貧しき日録

牧野信一




 こゝは首都の郊外である。
 タキノが、突然――(といふのはタキノ自身にとつて、そして一年程前に、これも突然主人を亡くして、こゝから二十里あまり離れてゐる海辺の寒村に彼のたつたひとりの小さな弟と二人で佗しく暮してゐたタキノの母親にとつての副詞に過ぎないことを断つて置かう。彼女は、その長男であるタキノの帰郷を予期してゐたのだ。タキノ自身も、こゝに移る二日前までは、そのつもりだつた。古き世から伝はる所謂「帰れる蕩児」になることに、反つて安易を感じてゐたのである。……が、それがどうして斯うなつたかの説明は省くつもりだ。こゝでは一寸この副詞の範囲を明らかにして置きたかつたまでのことだ。)――と、細君と一幼児と、荷物自働車一台とで、二三ヶ月住んだ芝・高輪から移つて来て、もう三十日あまり経つたのである。
 春になつてゐたが、まだ寒かつた。タキノは、こゝに来て以来、一日に一度宛入浴に出かける以外、土を踏むことはなかつた。昼、十二時過ぎに眼を醒し、ぽかんとして、またうとうとゝ相当快く眠り、しばらくたつて寝床から這ひ出し、湯に出かけ、さつぱりして帰つて来ると、灯りが点いてゐて、夕餉の膳に向ふ、より他に何もなかつた。想ふこともなく、事件もなく、日々は左様に、奏楽に適さない玩具の笛ですら三つ位ひの音色はもつてゐる、土細工の鳩笛の音は単調ではあるが一脈の哀音をもつてゐる、が彼の胸にも頭にも喉にも何の響きはなかつた。これで彼は、さまで倦怠を感じてゐるわけでもなく、別段深刻な憂鬱を宿してゐるわけでもなく、といふて勿論愉快でもなく、云はゞ、朝何時に起き出て、夕べは十分おきに到着する電車でも毎夕必ず同じ電車で帰り、夕餉を済すと間もなく高鼾きで眠つてしまふ……あまり位ゐの好くない呑気な道具のやうな勤人と大差はないのである。
 一度、弟の代筆で寒村の母から、近火を見舞ふ手紙を貰つた。まだ彼のところには新聞が配達されてゐなかつたので、その手紙で初めて市外・日暮里に大火があつたことを知つた。彼は、そこに友達があるので、細君に命じて新聞を買はせにやつた。細君は、電車に乗つて何処とかまで行つて漸く四五日分の新聞を集めて帰つて来た。大火は、友達の家とは方面違ひだつた。日暮里といふのは、仮りに首都を円とすれば、彼の此処が、円の中心をよぎる直線の一端で、他の一端が其処なのである。母は、同じ市外である為に、其処も此処も近処と思つたのである。……彼の幼時、彼の父がアメリカ・ボストンにゐた頃、アメリカ・サンフランシスコに大地震が起つたことが日本の新聞に報ぜられた。その時のことを彼は、二十何年後の今でも好く覚えてゐる。彼は、その時の無智な祖父母を、今でも笑ふことは出来ない。縁側の日向で(時候は忘れたが、何だか冬のやうな気がする)、新聞を眺めてゐた祖父が、
「ヤツ!」と、叫んだ。常々祖父は、安政の地震の怖しさを語つたことがある。その頃アメリカの地理に詳しかつた母がボストンとサンフランシスコとは、日本にして見れば何処から何処位ゐの距離があるなどゝいふことを説明しても、容易に祖父は承知しなかつた。祖父は体格が彼に似て、痩つぽちで、そして有名な憶病者だつた。十六歳の時、御維新の時、箱根の関所をかため、山崎の合戦には刀傷をうけたなどゝいふことを得々として彼に物語つたが、彼は今だにそれは法螺だと思つてゐる。
「なにしろ地つゞきぢやアなア!」
 祖父が斯んな溜息を洩したのを、彼は覚えてゐる。
「だつて安政の地震は関東だけだつたんでせう?」
「ともかく電報を打たう……毛唐人の国のことは解らないからな!」
 祖父と同じやうに彼は、写真でしか見知らない父の安否を気遣つた。
 近火見舞の手紙を受け取つた日に彼は、そんな古いことを一寸思ひ出したり、その手紙を書く前の母と弟の会話などを想像したりした。
 タキノは、何処に住んでも、生れ故郷であつても、己れの現住所を賞めないのが癖だつたが、こんどの所は今迄住んだ何処よりも嫌ひだ、と云つた。こゝに移つた第一日に湯に行つた時に、あたりを眺め、野原に点在する不思議な家屋を眺め、一体あゝいふ家には何んな人々が、何んな風に住んでゐるのか? などゝ訝しがつたのである。西洋人のやうに腕を取り合つて恥づる気色もなく歩いて行く、それでもう相当の年輩の一組の男女が居た。また西洋風の建築を、如何したら最も手軽に、そして見かけだけは飽くまでも高踏的に……などゝ熱心に研究しながら歩いて行く、丁度彼位ゐの年輩の二人の男もあつた。――嫌ひだなどゝ、自慢さうに云つたが、たつたそれつぱかしの怪し気な観察なのか! ――そして近いうちにまた移転する先きを漠然と心に描いた。彼が移転すると、その移転先きを詳しく母に話すのが今迄の習慣だつたが、今度はそれを彼女に何も相談しなかつたし、ハガキで通知(それは今度が始めてだつたが。)した時も、東京府下何々郡何々村大字何々×××番地と誌すのが面倒なばかりでなく、細君に代筆させたのである。同じ差出し人である彼が、若し一日に百度手紙を出す場合があつたとしても、その受信人である彼の母は、彼の現住所がそこの役場の人民録に誌されてゐる通りの住所番地をいちいち明記しないと、その次に彼が帰郷した時、封を切らずに彼に返済するのであつた。だから彼は封書は滅多に出したことはなかつたが、ハガキでもさういふ省略をすると、それを封筒に入れて返送して寄すのである、返送されたつてハガキなら当の目的は達してゐるに違ひないだらうし、稀に彼は彼女を厭がらせる為にワザと住所を忘れて Your's obedient son などゝ書き送ることなどあつた。だから今では返送もして寄越さなかつた。――それでも彼は、時々自分の為に文章を草する場合があつて、その中に現住所を用ひる場合になると、それが何んなに無駄で、反つて目触りになるものと承知でゐながら、いちいち例へば、相州小田原町だとか、伊豆熱海町だとか、牛込何々町だとか、下谷区上野とかといふやうにその個有地名を誌さないと、どうも落つけなかつた。往々他の小説に見うける如くA町とかB村とか或ひはまた単に或る村とか、といふ風に、さう気軽に扱へなかつた。想像力が貧弱な為も確かだつたが、母のあの古風な教育の影響が、こんな所まで響いてゐるかと思つて苦笑したり、そんなに余外な要でもない地名などを仰々しく書いたりなどしたら、見る人から笑はれるだらう、厭味にさへ思はれるだらうなどゝ思つたこともあつた。
