あいつの本箱には、黒い背中を縦に
どうしてあんなノート・ブツクなどを、そんな風にならべて置くのか自分には彼の了見が解らなかつた。彼は、都の大学では理学を専攻したと、吾家の者や近隣の知人に吹聴してゐると云つてゐたが、当時の彼の生活は自分も知らないので、そして彼の時々の口調から察しても月や星のことなどには割合に精通してゐるらしいので自分も、さう思つてゐた。彼は、哲学などにも多少の興味を持つてゐるらしく、話材がなくなると勿体振つた口調で昔の学者の名前をあげては色々な場合にそれらの所説を引用して、
書籍ならば好いが、そんな筆記帳などをいつまでもそんな風に飾りたてゝおくことに自分は、自分にはそんなものは一切無かつたからさういふものに対する他人の保存癖も解らないわけだが、何だか妙な気がしたので一度彼に訊ねたら、彼はムツとして、
「君は、実に他人に対して無礼な、卑俗な憶測をする奴だ。他人のすることを一概に感傷的だといふ風に軽蔑的な眼を放つ奴は無智な不良の徒だ。――俺は、一見君などからは退屈風に見られる場合だつて、俺の胸のうちには何時も或る種の熱情が
さうかと思ふと彼は、また或る時、変にはにかむやうな吃音で斯んなことも云つた。――「俺はこの通り母家と離れて、ここで斯んな日を送つてゐるんだがね、時々
君は俺が謙遜家でないことを十分知つてゐるからこんなことも白状するんだが俺は、生れながらに怖ろしい阿呆だつたんだ。馬鹿なら馬鹿で未だしも仕末が好いが、馬鹿をかくさうとする感情だけが妙に小賢く発達してゐるのが情けない。」
彼は、慎ましやかに眼蓋を伏せて溜息を吐いた。自分は、彼の斯んなに
「さうだ、君はいつか“Childrens Science”の記者をしてゐたことがあつたね。」
自分は、彼が学校を出て間もなく暫くさういふ子供雑誌の編輯助手をしてゐたことを思ひ出した。それは彼が子供の時分に初号から十年あまりも購読してゐたといふ或る新聞社から発行されてゐた子供科学とお伽噺を主にしてゐた雑誌で、何でも彼は当時大変得意になつて大人の自分の処へまでそんな雑誌を月々贈つて寄したことがある。あの頃の彼の気障さ加減を今でも自分は覚えてゐる。彼が、得々と、似合ひもしないタキシードなどを着込んで、そつくり反つて銀座通りなどを歩いてゐたことを覚えてゐる。あの頃の彼の趣味があまりに鼻持ちがならなくて自分は、成るべく遠ざかつてゐたくらゐだつた。自動車が如何の! 香水が如何の! カフエーが如何の! オペラが如何の! 文学が如何の!(あいつが文学を口にしたのには思はず自分は噴き出してしまつた。そして、文学にでも走らなければ好いがと自分は内々案じた。)
「あれは如何して止めたの?」
「寝坊のために免職されてしまつた。」
「がつかりしたらう。」
「うむ。」
「だが、二三年たつてまた君は東京へ来たんだつたね。」
「行つた。その時に俺は、半年ばかり何とかといふ文芸雑誌の――これも助手だが、記者をやつたよ。」
「へえ、君が! 一体何といふ雑誌?」
「エツセイ。」
「聞いたこともない。――
「…………」
「それは何故止めたんだ。やつぱり寝坊のための免職か?」
「…………」
彼は、妙に首を傾げて、気持悪るさうに顔を顰めた。うまく自分に、云ひあてられたに違ひない。
「お父さんとは近頃は仲直り出来たか?」
「うむ。……」
「で、この頃は、主にノート・ブツクの製作か?」
「それも、まあさうだが――これは内証なんだが――」と彼は、声を低めて云つた。厭に、内証々々といふ奴だと思つて自分は、退屈さうに点頭いた。「俺は、この頃文学に心を馳せてゐるんだ。」
「文学に!」と自分は叫んだ。「君が!」
「小説だ。」
「古典でも研究するのか?」
