「まア随分暫らくでしたね。それで何日此方へ帰つたの?」
河村の
「四五日前……」
純吉はわけもなくにやにやしながらうつかりそんな嘘を吐いた。
「だつて学校は余程前からお休みだつたんでせう?」
「えゝそりやアもう七月の初めから休みだつたんですが、一度此方へ帰つて来て――」
何かうまい口実は見つからないものかと彼が思ひ惑うてゐるうちに、好いあんばいにせつかちな小母さんはそんな話題にこだはつてはゐず、
「ともかく此方へおあがりよ。今日はもう朝から忙しくて/\、やつと今片づけたところなんです。」といひながら、座敷の障子を明け拡げた。
純吉は縁側に腰を降した儘、煙草を
「旅行にでも出掛けるんですか?」
「旅行? そんな楽しみぢやないんですがね――」といつた小母さんは楽しみらしく、声色に意味あり気な甘味を含ませた。
拙いことをうつかり訊いちやつた! と純吉は後悔した。……みつ子だな――純吉は直ぐにさういふ想像を拡げた。
「清一が明日名古屋へ行くんで――」
「あゝ名古屋ですか。」純吉は口ばやく繰り返して、努めて邪念なさ気に
さて斯うなると何かみつ子に関するお世辞をいはなければなるまい――純吉はそんなことを思つて、それが非常に厄介な気がした。
「みつちやん別に変りはない?」
「えゝ、変りはないが相変らず我儘でね……」
「ハッハッハ。」純吉はいかにもこの家庭に特別の親し味を持つてゐる者のやうな素振で、小母さんに調子を合せた。我儘でね……も何もあつたものぢやない、この子煩悩の愚かな母親奴! 純吉は肚でそんなことを思つた。
「斯んなに此方から行く時は食べ物ばかしを持つて行く……」
小母さんは笑つて、座敷の隅の品物を指差した。
「子供は?」
「いゝあんばいに大変丈夫ださうです。」
「みつちやんが、阿母さんになつたかと思ふと何だか可笑しいなア。」
「そんなことをいつたつて純ちやんだつて、今にすぐお父さんですよ。それはさうと学校は何時卒業?」
「未だ、未だ。」純吉は何の興味もなく呟いた。まつたく彼は、そんなことは大変茫漠とした謎のやうな気がして、そんなカラお世辞をいはれると煙のやうな頼り無さを覚ゆるばかりだつた。彼は、苦い顔をして泉水の水を眺めてゐた。――今迄は古いなじみの為か何の気にも懸らなかつたが、みつ子が居なくなつてからは、親類でも何でもないみつ子の母親のことを今迄通り小母さん/\なんて
「やア失敬、暫く。」
湯あがりらしく艶の好い顔を光らせて、清一が出て来た。
「やア、暫く。」純吉は努めて愛想よく微笑んだ。此奴拙いところに来やがつた――清一が自分のことを一寸さう思ひはしなからうか? 純吉はそんな邪推を廻らせた。
「姉さんが此間手紙で、君によろしくといつて寄越した。」
「あゝ、さう。僕からもよろしくいつて呉れたまへ。」さう答へて純吉は、よろしくとは一体何たることだらう、馬鹿気たやりとりだ、などゝ思つた。それにしても清一の口から自分の消息を聞いて、彼奴まだ相変らず口先ばかし元気なことを喋つてぶら/\まごついてゐるのか! みつ子がそんなに思ひはしないだらうか、などゝ純吉は想像して冷汗を掻いた。
「純ちやんは此頃家に遊びに来るかなんて訊いて寄越した。――だが此頃少しも遊びに来ないんだね、学校の方が忙しいの?」
「あゝ、学校はあまり忙しくもないがね、滅多に此方へ帰らないんだよ……」
さういつて純吉は思はせ振りに、卑しい笑ひを浮べた。
「面白いだらうね、東京の学校は?」人の好い清一は、学校へも行かず家の業を継いだ自分の身を喞つやうに寂しく訊ねた。
「なにしろ彼方に居ると友達が多いからね。」純吉は、そんな出たら目を喋つた。彼は東京には一人の友達もなかつた。碌々学校へも通はず、多く下宿の二階に
夜になつてから純吉は、清一を誘つて酒を飲みに出かけようかと思つたが、口先だけの遊蕩児である身の程を顧みて、うつかりするとそんな処で清一に出し抜かれる怖れを慮つたから、到頭終ひまで、出かけようとは口に出さなかつた。
「一二年前の方が面白かつたね。」
清一がさういつたのは、みつ子が居た頃といふ意味だつた。
