鶴子からの手紙だつたので彼は、勇んでY村行の軽便鉄道に乗つた。勇んで――さうだ、彼は、ちよつと自分の姿を
何とまあ自分は気の毒な慌て者だつたことだらう――彼は辛うじて間に合つた汽車の窓に腕をのせて、真盛りの莱畑を眺めながら、あんな手紙位ゐでこんなにも一個の人間が有頂天になるものか! などゝいふ風なことを自分に対して何といふこともなしに皮肉に考へたりしたが、そんな想ひは窓先を寄切る白い花片のやうに一瞬の間に消え
この汽車の時間に間に合せるまでの彼の騒ぎといつたらなかつた。はじめは学校の
菜畑の向ふには海が青々と晴れ渡つてゐた。走つてゐるのか、滞つてゐるのか、何うしても見境のつかない小舟が点々として落葉のやうに青海原に散つてゐた。崖道に添うて走つてゐる汽車が、曲り角に出会ふ度ごとに景気のよい汽笛を挙げると、菜畑の中から小鳥が飛びたつのが見えた。それほどこの汽車は崖道になればなるほど歩みがのろくなるのであつた。この汽車は、曲り角や急勾配に来るとしば/\脱線するのが珍らしくなかつた。車が脱線すると、車掌が凡そ狼狽の気色のない調子で車中の客に向つて、皆さん、どうぞ、ちよいとお降りを願ひます、陽気の加減かまた/\車が脱れました――こんなに長閑な天気の日だと、車掌はこんな冗談などをいつたりするのであつた。そして、機関手と火夫と車掌と、そしてこんな場合には屹度一人の義侠心を持つた客が現はれるに決つてゐる――四人が力を合せて、車体をおすと、一息で脱線は治つてしまふのである。十人乗れば満員の札を掲げる汽車だつたから――。
春の休みで帰つてゐるのなら何故鶴子はもつと早く知らせて寄こさなかつたのだらう? 今日から鎮守様のお祭だから遊びに来ませんか? なんて、何と白々しい、巧な、意地悪な、礼儀正しさだらう……。
あんな手紙に憾みごとを述べてやらう! などゝ彼は思つた。何も彼も、彼は、甘く、切なく、嬉しかつた。
「帰つたら直ぐに手紙をくれるといふ約束で、わざと僕達は別々に帰つて来たんぢやないか!」と、軽く不平さうな顔を示してやらなければならない――などゝ彼は思ふのであつた。
「僕は、お祭なんかに招ばれたくはなかつたのに――」
「だつて、あなただつてお手紙をくれなかつたぢやないの、新橋まであたしを送らせたりしてゐながら……」と鶴子は攻め返すに違ひない――などゝ彼は、ゴロ/\と鳴る車輪の響に安心して、鶴子の声色を呟いて、夥しく胸をときめかした。
「寄宿舎にあてゝは、矢ツ張り僕は手紙を出す元気は出なかつたんだよ。……僕は、あれから手紙は三つも書いてゐる、その一つを今日、今、此処に持つてゐるよ。」
彼は、チヨツキの内かくしのポケツトをおさへながら妙な挙動と一緒に呟いた。
「それ頂戴――」と彼は、戯曲を朗読でもするかのやうに、女の科白を続けるのであつた。
「はじめは、そのつもりで持つて来たんだけれど、もう、あげる必要はなくなつてしまつた。目の前で読まれるのは困る……」(と僕は思はせ振りな、様子を示してやらう。)
「後で読むわ、頂戴よ!」(と可憐な彼女はいひ張るに違ひない。)
「厭だ/\。破いてしまはう。」(こんなことをいつて逃げ出すと、飽くまでも彼女は追ひ縋つて来るに違ひない――鶴子の書斎で、僕は卓子のまはりをグル/\と逃げ廻つたり、庭先の芝生に逃げ出したりするのだ。そしてよい加減疲れて、つかまつたら、焦れ抜いた彼女は何んな風に僕を酷い目に合すことだらう、あの乱暴者は――)
「御免だ/\! あやまつた/\!」
彼は、切なさうに身悶えして、そんなことを叫んだりした。
石ころにでもあたつたやうな音がすると同時に車が突然止まつた。停車場かしら? と思つて彼が顔をあげて見ると、蜜柑畑に挟まれた蔭の豊かな小径だつた。
「おや/\、今日は馬鹿に具合がよいと思つてゐたらたうとうこんなところで脱線しやがつた。」
「おぢさんや、眠つてゐちやいけねえよ、車が脱れたゞとよう、ちよつくら降りてくれとよう。」