「いや、自分が作家に……」
「ほう!」と自分は、まつたく狐にでも化されたやうに口をとがらせた。――何故自分がそんなに仰天したかは、いろ/\彼の人と為りを説明しなければ解らないが、兎も角自分は彼の向ふ見ずに舌を巻いた。――成る程、馬鹿だな! と沁々、さつき彼が己れの愚を説いてゐた言葉に同感した。
彼は、此方の冷い心にも気づかず、何か大きな六ヶしいことでも考へてゐるといふ風に、深刻気に表情を歪めて凝つと、海の見ゆる窓の方を睨んでゐた。
(若者には文学病といふ一種の病ひがあるさうだ。あいつもそんな雑誌の記者などをしてゐるうちに、可愛想にそんな途方もない病ひにとりつかれてしまつたのか。)
自分はさう思ふと、さすがに気の毒になつて何か忠告めいた言葉でも掛けてやらうかしら? とも思つたが、直ぐに、
(あいつ、また惨めな芝居をはじめたのだらう。自分で、俺は法螺吹きだと云つてゐるんだから、大丈夫だ!)と気づいたので、自分は可笑しな安心をした。そして、だんだんに彼の
さう思つて見るせいか、彼の横顔を眺めると、その眼は、動物のそれのやうに無智な光りを帯びて、たゞどんよりとしてゐるばかりであつた。開いた小鼻が呼吸に伴れてヒクヒクと動いてゐた。彼は、白痴のやうに口をあいて海の上をぼんやり眺めてゐた。――少くとも自分に、こんな顔つきでは、成る程、沈黙の時には思想はないだらう、そして
「来た、来た、来た!」と彼は、突然酷く慌てゝ叫びながら、しどろもどろになつて何やら自分を促した。
「何だ?」
「向方を見ろ!
彼は、あたふたとして立ちあがつた。――見ると、海に近い松林の間を彼の母と細君が睦じ気に語らひながら歩いて来る。午に近いおだやかな海辺である。
自分には、彼のそんなに慌てる心がさつぱり解らなかつた。――自分は、一年振りで彼を此処に訪れたのであるが、前には斯んなではなかつた、子供沁みてゐたが快活な男だつた、
彼は、早くちに云つた。「俺は
道理で二三日前から、
「いろいろそれにも苦しいわけがあるんだ、後で話さう! ……あゝ、もうあんなに近くに来やあがつた! 好いか君、俺――急に言葉を叮嚀に改めるから、君は、何となく鷹揚に点頭いてゐてくれ。」
自分は堪らなかつたが、彼は酷く真剣で真赤になつてゐるので、
「あゝ、もう石段を昇りはじめた。」
切端詰つた顔つきをしてゐる彼の眼からは、この時ほろりと涙が
自分達は、達磨のやうに向き合つてゐた。
明日は帰らう、明日は帰らう――と思ひながらついつい自分の滞在も、もう二週間あまりになつてしまつた。こゝは、都からは何十里も離れた片田舎の小さな漁村である。
あいつは、未だ眠つてゐる。
昨日の昼には、彼の父と語つた。実に苦しかつた。
「
「中々一生懸命にやつてゐるやうです。」
「哲学を勉強すると厭生的になるツて、ほんたうでせうかな。」と彼の父は、笑ひながら訊ねた。――おやツ、俺は哲学科の先生にされてゐるのかな! と自分は思つて、少なからず面喰つた。あいつはたしか△△大学の哲学科にもゐたさうだが俺は、哲学者の名前も知らない、知つてゐるのはソークラテスくらゐのものだ、それも内容は知らない、何でも多くの弟子共を詭弁家にしたさうだが、自身は偉い哲人ださうだ――詭弁家になつても
「決してそんな御心配はいりません。」
「いや、心配はしませんがね。彼などはうんと厭生的になつた方が好いと私は思ふんですが――」
「それもまあ一つの教育法ですな。」
「一体
「と云ふと何か就職ですか?」
「えゝ。」
「私も考へてゐるんです。」
「何か学位でも取らうといふやうな考へで研究論文でも書いてゐるんでせうか。
「そんなことはないでせう。あなたの様になれば結構ぢやありませんか。」と自分は、この辺で話頭を転じようと思つて、極力彼の父を推賞した。