「そんなこともないさ。思ひ出すといふ感傷は、何に依らず愉快に思はれるものだがね、さういつて、現在と過去とを思ひ比べてゐることは愚かなことだ。」純吉はいかにも自分は理性の勝つた者であるといふ風に、そして現在だつて面白いことがあるといふ意味を仄かに知らせるつもりだつた。清一は純吉に好意を示すつもりで云つたのだ。それを純吉が邪まに解釈したのでイヽ加減な笑ひでその場を紛らせた。……さうはいつたものゝ純吉の心は極めてもろい感傷に陥つて、
「そりやアさうだね。」清一はきまり悪さうに呟いた。
「だが……」純吉は云ひかけて息の
雨降れ、雨降れ――と純吉は希つたが、日毎に炎暑が増すばかりだつた。朝からギラギラと陽の輝く日ばかりが続いた。だが純吉は毎日欠かさず通つてゐた海を、三日ばかり続けて休んだ。
海の連中と他愛もなく笑ひ戯れることは厭でもなかつたが、それも考へると堪らなく退屈な気もした。心にもない快活を振舞ふことが一層自分を醜くする気がした。といつて彼は他人の前では、それを振舞はなければ、自分の愚図さ加減に堪らなく肚が立つのだつた。結局自分といふ人格は安価なピエロオである以外には何もない狡猾な昆虫のやうな人間である――そんなことを思つて彼は憂鬱になつてゐた。だから恋人は忽ち現れても忽ち此方を振り棄てゝ……あゝ、だが若き日に恋のないといふことは何たる悲惨な光景だらう……そんなことで彼は悶々と暑い日を書斎に寝そべつて打ち過した。そして思ふことは悉く下品な恥しいことばかりだつた。彼は、消えてなくなりたい思ひだつた。
どんなに行儀悪くふんぞり反つてゐてもやり切れない暑さで、純吉の気持はラッパのやうに筒抜けた。
彼はタオルをふところにおし込んでぼんやり海辺へやつて来た。海の連中は相変らず出揃つてゐて、もう二三回泳いで来た後らしく皆なまぐろのやうに砂に埋れて、野蛮な雑談に花を咲かせてゐるところだつた。
「おい/\、死んだと思つた純公が再び現れたぜ、不景気な面をして――」野島といふ柔道二段の法科大学生は、純吉を見あげて朗かに笑つた。
「あいつまた恋愛でも始めやがつたのぢやないかしら。」さういつて野島と一処に徒らに笑つたのは木村だつた。木村は、今年もう一年遊んで来年から慶應の野球部へ入つて「ブリリアンド・ピッチャア」になるんだと力んでゐるスパルタ型の美男だつた。
やつぱり海へ来て好かつた――と純吉は思つた。
「何しろ純公は文科大学生なんだからなア。」野島はさういつて純吉をからかつたが、一寸真顔になつて、
「文科ツて奴は女にもてるさうだのう?」と木村に訊ねた。
「うむ、非常にもてるツてよ。お前も柔道なんて止しにして、ひとつ文学に志したらどんなもんだい。」木村はまぢ/\と野島の顔を打ち眺めて、煽動した。
「俺は文科の学生が一番嫌ひだよ。」純吉はさういひながら、彼等と同じ黒い褌をしめてその円陣に加はつた。「俺あんな学校に入つて沁々後悔してゐるよ、いや学校は知らないが、その文科の学生といふ奴が実にやりきれないんだ。」といつて純吉は一つ息を入れた。
「先づ第一だね、教室へ入るとプンとスエ臭い香ひがするんだ。」
「神経質か、よせよせ、お前が一寸怪しいぞ。」
「いや待つて呉れ――」純吉は慌てゝ手を振つた。だが一寸言葉が続かなかつた、そんな説明も面倒になつて、少くとも夏になつてあの空気から離れてホツとしたことをひとりで味はつた。さうかといつてこの海の連中が好きといふわけでもなかつたが、気易さだけが有難いと思つた。だが、文科の奴等は嫌ひだとか何とかいつてゐるものゝ彼等に勝つた何の心の取得が自分にあるのか、またこの海の連中に比べて何れ程自分は思慮深いか、両方の愚劣な個所だけを兼備へた、そしてその他にはたゞ彼等を上ツ面だけで軽蔑するといふ不遜な心しか持ち合せないのが自分なのか――純吉はそんな妄想に走らうとした鈍い神経を、慌てゝ吹き飛した。
「ところで島田はこの四五日どうして出掛けて来なかつたんだ。をとゝひあたりからとてもキレイになつたぜ。なア木村!」
「とても、とても! それとも島田は柄にもなく御勉強か?」
「無論勉強だよ。俺は君達のやうな不良少年ぢやないからね。」と純吉は云つた。
「ハッハッハ。不良でも何でもいゝから、ひとつ素晴しい恋がしたいものだ、ねエ野島さん。」