「何てまあよく眠つてゐるおぢさんだらう、ぢや、まあ、ひとり位ゐはそのまゝだつていゝだらう。こんないゝ陽気で、うと/\としてゐる人を起すのも気の毒ぢやないかね。」
彼が車の一角を持ちあげる役目を引きうけた。彼は力に自信がなかつたから、十分な心構へをして真先に腕を伸ばしたが、まだ彼が何んな力も込めないうちに、ガタンと箱車が動いて、車はもう線路に乗つてゐた。――あまり眺めがいゝから、この辺でちよいと一服しようではないかと、老人の乗客が提議すると、機関手も車掌も傘のやうな蜜柑の樹の下に腰を降ろして煙草をふかしはじめた。
丘の中腹にあたつた蜜柑畑なので、小さな左右の岬に抱き込まれた岩石の多い海が泉水のやうに見降ろされた。もう村の子供達が素裸になつて、岩から岩を飛び渡つてゐた。
子供の火夫が、いたづらに警笛を鳴らして休息者を驚かせたりした。
彼ひとりが車の中で腕を組んでゐた。
鶴子の手紙に書いてあつた時間通りに出掛けて来たのだから、屹度迎への方が先に来て待つてゐるだらうと彼は思つて、箱車から飛び降りると素早くあたりに気を配つたが、何処にも彼女の姿は見あたらなかつた。近郊から祭の見物に出て来た人達が、Y村へ向ふ一筋の田圃道を三々伍々行列をつくつて、森蔭の方へ消えて行つたが、それに逆つて進んで来る馬車の姿は見当らなかつた。鶴子は馬車を駆つて迎へに来るはずだつたので彼は、停留場の前の掛茶屋で、脊伸びをして向ふの道を眺めてゐたが、ゆく人のさゞめきばかりだつた。
「この人出で、到底この道は逆には通つて来られないので、思ひきつてあたしは大廻りをして、N街道をまはつて来たのよ。それで、とても走らせたんだけれどとう/\こんなに遅れてしまつて、御免なさい。」
鶴子の馬車が着いたのは二十分ばかりの後だつた、彼が、茶屋の主から、近々乗馬会が催されて、鶴子はそれに加はる由でこのごろは毎日のやうにこの辺を馬で廻りに来る、あなたもそれに参加するのか? などゝいふことをたづねられて、僕は馬は苦手だ、今日も鶴子が馬車を駆つて来るだらうが、そして帰り途には僕を御者にして馬に慣らさうと努めるに違ひないのだが、僕は、何れの馬を問はず、あの物々しい鼻息とか、素晴らしく大きな歯をむき出していなゝく態とか、或ひはまた虻などがとまつて仰山な身震ひなどをするところなどを近々に見ると、一種異様な、神経的な戦慄を覚えるのだ! などゝいふやうなことをいつて、茶屋の主の顔をキヨトンとさせてゐたところだつた。そんな話に耽つてゐて彼は、鶴子の馬車が近づいたのに気づかずにゐた位ゐだつた。
「さあ、早く此処にお乗りなさいな、あんまり待たせたので不機嫌なの?」
「…………」
彼は、辛うじて否と首を振つた。気づかぬ間に突然恋人が目の前に現はれたので、思はず五体がカーツとしてしまつて巧く口が利けなかつたのである。そして、胸先が、擽つたいやうな、変に悲しいやうな、薄ら甘い涙みたいな感じで、一杯だつた。
「あゝ、あたし余り急いで来たのですつかり喉が渇いてしまつた。水を飲まう……」
彼が愚図々々してゐると鶴子は、鞭を棄てゝ車から飛び降りた。
「お祭なのに、まだこんな
彼女は、茶屋の主にそんなことをいつて、暑い/\! などゝ呟くと、ジヤムパアを脱いで彼に投げたりした。そんな明快な親しみに彼は、不図、得体の知れぬ、おそらく予期したこともない秘かな嫉妬を覚えた。
「この道を帰りませうか、それとも往来があの通りだから、矢ツ張りN街道を廻つて帰りませうか?」
「N街道にしよう。」と彼は傍の方を向いて嬉しさうに答へると、先に立つて車に乗つてゐた。二人乗りの軽快な馬車だつた。鶴子は、馬のくつわをとつて馬車の向きを変へてから彼の
「何うしてこの辺は、こんなに人通りが無いんだらう?」
「決つてゐるぢやないの、線路がこの通り通つてゐるぢやありませんか、皆なこれに乗つて行くわよ。」