「おだてちやいけませんよ、先生! 尤も了見は私に似て呉れゝば、少くとも愚図にはなるまいが――生活は真似られたくありません、あゝして
「仕事は中々熱心にやつてゐるやうです。」と、これは自分は、思つてゐる通りに云つた。
「彼の女房も、今はまあ、無邪気だから好いやうなものゝ、何とか早く彼が独立でも考へないと、私でも亡くなつた後には困るでせう、私の女房があれで中々の変人でしてね、小学校の教員をやつたことのある女でしてね、一寸その意地悪るな……身分はその悪い家の娘ぢやないんですが、一寸それを鼻に掛けるといふ風な……云へばまあ、偽善者流の――」
「あなたは一寸偽悪者流の……」
「どつちに似ても困つたものです、先生!」
「…………」
「嫁が可愛想ですよ。」
さうかな! と自分も思つた。彼の細君は彼の方にゐないで、此方で暮してゐる。尤も当人に取つて見れば、あんな彼の傍にゐるよりは此方の方が好いかも知れないが――。
そこに彼の母が現れて、何かの流儀にでも寄るらしい叮嚀なおじぎをして、
「先生。」と云つた。自分は、何だか医者にでもなつたかのやうな気がした。「
何の見込みだか自分には解らない、こんなことなら彼からそれも聞いておかなければならなかつたのに――「大分勉強はしてゐるやうですな。」
「今年もまた試験が駄目のやうでしたら、今のうちに方面を変へさせた方がよろしくはないでございませうか?」
「変へるといふと、どういふ方面へ?」
「先生のお考へは如何でございませう?」
――兎も角自分は、非常に神経が疲れて適はなかつた。
「君は一体
「官吏登用試験――」
「……
「うむ。――それもほんたうのことぢやないか。」と云つて彼は、背後の硝子戸の中のノート・ブツクの列を指差した。
「それも、だつて! ぢや官吏登用試験の方も本気か?」
「俺は、その瞬間だけには、ほんたうにさういふ気になるんだ。」
「いつの間にか君の方が正直な人間になつてしまつたな。俺は、君の悪影響を蒙つて他人の言葉を
「それは無理もないことだ。」と彼は、勿体らしく点頭いた。
「記者はもう厭か?」
「別に厭といふことはない……」
「兎も角、君も、あまり愚図々々としてもゐられさうもない状態らしいな? 何かにならなければなるまい。」
「さうだ。」
「細君には何と云つてあるの?」
「あいつには別段問はれたこともないので、答へたこともないが……」
「そいつは一番楽だらう、君は?」
「ところが楽でもないんだよ。目的を訊ねられて何とか答へる時の方が俺は力を感じるんだ。黙つてゐれば、たゞそれだけのことでお終ひ――ぢや、俺ア心細いんだ。」
「ぢや、訊ねさせれば好からう。」
「そんな不自然な真似は厭だア!」
「ほう! 不自然な真似は厭――と? 一寸待つて呉れ、俺、何だかわけが解らなくなつてしまつたよ……」
「俺も――」と彼は、咽ぶやうに、一気に盃を干した。自分も、何だか困つて、続けさまに、盃を干した。
「ぢや君は、ひとりの時はそれに関することは何にも考へないのか?」
「さて? どうだらう?」と彼は、沈着な様子をして首を傾げた。
「俺には、君は、文学と答へたが――実は俺それは肚では相手にしなかつたが?」
「さうだらう。」
「悪かつたかね。」
「悪かつたね、少くとも親父や阿母の方が忠実な感じだな――」
「あまり忠実なのは、却つて君は困りはしないのか?」
「困らないんだ、そんなに――。困るくらゐなら俺は却つて救はれるだらう。」
「といふが君の顔色には、何らの悩しさも現れてゐない。」――救はれるも、救はれないもあつたものぢやない、何処から見ても神経や思想を持つた人間の顔つきぢやない――自分は、斯う云つてやりたかつたのである。