「うん、さうだア!」野島は拳を固めて、わざとらしく胸板をドンとたゝいた。
「おい俺が一つ芝居の科白をやつて見るよ、よく聞け。」木村はやをら立ちあがつて優し気なしなをつくつた。屹度何か淫猥な事を
「黄金の羽虫、蜜飲の虫、どこからお前は来た? そんなに私の傍へ寄つてはいけない、お前は何を探してゐる? 私を花だと思つてゐるの、私の唇を蕾だと思つて。いけない。彼方へ飛んでおいで、森の中へ、小川の岸へ、菫、蒲公英、桜草、そこには何でも咲いてゐるよ、その中へもぐり込んで酔倒れるまで飲んでおいで。」女の
「木村、俺にもそれを教へて呉れ、貴様は素晴しく艶かしいことを知つてるな。」野島は木村の背中にかじりついた。「島田はあれを知つてるだらう、文科だから。」
純吉は、何の思ひあたるところもなかつたが、たゞ薄笑つてゐた。そんなことを暗誦してゐる木村を内心大いに感心した。
「飲んでおいで、飲んでおいで、ツと――おい皆なで合唱しよう。」と野島は太い声で音頭をとつた。その時誰かゞ、
「来たぞ/\。」と囁いた。
「うむ来た/\、木村々々。」と野島は彼の背中を叩いて、そして純吉に向つて「キレイになつたと云つたのはあのことだよ。」と教へた。
掛茶屋へ二人の派手な娘が、経木の帽子を圧へて駈け込んだ。娘達は直ぐに、脱衣場へ入つた。それを見極めると同時に突然野島は「ワン、ツー、スリーツ。」と号令した。すると円陣の者共は一斉に眼を瞑つて、砂に顔をおしつけた。
「おい、何だい、何の真似だい。」純吉はのけ者にされた不満を覚えて、それにしても怪しな思ひで野島に訊ねた。
「ともかくお前も早く斯うやれ。」野島はさうすゝめるので純吉も同じく砂に伏して、返答を待つた。野島は、こゝで口を利くのをさもさも惜しさうにぴつたりと顔を砂に埋めた儘性急に説明した。――あの二人の娘達が脱衣場の中で、着物を脱いで水着を着終る迄の悉くの動作姿態を細大洩らさず沁々と想像するのだ――といふ話だつた。
「只今帯に手が懸り、着物に……」
「うむ。」「待つてましたア。」静かな吐息を窺つて各々そんな半畳を矢継ばやに投かけた。
「叱ツ、専念に/\。」と野島は重く退けて、耳を圧へて凝と五体の力を忍ばせた。そして「木村が一番参つてゐるんだよ。」と純吉にそつと囁いた。木村は耳の側まで顔を埋めてゐた。
純吉も命ぜられたまゝに、凝と熱い砂に顔を埋めた。すると彼の眼蓋の裏には、みつ子の古い幻が彷彿として浮びあがつた。――彼は深い溜息をした。――だがまもなく彼の五体は幻とゝもに熱い砂地に溶け込んで、彼は恍惚たる夢心地に堕ちて行つた。さつきの木村の独白が、はるか微かな耳に、麗朗と
再び野島の合図で、円陣は一斉に乱れると各々まつしぐらに水を眼がけて駈けて行つた。二人の美しい娘達は既に彼等の讚美の声を意識してゐるらしく、嬉々としながら仰山に熱い砂を踏んで渚へ走つて行つた。――男達は忽ち波の彼方に整列して、ワイワイと騒ぎながら見ごとな抜手を切つて進んでゐた。
純吉はひとり砂地に残つて、羨ましく彼等の運動を眺めてゐた。彼は夥しい因循な気持に襲はれてゐた。含羞まずに、一投足の労も執れぬ気がして、思はず亀の子やうに首を縮めた。――自分がたつた今罵倒したあの厭な文学々生が取りも直さず自分の姿である気がして、凝としても居れなかつた。もう明日から海へも来ないぞ――さう呟いて彼は自分の懶い書斎を想つて、変な安らかさを感じた。
「おーい、おーい。」
沖の連中は
だが彼は、直ぐにはね起きて、次に持ちあがつた大波の底を目がけて、ピヨンと水の中へもぐり込んだ。もぐつた儘はるか波向うに進まうと思つた。
彼は――水の中で眼をぱつちりと視開いた。
水の底が青白く、小石が真珠のやうに光つて見えた。――やらうと思へば俺だつて快活な業が出来るさ、家に居るのは一層鬱陶しいから明日も矢張りまた出かけて来ようかな――彼はさう思つた。
もう好からうと思つて彼は、首を振つて水の上に顔を現した。――木村たちは、到底彼には行けないずつと遠くの沖を合唱しながら泳いでゐた。振り返つて見ると、彼は波元から二間も先へ進んではゐなかつた。
(大正十三年三月)