 二三日前彼は、今度若しこの町名に出遇ふ場合があつたら今度こそは気軽に、一番C町とやつてやらうか、頭文字をとつて、あの阿母にさへ Your's obedient son などとやれる程図太くなつた俺なんだから――そんな馬鹿なことを思つた。……別に休校したわけでもないのに普通より余外な年月を費して彼は、嘗て或る私立大学の文科を修業したのであるが、そんなに長くゐた癖に到々そこでは一人の友達もなく、稀に往来などで旧同級文科生などに出遇ふと、神経的な虫唾が走つたり、向方も向方で、あの稀代な劣等生は未だ生きてゐたのかといふ顔をするし、――結局この町にも長くゐたならば、丁度あの文科同級生と自分との関係になるに違ひない――となど彼は思ひもした。嫌ひだとか何とか云ひながら、それに引込まれる烏耶無耶性を彼は多分に所持してゐた。

(……若しもタキノが、己れの日録なるものをつくらなければならなかつたならば、彼はその第一日以後をどんな風に綴らなければならないであらうか? ……)
 未だ外の景色が明るかつた時分から、ひとりでチビチビと酒盃を傾けてゐたタキノは、もう波に浮んでゐる程の心地になつて、ふつと自分で自分のことをそんな風に呼び棄てにした。――そして、何を云つてゐるのか? と、セヽラ笑つた、ひとりで――。
(ねばならなければ……ならなければならない……)
 そんな馬鹿気た語呂だけが、安ツぽい玩具の滑りの悪い車みたいに舌の上をころがつた。
(……大変云ひ憎い、何とかといふ文句を、三辺も四辺も息も切らずに唱へる……子供の時分にそんな喋舌り競走をしたことがあるね! えゝと? 何んな文句だつたかな? すつかり忘れてしまつたな! だが俺は、たしかその遊びでは何時でも失敗者だつたな! さつぱり舌が回らなかつたよ……それにしても一つ位ゐあの唱へ文句を覚えてゐさうなものだが、チヨッ! 癪だな! 今一寸試して見たいんだがな? あゝいふ業は、子供と大人と何方が優れてゐるものかしら! それもやつぱり天成の一つかな? 子供の時分出来なかつた遊びは……勿論ぢやないか、いつそ反つて無器用になつてゐる位ゐのものなんだらう。)
「チヨッ」と、彼は舌を鳴した。それ位ゐのことで彼は、厭な気がしたのだ。
 同じ日ばかり続くのである、即ち昼、十二時過ぎに眼を醒し、ぽかんとして、またうとうとゝ眠り、しばらくたつて寝床から逼ひ出し、入浴に出かけ、帰つて来ると灯りが点いてゐて、夕餉の膳に向ふのだ――忽ち酒に酔つてしまふ、如何して寝床に入つたか覚えはないのだ、たゞ翌日、即ち昼、十二時過ぎにぴかりと眼を開くと、たしかに其処に、英文和訳の直訳体の説明句の通りに、彼は其処に自分の存在を発見するのだ。――云ふまでもなく彼は、酔つてどんなことを考へ、どんなことを喋舌り、どんな動作を演じたか、悉く忘れてゐる。覚えてゐることは、十二時過ぎに眼を醒したことと、湯に行つたことゝ、喧ましい! と叫んで子供を叱つたことゝ、そして毎日決つて彼がさう叫ぶと、彼の細君が、喧ましいもないもんだ、そんな偉さうなことを云ふ位ゐなら、もつと大きな家を借りたら好さゝうなものなのに、とセヽラ笑つて彼の機嫌を損じることゝ、ムッとして夕餉の膳に向ふ、までのことである。酔つての上の行動は悉く忘れたといふのは、通俗的には詭弁とされてゐるが、彼のも多少のそれはあつたかも知れないが、大体は晩酌などゝいふ柄ではなく、云はゞ落第書生のヤケ飲みのかたちで、生で幼稚で、無茶苦茶だつたから、仕方がないのだ。
(……若しもタキノが……)
 彼は、また思はず同じことを呟いで、思はず苦笑を洩したのである。――では彼は、十二時過ぎに起床して、夕餉の膳に坐るまでの間に如何なることを考へるかと云へば、この第一節に記述した何行かで片附く痴語に過ぎないし、それも根底のあることではないから一時間もすれば忘れてゐる。――今度小説を書く場合にはC町としよう、などゝ呟きもしたが、何の事件もないし、生活は斯の通り簡単で結局夥しく規律的であるから、全く彼が己れの日録なるものをつくるとすれば、第一日は、小学生のそれのやうに、何時に起床し、湯に行き、帰りて、晩飯を済して寝たり――と、それで全部で続く日は、雲天とか、晴天とか、雨天とかの変りを誌せば誌し、他は凡て、前日に同じ、前日に同じ、とするより他はないのだ。これが若し天候の加減で、いろ/\気分が変り、晴れた日には快活になり、雨の日には落つき、風の日には如何かといふ心でもあれば、自づと感想にも色彩が出るであらうが、彼はそんなことには何の影響も享けないのである。
 彼は、幼年時代から「日記」には反感を持つてゐた。小学校にあがると同時に彼の母は、彼に日記を誌すことを命じた。毎日、天候といふ欄に、曇リ後晴レとか、終日快晴とか、午後ニ至リテ風吹キとか、天候の具合からしてたゞ、晴れとか雨とかでは母が許さなかつたので、これを誌すだけでも相当の退屈を味つた。
「六時ニ起キ、顔ヲ洗ヒ飯ヲタベ、七時半ニ学校へ行キ、帰リテ夕方マデ友トアソビ、夜勉強シテ、ネタリ。」