「あたりまへさ。」と彼は、喉のあたりで重苦しさうにうなつた。不平なら、不平らしくはつきり云つたら好からうに。
「君のことばかりが話材になるんで面白くない、今度は俺のことに就いて話さうぢやないか?」
「俺は、君が羨しい!」
「さうだらう。俺は君のやうな学者ぢやないからな。」
「ほんたうだ。……飛んだ破目から俺は、他人の仕事ばかりを研究し過ぎてしまつた。」
「そんなに勉強したか?」
「あの通りだ。」と彼は、また背後の硝子戸の中のノートを振り返つた。
「結構だね、俺も此方に来てから少々君の趣味に感染して、多少の研究慾が起つて来たよ――一番君のノートを借りて先づソークラテスあたりから読んで見たいんだ。第一君の家人に会ふ時に具合が悪くつて仕方がない。」
「酒を飲みながら俺の研究報告をきいた方が好からう、ノートは読み憎いぞ。」
「どつちでも関はない――その方の歴史は大抵やり尽したか?」
「一応――」
「特に入らうと思つてゐる誰かの哲学があるか?」
「どうせ自発的に初めたんぢやないから慾は出ないが、シヨーペンハワーには一寸ひつかゝつてゐる――」
「あの稀代の厭世家か?」
「さう一概には決められないが。――それでも好く君がそれだけの概念でも持つてゐるね……」と彼は、酷く感心したやうに点頭いた。自分は、軽蔑されたやうな気がした。一体あいつは
「そんな話も一切止めようや。」と彼は云つた。そして初めて、いくらか生気のある顔つきになつた。他愛もない奴だ。――。
「酒、酒、酒、酒! だが君、俺は決して自暴の感じで酒を飲んでゐるんぢやないよ。やけくその不良青年と思つては困るぞ。」
「やけくその不良青年だらう。」
「静かな好い夜だ。――あの沖の方に沢山な灯りが街のやうに点いてゐるだらう――あれは君、何だか知つてゐるか。」
「綺麗だね、俺もさつきから何だらうと思つてゐたところなんだ。」
「あれは烏賊釣り舟だ。」
「烏賊は夜釣るのか――」
「灯りで
「面白いだらうな。」
「然し仮針は……俺嫌ひだよ。」
「かゝりさへすれば、その方が面倒でなくて好いぢやないか。」
「君は殊の他に現実主義者だな!」と彼は、真面目くさつて眼を丸くした。それくらゐなことで非難でもされては馬鹿々々しいと思つたので自分は、気分を反らして何気なく、
「傍で一度見物して見たいな。」と云つた。
「俺の女房の親父は、あそこへ行つてゐるよ、毎晩。知つてゐるだらう、貧しい漁師だよ、俺なんて初めのうちは、自分の親父の舟が眼の先きの闇の夜の海に――さうだ、烏賊は君、月夜の晩ではいけないんだ、チヨツ、どこまでグロテスクだらう――いや、親父が乗つてゐる舟がだね、あんな風に眼の前にチラついてゐたら、それを
「おい/\、もう酔つたのか。」と自分は、稍顔を顰めた。貧しい家の娘だといふことで、こいつ自分の女房を一概に軽蔑でもしてゐるのではなからうか、若しこいつに、少しでもそんな卑しい了見があつたら、首根つこをつかんで釣るしあげてやらう――と自分は思つた。(云ひ忘れたが、あいつは十一貫足らずの目方しかない痩ツぽちで、身は軽いが腕力と来たら何もないのに引きかへて自分は、柔道初段で、目方は十七貫より減つたことはない。酔ふとあいつが、厭に豪壮がるのが自分は可笑しくつて仕方がない。)
「それを眺める女房の身としたら、余程センチメンタルになることだらうと俺は、美しい同情を常に持つてゐたんだが――平気だよ。」
「それあ平気だらう。俺だつて、同じことを想像して見ても平気だね。」
「単に、あの灯を見てゐるだけでも、何か斯う感傷的気分をそゝられんかね、君は?」
「科学者をもつて任じてゐる君が、そんな眼つきをしては可笑しいぞ。」