稀に出遇ふ軽便鉄道は何れもY村を目ざして満員だつた。この前の停留場で降りてからY村までの田圃道は一里ちかくあるのだつたが、この方のN街道を廻つてY村へ行く道は彼は、はじめてだつたのである。
「こんな道、滅多に通るはずはないわ。だつて彼方から思へば倍も遠いんですもの――」
「何の辺で曲るの、この線路道から――」
「この岬を廻つてしまつてね、U村に入るとそこにお観音様があるわ、そこを切れて、川に添つて昇つて行くのよ。」
こんなことを話しながら岬の裾にかゝつて来ると道が中々急な勾配で昇つてゐるので、今までは鮮やかな歩調で駆け続けてゐた馬が歩みをゆるくしはじめた。
「でも、あたしはこのごろお天気さへよければ、大概の朝、これを一周するのよ。」
「乗馬会に加はる練習で?」
「Y茶屋のおぢさんにきいたでせう。彼奴おしやべりだな!」
「何時もは独り?」
「それは、きまつてゐるわ、独りに――。あのおぢさんだつてさういつてゐたでせう?」
丁度後ろから来かゝつた軽便鉄道と彼等の馬車は並行になつた。汽車の方も勾配にかゝると馬車と同じやうにのろかつた。
「お祭だといふのに何処へいらつしやるの、お嬢さん?」
年寄の車掌が鶴子に、車の窓から声をかけた。
「此方をまはつて吾家へ帰るのよ。」
「お客様のお迎へにいらしたの?」
車掌がさういふと鶴子は不図彼をかへり見て笑ひながら、
「えゝ、まあさうらしいわ。」などゝいつた。
「大変な大廻りぢやありませんか、こんな道を廻るなんて!」
「お客様が――」と彼女は徒らに気取つた口調で叫んだ。「この辺の景色を、見物なさりたいんだつて――」
「景色は何時でもあるぢやありませんか、早く祭の方へ御案内した方が……」
「聞えないわよ――」
彼女は、馬の脊で
「怖くはない?」
鶴子は、凝と前ばかり睨んでゐる彼に注意して、
「あたしの肩につかまつてもいゝわよ。」といつた。
「怖くはないよ。――この道の真ツ先きの崖から、この勢ひで飛び込んでも、この馬車が風船のやうになつて、ふわ/\と空に浮びあがりさうに思へるよ。」などゝいひながら彼は、娘の肩に腕をのせた。
「案外なロマンチストね。――あらあら、そんなに重く凭りかゝつたら、ほんとうに危ないわよ。風船どころか、彼処から落つこちたら……」
「――!」
「でも、御者が偉いから安心なさいよ。この崖道を通つてしまつて、村の方へ向つた田圃道にかゝつたら、あなた御者になつて御覧なさいね。彼処なら芝生と同じ道だから、あやまりつこないわ。」
岬の端を廻ると、今度は急な降り坂だつた。彼等はブレイキをしめながら、坂を降つて桃畑の多いU村にさしかゝつた。桃の花が盛りのころで、坂から見降すと村の家々は薄紅色の花で埋もれてゐた。三方を丘にとりかこまれた擂鉢型の小さな村で丘は雛段のやうに桃の花に飾られ、村一帯が静かな日溜りになつてゐた。
「鶴ちやんは、さつき此処を独りで通つて来たんだね!」
「えゝ、毎日通つてゐるわ。これ――」鶴子は幌の天井にさしてあつた桃の花を指して「さつき、観音様の前のお茶屋で貰つたのよ、綺麗でせう。お祭のY村よりも、もしかしたら此処の方が面白いかも知れないわ。」
「それは、何うして?」
「静かで、長閑で――よ。お祭でないと夕方まで此処の村で遊んで行くのだけれど、遅くなつたら
「お祭の見物に来てくれなんて手紙に書いてあつたんで僕は少し、情ないやうな気がしたのだつたよ。だつて、帰つて来たら直ぐに手紙をくれる約束だつたのに――」
坂を降り切つて馬車が平坦なU村の街道にさしかゝつた時分になつて彼等は漸くこんな話を交しはじめた。村は、申し合せた休日のやうに静かだつた。大方悉くの村人はY村の祭見物に出払つた留守だつたのだらう。
桃の花盛りと、午に近い飴色の陽とが、巨大な油絵のやうに拡がつてゐるだけだつた。
