から樽野は、「女優」といふ名が一種の憧れだつた。そして彼女は、始めて樽野が口を利いた女優だつた。
「大胆な真似をしたわけだな!」と鴎丸は益々眼を丸くして舌を巻いた。「There's somebody waiting for me! あれを歌つたんだね。」
「止して呉れ……」樽野はゾーツとして手を振つた。
「ナンシー・リーをやれば好かつたのに。」
「それぢや気狂ひだ。」
「どつちにしても気狂ひ沙汰だね……」
「どうにかして呉れ、鴎丸! ――彼女はあの譜と歌詞とを訊ねに来るといふんだが、そんなら手紙でと思つて、二三行書いたら実に君、そのセンチメンタルな言葉に閉口して、僕は火になつたよ。大変なラブ・レタアになつてしまふよ。」
「これからもう東京へ行つたら一切酒を口にしないことにするんだね。」
「誓つた!」
 ――をかで歌へば、孰れも気狂ひ沙汰だが、真実舟で歌はれてゐるのを聞けば何と朗らかに調和好く響いてゐることだらう………樽野は悲しくそんな思ひに打たれながら、歌に伴れて益々スピードを速めて行く二つの小舟を羨ましく見守つてゐた。
“There's somebody waiting for me……
 鴎丸は樽野を厭がらせるために、声張りあげて歌つた。
「君なら巧いがな!」と樽野は吐息と一緒にうなつた。
「酔つぱらひの君が歌ふのを聞いて、何時の間にか僕もすつかり覚えてしまつたが――あれには何とか云ふプロロオグがついてゐたね、あれが出来ないんだが、今一寸教へてくれないか。」
「…………」
 あゝ、もう厭だ、俺は酒を止すのだ、そして絶体絶命の梟であることも暫く堪えてゐたならば、やがて、そのまゝ微かな歌も歌へるやうになるかも知れない、何かその身にふさはしい――斯うあきらめやうとすると、見る間に胸の中に重苦しい塊が頭をもたげて来て、再び窒息しさうになるのであつた。何んな酒でも関はない、飲んで/\双足乱跳の限りを尽さなければ、永久に晴れさうもない唖の情熱の始末が解らなかつた。樽野は、もう何も聞えなくなり、漕手は不断のゼンマイ仕掛のやうに小さく動いてゐる舟の人々の姿を、そしてその息づかひと歌声の余韻に酔つて、見詰めてゐた。もう何の理由もなくこの儘海の中へ飛び込んで滅茶苦茶に泳いで行きたいやうな、狂ほしく自暴染みた恍惚感に打たれた。
 そこに鴎丸の細君が、夜釣りの舟で働く夫を慰めるための酒壜をさげて来たのを見た樽野は、稍暫くジロジロと迂散な眼で壜を眺めてゐたが、やがて舟に飛びあがつて、
「一杯飲まう、鴎丸! どうかこの天気が今宵一夜だけは保つやうに祈らうぢやないか。」と息をはづませて詰め寄つた。
「それは有りがたう、好過ぎる天気は危いからね、折角沖に出揃つた時分に雨になられたら――とさつきから僕は内心酷く心配してゐたんだよ。連中の騒ぎが凄いだらうからな。……プロウジツト! プロウジツト! そして、あのプロロウグを教へて貰はう。」
「序詞は口にせずと、めいめいの歌ひ手の胸に秘めたまま、――といふ例の断り書を守るとしようよ。」
 樽野は酔つても歌へさうもなかつた。Fに習つた頃は、酔を知らないでも快い感傷と一緒に口吟くちずさめた年頃だつたが――、屡々二人してここの海辺に運動に出かけて渚にたゞずみながら……。
「さうだ、君だつて一緒になつて習つたのぢやなかつたのかね。」
「おお! “The Sweet Chanty”と彼女は砂の上に走り書いたね。」
 樽野は酒のコツプを一息に飲み干して、
「波に消されぬ間に、そのプロロオグを書き終れば幸ひが来る! といふ迷信があると信じて、切りに彼女は書いたね。」
「訳して、意味を想ふと、滑稽で堪らないが、原文で口走ればわけがわからなくつて……」
「君のバスは立派だからな。東京のあの客が来た時には君に頼まう……」
 この夢深き舟歌を吾等の友へ捧げる、夕べとなれば歌ひたまへ、沖に漁火をたく吾等の友よ、教会堂の天気※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が指し示してゐるあらゆる静かな夜の海で、この一ト時皆な皆な声をそろえて吾等の胸を歌つてゐる多くの友のあることを思ひ出して――そんな意味を想ふと樽野も堪らなく滑稽だつたが、Fや鴎丸の声なら聞ける! と思つた。それが序詞なのだが、この床の下は千尋の海だよ、いつもいつもお前を忘れない俺の想ひの深さに似てゐるよ――それは恋の形容ではないのだが、次々にそんな意味の言葉が出て来るのでは、何うしても樽野は手紙などには書けなかつた。
「君はそのスターに尊敬を感じてゐるの?」
「うむ。」と樽野は点頭いた。「女優といふ名前に対して――……」
「よし、ぢやその時は僕がその大役を引きうけよう。」
「場所はN村の家だ。日が解つてゐないので何時来られても好いやうに毎朝テーブルを飾り代へさせてゐるんだよ、妻は嘗てない楽しみだと云つて切りに喜んでゐるし、またそのことを、あの他人ひとの云ふことは何でも双手をあげて賛成する村長に話したら村の栄えのために村の客として迎えよう、はたをつくり、野楽隊バンドを繰り出し、花火を挙げて迎えよう、蜜柑山公園の広場で一大歓迎会を開かう……」
「賛成だ、樽野! 僕だつて!」
「然しそんなお祭り騒ぎは、女優の名を持つて来るのではないレデイにとつては迷惑なことだらうと僕が云つたら、翌日村長の名前で、テーブル飾りといふほどの意味で! といふ断り書をつけた素晴しい花束と、紋章のついた古風な腰掛を貸して寄越したぜ。」