自分だつて、強ひてそんな心で眺めれば、何か斯う感傷的気分をそゝられないこともなかつたが、うつかり賛同して彼の文学熱でも高ぶらせるやうな仕末になつては大変だと思つた。一体彼は、一見頑固にも見ゆるが他人の言葉で何うにでも己れの趣味を変更させることの出来る性質である。そして、それに或る程度まで熱中することの出来る性質を持つてゐる。それが幸か不幸か? 自分には解らないが、近頃の行き詰つてゐるやうな生活を見れば、どうしても幸福な存在とは思はれない……などゝ思つてゐるうちに自分も酔つて来た。あいつの口を塞いで、此方が饒舌つてやらうと思つた。自分は、饒舌ることはあいつよりは拙いが、あいつ見たいに自分の云ふことに自信のない気はしない。嘘を云つたなどと思つて後で後悔するやうな験しはない。
「それあ、君!」と自分は云つた。どうせ自分には、無学でもあるし、
「フリジアだらう。」
「俺はこゝに斯うしてゐる! 君はそこにさうしてゐる! 二人とも少々酔つて来た! ――何れもこれも、思へば感傷的な存在ぢやないか。」
「あゝ。」と彼は溜息を吐いたが、説伏させられるのも業腹だと思つたらしく開き直つて、
「美的感情が伴はなければ――」と云つた。
「静物の美を君は知らないのか。」
「君と俺との存在もか?」
「君はふざけてゐる!」と自分は叫んだ。「君こそ卑俗な常識的な意識に囚はれてゐる、何んな研究をしてゐるのかも知らないが、君は直ぐに自分本位にするから馬鹿だ! 憂鬱が聞いてあきれる!」
彼は、がつくりと首をうなだれてしまつた。云ひ過ぎたのかな? と自分は思つたが、軽蔑の念は一層高まるばかりだつた。だが、困つたことには自分も、そんなことを考へ、そんなことを饒舌つてゐることを、ふと、客観視すると――何だか、うら悲しいやうな、寂しいやうな、つまらないやうな気がして、自分が何かに
あいつの病気がうつつてしまつたんだ――うなだれて沈黙に浸つてゐる間に、あいつが云ふやうに自分の頭も、たゞ無闇にカラツポであるだけだ、嬉しくも、悲しくも何ともない、何だか饒舌つたことは皆な嘘のやうな気もする――俺も、ノートでも作らなければ居られさうもない気がして来る、人前を取りつくろふために。
さう思ふと自分は、急に彼が好きになつた、珍らしい親しみを感じた。――酔つて来たのだ。
「俺も君と一緒に勉強しよう。当分こゝに滞在することにして――」
「ほんたうか?」
「少くとも君の家人から先生と称ばれても、相当の返答が出来る程度まで――君の、ノートで勉強させて呉れ。さうすれば俺は、あの仮面の苦しみもなくなり、同時に学者にもなれるわけだからね。」
「だが、あれだけのノートを験べるのは中々骨が折れるぞ。」
「何あに俺は意志が強いからな。君が二年かゝつたところを一ト月で卒業してしまふ――一寸愉快だね、二人の趣味が共通して天文学を論じたり、ギリシヤの哲人を拉し来たつて同じ研究に花を咲かせるのは――」
「それは好い……」
「文学は君、本気で云つたんぢやなからう。」
「――さうだ。俺には文章は書けない。」
「自分で書くよりは他人の書いたものを読んでゐる方が何れ程呑気だか知れんからな!」
「それあ、勿論だね。」
「君、腹でも痛いんぢやないのか? 元気がないね。――俺は、素晴しく明るくなつた、当分は君の弟子だ、先生が。」
「腹なぞ痛くはないんだ。俺も何だか嬉しくなつて来たんだ。――飲むよ/\。」
「俺、今までの自分の無智が急に醜くゝなつて来た。あゝ俺は、君を訪れて好かつた。先生の苦しみぐらゐはいくらでも忍ぶぞ。」
間もなく彼も、花やかに酔つた。自分達は凡てを忘れて、声をそろへて歌をうたつた。
ところが自分は、十二時過ぎる頃になると急に眠くなつたのである。前からの屈託のある疲れが一時に発したやうだつた。神経をつかふことに自分は慣れなかつたから――。