 日記は他人ひとに見せる為に書くのではない、大きくなつて自分で読んで見るといろ/\得るところがあるのだ、だから正直に出来るだけ詳しく書いておかなければならない――斯う母は云つたのであるが、彼は、時々母が日記をしらべる為か、書けば屹度誰かに読まれるやうな気がして、多少の感想はあつても書くのは厭な気がして、例へば、朝どんなに皆なに起されて、不精無精に起き出でゝ、口惜し紛れにおぢいさんと喧嘩をした……さういふ種類のことでも書いて置かなければいけない、と母に注意されるのであつたが、彼は如何しても恥しいことを書くのは厭だつた、勉強しない日でも、必ず勉強したと書くのであつた。毎日見られるわけではないのだから、多少の嘘はごまかしが利くだらう、八時に起きて危く学校が遅刻になりかゝつた時でも、七時起床と書いた、彼は「日記」に依つて、ごまかしを強要された、と後年思つたことがあつた。正月半ばまで書いた彼の日記帳が数冊本箱の中に、つい二三年前まで彼の故郷の家に残つてゐたが、一度彼は一寸それを開いて見たこともあつたが、幼時を懐しむ感傷などはそれこそ毛程も起らず、その無味乾燥な文章を見て、幼時の表裏ある心が見え透いて、反つて背中がムズムズするばかりで、煤掃きの時火中に投じてしまつたことがある。
 たつた一個所、斯んな文章が眼についた。「――今日ハ小峯公園ニケイ馬ガアル。学校カラ帰ルト河井ノオヂサンガ清チヤント一シヨニ来テヰテ、ケイ馬ヲ見ニ行ツタ、ケイ馬ハ面白イ、馬場ノムカフガワニ馬ガ行ツタ時ハ、オモチヤノヤウデアンナニヨクカケルノヲホシイト思ツタガ、ソバニクルト馬ノイキガキカン車ノ煙突ノヤウニハゲシク、馬乗リノ顔モオソロシカツタ、大ヘンヒドイ勢ヒデアル、落チテアノ馬ノ脚ニカヽツタラタマラナイト思ツタ、ダケドマタムカフニナルト可愛イオモチヤニナルノデ、何デカ面白カツタ、帰リニ清チヤント坂道ノトコロデケイ馬ゴツコヲヤツタガ雪駄ヲハイテヰタノデマケテシマツタ、清チヤンハカケナガラ勇マシイカケ声ヲシテヰタ、僕モ汗ガナガレタリ、イキガハゲシクナツタリ、ホコリガヒドクテ苦シカツタガ、遠クデ笑ヒナガラ見テヰル河井ノオヂサンニハ、コノハゲシサハワカルマイト思ツタ……」
 また彼は、中学に入ると暑中休暇日誌なるものを課せられて、毎夏辟易した。たしか四年生の夏だつたか。その級の監督受持教師は松岡先生といふ人の好い老人で、数学の担任だつたが、普通の数学教師と違つて、稍ともすれば古代ギリシヤや東方諸国の聖哲の抄論を説き聞かせ、人生悟道の研究を洩すのが好きだつた。――彼が、怠けることを誇るといふありふれた悪童の典型的な頃だつた。「チエツ、日記なんて誰がつけるもんか、馬鹿々々しい、あんなものは二学期が始まる二三日前に、誰かの処へ行つて天気のことだけ訊いて来て、あとは皆な出たら目を書けば好いんだよ。」
 彼は、斯んなことを得々と吹聴して、実際学校へ出す日誌には決して誌すことの出来ない多くの日を過した。それは県立中学で、非常に規律が厳しかつた。そば屋或ひは洋食屋等の飲食店に立入つたことが見つかれば五日間の停学、袴を着けないで外出すると一日の謹慎、頭髪を三分刈にしたりもみあげを短く切れば体操教員から拳固で一つ擲られ、自転車に乗ると始末書を徴発され、新しい文学書を翻けば修身点を引かれ、艶書は退学、遊廓散歩は無期停学、洋服で下駄をはくとこれはまた擲られ、流行歌を吟ずると保証人が呼び出され、ハモニカ、バイオリン等を弾奏すると、艶書を書きはしないかといふ嫌疑を受け、劇場出入は三日間の停学、運動シヤツにマークをつけると運動禁止、好天気の時に足駄をはくと、雨の日に跣足の登校を命ぜられ、夜間外出は夏期に限り規定の服装の下に海岸散歩七時まで許可、但し祭礼の場合は神楽見物に限り九時まで許可――以上は厳則の一端に過ぎない。艶書、バイオリン弾奏、文学書閲読、遊廓散歩等の悪事を発いて制裁を加へる一味の不良正義党が学生間に自づと組織されて、彼はその党の一員だつたが、彼等のその他の生活は悉く当局の忌諱に触れることばかりで、その方面では彼は煽動的張本人であつた。――だから学校に差し出すべき日誌に録すべき日は、一日もなかつたのだ。
 第二学期が始まる四五日前に彼は、忠実な学生を訪れて、厭がるのも関はずその日録を奪つて五十日間の「天気」を写しとつたのである。そして天候に準じて、夫々の日の記録を捏造しなければならなかつたのである――その頃から頭も筆も到つて自由でなかつた彼は、その捏造記録の困難と云つたら、たしかに地獄の苦し味だつた。と云つて他人の日誌から丹念に「天気」を写し取る程の汲々性で、正直な記録を作成して甘んじて当局の罰を負ふたならば、自分も寧ろ朗らかになり、党員等からも推賞されるに相違なかつたのであるが、彼はまた他の党員達と同じく姑息だつたのである。
 天気を写し取るといふのは、彼の発案だつた。彼がこれを提言した時、一同の者は此上もなく賞讚した。そして各々彼の写本の天気を更に模写して、忽ち豊かな架空日誌を作成したのである。――Aは、様々な材料を集めて、写真入りの日本アルプス登山記を作つた、Bは、函山天幕生活記を捏造した、Cは、漁船に同乗して大島を巡遊するの記、Dは、丹沢山に昆虫採集に赴き山猿に出遇ふの記、フランクリン自叙伝、ナポレオン言行録、ブルターク英雄伝等々の書名ばかりを無暗と列記して、暑中五十日石垣山麓に潜んで、我また英雄を夢見るの記を縷々と叙したEとか、月下熱海街道を駆足して、帰途は一路小田原御幸ヶ浜まで遠泳したといふ「マラソンと遠泳の記」のFとか、Gは、阿未利神社に於て断食七日の記、また、俺は道了山中で狸と格闘するの記を書かうか、などゝ云ひ出して、それは余り嘘らしくてバレてしまふぞ、と慴されて頭をかいて引きさがつたHもあつた。
 だが彼には、一つもさういふ名案が浮ばなかつた。そしてやつと書きあげた何日分は、それが若し真実であつたならば、修身点は勿論甲上、級長の位置をも奪ふに足るべき温良、忠実な記を作成したのである。一字書くと、松岡先生の顔が浮び、一行すゝむと怖ろしい生徒監の姿が見えたり、そして自分は母に対して何といふ酷い不孝者なのだらう、などゝ思つて情けなくなつたり、無味な虚文は立所に行き詰つたりしながら、しどろもどろに、苦し紛れに背すじに汗を流して書いたのである。――如何にも家庭では、保護者の言に忠実で、専念修養を怠らぬ素振りを多く香はせたのであるが、それでも同じく捏造であるにせよ、そんな空想は思ひも及ばないのであるが、丹沢山で山猿に出遇ふの記等々のやうな柄でもない望みよりは、これは悉く自分の生活の極端な反意語を叙せば足るのであつたから、空々しい想像よりは楽であり、自分に近い方便だつた。