「腰掛は怪しいぞ、そいつは使はない方が好いかも知れないよ、何でもあの村長は谷崎潤一郎のあらゆる小説集を秘かに貯えてゐるといふ噂だから、その腰掛には何んな想ひが潜んでゐるか知れたものぢやない。」
「花束が一晩で萎れてしまふので、そいつを毎日とり換えるんだが、到頭花屋の親爺が僕を信用しなくなつてしまつてね、月末払ひといふ話に決めて一時切りあげ……」と云ひながら樽野は懐中ふところから酷く古ぼけた“All Kinds of Dinner table Decoration”などといふ大型の本を取り出して花美な食卓写真の頁を手早く繰つて“Three days in Autumn field”といふ項を開いて、
「これにした。」と云つた。
「つまり普段と同じわけか?」
「腰掛がある以外にはね――。だけど、飾りつけは毎日怠らないぜ、大体こんな風なテーブルにならつてね。草花は、野菊、女郎花、秋桜コスモス……」
「裏の山から採集して来るのか……」
「それは妻とギタアを弾く青年の係りだ。」
「野菜、果物も斯んなに沢山盛つてあるの。」
「最も新鮮なやつを――。それは主に弟と水泳選手の係りだが……」と樽野は声を潜めた。「彼等は夜々よなよなリユツク・サツクを携えて彼方此方の野畑を駆け廻ぐつて、手当り次第にカツ払ツ……」
「叱ツ!」と鴎丸はあたりを見廻した。「大変な苦労だね。」
「彼等が朝起き出来ないのは、そんな夜の仕事のためだ。たゞ苦労なのは、雨の晩の翌日来られると、全くの空の Autumn-table で、全く心ばかりの歓迎をしなければならなくなるだらう――ことゝ、そして……」
「さうだ、雨の翌日ぢや僕の方も完全な空拳だし……ね!」
「あの厭に大げさな円卓子まるテーブルなのだが――彼処にゐたことのあるFの一家が忘れて行つたまゝのものだが――敬意に対してあの円卓子では台なしぢやなからうか、これは村長にも謀つたのだが珍らしいことに彼は僕の主張する Square-cornered; decoration in white. は不賛成で、えゝわ/\、何よりもまあお客様にくつろいで貰はんにやならん、出来るだけ遊山的気分を抱いて貰はんにやならん、円卓子ラウンド・テーブル! 至極結構、それでこそ一夜を楽しく打ち融けられるといふものぢや――だつてさ。」
「酒は一切卓子テーブルでは止めた方が好いかも知れないね、円卓子まるテーブルの縁であの村長に酔はれたら困るからね。」
「僕が飾りつけたスターの写真を毎日一度づゝ見に来る村長だからね。」
「考へた! テーブル・スピーチのうちに斯う云ふ言葉を入れて村長をたしなめてやらう――今宵此処に集りました私達はキング・アーサーの勇敢なる将士でございます、アーサーの御名みなに依つて聖らかなる盃を索めるべく呼び出されたラウンド・テーブルの勇士でございます。」
 鴎丸は酔つて来たのか知ら、相談は打ち切らうかと思ひながら樽野は、一寸渋い顔を示して、
「それも君に頼まう、ああ僕は何だか凝つとしてゐられなくなつた、僕だけは姿をくらまさうかな、その時は――」と呟いた。
「吾々の方の浜の連中も誘はうね。」と鴎丸は独りで亢奮した。「食卓の上が貧しいであらうことの代りとして、庭先に烽火のろしをあげて、吾等の豊漁踊りを御覧に入れ、遠来の女王様の御気嫌を窺はうか?」
「あゝ、僕は頭痛がして来た。」
「一途に歓迎のことを思ひ過ぎたからだらう!」
「囃子と炬火たいまつだけ位ひなら好からうが、豊漁踊りは困るだらう。」
 樽野は別のことを考へて頭をかかえた。
 悦びのあまりに身につけてゐるものを次々に投げ棄てゝ、終ひには、赤、青、虎など色とりどりの褌ひとつになつて無茶苦茶に踊り狂ふのを豊漁踊りと称んでゐたが、踊りとも云へぬただの騒ぎなのである。手も法も呼吸も何もないのである、男でさへあれば誰だつて即座に仲間入りしても平気な踊りである、何故なら踊り手は、たゞ無闇矢たらに、全くの自由動作で、拳固を振り回したり、テレ臭さうに突き飛し合ひ、果は※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)り合ひ、蹴り飛し合つたり、さうかと思へば酔つ払ひのやうにぐでんぐでんと滑稽な足どりでよろめく者もあれば、水を飲みに外れる者もあり、足疲くたびれて転げる者、迎へに来た女房と大声で話をとり交してゐる者もあり、そしてまた鬨の声をあげてワーワーと騒ぐだけのことなのだから、褌の色彩さへなかつたならば全然まるでたゞのつかみ合ひなのだもの! だから何時かの座談会でも地方の民謡、舞踊に就いては長時間に渡つて研究者の発表やら批判やらがあつたが、この豊漁踊りだけはの研究者のノートにも洩れてゐたし、樽野としても紹介するわけにも行かなかつたのである。見せるためのものでもなければ、見物人の集るわけのものでもなかつたから此処でさへ町の人々はそんな踊りの存在も知らないのである。樽野は鴎丸の漁屋の近くで或晩偶然に見たのであるが、警官が駆けつけた程の物凄い騒ぎだつた。