自分が疲れ出すと彼は、反比例するやうに元気づいて来た。
好くは覚えてゐない。自分が居眠りをする毎に彼は、ゆりおこして、煩く得体の知れないことを饒舌つてゐた。――「図体が大きいばかりで、単純な奴だ。」
「もう駄目だ、何と云はれても眠い。」
「だまされるな!」
「えツ?」
「いや、家の奴等をうまく欺して呉れ。」
「それは引きうけたと云つてるぢやないか。」
「俺は、今になつて少うし頭がはつきりしかゝつたところなんだがな――」
「……俺は、もう駄目だ。」
「眼に、しんしを張つてやらうか――冗談ではなく、ほんたうに何かさういふ道具はないだらうか?」
「……ばか!」
「俺が欲しい、今ではないが。」
「…………」
「烏賊釣り舟が綺麗になつて来たぞ――おい、一寸起きて見ろよ。あんなに沢山にふえた、提灯行列見たいだ。月が出ればお終ひなんだぜ、あいつ等も……月が出ると烏賊が散つてしまふから仕事は出来ないんだつて……」
「…………」
「誰か俺を釣りあげる奴はないかね、月が出ないうちにさあ……」
「…………」
「……あゝ、俺は、何んにも知らないくせに、たうとうこいつまで欺してしまつたぞ、うつかり――チエツ。」
「…………?」
「好く眠つてしまやがつたな。……舌が出せないので俺は参るのさ! それにしてもまた一つ厄介な破目が出来たのか。俺は、こいつの為に新しい仮面をもう一つ拵へなければならない! 今度は中々六ヶしさうだ。考案の頭もないくせにそれからそれへ何処まで俺は、馬鹿な見得をつくらうとしてゐるのだらう。兎も角、何処かに内証の研究室を拵へなければならないぞ……」
「……未だ起きてゐるのか?」
「おやツ、君は醒めてゐたか?」
「何だか煩くて仕様がないよ……」
「眠れ/\……もう起さないよ。勝手にしろ。」
「…………」
「一層俺も、舟を一つ借りて、かくれて、あいつらの仲間入りをしてやらうかしら? そして、なれるものなら、漁師になつてしまつても関はないぞ! 女房は悦ぶだらう。一寸好いね、こんな晩を沖で過すのも……よしツ、さうしよう。だが、こいつの手前を何と取り繕つてやらうか、何かうまい口実はないかしら? 親父や阿母にも内証! さうだ女房にだつてうつかり打ちあけられないぞ、あいつはやがて俺が大学教授にでもなると思つてゐるらしい。一番
「…………」
「おい、起きろ! 独りぢや面白くない。」
「…………」
――あいつは独りで何時までも何か呟いてゐるらしかつたが、時々激しく揺り動かされるので自分は、すつかり参つてしまつた。何を饒舌つてゐるのかさつぱり解らなかつたが、大方俺が趣味を共にしようと申し出たので嬉しくなつたんだらう。終ひには独りで大声をあげてはしやいでゐたらしい、あんな酔ひ方をするくらゐなら眠つた方が余つ程増しだ――今日からは長たらしい酒だけは止めて貰ひたいものだ。自分は、もう御免だ。
自分は、空腹に堪へ切れなくなるまで海辺をさ迷ひ歩いた。
「先生! 御散歩でいらつしやいますか? おひとりで?」
振り向いて見ると、彼の妻君だつた。
「えゝ、僕にはどうしても朝寝坊が出来ない
「まあ、御結構なこと……」と細君は、酷く羨ましさうに自分の顔を見あげた。
「結構でもありませんよ。斯んな時には退屈で仕方がありません。」
「どうぞ御気嫌をお悪く遊ばさないやうに……」
彼女は、改まつた言葉を使ふのが酷く息苦しさうだつた。一句宛、気をつけながら、拙い切口上で、恰も外国人が日本語を使ふやうな調子で話した。彼女は、言葉使ひにばかり気を取られてゐるらしく、微笑ひとつ浮べなかつた。――「大変に失礼をいたして居ることで御座いませう。」