 で一日一日の違ひと云へば、で仕方がなく、七時起床と誌した翌日は(校則では五時起床でなければならなかつた、だが、さう五時五時とせずに、稀には七時も好いだらう。)――五時三十分としたり、またその次には正五時起床が三四日も続き、そしてまた――昨日は遠泳を行ひたる為に、今朝は思はず寝過して、ハツと気付いて枕頭の眼醒時計を見れば早や七時十分過ぎ、前庭に旭光みなぎる、我は勢ひ好く飛び起き、井戸側に走り常の如く冷水浴五度、後午近くまで数学を解きたり、されど七時過ぎの冷水浴は、水温生ぬるく心神に左まで効果なきことを悟りたれば、明朝よりは、断乎四時起床を決心せり――などゝ誌し、翌日は麗々と正に――午前四時、眼醒時計の快音と共に離床、夜来の雨未だ晴れず、函山は遠く暮靄の彼方に没し、四囲寂として声なし、たゞ雨滴の音のみ我れに何事をか囁くに似たり、我れ思はず応と快哉を叫び、俄然釣籠を執りて冷浴十度、この日終日精神爽かにして参考書出題の幾何学十余題を解きたり――などゝいふ風に、幾種かの日録を作成した、だが五十日間を、夫々捏造する程の困難には打ち勝てなかつた。で、幾つかのさういふ記録を天候に準じて都合好く配列し、その間に、凡庸に規則に当てはまつた、例へば――五時起床、冷浴、機械体操及び軍用ラツパの練習後、午近くまで宿題を検べ、午後水泳に赴く、夕食後一時間海岸散歩、六時半帰宅、八時就寝――といふやうなことを書き、翌日は――前日に同じ、とか――前日の行動と同一なりき――とかといふ風に誌して、それが殆ど全日録の三分の一を占めたのである。
 新学期になると間もなく、彼等(自称正義党員)は生徒監の許に呼ばれた。その年から「夏期休暇中、学生行動調査録」といふ調書が出来てゐたのであつた。生徒監数名が当番を定めて、日夜市中を探偵し、その上秘かに父兄を尋ねて精密な調査を執つてゐたのだ。尤も彼等一党は常に当局の注意人物なのだつたから、この調査録は彼等の為になされたと云つても好かつた程、それ程彼等の行動のみが詳しく調べてあつた。彼の欄などには――休暇中朝食を執りたること無き由、とか、C、D、E、F等と巧みなる変装を凝らして、活動常設電気館に数回出入(月日等々)、Cは印絆纏、鳥打ち帽子、Dは口鬚、眼鏡、Eは某大学生を装ひ、タキノは、漁夫の祝着なるマヒハヒを着し頬かむりをなし、Fは自働車運転手等云々、とか、馬食会なるものを組織し、順次、父兄の留守宅に集会し深更まで喧噪を極め、或ひは(×月×日夜)西洋料理店万歳軒に集合、(×月×日夜)そば店盛々庵、(×月×日夜)汁粉店松月の奥座敷に集合し、当店職業用の今川焼器を各自使用し、乱脈を極め当主人迷惑す、(×月×日夜)自転車数台、サイドカー附自働自転車一台を駆りて字栗橋街道に至り附近の畑より甘藷、西瓜等を盗み、深更海岸に屯ろしてビールの満を引き、馬食会万歳を連呼せり云々、とか、彼等の日誌は、新学期開始前三日、天候のみを某学生の日誌より写し、××家の空家に集合し徹宵夫々相謀りて作成せるもの也、などゝいふことまで記述してあつた。これを突き付けられて彼等は、唖然とした。気の小さいHは卒倒した。彼等は凡て二週間の停学の上、修身点を零にされた。禁足中、受持監督教師が一度宛家庭訪問に来るのであつた。彼のところには松岡先生が来た。先生は、笑ひながら、
「前日に同じは簡単で好かつたな!」と、云つた。「此の頃こそ前日に同じなのぢやないかね。」
「…………」
「と、なるかも知れんが、考へなければならんのは其処なのぢや、解るかね?」
「はア……」
「普賢経に、六根清浄ヲ楽ミ得ル者当ニ是ノ観ヲ学ブベシとある、ギリシヤの昔から、即ち万物流転の説が立証されてゐる……従令それが石の存在であらうとも刻々に、その周囲に於ては、大気は移る、雲は飛ぶ、霹靂一閃、……風は吹かずとも木の葉は散る……一刻と一刻の相違は非常なものだ、まして我等は石には非ず、眼あり、耳あり、鼻あり、身あり、舌あり、意あり、即ち六根!」
 今迄温顔をたゝへてゐた先生の容貌は、この時屹となつて、
「喜怒相見眼ナリ。」と云つて、人差指で彼の眉を突いた。相当力が入つてゐて、端座をしてゐる彼の体は、先生の指に伴れて一寸後ろに反り、また戻つた。と同時に先生は、
「聴審相続耳ナリ。」と云つて、両方の指の先で彼の耳をつまんで引きあげた。彼は、思はず顔を顰めて、尻を浮せた。
「愛憎香臭鼻ナリ。」と、厳かに続けた先生は、稍興奮のかたちでギユツと彼の鼻をつまんだ。――そして今度は口早く、
「嘗味苦甘舌ナリ。」と、云つて彼の口唇を、たぐるやうに引ツ張つた。彼は、また思はずウツ! と、喉を鳴らし、女の子供が意地悪るの為に憎々顔をする時のやうに頤が前に突きでたが、勿論彼の辛さとテレ臭さと、痴呆的な困惑の表情は、釣針に懸つた魚に違ひなかつた。二ツ三ツ呼吸をつく程の間、先生は、その儘指先きを離さなかつたが(先生の指が煙草臭さかつた。)忽ち、えツ! と肚のあたりに力を込めて、彼の頤を突き反し、
「常審思量意ナリ。」と、怒鳴るやうに云ひ放つたかと見ると、ヤツ! と叫んで彼の胸をドンと打つた。まことにこの時の先生の早業は、一刻前の先生の言葉通り、霹靂一閃で、堂に入つた気合術だつた。
 そこで先生は、程の好い温顔に立ち反つて、お前も馬鹿ではなからうから、これ以上私としては何も云ふことはない、謹慎十四日、静思黙考して、冷浴の時はひたすら六根清浄を唱へ、審さに十四日間の起居感想を、少くとも一日の記録は罫紙五枚以上を記すべし(これは保護者の検分、捺印を要す。)等の注意を与へて、彼を去らしめた。そして稍暫くの間、彼の保護者である彼の母と、多くの注意事項に就いて会談の後、帰りがけに一寸彼の書斎を叩いて、