 然し、妙なのは囃子方なのである。そんな騒ぎは何処吹く風と云はんばかりに落着き払つて、大変悠長な笛、太鼓を蔭の方で極く静かに伴奏してゐるのだ。そつちはそつちで別に笛の稽古でもしてゐるのかと思つて不図覗いて見て樽野は驚いた。調べは左様そんなに悠長で居眠りながらでも奏でてゐるかのやうに響いてゐたに関はらず、其処に並んでゐる一列の囃子方は凝然と端座して眼ばたきもしない神経質の眼で、騒ぎを窺ひながら、渾身の力を内に潜めた上句飽くまでも注意深く、小川のせせらぎにも似た笛、太鼓、法螺、鐘などを鳴らしてゐるのであつた。その場その場で自然の呼吸を合せる一種の即興楽ともいふべき類ひの演奏法で、楽手は皆々遠慮深く息を殺して、合間を保つたり、何か彼等の頭に一勢に呼応する光に射られたかのやうに相携えて、滝の落ちるが如き合奏を続けたりするのであつた。彼等は神の命に依つて楽を奏でてゐる姿で、息さへ凝り固つてゐるかのやうだつた。振りあげた撥を打ち降すまでにはいつも一分間位ひは頭の上に構えて稍半空を視詰めたまま身動きもしない太鼓打ちがゐた。笛吹きの額から流れる汗は、己が笛の音に咽んで流した涙のやうに見えた。五分間の間に一度出番のあるかなしの法螺貝係りでさへ、楽器を口にした吹奏の姿勢のままで立尽くゐた。……暫く眼をつむつて考へてゐると、いつか徐ろに、それが、あんな騒ぎと、そんな囃子とに、恰も、火と水、無限大と無限小とがひに合して虚無の大調和ともなるべき茫漠たる彼方から次第に、近く遠く去来してゐる程の想ひを抱かせられる玄妙不思議な合致が感じられて来るのであつた。その上、松原の向方から響いて来る波の音がにも堂々たる円舞楽になつて彼等を覆つてゐる! と樽野は思つたが、果せる哉楽手達は、踊り手の騒ぎと波の響きとの中間で、それぞれの音響を飽和させるのが主意なのださうだつた。
「何もも一切僕が引きうけた。――君は今日は休んだ方が好いだらう、疲れてゐる様子だから――」頭を抱えてしまつた樽野を見て鴎丸は切りに点頭いてゐた。樽野は、不図あの囃子方を思ひ出すと、波の響きと自分達の会話の合間々々に、何だかあの不思議なお囃子の音が聞えるやうな耳の空鳴りを感じてならなかつた。
 鴎丸は胴の間に立ちあがつて、唱歌の練習にとりかかつた。“The Sweet Chanty”の一節で最も豊かなゆるやかな声量を要する個所で、彼は歌詞は使はず喉だけで声を験べてゐたが――「ラア・ラー・ラア・ラー……Rolling Rolling……my heartful sky……wearing my solitary heart upon thy sleeve……Bounding Bounding Boundary……ラア・ラー・ラア・ラ……」
 きれぎれに樽野も胸のうちに合唱した。
「ぢや頼んだよ、鴎丸!」と樽野は、思はず鼻にかかつた声で云ひ残すと一緒に、後をも振り向かず一散に波打ちぎわを駆け出した。


「お父さん、あなたは御用事があつて此方にいらしつてゐなさるんぢやありませんか、そんなに毎日毎日朝から晩までお酒ばかり召しあがつていらしても関はないんですか、第一相手が私ぢや仕方がないでせうに……」
 樽野は此頃若し酒に酔つても慎しみ深い結構な習慣を持つやうになつてゐたが、この舅が相手だと慎しみ深さを超えて稍ともすれば憂鬱になつて来るのであつた。そして容易に盃に手が出ないのであつた。自ら励まし、自ら叱咤して盃を執らうとするのであるが、叱咤に価する小心があるわけでもなしに絶対に感興が伴はない悲しみだつた。
「電報が来てゐるだよ、二三日うちに来る連中を待たなければならないんだよ、何のおせつかい奴が!」真実怒るのか、酔つての冗談なのか解らない高い調子で舅は、拳をつくつて相手を殴る真似をしながら、
「はツこくるぞや!」といふのが口癖なのである。はツこくる! といふのは、殴るぞ! といふ意味にちかいらしかつた。
「はツこくられちや堪らない!」と樽野は悲しさうにうなつた。――連中といふのは都から出張して来る事業仲間の総称なのだが、二三日はおろか決して姿を現したことはなかつた。そして舅は、何時でも、二三日のうちには――を繰り返しながら酒飲みの日を続けて、やがて鳥のやうに去つてしまふのが常だつた、宿には散歩に行つて来ると云ひ残したまゝで――。
「この天気が続いてゐる間を見て、現状視察に行つて来なければならないんだが、A君の奴せはしいと見えるな?」
 樽野の念願は、舅の友達が来さへすればこの酒の相手から逃れられるといふ一事より他になかつた。……連中の名は、舅がB君! だとか、Cだとか(必ず君か、呼び棄て)と口にすると樽野の亡父などは、思はず眼を丸くして、単にそれを友達であるといふ一時だけで驚きの盃をあげる程の彼等にとつては有名で尊敬に価する人達ばかりだつた。関心を持つ筈もなかつたが樽野は、たゞ、代議士だとか、男爵だとか、汽船の持主だとか、百万長者だとか、そんな代名詞だけで驚いたり点頭いたりしてゐる彼等が解らなかつた。七郎丸などといふ名前の方が何んなに深い滋味と、敬愛を覚えさせられるか計り知れなかつた。
「なるほど、晴天でなければ視察には行かれませんね。」と樽野は、晴天! といふだけの言葉にいくらかの力を感じて、同意した。こゝにも一人、小春日和の快晴を祈つてゐる人があつたのか! と樽野は思つた。――視察といふのはN村の浜つづきであるY村の海岸のことだつた。もう何年来となく舅達の話材の中心なので樽野も朧気に概要を知らされたのだが、Y村の海岸一帯を埋め立てゝ鉄道を敷設し、港となし、温泉町を建てるといふ計劃なのだつた。