自分は、彼女が自身のことにうつかり敬語でも使はなければ好いが――などゝハラハラしてゐた。若し誤つて使つても知らん振りをしてゐてやらうと思つた。
「彼の朝寝坊は僕は、昔から知つてゐるから何とも思ひませんよ。なまじ起したつて眼が醒めないうちは夕方までゞもムツとしてゐるんだから、却つて厭ですよ。」
「まあ!」と、この感投詞も彼女は無感激に白々しく云つた。「先生にもでございますか、まあ!」
「いや、関はんですよ。」
自分だつて話し様もなかつた。
「只今入院いたしました。」
突然彼女は、そんなことを云つた。相変らず白々しい調子で、きまりきつたことを報告でもするやうに云つた。
「誰方がですか?」
「
「ど……どうして?」
「珍らしいことではありません、先生がお驚ろき遊ばすといけないから、御様子を見てからゆつくり申しあげるか、でなかつたら急用が出来て四五日のつもりで出かけたが明日にでも帰れゝば帰るから……」
「そんなことは如何でも関ひません。いや、では僕は少しも驚きませんが――飲み過ぎで昏倒でもしたのですか。」
彼女の説明によると、彼は時々、誰にも知らさずに、病気といふ程のわけもないのに、下宿でもするかのやうにふつと病院に入院する常習癖があるのださうだつた。彼に云はせると旅行の代りだなどゝも云つてゐることもあつたさうだつた。――今朝も、病院から知らせて寄した言伝に依ると、うつかり先生のことを忘れて来てしまつたが、此処に来てから急に気になり出したから、よろしく伝へてくれといふのださうだつた。彼女は、もう一時間も自分を探してゐたさうだつた。
「ハツハツハ……あいつのやりさうなことだ。」
自分は、言葉では云ひ憎かつたが、何となく彼の心持が解るやうな気がして、面白くはなかつたが強ひて笑つた。
「で、二三日の間実家の方へいらしつて戴くわけには参りませんでございませうか?」
「いや、それには及びません。丁度私も
「入院中には、あなたは行くんでせう?」
「参りません。鍵がおりてゐます。」
「友達は?」
「誰方にもお知らせしません。」
「ぢや私も見舞には行かれんわけですかな。」
「先生でしたら……」と彼女は、初めて薄ら笑ひを浮べた。見舞といふ言葉を自分がわざと可笑しく云つたのが、彼女にも通じたらしかつた。
「一体何をしてゐるんでせうな。」
「何でも根を詰めて勉強し過ぎると、時々居場所が変らないと、気分が滅入つてしまふんださうでございます。」
「ぢや、仕事を持つて行くんですね。私はまた気休めにでも行くのかと思つたが――」
自分も、空とぼけ方が中々巧みになつたと秘かに苦笑を洩した。
「今朝は、何故か大変に慌てゝ本箱の中の筆記帳みたいなものばかりをすつかり抱へて参りました。」
「大分凝つてゐるらしいですからな。」
さう云つたが自分は、また
「梅雨
「未だ梅雨には入りません。」
「さうですか。ぢや今は一番気分の好い季でせうかな。」
「私は真夏の方が好きでございますわ。」
「あなたは泳げるのですか。」
「はい、泳げます。ですが母がやかましいものですからこの二三年は泳ぎません。」
「彼は?」
「真夏になると、海にばかり来てゐます。暑中休みをします。その前の梅雨季が……」
「梅雨季は誰しも閉口ですな。」
「はい。」と彼女は、何故だか涙でものみ込むやうな心細い返事をした。
自分は、折角験べようと思つた
あいつが帰るまで自分は、何をして暮したら好いだらうか! 自分は、昼寝は好きだから、あいつの留守中ぐらゐの間は、この生暖い潮風に吹かれながらうと/\してゐるのも、却つて結構だが、それでは家人達に妙な先生だと思はれるだらう。
自分は、海岸つたひに病院を訪れた。病院と云つても、たゞの家みたいに小さい。白ペンキ塗りの平家で、海に面した丘の松林の間に建つてゐる。