「しつかりやつて呉れ、俺はお前を憎んではゐないよ。」と、云つて立ち去つた。彼は、机に突ツ伏して泣いたのである。母も、その傍に来て涙を滾した。

「あの頃の、友達は……」
 彼は、盃を手にした儘、仰々しい表情をしながら、そんなに思つた。……Aは? Bは? Cは? ……Gは? Hは? ……「最近、多少の交渉のあるのは、Gと、Kに過ぎないな!」Aは、法学士になつたさうだ、Bは八九年もかゝつて慶應大学の政治科を卒業したが、その年に腸チブスで死んだ。Cは、巡査になつて朝鮮に行つてゐる。Gは、理学士になつて今はアメリカ・ミシガン大学で昆虫学の研究に没頭してゐる。彼も、アメリカ行きと昆虫学の研究には、野心をもつてゐるので、Gとは一年に三回位ゐ手紙の往復はしてゐる。Kは、小田原の実家で今は専念家業のカマボコ製造業に従事してゐる。
「そして、タキノは?」と、彼は、さつき、若しもタキノが己れの日録なるものを云々などゝ思つた時と、同じやうに、さう呟いで、顔を顰めたのである。
「あなたは、さつきから何をひとりでブツブツ云つたり、首を曲げたりしてゐるのさ。」
 細君は、慣れてはゐるんだが、飽くまでも尤もらしく、たとへ酔つてゐるとは云へ、変に勿体振つた身振りをしてゐる夫の様子を眺めると、堪らない疳癪が起つて、そんな風に軽蔑的な言葉を投げつけてやらずには居られなかつた。
「生活が、これでは駄目だと思つてゐるところなんだ。」
「一生そんなことばかり云つてゐれば、世話はないわ、フツ!」
「何でも好いから、俺が先きに言葉をかけないうちに、話しかけないやうにして貰はう。」
「怒らないで返事をして下さいな、――あなたは一体何……」
「黙れツ!」と、叫んだが彼は、別段憤つてゐるふうでもなかつた。情けなさうだつた。
「五月は明るい夢見時である、いつか活動の弁士がそんなことを云つたが、あれはたしかに好い文句だ。」
 彼は、いつの間にか酔つ払ひの口調になつて、独りでそんなことを呟いた。――あゝ、と細君は、溜息を衝いた。が彼女は、
「何時活動などを見に行つたの?」と、多少の好奇心をもつて訊いて見た。
「中学の時分なんだ、我々は仮装隊を組織して……」
「あゝ、もう沢山/\。」
 何といふつまらない男だらう――彼女は、沁々とさう思つた。
「おゝ魂よ、Make merry and Carouse, Dear soul, for all is well! ……」(テニソン)
 もう駄目なのか! と彼女は、思つた。目方が軽いから運般も出来るんだが、これでも正体なくなると相当重い、毎晩あれが一仕事だ! と、彼女は思つた。それにしても稍ともすれば怪し気な英語などを叫ぶが、みつともない話だ、あした注意してやらう――などゝ思ひながら、もう斯うなつては逆へないので、「随分偉いことを御存じね、説明して下さいな。」と云つてやつた。が、幸ひだつた、彼は、うな垂れて粗野な吐息を衝いてゐるばかりだつた。(そして、タキノは……)と、彼は思つたのである。
 当時彼の国の文壇には、「自己派」と称する一派があつた。それは作者自身が、自己の実生活を材にして、これを芸術化するといふところから左様な名称が出たのである。何故ならば、これはもう一つの「経験派」と違つて、同じく生活を材とするのではあるが、或る者は犀利な鑿を振ひ、また或る者は奔放な空想を加味し、或ひは鋭い理智の刀を執り、夫々「生活」を珠と変へたのである。未だこの他に「円破党」と称せらるゝ一派もあつた。これは、英吉利の昔、ジョナサンスヰフトが用ひた言葉を、或る批評家が引用したもので、人生を卵に例へて、これを割る場合には卵の円味のある方から割るべし、されば傷を負ふことなし、吾人が人生の行路は斯くや執らん、といふやうな態度の一派を総称して、「自己派」や「経験派」と同じく便宜上与へた名称である。また同じく「尖破党」と称ふ一派もあつた。これは大体に於て「円破党」の反意派なのである。
 斯くの如く当時の文壇は、国創始以来の文運隆盛時代に相違なかつたのである。多くの青年は、東都の華やかな文壇に憧れて、遥々と蝟集した。――さて、タキノは、長い間故郷の実家で邪魔物扱ひにされて暮したり、そのうち、親の命令でもなく、寧ろ反対を犯して、といふて青年らしい恋をしたのでもなく、烏耶無耶に五年も前に現在の細君と結婚した、すると実家には居憎くなつて、一度は追はれるやうに伊豆熱海に逃れたり、そして今では東京で転々と居を移し、このやうな単純な日を無意に過してゐるのである。始めは作家志望ではなかつたのであるが、そんな月日を送つてゐるうちに、いつの頃からか、彼は自称「自己派」の学生になつてゐたのである。
 だから彼は、あのやうに尤もらしい顔付きをして「若しもタキノが、己れの日録なるものを……」などゝいふことを、今更のやうに呟いで、顔を顰めたのである。生活は、あの通りである、思想も、あの通りである。だが彼は、未だ青年らしい自惚れを持つてゐて、迷夢とも知らず、「生活が――」「生活が――」などゝいふ愚痴を滾しては、己れの非も忘れて、迷夢をたどつてゐたのである。他人が見たならば、何といふ怖ろしい自惚れであることよ、「自己派」学生タキノ某の迷夢は? ――彼は、既に父を失ひ、長男であるにも関はらず寒村の家は母に与へ、今は四才の子の父で、そして三十歳である。古き諺の、空しく犬馬の年を重ねて――も、或ひはまた古への歌、「もゝちどり囀る春はものごとに、あらたまれども我はふりゆく」も、その儘彼の為には、あらたなのであつた。