 舅は根のないことを云ふのではなかつた。自ら架空の計劃をたてて愚友を欺すといふほどの奸智はなかつた、頭頂部が台のやうに平らで、頤にかけて三角的につぼんでゐる栗のやうな顔がそれを証明してゐた。何時も多くの事業の計劃をもたらしたが、それには真実何処かの会議室で舅の友達であるといふ市会議員や、工学博士や、汽船の持主などが相集つて大事業の計劃をたててゐる、そこでの計劃を、親し気な者にのみ秘かに吹聴に来る弁舌のみの宣伝係りだつた。また、計劃を聴いて、膝を乗り出して打ち驚き、恍惚の微笑を湛えながら切に仲間入りを乞ふ者を友とするべく探し廻つてゐる係りだつた。然しこの係りは、出態の上収入を等分するといふ紳士的な条約の下に仲間に入つてゐるのだつたから自分のみが出先で酒食に耽るのみで、家族は二十年来常に空腹の抱え続きで、幼児のある一家が離散したわけだつた。
 舅は、樽野が自由結婚をした後に樽野が実父に紹介したのであるが、最初の会合で、酔へば実父の口癖である船の話が出ると、
「おゝ、船と云へば今斯んな素晴しい売物がある。」と、舅も、口癖の、売物がある! を初めたのである。何でもその時の船が実父に買へる程度の値段なのだつた。何よりも好きなのだが自分の持物に仕様といふ想ひは抱いた事のない実父は、訊いて見ると案外新しい蒸汽船で、今にも買へさうなので忽ち有頂天に話がはづみ、尊敬を持ち合つた友達になつた。
「僕はアメリカに居た時分何かのことで破れかぶれになつてまちを飛び出すと、学校友達の親父が持つてゐた捕鯨船に乗り込んだものだ、獲るんなら鯨でなくては面白くないといふ考へ……」云ひかけて父は、何か思案した。質の彼此かれこれに関はらず何事でも茫大なことが彼の趣味であつた。話の途中であまり何時までも黙つてゐたので、その時の光景を樽野は今も憶えてゐるのだが、彼が斯んな感傷気なことを続けようとは凡そ思ひも寄らなかつた。「……ナンシー・リーを歌ひながら大鯨を追つかける夢は今でも見る。」などと六ヶ敷い顔で呟いたのである。
「その船は明日にでも買へるのさ、ほんの少しの手附金を先に渡すだけで……」
「僕は日頃から陸の家が嫌ひでならなかつた、何とかして老ひ先きは……」夢想家とは云ふものの実現の出来ない夢は決して抱くことのない、失敗した後に結局夢想家であつたことに気づいて秘かに顔を赤らめる父であつたから余程の自信がないと先のことを云はない質だつたが、斯んなことを呟いてゐた。「一番そいつを住家と仕様かな、ヘンリー一世とでも名をつけて――。うむ、買はう買はう、在るだけの金で……」
「住家は道楽気だね……いえ、まあ、船が働くから好いとしても……」
「いいえ、決して――」と彼は眼を瞑つて首を振りながら、説明を省いた。そして、運送船を持つてゐることが何んなに莫大な利益があるか! といふ舅の説明を、何となく上の空で聞いてゐた。
 その後、その船の話は何うなつたか樽野は知らなかつたが、若しその時父の思ひ通りに事が運んでゐたら現在の樽野は運送船へンリー一世の一室を住家としてゐるだらう、建てることは若し出来ても興味がないし、借家では忽ち追ひたてられるだらうし、残された限りの屋根の下に籠居するであらう樽野であつたから――船は好きだが実際に乗ると五浬に達しないうちに七転八倒の苦しみをする樽野であつたが、止むなければそれをも堪えて――樽野こそは実現出来ない夢にばかり積極的で、居所については無関心であつたから――そして目に見ゆる苦痛や不便には間もなく慣れて、満足することの徳を持つてゐたから――生活上には殆ど好みといふものを持合さなかつたから――だから、若し船を享け継いだとしても、それをへンリー二世と書き換へることもしなかつたであらう。(ヘンリーといふのは彼の父が、生涯親しみを取り交し続けた幾人かの男女の忠実な友がゐる異国での呼び名である。ヘンリーと彼を呼んだ友だけが彼の不断の友となつたわけである、あのやうにタルノと称ばれたいために多くの友を求めたのであつたが――)
 Y村海岸埋立遊園地建設事業を同じ舅の手でもたらせた頃の晩年の実父は、何か堪らなくあせり抜いてゐるといふ風だつた。様々な相談会ばかりの費用で大方の産を傾け尽してゐた彼だつたが、今度は相談会を受持つだけの他には苦しい出資の要がなくて、成功のあかつきには名誉ある首脳者になれるといふ上吉の話で有頂天になつた。あんなかたちの、そんな話にあんな風に没頭するであらう父の姿は、何時も持ち過ぎてゐる熱情を何んな風なかたちで現すであらうかといふ、晩年の父の種々な姿を常々想像した樽野であるが、全く意外だつた。何故なら此は事毎に凡そ父の反趣味であるべき筈のスタイルスチクな響きで「名誉」「社会的な――」「人望が集る」「名を遺す――」「子々孫々までの繁栄」などといふ言葉が、白面の往行を極めてゐたから――。
「お父さん!」と舅は樽野の父を称ぶのであつた。弁舌を務めにしてゐる舅であるが、彼には往々さうしたことにたづさはつてゐる者に見うけられる如き下品な遠慮深さとか、円滑な阿諛などの様子はなく、事実でも物質に関しては妙に淡白で、秘かな私利を貪らうといふ風な心はなかつた。だから何時も一家の者が糊口に迫つて清貧には違ひなかつたが、淡白過ぎての代りにあまりに小さな刹那享楽派であり過ぎて――と云ひ換へても差支へないのである。樽野は屡々(それは主に彼の家族を考へた時に)彼に、前述の如く、非人情性とか、醜い漁色癖とか! などといふ形容詞を冠せて義憤を抱いたが、それは樽野のほんの少々ばかり持つてゐる平凡な正義感情の場合だけで、確かに何かのためには(斯う力を籠めて考へるのが樽野の可笑しな癖だ。)真に凡人離れをした忠実性を持つてゐる彼の姿を勇敢なものとは思つてゐた。
「お父さんよ、なあ、お父さんよ。」と彼は、いくら酒を飲んでも決して歩調を違へることのない好気嫌に自ら恍惚としてゐるかのやうな、手振り厳めしく云ふのであつた。「この方が出来あがれば遊園地通りにはタルノ街といふ名前をつけて……つまり旅順に乃木町あり、奉天に大山街ありと云つたやうな具合で……」と真実、鳥瞰図の一個所にはそんな誌がついてゐた。
 理由がない! と樽野は蔭で思つたが、何故か実父は訊さうともしないばかりか、すつかりタルノ街に逆上して、ほんたうにその頃は屡々訪れて来た事業の発案者達である政府を出資者にすべく事を運んでゐるといふ元代議士とか、市会議員とか、半額の出資者で千万長者と称ばれる人物やらを全力を挙げたお祭り騒ぎでもてなすのである。樽野は隅の方で稀に見るのであつたが、実父も舅も彼等と同じ位置、気位ひで同じやうに反り身になつて美妓に煽がれながら、口にする金額は悉く万円、千万円といふ巨額を棒片のやうに振り回しながら諸々の手配りに余念がなかつた。そのうちに「あちらへ」と女が耳打ちをすると千万長者も元代議士も次々に、居残る者に冗談などを云ひながら姿を消して、其処には饒舌のあまり酔ひ過ぎた舅と無口のあまり酔ひ過ぎて吻ツと饒舌に変つた実父が残るのであつた。館は何時も程近い湯村といふ処の往々遊蕩的小説などに使はれることのある温泉宿で樽野は用もないのに別室に控えさせられてゐるのが沁々厭で、父が此処で勉強しろ! などとすすめたりしても、少しも落着かなかつた。反つて飛んでもない淫らな妄想が浮んだり、金銭のつまらぬ効用が露目あらめに見えたりして閉口した。相談事は不得手で意見がなく、会議の場合は主に腕組をして反つてゐるだけの実父であつたから、タルノ街に理由があるとすれば、その反り方が仲間の者に落着きを与へて名案を生み出す源になつた――か、お祭り騒ぎの費用万端を享け持つたとかといふ廉に依つたより外は無い筈だ。
 その時には貴殿を貴族院議員として吾々が推挙するわけになつてゐる、貴殿の趣味には勿論合ふまいが名誉の手前として今からその心組は持つてゐて貰ひたい。その場合になつて厭と云はれては困るから、ウチの社長はこの国家的事業に対しては当然爵位が授るであらうといふ場合なのだから――といふ意味のことを伝へたと云つて実父は(斯んな風に簡単に述べると、そしてそれが実現しない――樽野の亡父を除いた仲間にとつては未だ過去のことではない、大地震の為に頓座を来して稍模様は変つてゐるものの! と舅は云つてゐる――今から思ふと、実父ばかりが単に愚かな滑稽人物に写つて困るが、少くともその頃は仲間達がさういふ類ひのことを口にしても、埒外の者でさへそれを無稽な話と思ふ者はない生々した雰囲気だつた、直ぐに理由を訊きたがる樽野にとつても――)吾家に戻ると一同を呼び集めて酒盃をとらせて、趣味に反するであらうとはさすがに行きとどいた友達の言葉だが、今はもう自己云々の時ではないといふやうなことを述べると、不図、背を伸して独白めいた太い調子で、思はず
「貴族院議員――か!」と、唸ると、盃を宙につまみあげた儘の手の先を震はせながら、いつまでもあらぬ方へ眼を据えてゐたことがある。そして誰やらが、それは彼の片方の手が巻煙草を逆さにして切りに火を突いてゐるのを見て計らずもフツと噴き出したのを、感違ひして非常に立腹して、冗談ぢやねえんだぞう! と青くなつて叫ぶや、矢庭に庭石を目がけて発止と徳利を投げつけたことがある。
 また或日舅が、斯んなことを父に伝へてゐるのを樽野は聞いたこともあつた。「ここの角には――」と、いつもの鳥瞰図を指差した。「銅像を建てるといふことになつてゐるんだつて! それはまあ本来ならば社長のといふわけなんだが、社長の意見では、樽野君は土地の者ではあるし、タルノ街は出来るんだし、銅像は樽野君が好からう、斯んなことは当人に謀る類ひのものではない、いざといふ時になつて上座に据えてしまへば済むことだから当人には知らせる程のこともないだらう! と此間東京で皆な集つた時に一決したわけなんだが、吾々の考へだと名誉の銅像を先に設計するのは変とも思はれるが、それあ君こそ知つてゐるでせう、近代的な街を建てる場合にはそれは装飾としても是非必要なさうだね、だから仲間の像でなくつて全然洋風な物でも好いわけだが、そこを考へたのが社長さ! 一挙両得だ、それは一層樽野君に仕様! 斯んなお饒舌は何うでも好いわけなんだが、お父さん! もう一切が出来上つたと同じわけといふ例なのさ、つまり用意は微に入り細に渡つて余すところは無くなつた! といふわけ、何んなもんです!」と亢奮の金切声をあげて舅は卓子をドンと叩いた。樽野は、親父は何んな顔をしてゐるかしらと思つて遠くから振り返つて見ると、酔はなければ気嫌の好悪に関はらず一律一体の仏頂気な顔で無口で、その癖お調子者で直ぐにふわふわと飛びあがるといふ理由で昔からダルマ凧といふ仇名が、村では有名なのだが、今は酔つてゐる筈なのに感情の解らない例の仏頂面で、寧ろ鮹入道と云つた方が適当の赤い禿頭で、稍唇を筒型にして、眼ばたきを消し、もう銅像になつたかのやうに身動きもしないで居るのだ、人を馬鹿にしてゐる! とでも思ひ違へて真実不気嫌にでもなつたのかな? と樽野が案じてゐると、それこそ樽野の思ひ違ひで、いくらか心臓の弱かつた彼は仰天の鼓動の静まるのを待つてゐたのである。そして徐ろに開き直つて、
「然し、それはまあ一応御遠慮しなければなりますまいね、貴君あなたの前だからなんだが、何んなものでせうな?」と言葉まで常とは改まつて問ひ返した。勿論己れは有無はないのである。
「何やら何やら!」と舅は、一段と持前の金切声と相手が不安を示せば悉く無造作に引きうけて笑つてしまふ得意の胸を開いて、性急に手を振つた。「銅像位ひ君、会社の手でつくれば殆んど無代ただ見たいなもので……」
「いいえ、私はそれを遠慮したわけぢやないんです。まさか――」
「おお、さうともさうとも、それア冗談だが――」と舅はつい話を間違へたことを嗤つた。「どうも普段まるつきり話つけないことなので、うつかり会社を持ち出したりしてしまふが。」
「それはお互ひだがね。」などと父は享け応へてはゐるものの、魂は遥かの永遠の名誉の空に飛び去つてゐる者のやうな洞ろな眼で、ぼんやり相手の顔を眺めてゐた。唇だけに何か不自然な力が籠つてゐるらしく武張られて、それで凡そ厳かな影のない、風があれば今にも浮び上りさうな本当のダルマ凧だつた。
「この角に建つわけさ、貴君がね、考へるまでもなく僕だつて無上の愉快だよ。」
「なるほどね、樹なども描いてある、一寸したスクエヤかな! 銅像か! ……さうか、これは寧ろ君に譲るべきぢやないかな、この事業は君が最初にこの土地に紹介したわけなんだから君こそ此処にとつては最高の名誉を持つてゐるわけだ。」
「それは困る、それぢや僕は社長に対して……」と舅は無気になつて反対した。そして色艶も形も栗のやうな顔を激しく横に振り続けた。
「僕が建つんなら、僕が君を銅像にして好いわけだよ。」
「それは断然、不思議な話だ。僕は、それ、土地に対して……」
「いや、この先、縁は深いさ――考へて見ると僕は、銅像になるだけはこの際御免を蒙りたいな、第一柄ぢやない。」と彼は気づいた。
「この際だから立つべきぢやないか。」
「君に譲らう、君こそ立つていいわけだよ。」
 議員の立候補の譲り合ひでもしてゐるかのやうに、彼等は何時までも、立つの、立たぬの、と互ひの銅像をおし合ひながら夜を更してゐたことがある。
 実父が亡くなつてから訪れて来る舅は何時も村はづれの海辺にある半下宿風の家を宿にしたが、娘達には会はうとはせず樽野一人を呼び込むのであつた。
「若し連中が遅れるやうだつたら俺は明日にでも先に一応Y村へ行つて来ようと思ふんだが。」と彼は樽野に里程などを訊ねるのであつた。何年来それに心命を擲つて没頭してゐながら未だにY村を見たこともないのか! と樽野は思つた。
「五六里はあるでせう。以前幾度も吾家の親父達といらしつたぢやありませんか。」
 樽野は彼等があの頃専用の自動車で往復してゐたのを思ひ出した。
「ぢや歩いて行けるな。俺は十里までは平気だ。」
「いいえ、自動車位僕が頼みますよ、時々払へば好いことになつてゐるんですから……」
 樽野の袂にはN村行の汽車賃があるだけなのだつた。
「歩かないと体の為に悪いのだ、此方に来るのでも俺は時々わざと汽車を途中で降りることもある程さ! カツカツカ……おい、一寸煙草をお前外から買つて来て呉れ。」
 切りにベルをおしても容易に女中が現れないので舅は樽野に命じた。
「はい!」
 樽野は点頭いて立ち上つた。女中が現れると舅は冗談の埒を遥かに超えた猛烈な勢ひで飛びかかつて擽つたりするので嫌はれてゐるばかしでなく、あらゆる点で宿に滞在し続ける資格が極度に欠けてゐるのだ。
 そのうちに酔ひつぶれて畳に頭を転がしてしまつた浅間しい舅の姿を眺めると樽野の胸は、悲しみで一杯になつた。誰も世話の仕手がない彼の身装みなりは幾星霜もの汗と埃を浴びたままで、よれよれだつた。
 あの花々しい時分から彼だけはそんな身装で横行しつづけてゐるのであつた。彼は何んな親しい友達にでも事業の話で乾杯する以外のことは洩さなかつた。舅の家庭が十年来何んな状態であるかといふことは親しく目にした樽野より他の者は知らないのである。だから友達はただ彼は身装などは関はない恬淡な質なのだらう位ひにしか思つてゐなかつた。
 彼が、娘を売り飛して、小梅辺の酌婦を根引き仕様とたくらんでゐるといふ話を樽野は聞いて、それだけのことで此間からむしやくしやして、クツワ虫になつて攻め寄せてやらうと思つてゐるのだが、会へば、そんな怖ろしい肚を持つてゐる人とは何うしても思へなくなつてしまふのであつた。また近いうちに詐欺横領罪の廉で拘引されるのだ、それを逃げ廻つてゐるのだ! といふ話もあつたが、当人は相変らずY村海岸埋立のこと以外は口にしなかつたから、そんな噂をまさか樽野は信じもしなかつた。酌婦のことだけが樽野の義憤を晴さないのであるが、斯うして沁々と眺めて見ると、此の二三年で皺の波がめつきりと深まり、酒も弱くなつて、すやすやと大の字になつて眠つてゐるではないか、何んな夢を見てゐるか、まさか娘を売り飛す程の夢は見てゐまい! と思へて来るのであつた。そんな義憤は、いざ娘を奪ひに来た時に晴せば間に合ふのだ! と思ひ直すと、もう樽野には何の蟠りもなかつた。
 樽野が強い剣幕で女中を呼び寄せ、舅に枕などをかはうとすると、
「樽野! 樽野!」と彼は再び起きあがつて叫んだ。あたりに響き渡る景気の好い持前の金切声で叫んだ。「貴様は株を持つてゐるんだぞ、俺は持つてゐないが貴様は持つてゐるんだぞ。」
 示された埋立会社の組織表を見るとS・タルノは監査役といふ肩書を持ち、数百株の持主だつた。
 おツ! と樽野は思はず眼を丸くして、即座に云つた。「これは売れるでせう、お父さん、どうぞ、これを売つて下さい。」
「売つてはつまらんから、これを抵当物にして誰かお前の知人から金を借りては何うかと俺は、それを心配してゐるんだ。」
 樽野の頭に浮んだのは鴎丸なのだが、鴎丸なら天気さへ続けばそんなものを持つて行かないだつて、向方からやつて来る。
「有りがたう、お父さん、天気さへ続けば好いんですが、それはお父さんの手でお願ひ出来ないでせうか?」
「よしツ!」と彼は軽やかに引きうけた。その様子に樽野は強い信頼と感謝を持つた。「二三日待て、研究して見るから――おゝ、大丈夫だ、飲め飲め、おツと空ぢやないか、馬鹿、早く階下へ行つて云ひつけて来いツ!」
「はツ!」と樽野は兵隊のやうな返事をして立ち上つた。彼は何時も舅の警官のやうな口調の音声そのものに悸されるのだが、今は、おお、俺はそんな多額の株などを持つてゐたのか! と思ふと胸の中に時ならぬ華やかな渦が巻き起り、怕い声も反つて頼もしく、感謝の念に満ち溢れて、今度若し銅像の話が出たら亡父の遺志に基いて極力舅を推挙しよう、監査役の名をもつて! と決心しながら、帳場に現れると、
「お父さんが怒つてゐるんだよ、失礼しちや困るぢやないか、いくら身装が悪いといつたつて此処とだつてもう永いなぢみの人ぢやないかね、もう少し気をつけて呉れ拾へよ。」と番頭に向つてこんこんと不満を述べた。


 N村の樽野と町の妻とが電話で話してゐた。
「今日のテーブル、好いでせう。」
「なる程ゆふべは月のない晴夜だつたからね。」
「今夜あたりあのお客様がいらして下さると好いわね。日野さんも今夜お魚を持つて行くと云つてゐるから、あたしも一緒に行くかも知れないけれどね。……」
「……あゝ、お出でよ。」
「急な話が出来たのよ。その一つはね、妹がね、ギターさんを嫌つて、弁ちやんを煽てゝ何処かへ行つてしまつたのよ。」
「弁ちやんとは、泳ぎの選手か?」
「アラ、今電報が来たわ。」
「読んで御覧! おお、それはあのスターだ。」
「アスユキマス。」
「…………」
「話を先にするわ。あのね、お父さんがね、二三日前何時もの通り散歩に行くと云つて宿屋を出て……それは仕方がないけれど、番頭さんが今日来てね――」
「…………」
「何とかいふダルマ茶屋で喰ひ逃げをして、皆目行衛不明なんだつて!」
「…………」
「母さんと父さんが何うして結婚したかといふとね、母さんの一家が湯治へ行つてゐた時隣りの部屋で飲み逃げをした男がつかまつて酷い目に遇はされてゐるのが余り可愛相になつたので母さんが救けたら……」
「また訊かう、それは……」
 隣室の円卓子ではその朝Y村行きの途中だと云つて立ち寄つた舅が酒を飲んでゐるので樽野は立場に困つた。妻は亢奮して、突然そんな昔噺をはぢめようとした。
「たつた十円ぽつちなのよ、でもあたし達今はそれもないし……でもあなた心配しないでも好いわよ、さういふことにはそんな昔から慣れてゐる父さんなんだから、平気で、何処かへお金の工面にでも行つてゐるんでせう。」
「夜、来るか?」
「ええ、鴎丸さん達と一緒に! お父さんのことなんて何うでも好いわ、たゞ若し其処へでも行つてやしないかと思つて、そして若しあなたと一緒に飲みはぢめられては困ると思つて! 妹が行つたらつかまへておいて下さいね、それだけ! 明日が楽しみだわ。」
 その電話がきれると樽野は直ぐに鴎丸を呼び出した。
「いよ/\来るね。」と鴎丸は云つた。「……、……、……、……」
「何だか馬鹿に騒々しくて電話が好く聞えないんだが……」
「さつきから降り出したので、また連中が集つてゐるんだが、明日の話をしたら皆なすつかり嬉しくなつてゐるんだよ。でなかつたら今日あたりは例の騒動でも起りかねないところだつたんだが。……、……、……」
 まるで騒動が始まつてでもゐるかのやうに騒々しくてつぶさには聞きとれなかつたが樽野は、
「二三分の間その儘にしておいて呉れ、遥かに連中の囃子を窺ふんだから――」
 と云つて、具合の悪いラヂオのやうな雑音が響いてゐる受話機を耳におしあてたまま、未だ電話をかけ続けてゐる振りをしながら、妻と舅の言葉を吟味した。結局舅に肩を持つことも出来たから、そこを離れると何喰はぬ顔をして立戻り、秋草で飾りたててある円卓子に舅と向き合つて一刻前の話を続けた。
「すると、まあ大体あの株券の方ではお金が出来るといふわけですね。」
「二三日うちには屹度大丈夫だよ、ものが大きいだけに反つて研究の余地が少いわけなんだが、果して以何に所理するかはまあ俺に任して置け!」
「どうぞ!」と樽野は満腔の依頼をもつて、盛り花の上に盃をさゝげた。彼は、にわかに酔が廻つて来て眼が妙になり、舅の顔が遠く豆のやうに小さく映つた。
「貴様等のこの飾りつけは一体此は何たらことだい、チヨツ、気狂ひ沙汰だ、何てえまあ了見なんだらう、てんでんに好い年をしくさつて、主の貴様からしてこれぢや親父の後が継げないのも道理こそ! はつこくりつけるぞや!」と云ひながら舅は装ひを凝した部屋を見廻した。
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 処が樽野の妻である長女から末娘の逃走を聞いて酒乱を起す、そして思はず狂気になつて、
たまなしだ/\!」と叫ぶと、樽野が、
たまなしとは何だ!」と言葉尻をおさへて、吾知らず大皿のジヤガ芋を攫んで立ちあがる、今にも立廻りが始まるかといふ時に、一歩ひとあし妻に遅れて到着した鴎丸の一行が魚を運ぶやうに軽々と二人をつまみわけてしまふ……。
 丘の中腹にある蜜柑の樹で囲まれた樽野の窓々が今宵は明るく輝き、華やかな騒ぎが聞えてゐるので、これはてツきり都のスターが到着したに違ひないと思ひ違へた村長が、きらびやかな支那服をまとひ長夜の宴を張るべき種々の用意を整へて、弓張提灯を振り翳しながら勇みたつて来る………。
 では、いつそ明日の予行練習を行はうではないか、賛成々々、皆な先づ卓子の困りに集つて、吾等のスターのためにプロウジツトだ! といふことになると舅も娘も婿も漸く相和して共々に盃を挙げる……。
 村長は舅から事業の話をきいて、大賛成、仲間にならう! と大いに握手する、思はぬところに友を見出したと云つて舅は初めて歓喜の声を挙げて村長の為に騒がしい乾盃を続ける……。
 此方は此方で鴎丸の独唱が済んで、豊漁踊りの囃子が始まる――庭先の焚火の傍らで、妻の肩に打ち凭りながら凝つと息を殺して洞ろな耳をたてゝゐる樽野は「教会堂の天気鶏は此方を指してゐるんだね。」などゝ囁く、海の上だけが雨なのである――様々な音響が、お囃子の糸につながれて、不思議な韻を踏んで、円卓子の囲りをぐるぐる廻りながら、賑やかに夜が更けて行く……。
「踊りがないのに何に合してゐるの?」と樽野が囃子方の指揮者に訊ねると「今夜は波が少々高くて此処までも斯んなに響くし、卓子の周囲があれ程騒がしければあれを踊りになぞらへて充分だ。」と答へる――。
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 この小説は、この場面を第一章としなければならない筈なのが、計らずも余計な前置許りが長くなつてしまつたのである。
 この先は? それは樽野が近頃毎晩々々夜の徒然を慰めに来る村の老若の友に向つて、自分だ! とすると誰もつまらながつて聴かないので、読んだ本の噺だ! とか、古今を通じての有名な物語だ! とかと勿体をつけて、題名だけを古本にあるまゝに“St. George and the Enchantress”“St. Anthony and the Court of Jerusalem”“The Coming of Northern Knight”“St. David and the Magic Garden”“Sebra's Escape from the Black King”“The Advent of St. Andrew's Son”“St. Patrick's great lament”などとして、出鱈目のいさほしばかりをたてさせて秘かに想ひを遂げてゐるのだが、王の御名に寄つて呼び出されたラウンド・テーブルのチヤンピオン達は聖らかなる盃を索めるために諸国遍歴旅行に出発して、あらゆる危険と戦つてゐるのだが、此処では奮戦ばかりが引き続いてゐるばかりで、決して果しがつかないのであつた。
 樽野は今も相変らず、天気さへ好ければN村行を続け、鴎丸に会へばスターの歓迎会が面白かつたことを日増に言葉少く語り合ふこと、何故か村長が姿を見せなくなつて軽い不安を感じてゐることで、事実の上では何うしても小説の区切りになるやうな出来事も想ひも起らなかつた。強ゐて思へば、この小説の冒頭の一行だけに戻るだけだつた。
 グル/\廻る円卓子!
 今夜こそはもう何とか片がつくだらうと片唾を呑んで夜になると村人が来るのであつたが、戦ひは夜毎に激しくなるばかりで樽野自身が其処でも途方に暮れてゐるのであつた。
 天気ばかりが好いだけで今はもう反つてその為に梟になつた樽野は、遂々とう/\今日などはFのやうに迷信的にさへなつて渚を駆けながら幾度も/\ Sweet Chanty ――を狂気の如く走り書いたりしたが、それがまた運悪く一度も完全に書き終せなかつたので酷く気分をくさらせた。村人が来ても今夜はもう彼は口を利かないかも知れない。
「嗚呼、斯んなにFの所謂プロロオグ――的な日ばかりが続いては堪らない!」と唸りながら、この小説の綴り手である樽野はペンを擱くと、舅や妹のその後の消息に? 胸を震はせながら砂漠のやうな円卓子に突ツ伏した。





底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「西部劇通信」春陽堂
   1930(昭和5)年11月22日発行
初出:「新潮 第二十六巻第五号」新潮社
   1929(昭和4)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2011年5月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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