「××の見舞に来たのですが――」と自分が受付けの者に訊ねると、そんな人は居りませんと云ふ。――? 自分は直ぐに悟つたから、詳しく彼の容貌とか有様とかを告げると、受付子はクスリと笑つて、
「それは△△さんですよ。」と云つた。思つた通りあいつは変名を名乗つてゐた。
なるほどドアには鍵が降りてゐる。
ふと耳を澄すと、何やら低く囁き合つてゐるらしい声がした。……何だ、ばか/\しい、俺は、あいつの孤独癖を尊重して綺麗な同情をしてゐたんだが、馬鹿にしてゐる――秘密の女でもあるんだらう、さう思つたので自分は、ふざけて自分らしい咳払ひでもしてやらうかとした時に、二三人らしい男の朗らかな笑ひ声が起つた。
「好く眠つてゐやあがる! 魔睡を嗅がしてもらつたんだつてさ。」
「一体何時旅から帰つて来たんだい。」
「昨日ださうだ。」
「入院中に旅へ行く奴もないね。」
「このノートは、これは何だい。表題ばかり厭に仰山に誌してあるが、字の書いてあるのは一冊もないぢやないか!」
「ハツハツハ、相変らず酷い怠けものだね。この分ぢや今年も落第するだらう。」
「ハツハツハ、どうせ書きもしないくせに、こんなもの要らないぢやないかね。」
「これで案外気が小さいんだから可笑しいよ。」
「俺も無学だが、こいつの無智には俺、何時かあきれたことがあるよ! どうして君、彼が××大学の哲学科を、悲観の上句退学したかといふことを知つてゐるか?」
「どうしたんだ。勿論ドロツプなんだらう。」
「それには違ひないが、馬鹿々々しくて話にもならないんだ。普段、一時間も出席しないばかりでなく哲学とは何ぞや? さへも知らない、有名な哲学者の名前も知らない。そのくせ図々しく哲学の試験にだけは出席したんだ。シヨーペンハウエルの厭世観に就いて、簡単に述べよ――といふ風な問題が出たんだがね。彼は、二時間の試験時間をたつぷり費して得々として出て来た。」
「さすがにシヨーペンハウエルぐらゐは知つてゐたと見えるね。」
「書けたか? と訊くと、大いに書けた! と云ふ。――スコペンホイルのことなら俺は相当研究してゐるもの、と鼻を高くして彼が云ふんだよ。」
「スコペンホイルだつて?」
「済してさう云つてゐやあがるのさ。問題にはだね、シヨペンハウエルの名前が横文字で書いてあつたんだよ。あいつは、それが読めなかつたんだよ。」
「あきれた哲学学生だね。」
「俺も意地が悪い。知らん振りをしてゐてやつたんだ。あいつは、今だにシヨーペンハウエルとは別個のスコペンホイルと称ふ哲学者があるんだと思つてゐるだらうよ。」
「それあ少し残酷だね。」
「第一その科目が零点であつたことを今もつて不思議に思つてゐるだらう――あいつは、あれで自分の書いたものには中々自惚れが強いんだからな。」
「一体その答案には、どんなことを書いたんだらう。」
「どんなことを書いたらう?」
「今度、それとなく訊いて見ようか?」
――自分は、そこまで聞くとかツとした。彼のためにあいつ等と戦つてやらうと決心した。そんなことを聞いても自分は、何故か少しも自分が彼に欺されたやうな気はしなかつた。変梃な悪友共が一途に憎くらしくなつた。あゝいふのが不良青年の類ひなんだらう。旅へ行つてゐると云つて好くあいつ等を欺してやつた、どうせあいつ等を俺に紹介したつて俺が口も利かないだらうと察して君は、巧くあいつ等をまいてやつたんだらう……。
「だが――」と自分は、もう少し彼の周囲のことや、自分とのことに就いて考へて見なければならないのだが――と思ひはしたものゝ、凡て面倒臭くなつて、彼のために好意ある解釈ばかりを施した上句、拳を堅めると矢庭に力一杯扉を続けさまに殴つた。
「開けろ! 開けろ! 貴様達の知らない、俺は
自分は、夢中になつて扉を蹴つた。