 四五日前、彼は小田原の旧友Kから、来月になつたら野球見物旁々上京する、その節久し振りで君の寓居を訪れたい、面倒でも電車の乗り方と地図を書いて寄して呉れ――といふ意味のハガキを貰つてゐた。彼は、Kの来訪が待ち遠しかつた。GとKのことを、先程一寸誌したが、中学の頃のあの自称正義党の連中は、長じて揃ひも揃つて親不孝者になつたが、今では大抵何かに収つた。たゞひとり自分だけは……と彼は、時々思つて暗然とした。Kは、嘗て早稲田大学に入つて野球選手になる決心で上京したのだが、未だ入学しないうちに麹町、富士見町の芸妓に恋して、あらゆる口実を設けて一年ばかりの間遊学金を取り寄せてゐたのだが、到々実家に知れて引き戻され、暫く家業に従事した。が、また土地の芸者に恋して、何回も続け様に掛取金を費消したので、勘当をうけ、ではアメリカへ行つて運動家になると高言して親から最後の旅費を貰つた。が、アメリカへは行かずに、その芸者と箱根へ行つた。そのうちに、その芸者とはどうしてか、別れて了ひ、今度こそは「改心」――全くKはこの言葉を何度使つたことか――すると泣いて親に頼んだ。そして店に坐つた。が、また土地の別の芸者に熱烈な恋をして、掛取金を瞞着した。そしてまた勘当をうけ、女は寄所の町へ行つてしまひ、丁度その頃タキノも家を追はれて熱海に居たので、夏中其処に来てゐた。熱海で、日射病にかゝり、それをきつかけにして実家に戻つた、が、また掛取金を着服して、別の芸妓に通ひ詰め、今度こそは五年の勘当を申し渡されたのだ、が、丁度その翌日が大正の大地震だつた。火災が起つて町は全滅した。――Kの家は、非常な老舗なのだが地震後は、家運頓に衰へて、嘗て十数人の職人が常に店先で花々しく製造に従事してゐたにも係はらず、何時か彼が一度前を通つた時に見たら、Kが、三四人の職人と一処になつて大俎の前に立つて、専念勇ましい音頭を執りながら、巧みにカマボコを叩いてゐた。
(作者註。「カマボコ」とは、一種の食料品にして、相模小田原町、古来の名産なり。これが製造に当りては、長さ二間余もあらん大俎の上に材を置き、二つの庖丁様の撥を両手に握りたる数名の職人が、掛声そろへて一勢にこれを打つなり。その音、恰も木琴(Xylophone)の弾奏を聴くが如く面白し。)
 三年前、熱海に居た頃も、彼の生活も思想も今と変るところはなかつた。――Kのハガキで彼は、一寸そんな回想に耽つたりして、沁々と自分が「自己派」に属することを喞つた。彼は「スプリングコート」といふ旧作の中に、僅かばかり当時の模様を挿入したことがあるが、それはKが訪れて、いくらか生活が活動したので、その部分を、小説にする目的で先に日録を作つたのであるが、最初計画した小説は失敗したので、折角の日録も不用になつてゐたが、後に「スプリングコート」の時に一二個所引用した。その日録のあまりが、十四五枚未だに彼の筐底に残つてゐた。この日録は、そんな目的だつたから、小学や中学のそれのやうではなかつたが、無味乾燥は免れなかつた。
(あまり黒くなつたので人相が変つた、と云はれた。鬚を剃らうとして鏡の前に座り、顔を眺めたら自分ながら「なる程!」と思はれた。碌に泳げるのでもなく、また海辺が面白くて出掛けるのでもない。Kに誘はれて厭々行くのだ、たゞ部屋にごろごろしてゐるよりは増だから。――だが、さもさも愉快さうにはしやぎ廻る男女を見るのは適はない、誇張した動作は、見る者に不快を与へる。)
(もう、八月も半ばである、六月に一度東京に出かけて胃腸を痛めたのが、未だ全快しないやうだ。東京を思ひ出すと眩暈がする、その癖田舎の淋しさには、いつになつても慣れさうもない。Kは、今日真鶴まで泳いで船で帰つて来た。少しでも凝ツとしてゐると親爺の怖しい顔が浮んでやりきれないから、起きてゐる間は滅茶苦茶に運動するんだ、とKは云ふ。夜になるとKは倒れるまで酒を呑む、一寸心配。)
(ロシヤとかでは、雪中自殺法といふのがあるさうだ。泥酔した揚句、雪の中を漫然と歩き回つてゐると非常に快い眠気が襲つて、眠るとその儘安らかに永久に醒めないのださうだ、多くの自殺法のうちこれが最も楽な方法なさうだ。海の上でもそんな芸当は出来ないかな? などと笑つてKが云つた。ロシヤの話なんて嘘に違ひない。厭なことを云ふKだ。)
(Kが、気分が悪いと云つて起きなかつた。額に手をあてゝ見ると酷く熱い。驚いて計つて見ると三十九度強。慌てゝ外へ飛び出す、A院へ行つたが留守、他に知合ひなし、出たらめに三軒の医院へ頼んだ、俥が街を走つてゐる時、何のわけもなく、ふつと立ちあがり、その儘暫らく走り、往来の人に笑はれて始めて気附いた。二人の医者が来て呉れた。日射病、大腸カタル、三ツの氷嚢で頭と胸を冷す。四十一度まで昇つた。自分は病気の智識が何もなく、あまり病気になつたことがないので多くの不便を感じた。徹夜。徹夜は得意だから何の苦もない。)
(Kは家へ知らせてくれ、といふ。もうその必要はないのだが、どうしても知らせてくれと云ふ、Kが知つてゐる看護婦を頼みたいといふ。郵便局へ行つてKの家へ電話をかける。Kの母の声はふるへてゐやた、此方が心配させぬやうにワザと他易く云つてゐるのだと思つたらしい。少しそれもあつたが、Kの母は敏感すぎた。あしたの朝、看護婦と二人で行くと云つた。看護婦だけで好いんだけれど、遊び旁々のつもりで来るならいらつしやい、と附け加へずには居られなかつた。あんた等のところへ遊びに行く馬鹿はない、とKの母は云つた。)
(Kの母は午前中に来た。前の日に彼女が出した手紙が、彼女が夕方、丁度ぼんやり門口に立つて海を眺めてゐたところに着いて、彼女は自身で出した手紙を自身で受けとつた、もう先に来てしまつたことだつたから、と、此方を向いて彼女はテレ、帯の間に秘さうとしたが、一寸見ると宛名は自分だつたので、自分はふざけて無理に取りあげて読んだ。おとゝひから、自分達は初めて笑つた。随分長い口語体の手紙だつた。手紙を読むと、自分の胸は、一杯になつた。あの子を生んだ哀しい私は――と書いてあつた。翌日出かけるのも忘れて、そんな手紙を思はず書いたKの母の心は解る。)