彼等が話に耽り出すと彼等の馬車の輪は、物憂気な水車のやうにのろのろと廻つてゐた。馬は居眠りでもはじめたかのやうに首を垂れてとぼとぼと脚を運んでゐた。――彼等は一本の鞭を二人で、釣糸を垂れてゐるかのやうに
「でも、あたし、何か理由が見つからないと何んな風に手紙を書いていゝか何うしても解らなくなつてしまつたの。――だから、お祭を、それは/\待つたのよ。あんな待ち方をして神様に済まないと思ふ位ゐ……」
「誰かに手紙を見られでもしたらといふやうな懸念でもあつて?」
「あるはずがないのにね――」と娘は、微笑しながら点頭いた。娘とこの若者とは両親同士が許した婚約者達だつた、若者が先に両親に乞うて、婚約を
「それは僕にとつては迷惑な結果だつたよ、少くとも今日の場合では――」
「ね、あんまり遅くなつたら変か知ら?」
「何うして――」
「此処からY村の方へ曲らないで、この道を日暮れになる位まで、かうして行きたいんだけれど……」
「…………」
「……――こんな風にして見ない。手綱を放して置いて、馬が歩くがまゝにして、もしあの曲り角で、ひとりでに曲つたら帰るとしませう。」
「それは屹度曲るだらう、慣れてゐるから――」と彼は物足りなささうにいつた。
「でも、この馬までが従順過ぎると返つて困るかも知れないもの。ほんとうは帰つた方が好いのだから。――真ツ直ぐに行つてくれゝば好いが! とあたし達が祈つてゐるのを裏切られた時に、失敗して顔を見合せる――そんな場面があたし何だか酷く嬉しいわ。」
「さうだ。手綱をブレーキに結んでしまはう。鞭はシートの下に入れてしまはう。」
「ハツハツハ……」
彼等はこんな甘いたあひもない話に、うつとりと酔うてしまつた。――手綱を放されても馬は同じやうな歩みで、祭の山車を引く牛のやうにのろ/\と歩いてゐた。もう、いつの間にか村を出はづれた田圃道で、馬車は小川に添つて、Y村の森を目差してすゝんでゐた。――手綱を棄て、鞭を棄てゝ空手になつた各々の両手をとりあつて、光に酔ひ痴れたかのやうに首垂れてゐた二人は、馬車がひとりでに観音堂の
「お祭の太鼓が遠くに聞えるらしいね。」
暫らくたつて彼が顔をあげていつた。娘はそれには答へないで、
「さつき馬車が此方へまがつたのを、あなたは知つてゐた?」といつた。
「かすかに知つてゐた、ほんとうは――」
「何故黙つてゐたの?」
「鶴ちやんは知つてゐた?」
「あたしも知つてゐたのよ、ほんとうは――」
「何故黙つてゐたの?」
「たゞ――黙つてゐたかつたから。」
「僕もさうだつたんだ。――そして、何故だか何んな軽い失望も感じなかつたよ。」
「あら、あなたも! あたしもさうだつたわよ。失望を感じなかつたといつたらあなたにちよつと悪いかとさへ思はれた位ゐ、何んでもなかつたわよ。」
彼等は顔を見合せて、晴れやかに笑つた。
「母さん達が待つてゐるから早く帰りませう。早く帰つて、あたしはおつくりをしなければならないのに――」
「神殿に出る舞姫になるんだつたね。」
「見違へては厭よ、よく見物してね。」
「どれ、見違へるといけないから今のうちによくこの顔を見て置かう。」彼は、そんなことをいつて娘の首に腕をかけて、まぢ/\とその顔を眺めた。
「この道なら大丈夫だから、あなたが今度は御者になつて頂戴! 全速力で走らせて御覧な!」
「
「そして、あたしは臆病な娘なのよ、勇ましい軍人にたすけられた村の娘のやうに、しつかりと、この肩につかまつてゐるわよ。」
「さうだ、しつかりつかまつてゐておくれ! こんな真ツ直ぐな道なら僕だつて平気だ。」
「あたしこんな芝居が好きなんだけれど、何も彼も冗談と思つては厭よ――。何だか、今日は、あんまり綺麗なお天気のせいか、あたりの景色が、夢のやうで光にからかはれてゐるやうな気がするわ。」
「そんなこともなからう。」
臆病な娘と勇ましい軍人――鶴子のそんな芝居が酷く彼の悦びを買つて、彼は生真面目な顔つきで、唸ると、馬の頭上で花々しく鞭を鳴らした。