 彼は、此間そんなものを取り出して見たが、わけもなく破棄した。これでは松岡先生に、眼を突かれ、鼻をとられた当時から一歩も出てゐない――そんな気がしたらしかつた。だが現在は、この郊外の日々は、如何程先生から酷く、耳を釣られ、口唇を引かれ、胸を叩かれても「前日に同じ」より他に無いのである。
 また彼は、血統を思ふこともあつた。父は、一生何の定職もなく、その癖何の落着きもなく慌忙のうちに人生の幕を閉ぢた人である。父は、常々「俺は了見が世界的なんだ、俺は、云はゞコスモポリタンだ。」などといふことを、酒などに酔つて高言する程の、一種の臆病者で、その言説が明日まで残ることはなかつた。一年程前に死んだのであるが、彼にとつてはもう古い夢のやうで、強ひて思へば、何となく笑ひたいやうな気持(それは丁度、その父がまた先代を笑つてゐたやうに)になる位ひのもので、子に伝ふべき遺業も言説も、また子が、どんな意味に於ても、子として他人に向つて語り得る材もなかつた。だから彼は、祖先伝来のカマボコ製造業を享けついで、今は専念俎を打つてゐられるKなどが羨しかつた。今彼が、享けついだ一つと云へば、こんなことが一つ残つてゐる。
 彼の父は、たつた一辺何の迷ひであつたか、村会だつたか、県会だつたかの議員候補にたつて(それは、おそらく普段の言説とうらはらの業である)夢中になり、多くの運動員を集めた、その夢中さ加減が余り夥しくて、(如何にコスモポリタンでなきことよ! また常に云ふソシヤリストでなきことよ!)この運動員が夫々投票したゞけでも「もう占めたものだ、万歳だ。」――「いざとなると俺には味方が多いんだ、何しろ俺はデモクラツトを守つて来たんだからな、職人の友達だけでも大したものだ、思はぬところで信用されてゐるからね。」と、非常に楽観して、投票日には得々として「青い顔をしてゐる他の連中の意久地のねえこと!」――「あまり突飛な最高点で、帰りに闇打ちにでも遇はなければ好いが。」と、まつたく不安な顔をしたり、で、いざ開票して見ると、H・タキノには一票しか入つてゐなかつた。――夜、母と、当時保養に来てゐた母方の彼の祖母と彼(文科大学生であつたS・タキノ)とが、火鉢を囲んでHの帰宅を待つてゐた。この家の真向ひに大きな黒い門のある家があつた。と、突然静寂を破つて、この門の扉にバラバラと礫の当る音を彼等は聞いた。子供のいたづらかしら、と彼等は囁いた。
「石をぶつけて来た。」
 斯う云つてHが、真赤になつて戻つて来た。家に入ると急にHは大声をあげて怒鳴つた。そして夢中になつて「もつと、でかい石はないか。」と叫んで、また出かけようとすると、祖母が背後から抱き止めて(この祖母は、忠臣蔵の科白を大抵暗記してゐて、日頃その声色が得意だつた。)――今は戦国の代ではない、争ふならば堂々と議論をもつてなすべし、ましてや闇に乗じて門に石を投げるとは! 先方に無礼があるならば、明朝出かけて……云々、といふ意味のことを古風な云ひ回しで、説き聞かせて、五十歳に近い婿を諫めた。Hは、何か口のうちでブツブツ云ひながら寝てしまつた。黒い門の主は、Hに投票を約した人である。勿論Hは、翌朝出かけはしなかつた。H・タキノは、どんな議論も不得意で、怒ればただ口惜し紛れに「馬鹿ア」とか「畜生奴」とか、「外へ出やがつたらぶん殴るぞ!」と、単なる感投詞を投げるより他に能がなかつた。そして翌日出遇へば、淡々ではなく、云ひたいのだが云ふ言葉を知らないので、たゞ憤ツとして横を向くだけのことしか出来ない。彼がまたこの性質をその儘享けついで、文筆の士でありながら、隣りの犬に食ひつかれて如何程口惜しい思ひがあつても、議論をもつて抗議する術を知らなかつた。後日彼の父は、あの一票の投票者を探して、友達になりたいといふことを彼に告げたことがある。だが、その友達とは遇はずに死んだ。――彼が、今父から享けついで、考へることは「その友達」のこと位ゐのものである。そんなに彼は、父に似て、つまり資金を投じて失敗する事業でなければ、他に何の能もないのだが、父がさういふ事業のみに没頭したので、今は彼の家は貧乏になつて、父の如き生活は営めなくなつたのである。彼は、あの通り幼時から不得意であつた「貧しき日録」に就いて、考へるより他に日の送りやうもなくなつた。そして此頃の日録は、五六行誌せば足りるのである。

 或る日彼は、洋服を着て、ポケツトにオペラ・グラスなどを入れて外出した。――細君は、清々とした。夜おそく、非常に酔つて帰つて来た。翌日、また彼は、今度は和服を着て出かけた。その晩は、帰らなかつた。電車の着く毎に、駅夫の呼ぶ声が聞えたりするのが一寸厭だつたが、細君は久し振りで沁々と読書なども出来て、落つきを感じた。来る時は、郊外はもつと広々としてゐるかなどゝも思つたのだが、蜜蜂の巣のやうな家がいくつもならんでゐる、その一つがこの家で何の気易さもなかつた。こんな家に入る位ゐなら、何もこんな処に来ることもなかつた、と彼女は思つた。夫の故郷の母が、自家の女中を寄して呉れたのだが、たつた三間しかない家で、女中は笑つて帰るより他はなかつた。彼女は、軽蔑をうけた。定めし夫が、いつもの通り家賃とか敷金とかをごまかす為に、故郷の母にあられもない法螺を吹いたに決つてゐる、いつまで不良学生のつもりでゐるんだらう、実家の危期も忘れて――彼女は、斯う思ふと怖ろしくなつた。尚厭なことは、自分まで同類と思はれることだ、何一つ買物をするでもなく、何処に一処に出歩くでもなく、女中のやうに働き、……などゝ続けた時彼女は、思はず、
「あの馬鹿の……」と夫を称んで、反つて情けなくなつた。……「何といふケチな男だらう……」
 静かな夜だつた。彼女は、四つになつた子供の寝顔を眺めると、涙ぐましくなつた。子供は、父に似ず強健な体格で(これを思ふ時だけ彼女は光りを感じた。)――フイゴのやうに順調な寝息をたてゝ眠つてゐた。……だが彼女は、S・タキノの母も、十年余の夫の留居を守つて、常にさういふことを思つたことを知らない。彼女は、此頃変に夫が家に落つかず(どういふわけか彼女は嫉妬を感じない、たゞ変だつた。)、突拍子もない寝言を叫んだり、聞きとれぬ位ゐな独り言を隣室で呟いだりすることを、ふつと思つて、神経衰弱なのか知ら! といふ気がした。と同時に、黒い翼で頭を打たれて――奇妙に不吉な幻を見てしまつた。――いや、これは自分の神経が変になつてゐるんだ、と彼女は慌てゝ、力なくセセラ笑つて見た……。
 翌晩彼は、遅く帰つて来た。相当酔つてゐるらしかつたが、陰鬱な顔をして、大声も出さず、そして盃を取りあげた。
「阿母と一処に暮したい。」
 彼は、そんなことを云つた。誇張した動作は見る者に不愉快を与へる――そんなことを熱海日誌に書いたことなどを彼は思ひ出したりした。
「田舎へ帰つて、ほんとうに勉強しようかしら! 第一此方へ居ると阿母のことを考へなければ、ならないといふことが……ねばならない、ならなければならない、must be といふことは、その種類の如何なるを問はず、負担である。負担は厭だ、虫の好い寝言だと云はれても、性質が性質なので……誰の性質? H・タキノ? S・タキノ? ……」
 細君は、胸で、舌を鳴して凝ツと堪へてゐた。そして、わざと眠さうな顔をして、汽車の響きを、消へるまで後を追つたり、時計の音を数へたりした。
「ウツ! われ徒らに無明の酒に酔ふにあらず……と、云へたら面白からうが、チョツ! お酌をしろ! ……鸚鵡能く言へども、飛鳥をはなれず、猩々能く言へども禽獣をはなれず、いま、人にして礼なくば、能く言ふと雖も、禽獣の心をはなれず、ともあり、或ひは……」
 昔母から教つたことなど、と云ひかけて、あゝと、彼は酔漢らしい仰山な溜息を吐いた……。
 この晩は、細君は、いつものやうに退屈な厭な気がそれ程しなかつたが、その代りに妙に夫の顔つきが薄気味悪るかつた。で、彼女は、
「あたしも小田原へ行つた方が好いと思ひますわ。」と沁々した調子で云つた。だが、あまり低い声で云つたゝめか、夫の耳には入らぬらしかつた。
 彼の頭には、斯んな光景が浮んでゐた。……(牀前月光を看る、疑ふ是れ地上の霜、頭を挙げて山月を望み、頭を低うして故郷を思ふ。)――「李太白」――中学二年の時覚えたものだ。
 まつたく、そこの窓が月明りで白く滲んでゐた。彼は、海辺の部屋に居るやうな気がしてならなかつた。――幼時、春になると、そして月夜の晩には、母は屹度彼を誘つて海へ降りた。――そして彼女は、唱歌を歌つた。私が十を数へる間に、あの舟の処まで駆けて行つて御覧などゝ云つて彼女は、彼を走らせた。彼が、離れるに伴れて、彼女は数へる声を大きくした、そして、一つ一つ間を長くして、九ツに至つた時、未だ彼が夢中で駆けてゐると、彼が擽ツたく思ふ程、待つて、彼の手が舟にさわると同時に、
「十ウ――」と、余韻を長く叫んだ。
「今度は其処から……」と彼女は、云つて、また彼が、夢中で駆けて、母の側に着いた時「十ウ――」と叫んだ。――「今度は、二十にするから一本の脚で飛んでお覧な、往きは右で、復りは左……」
 そんな遊びをして、夜を更した。一本の脚の時は、大抵彼は、復りの途中で疲労して、砂の上に転んで起きなかつた。
 つい此間彼は、母から、――此方が女だと思つて馬鹿にして、何辺脚を運んでも、取るべき処から取るものも取れない、その上××店の主人などは、酷い嘲笑を与へた、そんなことには慣れないので沁々口惜しく、と云つてお前にはこの代りは出来ないし、どうしたら好いか迷つてゐる――といふ意味の手紙を貰つて、××店の主人に彼は、酷い憤りを持つたこともある。
 彼は、いつもと違つて、妙に慌たゞしいやうな素振りで切りに盃を傾けながら、そつと口のうちで「若しもタキノが」とか「……ねばなるまい。」とか「わざとらしいことは出来ないし。」などゝ呟いでゐたが、細君が隣室に去ると、それらの独言が尚も繰り反されて、微かに細君の耳にも解る程になつてゐた。
 ――細君は、自分が神経衰弱なのだと思つて見るのだが、どうも夫の様子が薄気味悪くて適はない、途方もない妄想に駆られて、凝つと子供を抱いてゐた。と、夫の独言は益々はつきり響くのだ。――(お母さん、これから仲善く一処に暮しませうね、)――(たしかに私はあなたのオベジエント、ソンです、今迄のことは許して下さい。)――(頭をあげて山月を望み。)――(足もとをしつかり。)――(だが帰つて何をする?)……。
 と、いやに静かになつたので、細君は、やつと眠つたか、まアよかつた、もう少しそつとして置かう、と思つてゐると、
「ヤツ!」と夫が、何か力をこめたやうな気はひを感じたので、思はず彼女は振り反つて見た。
 すると彼は、端然と背を延して坐り、凝ツと物々しく前を睨み、ヤツと云つて、眼を突いたり、鼻をつまんで上向いたり、耳を釣つて、痛さうに顔を顰めて延び上つたり、口唇をつねつたり、――また、ヤツと云つて胸を叩いたりしてゐるのであつた、夢中で――。
 これを見ると細君は、突然ゾツとして、子供の夜着の中に顔を埋めた。
(やつぱり自分の気の迷ひではなかつたのだ、あの人は到々気が違つてしまつたのだ。)
 細君は、一途に斯う思ふと、全身が震へ、と同時に激しく涙が滾れ出た。
(十四年四月)





底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「新潮 第四十二巻第五号」新潮社
   1925(大正14)年5月1日発行
初出:「新潮 第四十二巻第五号」新潮社
   1925(大正14)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
2011年5月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード