「傍の者までがいらいらして来る。」
私が、毎日あまりに所在なく退屈さうに
「えゝ、だけど別段、――別段、どうもね、これと云つて……せめて海でもおだやかになつて呉れると好いんだがな。」と、私はぼんやり天井を視詰めたまゝ呟いだ。
「何んのために来たのだか、解りはしないね、これぢや――」
私達が、何か少しでも保養のためを持つて来てゐるんだ、といふやうに思つてゐる母は、私の所在なげな様子を嗤ふやうに云つた。三月に、私達は父の一周忌の法要の為に戻つて以来のことである。一時あんなに仲の悪かつた母と周子が、今度は何となく表面打ち溶けてゐるのには私は、安易に思つた。私が、間に立つて彼女達から夫々相手のことを告げられるといふやうな不快さもなくなつてゐた。――まつたく何の用事も持たずに私が、周子と汽車に乗つたのは今度が初めてだつた。
私の幼児の栄一には、私の母が何時の間にか好き祖母になつてゐた。だが私は、彼が時々大声をあげて
「おばアちやん!」と叫ぶと、奇妙に五体が縮む思ひに打たれた。そして、何となく母に気遅れを感じた。尤も私は、これに似た感情は嘗て父の場合にも経験した。栄一が生れた当座、吾家の者は殆ど口にはしなかつたが他家の人が来て、
「ホラ/\、これがお前のお爺さん!」などと云つて、赤児をその祖父の鼻先きにつきつけてゐるのを見ると、蔭で私は独りで酷くテレ臭い思ひに打たれた。何となく父に気の毒なやうな気がした。――今度も、それと殆ど同じ感情ではあつたが心の底に何か澄まぬ鬱屈があつてならなかつた。前には、簡単に説明(?)することも出来たものが、今度は何か回り道でもしないと、滅入り込んでしまひさうな弱さに囚はれてゐた。幼児のことは例に過ぎない、この頃の日増に鈍さが増して行くらしい自分の感情が、家族の者などを思ふ場合などに――。
斯んなことを云ふと、私が何か忠実な家族の一員で、世俗的な何かの負担でも感じてゐる(自分ではそんな風に自惚れることもあつたが)やうだが、私のこの他人に迷惑を及ぼす程の怠惰性は生来なのである。――この頃、私は、その内容に何か理由あり気なものを蔵してゞもゐるといふ風に考へるのは、自分に対する一種の虚飾的方便に過ぎなかつたらしい。この程度の鬱屈さならば私は、子供の時分から繰り反してゐる筈だつた。
母と、十五歳になる弟と、妻と、長男の栄一と、そして年齢だけはとうに成年に達してゐる自分と――。
私は、時々何も思ふことがなくなるとそんな風に僅かな自家の同人の数を算へたりした。――五人である。そして私は、自分の彼等に対する所謂「親情」が、斯んな風に技巧的に考へて見ると、程度の別こそなかつたが、夫々何となく形ちが変つてゐることなどを、強ひて思つて見たりした。……必要もないのに、母と弟を故郷に残して自分が東京などに別居してゐることが、憐れに思はれた。――そして自分は、今東京に出て勉強してゐる学生が夏休みを得て帰郷でもしてゐるやうに、「休養」を見せかけてゐるのだ。東京にゐたつて、今だつて、自分の生活にはなんの変りもないのだ。
「つまらないだらう、これぢや?」
母は、周子を顧て笑つた。――「何処かへ出掛けるつもりぢやなかつたの?」
「…………」
周子は、困つたやうな苦笑を浮べてゐた。
「あゝ、頭が重い――」
「そんなに毎日ごろごろしてゐれば、頭だつて重くもならうさ、誰にしろ。」
「……当分、此方に居るつもりで来たんだが、もう飽き/\してしまつた。」
「自分で一軒家を持つて見ると、仲々出先きでは落つけないものさ。」と、母は何気ない好意で云つてゐるのに、私は妙に意外な感を抱いたりした。勿論私には、そんな気は少しもなかつた。――一軒持つてゐる……私は、同じ言葉をそつと胸に繰り反して寂しい苦笑を感じた。どうして又そんな言葉が母の口から出るのだらう、自分が齢だけは成年に達してゐるにも係はらず、何の点から見ても考へも行ひもそれらしくならない……そんなやうな意味のことをつい此間だつて母は、厭味らしく云つてゐたではないか?
「まつたく見てゐる方でも可成り辛いからね、思ひやりで……」
母は、尚も同じことを云つて、周子の顔を見たり、天井を眺めて仕様ことなしにあんぐりと口をあけてゐる私を見降したりした。
私は、いちいち周囲の言葉に拘泥して、いぢけた不自然な憶測を回らせたりなどしながら、我とわが身を卑屈の谷に落して行く、鬱陶しさに自ら酔つてゐるのではないか? などと思つた。
周子と結婚してから丁度五年経つてゐるが、その間、今に限らず、また母に限らず、何処に住んだ時にも私は、これと同じ言葉を常に彼女からも聞いてゐるのだ。常々のそんな性質を忘れて、何か勿体振つた鬱屈の種を私は探さうとでもしてゐるのか? 学生の時分夏休みで帰つてゐる間(夏休みには限らない、春も冬もその休暇を私は、勝手に前後を延して帰郷してゐるのが常だつたが。)やはり同じ意味のことを、母の口から、そして、その頃ずつと吾家で暮してゐた母方の祖母の口から、聞き飽きる程聞いてゐるのだ。たゞ、当時の母の小言は、今のと反対に攻撃に富んでゐた。
「朝寝坊と、ごろごろが治らないうちは貴様はとても駄目だぞ。」
祖母は、時々疳癪を起して斯う云つた。
「何が駄目なの?」
「――ツ! 加けにだんだん図々しくなつて来る、眼に見えて。」
「いくらか違つては来るだらうさ……」
普段は他人に対して変な調子の好さを持つてゐるが、昼もなく夜もなく部屋に閉ぢ籠つて呆然としてゐるやうな日が続いてゐる時には私は、他人と言葉を交して見ると余りに自分の言葉が不遜に放たれるのに、自分で一寸と驚くやうなことがあつた。
「機嫌かひ!」と、祖母は云つた。――「理窟もない時にふくれツ面をしてゐる奴は、馬鹿なんだぞ。……不平がある時は、普段よりも気嫌好くしてゐるのが当り前の人間なのだ。」
「何にもないんですよ。」
さう云つて私は、笑ひ出して急に快活になつたりした。
「もう、直ぐに嫁を貰はなければならない齢が解らないのかね。」
「…………」
祖母と父とが、私の結婚に就いての話をしてゐるのを蔭ながら私は知つてゐた。祖母達は、私の当時の怠惰が何かそんなことに起因してゐるのではないかしら? といふ風な疑ひを、可成り露骨な言葉で話してゐた。――この祖母は、五年前の春、私達の家で老衰病から高齢で死んだ。
「体にも毒だぜ。」
「そりや、……だから僕だつて、斯うしてゐながらも主に健康に就いての養生を考へてゐるんですよ。」
「年中……」と、周子は云ひかけて、生活の上では私が色々母を欺してゐることを悟つて、年中同じことばかり云つてごろごろしてゐるんですよ、何処にゐる時でも――と云ひたげなところを続けなかつた。
「ほんとうに傍の者の方が……」
「あゝツ! あゝツ!」と、私は時折傍若無人な法螺貝の音に似た溜息をついてゐた。――これから永く、この自分の傍にゐなければならない周子は堪らないことだらう、お母さんなんかこの頃別居してゐるので返つて幸せさ――私は、そんなに馬鹿気て消極的なことを思つたり、今はもう亡い幾人かの吾家の人々を幼時の自分の周囲に置いて、そのうちで唯一人眼の前に残つてゐる母を、幼時の自分にその儘結びつけて回想したりした。少しでも自分と一処に永く暮した人が、一番多くの不幸を自分の為に味つてゐる――そんなことを私は、少しも遠慮勝ちな心になることなしに徒らに洒々と思ひ耽つたりした。
私は、そつと、自分の思ひ過しか窶れた風情の窺はれる周子の横顔を覗いた。
そして勝手に私は、あのやうな生来の性質をも忘れて、近頃の――といふ風に限つて、この鬱屈の底に何か眼のあたりの事件的な起因を裏打ちしようとしてゐるのであつた。
庭の隅では、ギラギラと眼呟しい真昼の陽の中で二人の井戸掘人が満身に力を込めて、黙々と井戸を掘つてゐた。
「あと、幾日位ひかゝるんでせう。」
「ほんとうなら十日程前に仕上る筈だつたが、それでは出が薄いといふので、また後十日程続けるさう――」
「大丈夫なんでせうか。」
「あの人達は、あの通り一生懸命なんで、見る度に何だか気の毒になつてね。」
母と周子は、そんな話をしてゐた。
また、申し合せたかのやうに意地悪く、暑い好い天気ばかりが続いてゐるのにも係はらず、海は毎日不気味な荒れ模様を保つてゐた。私は、海水浴をすることだけは可成りの楽しみを抱いて帰つて来たのである。私は、毎朝波の静まるのを希つて、時には朝午と二度も、ぼんやりと腕を組んで沖のあたりを眺めてゐる漁夫達の列に加はるのであつたが、何時も舌を打つて戻つて来た。
私は、たゞ黙つて碌々してゐるのではなく、今度に限らず、始終わけもなくこせこせと落つかぬ素振りを示して、まつたく母などが云ふ通りに傍の者までに迷惑を及ぼしてしまふのであつた。此方から進んで傍の者の心を掻き乱さうとでもするやうな調子で、
「あゝ、退屈で堪らないなア……」と、突然筒抜けた声で叫んだり、こんなに好い天気だといふのに如何して斯う海は毎日荒れ模様なんだらう? などと往来で出遇つた呑気な人達が他に語るべき用もないのを取り繕ふ為に挨拶の代りに天気の話を取り換す言葉を、独りで焦れツたさうに呟いたり、そして、見てゐる者がゐなければそれ程仰山な真似もしないくせに、
「あゝ、斯う頭が重くては到底やりきれない。」と云ひながら、酷く六ヶ敷い顔つきをして首筋のあたりをポンポンと拳固で叩いたりするのであつた。
「あまり運動しないために到々胃病になつてしまつた。前の晩に食べたものが何となく胸のさきへつかへてゐて気持が悪くつて仕様がない……斯うやつて見ると――」
さういつて私は、水をすくふ時のやうに手の平を凹めて、そこに口を近づけ、徐ろにながく、ハアッと息を吐きかけて、
「あゝ、臭い/\! 何といふ酒臭いことだらう、悪くなつた酒の香ひと同じだ、これアたしかに胃の働きが鈍くなつてゐるんだ、困つたなア!」などと嘆息しながら、尚も熱心に「ハアツ! ハアツ……ウツ、臭い/\、とても。」
さう云つて悲し気に顔を顰めた。「海で、運動をして来れば、夜になれば死んだやうに眠れるんだ。酒なんて飲む余裕はなくなるだらう、斯んな健康が嵩じては大変だ。」
その癖私は、夜になると妙に快活な飲酒家になつて楽天家らしいことばかりを喋舌り出すのであつた。
「だが、自分では好くも解らないから誰か一寸と僕の口のにほひを嗅いで見てお呉れな? 一寸と――」
私は、そんなことも云つて稍暫くあんぐりと口を開けてゐたりした。勿論私は、いくら近親でもそんな要求を享け容れて呉れる者があらうとは思はないのだが、皆なが黙つて顔を見合せてゐると、同じ言葉を幾度も繰り反しながら、終ひには天井を向いて、吐月峯になつて待つた。
母は、鼻をつまんで横を向いた。
私が子供の時分には、母は時々私を抱きあげて、
「お前は虫歯がある位ひなんだから、そして寝る頃になつて何か食べたがつたりする癖があるんだから、どうかすると口が臭いことがあるぜ、口が臭い程みつともないことはないんだから余ツ程気をつけなければいけないよ。――今日は、どうだらうね? さア、ハアツと息をして御覧?」と命ずるのであつた。そして母は、仔細に私の息を試験したものだつた。五度に二回位ひの割合で私は、この検査に落第した。不合格の時は、何となく私は他人の前に出るのを恥らふやうな臆病心を養成されて、治るまでは食物を気をつけもし、自ら進んで熱心な嗽ひをすることも煩としなかつた。――私が、八才の時に死んだ祖父は、毎晩のやうに私をとらへて、お爺さんと一処に寝よう? とすゝめた。
「お爺さんの口は、お酒臭いから厭だ。」
私は、顔を顰めて何時もさう云つては祖父の手を脱れた。酒臭い、臭くないにかゝはらず私は、大人の口は何だか薄気味悪くてならなかつた。祖父も祖母も母も、私が云ひ出せば厭といふことなく諾々として私の息を検査して呉れたが、私はそれに何か子供の特権とでもいふやうな手前勝手な当然さを感じてゐた。
私が逃げ出すと祖父は、面白がつて、蛇のやうに大きな口をカツと開けた、眼をむき出し鼻筋に彼をつくつて、ゴーゴーと喉を鳴らした、そして、どすぐろい口腔から火のやうに凄じい酒気をハアハアと吐き出しながら私に迫つた。私は、まつたく神経的な悸えを感じて夢中で逃げ出した。或る時祖父は、母に向つて、私のことを、
「彼奴は、ほんとうに俺を嫌つてゐるのぢやないかしら?」と、寂し気に訴へたことがあると云ふ話を、青年になつてから私は何かの序でに母から聞いたことがあつた。
「ぢや、俺は斯うしてしつかりと口を圧えてゐるから、お前、俺にやつて見な。」
終ひに祖父は、屹度斯う云つて二つの手の平で口を圧えて、私の近づくのを待つた。私は、静かに近寄つて、祖父の鼻柱をめがけて思ひきり強く、ハアツ! と息を吹きかけるのであつた。すると祖父は、重々しく、研究的に首をかしげて、
「うむ、うむ――ちつとも臭くはない。」と点頭いた。疑念を抱いたりすると私が直ぐに気嫌を悪くするからであつた。疑念は、母にのみ許してゐたのだ。祖父のこの甘い検査に合格すると私は、大手を振つて順次に祖母や母の前で同じ真似をした。祖母も容易く点頭いた。母は、このやうにこれが稍遊戯的になつてゐる場合でも決して容易くは点頭かなかつた。だから私は、母は一番後回しにするのが常だつた。――兎も角、皆な私にとつて忠実な検査員達であつた。
母が鼻をつまんだ様子を見て私は、ふとそんな思ひ出に走つた。――現在でも、殊に最近私は、時々口臭の不安を感ずると、そつと周子に頼んで験して貰ふことがあつた。彼女は、決して鼻をつまむやうな真似をしなかつた。私の幼児の頃の母と同じやうに、たゞ母のやうに積極的ではなかつたが彼女は、私に忠実だつた。私は、いつもその時には彼女に妙な感謝を持つた。だが、私としても、今では、冗談でなくては母の前でそんなことを云へる筈はなかつた。たとへ母が鼻をつまゝないで、私の方を向いたにしろ私はおそらくテレて突然別の話に移してしまつたに相違ないのだ。
今では、何と云つても周子が自分にとつては一番身近くの者であるのか?――私は、そんなことを呟いで、一寸との間怪し気な感傷に耽つたりすることなどあつた。
「
「でも、急に可笑しいわね、この頃になつて突然……今までは?」
「子供の自分には……」
「子供の自分ぢやないわよ。」
「いくら女房だと云つても、そんなことを頼むのは悪いやうな気がして――」
「ほう……」
「いや、冗談ぢやないんだ。だから今までは独りで斯うして……」と私は、例の如く凹めた手の平に息を吐きかけて見せた。
「おゝ、厭だ。子供なら兎に角――」と云つて彼の女は眉をひそめた。
「だからお前に頼むんだよ。」
「ぢや、あたしと一処にならなかつた前はどうだつたの?」
そんなことから彼女は、変に疑ひ深い眼をあげて不平さうに私を睨めたりした。斯んな話をして居る間だけは飽く迄も私は、従順な依頼者の立場を失はなかつた。そして、彼女も快く承知した。
私の一つの呼吸は可成り長く保つことが出来た。私は肺量が強かつた。私は、中学の時分にラツパ吹きの選手であつた。――私が胸一杯に空気を吸ひ込んで、そして徐ろにそれを吐き終へるまでには大概彼女は途中で一つ別の息を衝かずには居られなかつた。時にはこれが我慢の競争のかたちになるやうなこともあつたが、私が負けたことは嘗てなかつた。彼女は、いつも試験を始める前に用意のために長く一つの息を吐き出して、それが止絶れる瞬間にウツと微かに合図するのであつた。彼女は、口を結んで胸を拡げ、嗅覚だけに生きた――私は、洞ろに口をあけて、凍えた手を暖める時のやうに沈重な息を吐いた。
彼女は、私の唯ひとりの公平な試験員になつてゐた。終ると私が先に、
「今日は、どう?」と、臆病な態度で訊ねるのであつた。すると彼女は、疎かな様子を見せぬために一寸と首を傾けて、注意深く、
「今日は、未だ少しお酒のにほひが残つてゐる。」と正直気に答へて、自ら点頭くことがあつた。
「今日は何でもない、綺麗!」
斯うきつぱり云ひ放つて、私と共に晴れやかな顔になることもあつた。
「ウツ! 今日は、とても堪らない、ウーツ、酷い、酷い! 鼻が曲りさうだ。」と叫んで彼女は、己れの鼻や口のあたりの空気を勢急に払ひのけることがあつた。
一ト月ばかり前から頻繁に斯んなことを始めてゐたが、彼女が細い観察を披瀝すればする程私は、好気嫌に意を強くする態度を示すので、この頃では彼女はすつかり手心を覚えて、時には、私に二度も同じことを繰返させては、これには夥しく自信のない私の心に好き得心を与へることに努めた。
同じやうに頭の重い鬱陶しい日ばかりが私に続いてゐた。
私は顔を洗ひに行くのも面倒で、いつもの通り午近くに寝床を離れると、椽側に出て猫のやうに凝ツとしてゐた……夏の真昼だといふのに、妙にあたりが明るいばかりでさつぱり暑くないな! そんなことを私は呟くと、口笛を吹きながらさつさと歩き出した……。
祖父と父が無表情で、睦まじさうに並んで井戸掘りの仕事を眺めてゐた。この屋敷続きの畑を潰して、貸家を建てたい! と父は思つてゐた。祖父は、父のさういふ考へを卑んでゐた。私が見あげると、井戸掘りの櫓が石油坑の櫓のやうに高く空にそびえてゐた。これなら大丈夫だ! と、私は思つた時眼が醒めた。私は、醒めたり眠つたりする惰眠ですつかり疲労して、やつと床を離れた。――夢だつたのか! と思ひながら私は、夢のやうに椽側に出て猫のやうに凝ツとしてゐた。
「向うの家の時分には、随分幾度も井戸を掘つたやうな気がするが!」と、私は其処で井戸掘りの光景を眺めてゐた母に話しかけた。
「お爺さんは井戸好きだつたから。」
母は、椽側に腰かけて見物してゐた。女主人らしい母の様子が寂しく私に感ぜられた。祖父と父が職人を雇ふことが好きで私の古い記憶にはさういふのどけさが多かつたが、職人の仕事を見る者はやつぱり祖父と父でなくては私の感じに慣れなかつた。
私は、だるく重い胃袋のために動くことをはばまれた気持で、口臭を気にしながら母の傍に並んでゐた。――周子は、その従妹の良子が四五日前東京から遊びに来てゐるので、私の弟などと一処に毎日海へ通つてゐた。海は、もうすつかりおだやかになつてゐたが、いざさうなると私は彼女達と共々に出かけるのが何だか厭で、誘はれゝば返つて何か口実をつくつて出かけなかつた。そして、この間うち海の静まるのを希つてゐた頃と同じやうに碌々として、変に口煩くばかりなつてゐた。
良子が来てから、私は、周子と二人ぎりになる時間がないので口臭の不安をたゞす機会を失つてゐた。斯うなると何よりもこれが気にかゝつてならなかつた。そればかりが気になつて、良子となどは殆ど言葉を交したこともなかつた。他人の前に出ると、酷い頓珍漢になつてしまひさうな怖ればかりを抱いた。で、自分にとつて近頃の周子が一層有りがたい、掛け換へのない人物になつてゐる――そんな妄想に走つた。……慣れた剃刀を紛失した時と同じやうな不便さ、借着をして他人中へ出て行く時のやうな不安心さ、秘密を胸に蔵して告白しない苦しさ……そんな途方もない形容詞を弄んで一層気分をくすぶらせてゐた。――私は、おそらく幼年時分からの習慣通りに、週期的に襲はれるモノマニアが嵩じて、いつもの神経衰弱にかゝつてゐたに相違ない、眼に映る様々な物象が己れの悪い心境にのみ関聯して、悉くが否定と「あやふや」と、懶惰と、白つぽい怖ろしさとの奈落に沈んで行くのが常だつた。また、日常の瑣細な様々な不安心などは、一瞬間のハズミに目醒しい突風に
「今日こそは朝起きをしようと思つてゐたのに、また失敗してしまつた。」
私は、乱雑に首を振つて舌を鳴らしながら立ちあがると、剃刀を取り出し、ヒタヒタと強い鞭の音を立てゝ革砥を合せた。
「この頃の井戸の掘り方は、前のとは何だか大分様子が違ふやうですね。」と私は母に訊ねた。私の記憶では、十年ばかり前に一度以前の家の方で見て以来だつた。――私は、声一つ立てずに庭の隅でコツコツと働いてゐる二人の職人の様子を見てゐた。
「井戸清ばかりだつてさ、あんな騒ぎをして、あんな大がゝりなことをするのは!」
母は、吾々と古いなじみの井戸清を冷笑して、爽々しさうに向ふを眺めてゐた。井戸屋と云へば私達は、彼等父子より他に知らなかつた。祖父は、井戸を掘ることが好きだつた。私が知つてゐるだけでも、小さな屋敷のうちに三つの新しい井戸を掘つた。そして、毎年夏になると賑やかにそれらの井戸換へを行つた。父は、普請好きで貸家などを五六ヶ所に建てた、だから矢張りいくつかの井戸を掘つた。(大震大火で家は凡て灰になり、井戸は悉く埋まつた――祖父達の遺業は何一つ残つてゐない。)――私は、遠い場所の時でも普請場へ出かけて井戸掘りの光景を見るのが好きだつた。子供の私は、吾家で井戸掘り作業が始まつてゐる間は慌てゝ学校から帰るのが常だつた。その頃の私の親しい友達は三人あつたが、皆な私と同じように井戸掘り見物が好きだつた。家の一町も前に来ると、木々の間から高い足場の立つてゐるのが見えた。二人宛向き合つて、それが三組か四組になつて(頂上には一人が鳥のやうにとまつてゐた。)順々に高く夫々の足場に陣取り、夫々真ン中を突き抜いてゐる一本の長い棒を握つて、一番上にゐる首領が声高らかに音頭を取ると一勢に他の者が非常に余韻の長い掛声で歌ふのである、そして徐ろに棒をあげ、歌の切れ目で静かに突き降ろすのであつた。
「みんな口に抜けてしまつて、あれぢやほんとの力が入らないのも道理さ。」
母は、さう云つて、彼等が如何に仕事を勿体振り、縁儀を担ぎ、どんなに家中の者の手までを病はしたか! などと云ふことを可笑しさを含めて話した。
「さうだらう、あれぢや口に抜けてしまふのも無理はなからう。」と、私も同意した。井戸清は、私達が見物してゐると何か私達に話しかけるやうな文句を、その儘節をつけて抑揚の永い掛声にした。わざと生真面目な顔をして、どうしても子供の私達が笑はずには居られない言葉を次々に歌つた。――私が東京の学校に入つた初めの夏、やはり彼等が裏で仕事をしてゐた。私より五ツ六ツ年上の清の倅は、いつもの通り父親と向ひ合つて交互に朗らかな音頭をとつてゐた。私は、往来で二三度見かけた町の雛妓に初恋を感じて終日鬱々として部屋に引き籠つてゐた。そして、この頃の憂鬱症と殆ど変らない状態で、同じやうな妄想に病まされてゐた。私の窓から、彼等の仕事が見へた。私は、彼等の勇ましい声を聞いて程好く妄想から救はれた。――私が子供の時彼等から歌で話しかけられたやうに、女中が傍を通ると私が見てゐるのも知らないで彼等は切りに掛声でからかつてゐた。九月の末になつて私が厭々ながら東京に帰る頃になつても未だ彼等の仕事は終つてゐなかつた。――清にからかはれると女は、赧い顔をして逃げ出したが、もう来さうなものだがなア! といふやうな掛声をすると、彼女はまた素知らぬ顔をして其処を通つた。彼女は、後にこの倅の清と結婚した。――それを母は思ひ出して、忘れてゐた私に告げ、
「あの時は何でも、八百長で仕事を永引かせたんだつてさ……碌な奴ぢやないんだよ。」と、新しいことでも憤慨するやうに云つた。――何でも私は、その時東京へ帰つたが一層憂鬱病が募つて、吾家の部屋で朗らかな彼等の音頭を聞いてゐる方が未だしも救かる気がして、間もなく戻つてゐた。
掘り上ると彼等は、花々しい縁儀の酒盛りを行つた。父は、この宴に芸妓を招いで彼等と共に踊りをおどつた。私は、茶の間から母と共に父の馬鹿/\しさを嗤つてゐた。私が障子の硝子からそつと庭の方を振り返つて見ると、近所の人達の白い顔が薄暗がりの中で大勢凝ツと此方を睨めてゐた。見えないやうに障子を閉めて置いたのだが。
「阿父さん!」と、母は堪りかねて時々声をかけた。草葺屋根の家ばかりがぽつ/\と並び、提灯を下げずに通る人はないやうな場所だつた。私も、顔を赧くして、
「阿父さん!」と呼んだ。座敷には、滅茶滅茶な濁声が充満してゐた。――近所の主人は大抵古風な和式の人々で、隣家の主人などは未だに外出の時には鉄扇を持つて出かけるのを異様としてゐなかつた。一様に私の家程度の裕福でない家ばかりだつた。吾家なども斯んな風に述べると花々しくも見ゆるが、他家と同じく少しばかりの財産を極く少し宛減らしてゐる家なのであつた。外出先きから戻る時に、吾家の門をくゞる十間前から「
「そウうろツたア/\、総おどりだア、総おどり――」
座敷では今や大乱痴気の態たらくで、一同の者が男女入り乱れて近在農村地方の何かの踊りを演じてゐた。清の倅は双肌を抜いで、先頭で大見得を切つてゐた。父は、その踊りは知らないと見へて独りだけの大胡坐で、
「やア、面白れエ/\!」と叫んで切りに手を打つてゐた。
「気狂ひの寄り合ひだ。」
「まつたく……」と、私は母と一処に呟いだ。
終ひに彼等一同は遊廓へ繰り込んだ。母は、幼い二郎を伴れて里へ帰つてしまつた。二日経つても父が帰らないので私が、清の家へ行つて見ると父は其処で酒を飲んでゐた。二三日経つて、半紙位ひの大きさの土地の新聞に「愚かなる○○○○」といふ見出しで、名前だけは○○にしてあるが誰が見ても父と解るやうな罵倒が載つてゐた。平常の豪語にも似合はず父は、それが源因でもなからうが当分の間一室に閉ぢ籠つて蒲団を被つてゐた。父にも週期的にさういふ性癖があつた。祖父のことは知らないが父の弟のことなどを考へて見ても、私のそれは父系の遺伝であるらしい。――間もなく父は、近隣の旧交会から除名された。だがその頃にはもう元気を回復してゐて、日本人はもう相手にしないと云つて南洋の殖民事業を計画した。これではまた酷い失敗をした。……近隣の旧人は今はとうに離散してゐるが、どうして私の父だけは失敗の事業ばかりをしながら大した惨めにも陥らずに一代を送り得たか! いや、そのお蔭で、
「あそこの家も、今では一体何処に住んでゐることやら?」
そんな噂もされてゐるさうだつた。――私は、母と二人で悄然と寂しい井戸掘りの光景を眺めながら、それとなく聞き伝へた古い町の人々からの噂などを思ひ出してゐた。
「お前も一度清に煽てられたことがあつたけね。」
さう云つて母は、含み笑ひを湛へた。
「煽てられたわけぢやないが……」と、私は思はず顔を赧くした。私は、その頃清と一処に初めて町の料理屋へ登楼して、終ひには一家に悶着を起させるに至つた程の或る失敗をしたことがあつた。私は、そんなことに触れられたくなかつたので、
「この間阿母さんから貰つた手紙には、たしか井戸清を頼んだと書いてあつたが……」と訊ねた。
「あれぢや困るんだが、古い出入りなんで私もそのつもりだつたんだが、今ぢや商売換へをしてしまつたんだつてさ……さすがに頼み手がなくなつたと見へて――」
「さうかね……」と、私は軽く点頭いた。私は、母の手紙を見て、此方へ帰る時には多少井戸清のことを考へてゐたが、そして彼等に古い頃と同じな退屈晴しを索めてゐたやうな気もあつたのだが、母から今そんなことを聞くと一層それを明らかに感じた。
私達が腰をかけてゐる直ぐ前では、たつた二人の職人が私の覚えにある井戸清の方法とは全で違ふ――低い足場で、軒先き位ひの高さの処に大きなバネを据えつけて、それに棒を結び、下の方に把手をつけ、二人がそれを握つて、声一つたてずに汗みどろになつて働いてゐた。
「見たゞけでも解るぢやないか、これでなければ力が入るわけはない。井戸清が歌ひながらに一つ突く間には此方のは五度も――」
「ほんとうに……」
「今は方々で井戸を掘つてゐるんだが、大概この人達の仲間ださうで――」
「うむ、さう云へば何処からも声が聞えないやうだ。」
「井戸清は、あの声が浜まで聞えると云つてよく自慢してゐたよ。」
「ほんとうにさうかも知れませんね――ずつと前には、天気の好い……」
ふと私は軽い上目を使つて、麦笛に似た声で、
「天気の好い、静かな日には……」――春では明る過ぎる、秋では沁々とし過ぎる、夏・冬のどちらも知らない、追憶ではそれらのけじめを知らないたゞ麗かな日である、耳を澄ますと屹度どこからか伸びやかな何かの仕事の歌が聞えて来るやうな日である――「屹度何処かから井戸掘りの声が聞えて来ましたね。」と云つた。
「さうかしら。」と、母は興味なげで「井戸清だけだつたのかしら、前には? 井戸掘りと云へば……」
さう云つて私の幻を醒まさせた。個有名詞を使はれると、ふとした私の夢は見事に破れて、私は愚かな常識家にならなければならなかつた。
「そんなことは、どうだか知らないが兎も角先には、そんな日には何時でも屹度何処かしらから、微かにあの声が聞へましたよ、とても、あの、よういこらア! の声は、高くて……」と、私は少しも此方の気分に母が誘引されないのをあきらめて、太く仰山な声で、
「余韻嫋々――」などと云つて笑つた。
「方々の家で、さぞ彼奴には酷い目に遇つたことだらう。」と、母は云ひ棄てゝ、今度はほんとに好い職人に出遇つたといふことを切りに悦んでゐた。――私も、この二人の職人の熱心さには、打たれて圧迫を感じてゐたのだが、あまり眼の前に居るので讚め言を発するのは控えてゐた。
「この人達はお酒さへ飲まないんだよ。」
――私だつて、どちらかと問はれゝばこの種の職人の方が好もしい、だが私は、何となくテレて笑ひながら、
「僕は……清だと聞いたんで、さぞまた家中が大騒ぎだらう……清と一処に酒を飲む……」
「馬鹿/\しい。」
「いや、吻ツとしたんですよ。」と云つて私は、抱へてゐた膝に頤を戴せた。
「私も今度は吻ツとしてゐる。」
「――清は一体何処に越したの、今では?」
「八百屋になつてゐる――。……お前、そんなに運動が足りないで気分が悪いのなら、ちつとあれを――。」
さう云つて母は、黙々と力の塊になつて働いてゐる男を、さつきから眺めてゐる私に、更に見せた。「ちつと、あれでも手伝つたら、どうかね。」
「…………」
「あれぢや、少し酷すぎるかね。」
私が子供の頃には、井戸屋の手伝ひでもしろ! といふ言葉は、屡々阿呆の異名として使はれたものだつたが、今のでは、さういふ馬鹿/\しい感じはなかつた。だから母がさう云つたのも全くの冗談や軽蔑からではなかつた。
「井戸清のなら手伝へるかも知れませんがね――」と、私も冗談でなく答へた。すると母は、何か私が皮肉でも云つたのかしら? と誤解したらしく、
「何だかお前のその頭は、清のに好く似てゐるよ。」
さう云つて、前の日に近所の理髪店で刈り込んだばかりの私の頭を指差して顔を顰めて嘲笑した。私は、稍々気色ばんで、
「冗談ぢやないんですよ。……それ程僕は、気分が悪いんだよ、まつたく……手伝へるものなら――」と云ひながら腹を伸してフーツと息を吐いた。余程臭いに違ひない――といふ気がしてゐるので、母から顔を反向けて吐息したのである。
「では――」と、母は私を呼びかけた。――この時二人の男は腰を真直ぐにして、ハツと口のうちで合図を交した、すると一人は、頭の上に仕掛けてある水車みたいなものゝ中へ逼ひあがつて、彼等も自ら喩えて、その仕事のことを何々とさういふ意味の彼等の術語で称んでゐる如く、「二十日鼠」のやうに脚と手でグルグルとそれを巻き始めた。――それを見あげて母は、私が一寸と気嫌を悪くしてゐるのに気附いて、今度は甘くからかふやうな態度で、
「あれなら……?」と云つた。
あれなら――と私は、鸚鵡返しに点頭いて凝ツと、まぶしい陽を浴びて悠々と廻つてゐる事を、熱心に見あげた。
……「親爺は何処へ行つたんだ、逃げてしまつたんだな、臆病野郎奴! 姉公は何処へ行つたんだ、やつぱり逃げてしまつたのか、カツ! 阿母か、ふゝん、これが俺の阿母か? 何をそんな処でめそ/\してゐやアがるんだい、さツさツと何処へでも出て行きアがれ、どいつも此奴もみんな何処かへ行つてしまへツ! あゝ、焦れツたい/\! 口を利くのも面倒だア、ハ……だア、面倒臭いや、ギヤツ、ギヤツ、ギヤア――だ!」
……私は、眠り続けたからツぽの頭からすつぽりと蒲団を被つてゐた――私は、そこに二十年近くの間隙のあることを全く忘れて、あの叔父の怖ろしい罵声をはつきりと耳に感じた。……日増に私の鬱屈は強まり、五官は凡て呆たけ、混濁を極めて蒼ざめ、窓の外には真昼の陽がカンカンと当つてゐるのも知らずにどろどろとまどろんでゐた。――(「親父」は私の祖父、「阿母」は父方の祖母、「姉公」とは私の母である。――叔父は私の父の弟である。彼は、私の父が外国から帰るまでの間殆ど私達と一処に暮した。その頃彼は医科大学生だつたが、卒業までには十年も費し、その間二度も癲狂院に入院した。)
皆なひつそりとして叔父の狂態を眺めてゐた。彼の陰鬱に透き通つた声が家中を駆け回つた。
「大丈夫?」「大丈夫!」
母と私は囁き合つた。答への方が私で、私は自信があつたのだ。
「この阿母奴!」
そんな声もした。――(彼の発病後の酷い狂乱に就いての記述は省く。今予は、狂人を描く興味はない。)……が、私が今眼前に思ひ描いた彼の姿、彼の罵声は、発病後の彼に相違ない。さうだ、追憶のつもりが何時の間にか私は妄想に走つてしまつたに相違ない。
「子供の時分傍で暮したので、やつぱり何処か似てゐるところがある。」
私のことを叔父に批べて母は、往々さう云つて笑つた。病人といふのではない、私の平常の怠惰と臆病さを云ふのである。その叔父は、おとなしさは私どころではなかつた、小心さにも爽々しさがあつた、そして
私は、何といふわけもなくうつかり叔父の狂態などを思ひ出した自分をセヽラ笑つて、勢ひ好く寝床から飛び起きた。そして、椽側に干してある蒲団を見ると、またそこに転がつてしまつた。
「気持が悪いの? 昨夜はまた飲み過ぎたらしいわね。」と周子が云つた。私は、彼女が口のにほひを験してやらうか? とでも催促してゐるやうな気がして好意を感じながら首を振つて、其処で嗽ひをした。
――病気ではなく、静かに叔父が引き籠つてゐる間はその部屋を訪れる者は、私より他になかつた。私が遠慮なく襖をあけると彼は、他の者でなくつて好かつたといふ風に
「早く入つてしめろよ。」といふのが例だつた。
こゝでも私達はよく口臭に就いて争つた。
「
私は、母の厳密な検査をうけてゐるので自信があつた。――それが若し、彼がこゝで他の者のやうに生真面目に私を享け容れたならば、あれだけで済んでしまつたのだが、私がハアツと試みると彼は、
「ウツ、臭い/\。」と仰山に顔を顰めるのであつた。それが嘘であることを私は思つてゐるので、そして彼の態度に妙に可笑しく私を引きつけるものがあつて、私は、非常に面白がつて、ゲラ/\と腹を抱へて笑ひながら厭がる彼の顔に噛りついて、ハアハアと吹きかけるのであつた。彼は、救けて呉れ/\、あれを嗅がされては死んで了ふ! などゝ云ひがらもぐり込むのであつた。――他の者との場合で、そんな経験がないので反対に私は、何か異様な武器を持つたお伽噺の悪魔になつた思ひで、愉快に彼を追ひ廻すのであつた。――私達は、顔を合せさへすれば必ずそんな遊びをするやうになつた。(一体彼は、子供好きだつた。後に小児科医となつて相当に成功した。今は亡い。)
その私達の遊びは、技巧が自然に複雑になつた。私を何よりも悦ばせるやうになつた。
「よしツ、ぢや、今度は俺だ。」
彼は、さう云つてハアツと私の鼻に息を浴せるのであつた。(尤も私は、嗅いだ真似をするだけだつた。叔父の口は、ほんたうに臭さうな気がして私は、一度も彼の鼻の前で息を吸ひ込んだことはなかつた。)
「ウツ、やられた。」
私は、その前の彼の真似をして、さう叫ぶと同時にばつたりと倒れた。倒れてゐても私の胸は、面白さにわくわくとしてゐた。
「ふゝん、死んでしまつたな。――はて口程にもねえ、意久地のねえ野郎だなア。」
芝居通の叔父は、そんな声色をつかつた。それから種々と面白気なことを呟いでから、
「どれ/\、この儘にして置くのも可愛想だ、一つ日本一の大先生が注射を施してやることにしやうかのう。」など云ひながら彼は、指先きで私の何処でもを「チクリ。」と突くのであつた。すると私は、
「アツ!」と、云つて蘇生した。
絵を描いて貰うこと、お伽噺をして貰ふこと、汽車ごつこをすること――一通りの遊びに私達は飽きてゐた。彼の引き籠つてゐた間はそれ程永かつた。――この新しい遊びは、次第に発展して自ずと様々な不文律が生ずるやうになつた。即ち、一度び気絶したならば如何なることがあらうとも注射を施されぬ前には決して眼を開かざること。――必ず相手の隙を見計つて行ふこと。――乗ぜられたならば剣道に於ける勝敗の如く有無なきこと。立所に気絶すべきこと。――注射は相手の絶対の好意に待つこと。――名乗り合つて勝負をするのではなく何時如何なる場合であらうとも隙さへあれば乗ずべきこと、故に常に戦闘準備の必要なこと――等、外に数種。
別段相計つて決めたわけではなかつたが、斯様な掟が生じて、私達がそれを堅く守ることで一層私の興味が増してゐた。だから私達は、呑気な会話を取り換してゐる間でも常に油断なく相手の毒気に気を配つてゐなければならなかつた。
「ウツ、やられた。」
叔父の隙に乗じて私が、ハツと毒気を吐きかけると彼は、さも/\残念さうに斯う叫んで(これも規則の一つである。)、ヒクヒクと息を引き取るのであつた。その動作も彼は、時に応じて様々に演じた。或る時は、山崎街道で玉を喰つた定九郎もどきに、クルクルと堂々回りをした後にバツタリと虚空を掴んで悶絶した。源三位頼政の矢羽根に打たれた化物となつて上向けに打ち倒れた。幡随院長兵衛の風呂場の最後もあつた。岩見重太郎の武勇伝の一節もあつた。また反対の時にも同じく彼は、熊になつて、倒れた人の香りを嗅いで見たり、八頭の大蛇が酒糟に近寄る時の口つきをしたり、沼の主を退治したクリステンダムの勇士になつて凱歌を挙げることもあつた。
私は、勝負事が嫌ひだつたが、彼は好きで(碁も将棋も初段で平常は多くの仲間があつたが、斯うなると彼等に尋ねられることを怖れて不在を装ふてゐた。)時々、腹逼ひになつて私に軍人将棋をすゝめたり、トランプの手合せを求めたりした。
途中から気が乗り出すと彼は、思はず坐り直つて熱心に駒をすゝめた。私は、何時でも到底敵はなかつた。敗けさうになると私は、不法なズルを敢てした。すると彼は、一寸と無気になつて、
「ズルをしては駄目だよ、やり直せ/\。」と迫つた。私が、軽い恐怖を感ずる程の強さで私の手を払つた。
「えゝツ面倒臭いや、こんなもの。」
私は、口惜し紛れに涙ぐんで駒を投げ出した。
「何だ失敬な。」と彼は無気な表情をした。斯うなれば平常なら私は、もうワツと泣き出すに違ひない、いや、この時も実際それに近い顔つきになつて、
「もう、
「負け逃げか、卑怯だな、それとも兜を脱いだのかね……いや、ぢやその一辺だけは許してやるから、さア来い。」と彼は、ほんとうに未練らしく、だが巧みに私の気嫌をとつた。そして彼が、無理矢理に私に駒を握らせようとした時――私は、矢庭に身を躍らせて、
「ハツ!」と、勢ひ好く彼の鼻を眼がけて毒気を放つた。と、彼は、真に迫つた動作で、
「アツ、やられた、残念……」と叫んで、徐ろに上向けに倒れた。彼は、私が時々画を頼んだことのある日清戦争中の人気者であつた「勇敢なるラツパ卒の討死」の光景を、活人画にして私の眼前に髣髴させた。
私は、その活人画は黙殺して、天上の悪魔を打ち倒した時の「豆の木のジヤツク」の心を心として、悠々と、剣を鞘に収める真似をして、彼が息を引き取るのを見降しながら、
「他愛もなく片附けてしまつた。あゝ、胸が清々とした。――生き返らせるとまた煩いから暫くこの儘にしておかう。」と、憎々しく云ひ棄てゝその場を立ち去つた。
「仲が善いね、お前達は――。また絵でもかいて貰つてゐたの、叔父さんに?」
私が妙な微笑を浮べて戻つて来たのを眺めて祖母は、感心してゐた。私は、たゞ何気なく点頭いてゐた。――私達があんな馬鹿/\しい遊びをしてゐるといふことは私は、到底他の人には話せなかつたので、勿論家中の誰も知らなかつた。それが、一層私の愉快な夢に奇怪な生気を与へてゐた。
私は、意地悪るをする友達などに出遇ふと、ついこの間までは癇癪に触ると到底力では敵はないことは解つてゐても我無しやらに組みついて行つたが、何時の間にかあの空想で腹を肥し、不遜な自尊心を育くみ、秘かにあの夢を想ひ描いて満足した。――そして、またそんな恍惚の夢から醒めると私は、沁々と平凡な人間であることを嘆いた。多くのお伽噺の勇士の身を、まざまざと羨望して鬱陶しがつた。
暫く祖母を相手に話し込んでゐるうちに私は、叔父のことを忘れてゐたのに気がつき、祖母の前は何気なさを装ひ、胸を躍らせて彼の部屋に来て見ると、彼は依然とした先刻の姿の儘で、昼間でも半分雨戸の降されてゐる部屋に打ち倒れてゐた。
私が、にや/\と会心の微笑を湛へながら彼の顔をのぞき込むと彼は、切に注射を待つが如くに痛々しく眉を動かせた。
「いえ/\、その処方なるものが非常に難かしう御坐います。――一粒はよく不治の難病を治し、二粒は以て悪鬼を殺し、三粒は即ち天の雲を掌に招んで飛雲に駆けることが出来るといふ名薬には相違御坐いませんが、材料を得るのに一寸と骨が折れるので御坐いましてな……」などゝ私は、いつの間にかすつかり暗誦してゐる叔父の創作に依る出鱈目の科白を、ませた口調で述べ立てながら飽くまでも相手をもどかしがらせた。はつきり意味などは解らない文字でも私は、その口調や節のつけ方を小坊主のやうにまる覚えしてゐたのである。
「…………」
「あゝ、私のこの困難苦渋は何に喩えたならば宜しう御坐いませう。もとよりこれは神仙に授つた名薬には相違御坐いませんが、神は私の忍耐の力を験さるゝ御意か? たゞ薬の名前だけしかお授けになりませんでした。私は、十年の星霜を費して漸く材料の何であるかを発見いたしました。」
「…………」
「名称は、名づけて
「…………」
「いや、だがもう御心配は御無用です。老兄の回生は全くわたくしの掌中に帰しました。――私は、只今、鵬に身を化し、十万里の雲程を駆け回り、漸く一滴の無根水を得て立ち帰つたところで御坐います。これで一粒の烏金丸と共に、老兄の命は再び吾々の手に帰しました。いざ、一休みいたして――」
「…………」
「烏金丸の調合に取り掛るといたしませう。」
そんなことを云ひながら私は、のろのろと叔父の薬戸棚の前に進んで、二三の薬品を秤にかけたり、乳鉢をかき回したりして、仰々しく一粒の丸薬を拵え(手真似)あげた。私は、これを患者に服ませ、
「チクリ。」と云つて、頬を突いた。
同時に彼は、ぴかりと眼を視開いて、巧みにあたりをきよろ/\と見回した。
「あゝ、酷い目に遇つた。」
「うまく、やられたらう。」
「俺、ほんとうに少し眠つてしまつたよ。」
「さうかね。」と、私は得意さうに悦んだ。
「この次から、あまり長い間
「阿母さんは、出かけたの?」
「今朝早く――」と、周子は点頭いた。
私達が何処にも出掛けないといふので母は、毎年夏には一度は二郎と一処に旅行をするのが慣ひだつたが父が死んで以来ずつと遠慮してゐたので、前の日に私が留守を引きうけることを約束し、だから出発したのに、私は何となく意外な眼を輝かせた。母は、修善寺の温泉へ行くと云つてゐた。
「留守となると、また退屈……」
「何を云つてゐるのさ!」
「馬鹿/\しい。」
以前には私は、何時も進んで留守を引きうけたのであるが、今では如何程神妙に待たうとも何処からも家賃一つ入つて来ないのか――私は、「馬鹿/\しさ」を従来の習慣通りに斯様なありふれた不良性で裏づけたが、何か斯る野卑な不満以外に、晴れざる不味さが喉にからむ思ひがした。
……どうして俺は、またあんな昔の叔父の発狂後の罵声などを白々しく思ひ出したりしたのだらう、あの遊びのことならば近頃自分が斯んな状態に居て、主に口臭などに囚はれてゐるのだから無理もないが、そしてあれは常態の叔父だからあんな回想で多少鬱屈を晴らされるのだが……前の晩あたり酔ひ過ぎて何かそれに類する痴態でも演じたのかな?
「まさか……」
「え?」
「いや、昨夜酔つた?」
「でも、おとなしいわね、この頃のあなたは……例の唱歌さへ歌はないわね。」
「たゞ、にや/\してゐるばかりか。あまり有りがたくもないぞ。」
「でも、陽気だから好いわ。」
「さうかね。」
「良ちやんなんて愉快がつてゐるわ。」
――皆な手の施しようもなく、蒼ざめて、突然の叔父の狂態を眺めてゐた。私は彼が酒にでも酔つてゐるのだらう位ひにしか思つてゐなかつた。だから日頃とあまり変りのない親しさで眺めてゐた。或る夕方、突然彼は、そんなことになつたのである。――たゞ、平常はあんなに可細い声で、笑ひ方などは喉の奥で山羊の鳴き方のやうだつた、そして誰にでも柔順である彼が、――彼の何処からあんなに凄まじい大きな声が出るのか? と私は、可笑し気な心地で眺めた位ひだつた。
この章の冒頭にあるやうなことを怒鳴りながら彼は、家中を駆け回つてゐた。
「親父は何処へ行つたんだ。」
「おい/\、気を鎮めなければいけないよ、何をつまらないことを云つてゐるのさ! 阿父さんは、死んだんぢやないかね、去年。」
おろ/\として祖母は、云ひ含めてゐた。私は、その時になつて初めて彼の様子の怪しさに気づいた。
「ふゝん、意久地なし奴! 手前えは何処の婆アだ! 毒を呑ませるのか、俺に……、誰が呑むものか、皆な吐き出してしまふぞウ――ギヤア、ギヤア、ギヤア――だア!」
そして、私が襖の蔭から覗いてゐると彼は、理由もない聞くに忍びない文句でさんざんに祖母を毒づいてゐるのであつた。――……私の眼からは、気づかぬ間に涙が滅茶滅茶に流れ出てゐた。子供の私が、涙を滾しながら、声を挙げなかつた経験はこれ以外に覚えは無い。
私は、煙りにいぶされた時のやうに胸苦しく五体が咽び、ぼうツと溶ける思ひがした。家の中が洞穴のやうに見えた。そして、キラキラとする眼に叔父と祖母の姿が水底に住む魚のやうに物憂く蠢動し、激しく水を蹴り、近寄り難い別世界を覗いたやうに、怖ろしく暗く綺麗に映つた。――この痴呆的恍惚から私が引き戻された時は、叔父が叔母の襟髪をとらうとした刹那だつた。私は、キヤツと叫んで襖の蔭から躍り出ると(母も、キヤツと叫んで私をとらへようとしたが、私の身の交し方が速かつた。)彼の胸に夢中で飛びかゝつた。
「お前えは居たのか?」
「何云つてゐるんだい、馬鹿野郎!」と、私はあらん限りの声で叫び、彼の胸を擲つた。――すると彼は、鬼の真似をして私に飛びかゝつた。私は、その横面に手をあげた瞬間、ふと思つて――(何アに、いけなければ死にもの狂ひの喧嘩だ!)たゞ、身を交すハズミに一寸と間隙を感ずると、思はず無意識に、
「ハツ!」と彼の顔に息を吐きかけた。と、彼は、
「ワツ、やられたぞ――しまつたなア!」
斯う、いつもの遊びの時と同じ調子のうめきを挙げ、規定の声を放つて、どたりと其処に昏倒した。
私が、寧ろアツ気にとられた。祖母も母も、私達のこの霹靂の如き奇怪な早業に打たれて魂の抜けた姿で、部屋の真ン中にふんぞり返つて声一つ立てずに唇を噛んでゐる狂人の姿を、震えながら眺めてゐた。――そして私は、自ら得体の知れぬ得意さで、にやりとすると同時に、極度の昂奮から激しく五体が震え出し、忽ち貧血症を起した。
その後幾日か経つて彼は、東京の癲狂院へ送られたのであるが家人は、長い間私の前では、彼は学校に帰つたのだといふ風に取り繕ふて置かなければならなかつた。
母が留守になつてから、周子や良子は明らかな寛ろぎを見せてゐた。――彼女等のそれに私は、軽い厭はしさを覚えながらも、己れも動作に現さぬ程度では、いくらか彼女等のそれに似たらしい感情を抱いてゐるのに気づいて、秘かに憮然とした。幼年時代を母と共に長く父の留守を守り、その儘母と共に成長して来てゐる私は、そして常に幼年時代の愚かしく感傷的な追憶家である私は、今頃になつて一寸とでも母を忘れる心などに出遇ふと盗心を起した程に酷く慌てゝ、吹き消さずには居られなかつた。
「いくらか、避暑にでも来てゐるやうな気分になつたかね。」と、私は何気なさを装ふて彼女等に訊ねた。
「えゝ。」と、良子は無邪気さうに点頭いて薄ら笑ひを浮べてゐた。周子も、それに殆ど同意するやうに、
「あたしは未だ一辺も避暑とか旅行とかをしたことなんてないから、そんな気分なんて知らないわ。」と云ひながら、皮肉らしく、地震後に仮のつもりで寄せ集めの古木で建て直したらしい、そしておそらく永久にその儘に終るであらう、小屋のやうにがさつな家の中を見廻してゐた。
「さう云へば俺もさうだなア。」
「でも、あなたは
「いつか一年ばかりお前と一処に熱海に住んだ位ひのものだよ。」
「だつて、あれは――」と、彼女は、情けなささうに笑つた。
「でも、家にゐるよりは好かつたと云つてゐたぢやないか?」
「批べればさうかも知れないが……」
「ぢや、今の東京は?」
「知らないわよ。」
笑ひながらではあつたが、さう云つた時に彼女は、微かに溜息を衝いたらしかつた。――彼女は、どんなに金銭には貧しくとも己れの生家の、貧しきが為に少しも純情を失つてゐない同人達の方が遥かに好もしい、初めはありふれた女らしい生活上の豊かな夢を抱いてこの男と結婚したのであるが、片鱗にもそれに報はれたことはなく、そんなことよりも第一食物などと来たら生家のそれよりも貧弱で、それをまた一同が不平な顔もなく百年の習慣のやうにボソボソと喰ひ、稀に珍らしい料理などが出ても誰も味などに注意する者もない、気の利いた料理の名前などは彼女程度にも知る者はなく(実際彼女は、結婚当座こゝの食物は碌々喉に通らなかつた――先づ彼女はそれを軽蔑した。)、そして、口の先きでは(死んだ父以外の者は)妙に厳しさうな掟を守り、その癖内々では同人同志でも嘘のつき合ひをしてゐるやうなこの種の家庭に沁々と幻滅を感じた、加けに此方の非ばかりを鳴したがる意地悪るな連中……。
そんなやうな意味のことを言外に含めて、時々遠廻しに私を詰つた。まつたく不自由に不公平な、悪い意味で古風な(例へば私は、結婚後に他の家人と別居するなどといふことが心苦しかつた。)頭の所有者である私は、彼女からでも吾家の非難を聞くと直ぐにムツとするのであつた。が、一寸と言葉を遠廻しにしてやると、諾々としてゐる私のその場の呼吸をすつかり呑み込んでしまつて、様々な手法で常に彼女は私に復讐をしてゐた。たしかに私は、その場の頭が遅鈍なのである。そこでは少しも気附かない、その癖恬淡とはおそらく反対に、一週間も経つてから漸く知らずに聞いてゐたことに疑念を持つて、と、突然ムツとして、時にはそこで何故自分は今ムツとしたかを当の相手に説明して返つて屡々冷笑されることが多かつた。だんだんに彼女の手法は巧妙になつて、滅多に私はそれに気附くことはなかつた。だから今では、稀にずつと後になつてそれに気附いても、怒れば如何にも己れの遅鈍を今更披瀝するやうな臆病さに囚はれたり、惨めな敗北の矢を吾手で吾が胸に突き刺すやうな痛さを怖れて、返つて卑屈に、純情を殺さねばならぬやうな破目に陥ちてゐた。――彼女の純情を傷つけたのも亦私なのである。……様々なかたちで彼女から復讐されても仕方がない程私は、今迄多くの意地悪るを施してゐるのだ。二人のそんな感情を私は、沁々と嘆くことがあつた。だから私は、彼女の私に対する忠実な方面を一層見極めることで、云はゞあんな寂しさから救はれようと努めた。
――俺の口の試験をして呉れるのは今では彼女ひとりだ。
私は、そんなことに、あのやうな感傷に走り、感謝を抱き、得難き親密を感じ、時には秘かに涙ぐましく胸を悸はせ、好もしき伴侶とさへあがめた。
私は、上向けに寝転んで、うつかりするとこの頃さういふ新しい癖が生じた――知らずに口をあいてゐた。……祖父は、父と同じく突然脳溢血で倒れたのであるが、死んでから大きく口をあいてゐたので、傍の者が交る交る顎をさすつてそれを閉ぢさせた。自分もすゝめられたが倒々手を触れなかつた――。
「その罰かな!」
ふと私は、自分の新しい癖に関聯なくそんなことを思つて首を振つた。
……「そんな風になるとね。」と、周子は、さつき私が何か話し出したことに就いての続きらしく、呑気さうに良子と語らつてゐた。「――一番気になるのは口のにほひなんだつてさ、自分の!」
おや、俺のことかな! ――微かに私は、ギクリとした。
「へえ! 変ね。」
「あたし始めは冗談かと思つてゐたら……」
「冗談でせう。」
「さうかしら?」
「いや……」と、私は云ひかけて彼女達があまり軽々しく話し合つてゐるのに気が引けて、仕方がなく笑ひを浮べてゐた。(それにしても周子の態度が何だか可笑しいな、あいつはそんなに軽い気持なのかしら? それならば何もこの間うちから良子の前などを慮つて、あんな不便を忍んでゐる程のこともなかつたか?)――私は、
私は、二人の顔をそつと見比べて、若しこの二人が自分の妻の候補者として並んでゐるのだとすると、果して自分は何方を選むだらうか、良子の方が美人かな、多少は? いや、よく/\見るとさうでもないかな? いや、さうだらう、可憐気なところが一寸とあの女に似てゐるな? ――(どうしてあの女などと云つたのか私は知らない、まるで出たら目なのである。)……何かものを云ひ終る毎に軽く唇を噛んで、キヨトンと相手の顔を見るところが一寸と好もしいね、あまり自分を信じないといふやうな適度の柔かい風情があるね、それでゐて他人を強ひもしなければ、自分の説明などしないところも好いね、会話が止絶れても相手にもどかせがらせるやうな気分を起させないな。眼つきは明るく悧口さうだ、そしてあの相手の返事を待つ間に微かに首をかしげるところが何となく好いね……さうだ、この挙動はFに似てゐる――これはいけない、俺は、あの青い眼のFに怪し気な恋情を抱いたことがあるのだ。
「ほんとなのよ、良ちやん。」
「変なことを気にするのね。」
良子は、殆ど興味なさゝうに点頭いてゐた。――私は、そんな話が早く終れば好いと思ひながら、彼女等のその扱ひ方が、私の自負と違つて軽いのに稍々気易さを求めた。そして別に、ひとりの思ひを続けてゐた。
「厭アね、」などゝ良子は、時々顔を顰めたりしてゐた。
「でも、厭だといふと
「だつて、そんな馬鹿/\しいこと憤る方が間違つてゐるわ。」
「だから未だ憤つたことはないけれどもさ……」
「さうでせうとも……」
彼女等は、他の話の合間でも長閑に笑ひながらそんなことを云つてゐるのがきれぎれに私の耳に入つてゐた。
「でも困ることはない!」
「それア、随分……」
時に依ると、何んなことを云はれても私は、たゞにや/\してばかりゐる時がある、どんな失敬なことを眼の前で話されても決してふくれ顔もしない時がある――私にすれば、それには多少の理由もあるのだが、周子は、大ざつぱに私の気分をその様に二分して、その場合場合に依つて私に処してゐる風な私にとつては少し迷惑な態度を何時の頃からか執つてゐるらしかつた。だから斯んな時には彼女は、安心して放言してゐるらしかつた。それに今私は、別な想ひに走つてゐたので、彼女等のきれ/″\に聞ゆる会話は、私に関することではないやうに思はれてゐた。
「慣れば、怖い?」
「そんなに……」
「でもよ?」
「だつて、そんなことではまさか!」
――「まつたく、自分には自分の口のにほいは解らないものだぜえ! そのことは別段それ以外に何の……いや、意味はないんだよ、年寄りなどは往々そんな例を引いて処世上の戒め言に云ふ場合もあるらしいが、俺のは違ふのだ、実際上の、生理的な、積極的な病らひごとなんだから堪らないんだよう!」
やつぱり自分の事が話材になつてゐたのか……と私は、気づいた時突然妙に上づツた口調で喋舌り出した。彼女等に、そんなことが荒唐無稽な瑣事に扱はれてゐるのに、一度は安易を感じ、また、未だそれが続いてゐたことを知ると、不満を感ずる前に酷くテレ臭くなつたのである。それで私は、故意に固くなに、意味だとか、処世上だとか、積極的だとかいふ言葉を挟んだ弁舌を弄し、笑はれてしまはうと務めたのであつた。と、彼女等は、聞いてゐないと思つた私が突然喋舌り出したので驚いたのか、返つて真顔になつて私の顔に視線を注いだので、一層私は、擽つたくなつて、
「まつたく自分では、はつきり解らないことだぜ。嘘だと思ふんなら各々手の平に試みて見給へ――良ちやんの口などはたしかに怪しい、周子の怪しいのは知つてゐる。」などと、心にもないことを続けて、二人の口を突らせてしまつた。
周子と良子は、白けて赧くなり厭な沈黙を保つた。……私は、しまつたと気づいた。一体私は、これに類する気の利かない失策を往々繰り返して来た性質だつた。私は、他意なく冗談を云つたつもりなのだつた。二人が笑つてしまふであらふことを予期して、云はば甘心を買つたのである。――また、暗に自分に対する周子のあの親切に報ゆる心もあつたのである。同時に今の一寸とした自分の不貞な空想を謝してゐるつもりもあつた。周子以外の者の前では、あの他合もない己れの不快な病らひに就いて話すことを恥ぢてゐた筈なのに、そして彼女にも自分のその心は解つてゐた筈なのに? どうして? 今! そんなことがこゝに公開されたのかな? 自分から先に何か話し出したのだつたかしら? それに違ひないんだらうがな? ――そんな鈍い焦噪から私は、どぎまぎしてあらぬ空想に走り、己れに関する彼女等の話題を糊塗せんがために、口走つたのである。――でも、あんまり云ひ方が甘味を欠き、毒々し過ぎたのかな? 憎態に冷たく、ぶつきら棒に響いたのかな? ……兎も角私には、彼女等の自尊心を傷ける所存は毛頭なかつた。
だが私は、彼女等の持ち続けてゐる白けた顔に接してゐると――此方こそ静かに、勝手な肚がたつて来るのに敵はなかつた。だから私は、彼女等の私から享けてゐる不愉快さなどは知らん振りをして、
「どうでえ、うまく当つたらう。」などと、小鼻をうごめかせながらにたにたした。
「何さ……」
さう云つて良子は、ツンと横を向いた、淫猥な親父を嫌ふ小娘のやうに、冷たく振り払つた。……厭に突ンがつた鼻だな、さつき思つたことは、ありやみんな嘘なんだ、嫌ひだよお前なんぞは! 余ツ程、自惚れも強いらしいな、チヨツ……私は、その取り済した白々しい鼻に、今日はまた夥しく胸の気持が悪い吐息をハアツと吐き掛けたら、どんな顔をするだらう――そんな途方もない光景を想像したりした。
「どうだね?」
「…………」
「良ちやんの横顔には、何か美しい……」
「まア……」
ほらほら、一寸と讚めると直ぐにあれだうつかり傍へ来ると危いぞ――私、は気持の悪い胸をさすつてゐた。
「チエツ……」と、周子が強く舌を鳴らしたのに私は、酷く胸を打たれた。周子が其処にゐたのを私は、忘れてゐたやうだつた。彼女は、私の心が甘く良子に走つてゐるといふ風に認めてヒステリツクな眼つきをした。瞬間的ではあるが罪を打たれたやうな気合に私は、酷くどぎまぎして――素知らぬ風をして、
「あゝ、どうも気分が悪くつて困つた。」と、急に陰鬱らしく呟いで、今の醜い発作的の滑達さを消した。そして、手の平に息を吹きかけて、
「くさくはないかな、口が?」と、云つて周子を見た。
「…………」
「憤るなよ、自分のことを云つてゐたんだよ、誰が、失敬な! 他人のことをそんな風に思つたりするものかね、健康な人にはそんな不安なんてある筈はないよ。」
「だから、あたし達は平気よ。」
「だからさア……」と、私は、二人の顔を等分に見渡して、だらしなく己れの言葉を否定した。……「自分では、解らないものなんだが、これ位ひ気分の悪い時には、多少自分にも解るんだ、斯うしてゐると――」
私は、病人のやうに弱々しい声でそんなことを呟いた。
さう云つても彼女等は、未だ互ひにムツとして頑固に反ツ方を向いてゐた。二人とも唇を屹と結んで、肩のあたりで静かに息をしてゐた。――私が、その様子を見てゐると彼女等は、
「何でも好いから此方を向かないようにしておくれよ。喋舌りたければ、そつちを向いて勝手に独りで喋舌つてゐたら好いぢやないか、お前の云ふこと位ひ何んなに毒々しからうと何だつて、誰がそんなことを気になんてするものかね、好い気になつてゐるよ、馬鹿! 此方を向いて何か喋舌られると、息がくさくつて堪らないんだよ。だから横を向いてゐるんだよ。――他人と話をしたければ、さつさと嗽ひでもして来るが好い!」
そんなことを呟いてでもゐるかのやうに疑はれた。……いつか母が鼻をつまんで横を向いたのも、あれもまつたくのてれかくしの動作でもなかつたのかも知れないぞ――私は、水底に潜つて行くやうな寂しい惨めな思ひに打たれた。……そして、今更のやうに周子の、この間うちのあの忠実さに取り組るやうに親んだ。
そこに良子の居るのが邪魔だつた。――でも、さつきからそんな話が話題になつてゐたところだから関はないだらう――さう気づくと私は、一刻も猶予して濁られない程に苛々して、関はず周子に近寄ると勢急に
「どう?」と、判断を待つた。周子は、一寸と良子に気を配る身振りをしながら、仕方がなさゝうに此方を向いて苦笑した。私は、嬉しく救はれる思ひがした。――そして、いつものやうな長太息を試みた。
「フ……」と、周子は、肩で笑つた。
「どうよ?」
「うむ。」
「どうだ?」
妙に周子の態度が煮えきらないので私は、稍々鋭く追求した。すると周子は、ウツと息を切つて、薄ら笑ひを浮べながら、
「あたし白状するとね……」と云ひかけて、この人はさつき自分が良子と話してゐたことを聞いてゐなかつたのかしら? といふ風に良子を振り返つて眼を見合せてゐた。二人の友達が此方には少しも解らない暗号みたいな言葉で話しあつてゐるのを傍で聞いてゐる時のやうな私は厭な気がした。
「何よ?」
「悪いのかしら、あたしは? 良ちやん。」
「でも……」と、良子も苦笑した。
「何がよ。」と、私は叫んだ。
「それや、あたしだつて少しは気がとがめてはゐたんだが……あたし一辺もあなたの口の前で息を吸ひ込んだことはないのよ、今まで! 何時でも、その間は息をしなかつたわ、随分苦しいことなんだが。だつて厭だと云つては、何だかあなたに悪い気がしたし、それより他に方法がなかつたんだもの……」
はじめは苦笑しながらだつたが、だんだんに彼女の声は泣き笑ひのやうな震えを帯びて来た。「……あやまるわ。これは何時までも黙つてゐなければならないと思つてゐたんだけれど……何だか、あなたが、だんだん真面目になつて来るのが……でも、どうしても、どうしても、厭だ/\/\……」
「……」私は、彼女の今迄のあの場合の動作を細かに回想して、その巧みであつた芝居に舌を巻いた。
「御免なさい。」
彼女は、顔をあげてきまり悪さうに笑つた。
「あやまらないでも好いだらう。」と、私は、喉のあたりで唸つた。――起きあがつて、椽先の水溜りを眺めた。こんな陽の中でも、仔細に注意したら微かに息の煙りが見えやしないかな――そんな心持で私は、自分の生温い息をそつと窺つてゐた。
周子は、叱られた子供のやうに両袖で顔を覆ひ、耳まであかくして畳に突ツ伏した。そして、どういふつもりなのか? 笑つてゞもゐるのか? 神経的にブルブルと首を横に振つてゐた。良子の顔は、私は見なかつた。
久し振りに保養に来たせいか、いろいろな疲労が一途に現れて当分の間は元気もなかつたが、それも次第に回復して来たらしい、今では努めて若労を避け、ひたすら療養を事としてゐる、折角だから日限を定めず暫く呑気に滞溜してゐたいと思ふ、だから当方には関はず帰京したくなつたら何時でも遠慮なくその儘そちらは其処を引きあげても関はない、私は成るべくならば秋冷を覚ゆる頃まで滞在してゐたい――修善寺温泉へ行つてゐる母からは、そんなやうな意味の通知があつた。
掘り抜き井戸は、もうとうに出来あがつて、荒れはてた庭の隅で静かに水を噴いてゐた。小さな水桶には新しい水が張り詰め、珠のやうに躍り、戯れるやうに砕けてさんさんと噴き滾れてゐた。
私は、夕闇の中に水の影が消え去せるまで其方を眺めながら、勿体振つた様子で盃を傾けてゐた。
良子は、幼い栄一と一処に湯に入つてゐた。栄一の暴れる音や、叫び声がのべつに癇高く響いてゐた。
「――栄一は、もう一里位ひ歩くのは平気ね、それや元気よ。」
「それで疲れたの?」
「そんなこともないんだけれど――家に帰つて来たら何だか急に苛々して来て……」
「…………」
「あゝ、何だかあたし気持がくしや/\して仕方がない、今日は。……皆なで今日は、方々歩いて来て可成り疲れてゐるんだけれども、お湯に入るのも面倒――」
「俺も今日は、珍らしく汽車に乗つて……」
私と周子は、そんな話を取り換してはゐたが少しも話が溶け合はなかつた。
「良ちやんは、明日か明後日あたり帰らうか知らなんて云つてゐる。」
さう云つて周子は、また庭の方へ眼を投げてゐる私の顔を見た。
「――もう飽きたのか知ら?」と、周子は、自分が先に云ひ出したのにも係はらずそんな風に呟いた。そして私の胸には全く響かなかつた冷い笑ひを浮べた。
「さうかしら……」
私は、軽く点頭くことで彼女のそんな気色を綺麗に拭はうとした。まつたく良子のことを口にした周子の素振りが、私に軽い悪感を抱かせた程素ツ気なく見えた。周子が他人に対してはそんな気振りを示さないのを常々私は快く思つてゐた。――だから私は、避けて、事更に伸びやかな調子で、
「あゝ、今日は俺も変に疲れた。」
さう云ひながら、昼間の務めを終へて来た務め人のやうに落着いて、首筋のあたりを撫でてゐた。
この日に私は、止むを得ない用事で厭々ながら、汽車で一時間あまりかゝる
「そんな処に、あんな造作もない用達で行く位ひのことが、何がそんなに面倒なのさ。」と云つた。
「そんなことを思つてゐるんぢやないよ。」と、私も何か煩さゝうに云つた。
「様子は解つたの、まごつきはしなかつたの、初めてゞ?」
「初めてぢやない、二度目なんだよ。」と、私は、それだけは、はつきり云つて、直ぐに愚図/\と口のうちで――「でも、初めても同じやうなものだし、まつたく何ンにも厄介なこともないんだが、いつでも俺はあゝいふ処へ行くと、まるツきり悸々してしまつて、だから俺は銀行や郵便局見たいなところへだつて滅多に入つたことはないんだが――これは、つまり極く平凡なおとなしい人民の……あゝいふ空気を畏れるといふ習慣は祖父からの教育――悪い習慣ではないと思ふんだが、不便なことが……」などと、愚にもつかないことを呟いでゐた。祖父は、町の衛生検査員が来ても心からの畏敬を示す人だつた。頼んで居て貰つた警官が、
「官服を脱いだ時には、そんなにされては困りますよ、加けに私は若いんですからなア。」と云つて、夕涼みに来る時などは頭を掻いても、子供の私が足を投げ出してゐてさへ厳しく坐り直させた。
「口が利けたの?」
それには答へないで私は、上眼を使ひながら云つた。「……ところが変なんだ。名前がだね、SぢやなくつてH・タキノなんだらう、向方ではつまりHとして俺を取扱つてゐるんだらう!」
「何でもないぢやないの、そんなことは初めから解り切つてゐること――」
Sは私、H・タキノは私の父の名前である。
「……あゝいふのは、あれは私立の役場なのかしら?」
「どうだか――」
「尤も阿父さんは、一寸と違ふんだ、気が小さいところは同じなんだが、役にも立たないところで向ツ肚を立てるんだ。気が小さい!
いや、俺にはとても肚なんぞ立てることは出来ない、どんなことがあつても……」
「死んだといふことは云はなかつたの?」
「うむ――」と、私は、嘘のつもりでもなく、面倒なからでもなく、ぼんやり点頭いた。その何々の役場で私は、そのことは告げたのだつたが、此方の音声が低く煮え切らないので係員には聞えなかつたのか、事務以外のことは一言でも取り換すのは面倒らしく、その儘、
「順番が来れば名前を呼ぶから、そつちの方で待つてゐろ。」と、酷く横柄に命令して、ポンと窓を閉めてしまつたのである。私は、H・タキノの長男で、Hは死んだのだといふことを解つて貰はないと、後になつて疑はれやしないか――係員の高飛車な、そして他人に対しては疑りを主にしてゐるやうな眼差しを見て私は、困つたのであるが、また窓に手を掛けるのも怖くて、赧い顔をして引き下つたのである。私は、開け放しになつてゐる入口の傍の腰掛に掛けてゐた。他にも待つてゐる人が四五人居た。
「随分待たせますなア。」
向ひ側に居た年寄の人が、退屈さうに私に声をかけた。――「名前を呼ばれた時に直ぐに行かないと、酷い目に合ひますから……」
「酷い目に?」
「出直しになつてしまふんですよ。帰つてしまつたことになつて、後廻し……」
「気をつけませう。」
私は、隣りが学校で、休み時間だと見へて酷く騒々しいのを心配した。
「私は、少し耳が遠いんでね。――頼みますよ。K・ヤマザキですから。」
「K・ヤマザキ――はい、解りました。」
「あんたは?」
「……あの、H・タキノです。」
私は、一尺位ひの高さのトンネル型の窓ばかりを視詰めてゐた。
「代りだといふことも云はなかつたの?」
周子は、私の話を打ち絶らせたさゝうな調子で訊ねた。私は、彼女と反対に話がひとりでにはずんで行くらしかつた。
「代りではいけないんだよ。好い位ひなら俺だつて勿論行きはしないさ。」
何だか変だな、代りでもあの分なら好いわけなんだがな? などと思ひながら私は、厳めしさうに云つてゐた。
「ぢや何故死んだつてえことを云はなかつたのさ。」
「だからさア、向ふではそんなことは訊きもしないんだよ。」
「ぢや代りでも……」
「さういふことは、もう向うでは当然としてゐて、みんな本人ばかりが行くところなんだからね、余外なことは訊ねやしないよ。机の上に写真を載せて入学試験を受けるのよりは……」
私は、自分でも何と云つて好いか解らなくなつて「訊ねもしないことなんて云へば叱られるんだ。第一俺は、あの書つけだつて好く読んでゐやあしないんだ、たゞ行つたゞけのことなんだ、たゞ黙つて行きさへすれば好いと云ふんだから、たゞ黙つて……」などと烏耶無耶におちて行つた。
「誰もそんなことを云やしない――」
「いや、――まつたくの田舎者で、たゞヘイヘイと怖れ入つてゐるだけで、向方の云ふことだつて好く解らなかつた。」
「ぢや、どうせ碌なことはないでせう。」
「何も此方は悪いことをしたわけぢやないんだからな、それや安心だが。」
「そんなことまで気になるの……何といふ――」と、周子は、愚図と臆病と痴呆とを形容すべき最大級の言葉が見当らないので焦れツたさうに顔を顰めた。――「罰金を収めに行くんぢやあるまいし……」
「さうだ。――それにしては随分あすこの人は横柄すぎる。」
「忙しければ、何処だつてさうよ。」
「加けに云ふことが法律的の術語まぢりで、それが早くて/\、まるで叱られてゐるやうな気がした。この前に行つた時とは、人が違つたんだらう、あんなではなかつたもの。――奇妙に淋しイくなる気がした! 寒むウくなつて来る気がした、待つてゐる間、自分の、いやHの、……呼ばれるのだけを待つてゐる他には煙草の味もしなかつた、まるつきりのヌケ殻になつてゐる気がした、一体自分が生きてゐるんだか死んでゐるんだかわけの解らぬ気がした。」
「気がした――は駄目よ。気分の話は御免さ、稀に朝起きをしたんで居眠りでもしてゐたんぢやないの?」
「…………」
「でも阿父さんだつたら、気が短いからそんなに待たされたら如何だらう。」
「あそこに待たされてゐた人は皆な気をくさらせてゐたぜ、半日以上も待たされるんだからね。そのヤマザキといふお爺さんなんか、その前に一度来たことがあるんだが、何でもその、名前を呼ばれた時にうつかりしてゐて、忽ち帰つたことにされてしまつたんだつてさ。一二度呼んで返事がないと、直ぐに後廻しにされてしまふんだぜえ、遥々と汽車に乗つて来たといふのに一日まる潰しさ。」
「あなたは、やり損ひぢやなかつたの?」
「うむ――大丈夫だつた。」
「威張る程のことでもない。」
「……変なのは俺ひとりさ、それに今日は、阿父さんの古服を着て行つたらう……少しダブつくんで歩き憎くかつた。」
「つまんないことを、あんたは……変な風に云ふのね。」
いつもさうだつたが、この時は殊に眼立つて周子の素振りは、そんな私の云ふことを無下に稚戯にして享け容れない風だつた。
私は、関はず続けた。――「尤も、前に一度俺があそこへ行つた時のことを俺は、妙にはつきり覚えてゐるんだ、その時は阿父さんと俺と一処に行つたんだ、ホラ、家から使ひが来て俺がわざ/\熱海から出かけて来たことがあるぢやないか。――さうだ、二人とも同じやうな白い服を着て行つたから夏だつたんだ。阿父さんが死ぬ前の年の夏なんだ。」
「そんなこともあつたかしら。」と、周子は飽くまでも無感興を固持してゐた。私は、さつきから可成り我慢してゐたのだが、急に彼女の白々しさが醜くゝなつて、
「チエツ! 面白くねえ奴だなア、もう話さないよ。」と、叫んだ。――何故か彼女は、いつもと違つて私がそんな癇癪を起しても、眉ひとつ動かさずに凝ツとしてゐた。つまらないといふ風に扱はれると私は、此方もつまらなく自分が馬鹿に見えて、一つは間が悪るかつたのである。――彼女は、その私には頓着なく何か別の不快なことを考へてゐるらしく、時々眼を瞑つて軽く首を振つたりしてゐた。
私は、憤つた動作で二三度勢急に盃を飲み干し、暗い庭に眼を放つた。闇のなかでも、こゝから射す灯火を斜めにうけて、音のない井戸の噴水が仄白く光つてゐた。
「何でも好いから、黙つて突つ立つてさへゐればそれでお終ひになつてしまふよ。」と、父は、私に教へた。
何々役場の開け放した入口から玄関前の広場を越えたところに、やはり開け拡げた小さな窓があり、其処に何々区裁判所が見えた。――「あそこに行つたつけな……もう二度と行くこともあるまいな……」などと私は、述懐したのである。
瑣細な土地の境界争ひが、訴訟事件になつてゐたのである。父が、おそろしく憤慨してゐた。
「勝手に向方で間違ひをして置いて、訴へるとは何んだ。自分で行く、自分で行く、一言云へばそれで解ることだ、他合もない、理窟はないんだ、弁護士の厄介になんて誰がなるもんけえ!」――「出さへすれば埒があくだらう、何アに――ツ、何アに、失敬な奴だ、訴へるたア何だア!」
父は、がむしやらに憤つてゐた。そして無暗に取りのぼせた。亢奮のあまり、いざとなる日までその土地の所有名儀人が私であることを忘れてしまつた。だから私が法廷に出なければならなくなつたのである。さすがにそれに気づいた時には一寸とたじろいだらしかつたが、亢奮と間の悪るさの遣り場がなくなつて、愚かな意地で私を其処に立たせることになつたのである。
「私が――?」
「黙つて突ツ立つてゐれば、それで好い、面倒臭いからさ!」
それだけしか父は、私に告げなかつた。そして二人は、来年はひとつアメリカへ出かけような――だから、一処になら僕も行きたいんだよ――一年位ひの予定で……女房子も伴れて行くと好い……案内役になつてやらア――十何年もたつんだね、もう、阿父さんが帰つてから! ――さうかなア……――祖父になつたヘンリーと子を抱いた Shin が、先づF一家を訪れるかな――ハヽヽヽ、何だか間が悪いな……西部にも一辺伴れてツてやるぞ――ぢや僕は今からピストルを練習しておかうかな――馬鹿ア、そんな山奥へ行くもんかよ――などと云ふことを話しながら汽車に乗つたのである。私は、何処の土地が今日の争ひの種になつてゐるのかといふことさへ訊ねなかつた。
「何も二人で今日は、出かけることもなかつたんだな。」と、馬鹿/\しさうに云つたりした。
「さうだらうね。」と、私も、声までも全くの無能らしく筒抜けた調子で、ぼんやり窓の外を見て他のことを思つてゐた。――「僕は、裁判官はお伽噺でより他に知らない。あゝ、芝居では見たことがある。」
「芝居の通りだぞう。」
「気味が悪いね、何だか。」
「大丈夫だよ。――それだけのことで好いんだから。それで負ける筈はないんだ。」
「それだけで済むんならね。だけど負けたつて知らないぜ。」と、私は退屈さうに云つた。
――「私も前に一度あそこに来たことがあるんです。」
ヤマザキといふ年寄りが、私と一処に窓から向方を眺めながら、つい此間は法廷の方の用で彼処に来たが、やはり斯んなに待たされて随分退屈した、斯ういふ処の用は何んな瑣細な用でも一日がゝりだ! などといふことをかこつたので、
「私も――」と、私は、向方の窓を指差して云つたのだつた。
「へえ!」と、その人は、一寸とウロンな顔をして私の顔を見た。私は、ドキツとして、一言問題のことを話すと、
「何あんだ、ハ……」と笑つた。さつきは四五人だつたが、いつの間にか待つてゐる人がごたごたして、其処の狭い控所は煙草の煙りで濛々としてゐた。
父は、つまり傍聴人として入つて行つたのである。原告も本人が来てゐた。
中学の化学室のことなどを思ひ出しながら私は、そこに入つて行つた。――傍聴席には、父がたつた一人の傍聴者として腰掛けてゐるだけだつた。
原告は、非常な能弁家だつた。その弁舌だけを聞いてゐると、S・タキノがたしかに間違つたことをしてゐる人間らしかつた。
私は、兵隊のやうに直立不動の姿制を執つてゐた。いかにも公平無私な容貌の判官を私は、ひたすら信頼するだけの心で無言に立ち尽した。いつにもそんな姿制を執つたことがないので、その頭から踵までが棒のやうに堅くなつてゐるのに淡く肉体的の快感を感じた。私は、眼ばたきするのも遠慮しながら、此方の云ふべき番になると、たゞ極めて慎ましやかに、
「は?」と、聞き返すやうな返事をしたり「はい。」と、わけもなくきつぱりと返事したりしてゐた。……せめて、この男は少し耳でも遠いのかな? とでも思つてくれゝば好いが――終ひには私は、原告の法律的術語の羅列があまりに流暢であるのに反して、まつたくの唖である自分が少々きまり悪くなつて、判官達に対してそんな途方もない空頼みを念じたりした。原告は、番になると稍々得意気に益々とうとうと弁じたて、次に私の番になると変りなく「は?」と「はい」とより他になく、また彼は軽いセヽラ笑ひを浮べて立ちあがると(原告が何か云ひ終ると腰を降すのが私には、大胆不敵に見えてゐた。)巧みに被告の非を述べたてた。そんなことが三四度繰り返されて、(私は、殆ど感覚を失つてゐた。)活気の溢れた原告が大いに被告の非を申告してゐる時だつた。傍聴席から突然、大声で父が怒鳴つた。
「嘘をつくねえ、あれやなア……あの境ひはな、昔からあの柿の木が眼印なんだ、それを勝手に……」
私は、吻ツとした。やつぱり父と一処に来て好かつた――と、わけもなく嬉しい気がして、もう少しで振り向くところだつた。すると、判官の顔は(一寸との間驚いたらしく、未だ続いてゐる傍聴席の声に打たれたが)忽ち屹となつて、
「あの傍聴人は何だ! 黙れ!」と、大喝した。私は、傍聴席から声を掛けるのは違反であるのか、と初めて知つて竦然とした。
廷丁が、そつちへ歩いて行つた。と、寂とした室内に、ドン、ドン、ドン! と自暴に癇癪を起したらしい素晴しい靴の音が鳴り渡り、直ぐ廷外に消えた。裁判は、そんな物音などには頓着なく続行されてゐたが、間もなく次の日取りが申し渡されて終了した。私は、判官の頭の上に掛つてゐる時計をぢつと眺めてゐたのだつたが、全部で十分しか経たなかつた。
まさかあの靴の音は父のではなからう、と私は思ひもしたのだつたが、傍聴席には父の姿はなく、此方が終ると同時に入口のあたりに立つてゐた廷丁がコツコツと元に戻つてゐた。では、あれは父だつたのか! 外で何んな顔をして待つてゐるだらう。――さう思ひながら私は、あまりの自分の無智を気の毒に恥入つて、失敗を自覚した受験生ほどの心で、ふら/\と廷外へ出て行つた。
真昼の明るい陽が、白く一面に光つてゐた。私は、まぶしく眉を顰めてあたりをきよろ/\と見まはしたが何処にも父の姿は見あたらなかつた。
こゝで、ヤマザキさんと並んでゐる窓のところにも来て、三十分あまりも独りで窓に凭つて、やはり斯うして外を見てゐたのだが、さつぱり父の姿が現れないので私は、あきらめて停車場へ来てしまつた。そこの待合室にも父の姿は見えなかつた。私は、一汽車やり過して次の汽車に独りで乗つた。
家に帰ると、父は余程前に独りで戻り、とうに何処かへ出かけてしまつた――と、母が私に告げた。その日のうちに私は、熱海へ戻つてしまつたので、父の顔は見なかつた。裁判は、その後どうなつたのか私は、いまだに知らない。
――「随分、その靴の音は凄じかつたぜ。」
風呂から上つた良子も傍に坐つてゐたので私は、周子に対する不気嫌さを無理に消すために、ふとさう云つた。
「何の? 何の靴の音!」
「うゝん――いや、今日、僕がだね、いよいよ自分の番になつた時にさ……あんまり長く待たされてしまつたんでね、別に坐つてゐたわけぢやないんだが、変にシビレが切れてしまつてさ……タキノといふ人と呼ばれた時には、夢から醒めた人のやうにハツとして思はず板の間を蹴つてしまつたんだね、そして強く脚に力を入れて歩いたんで、傍に居た人に妙な顔をされてしまつたのさ。」
「まア……」
「すつかりぼんやりして――」
「脚がシビレて?」
「脚ぢやなかつた、頭がさ……」
「そんなに待たされたの?」
「名前の呼び方がね、何だか変なんだよ、そこの役場の威張つた人のは……低い眠いやう声でね。」
「どうして――」
「此方は別に呼び棄てにされることはないんだね、と云つてさんでは向方としては具合が悪いんだらう……ヤマザキといふ人とか、タキノといふ人とかとさ、さんの代りがいちいちといふ人なのさ――何某といふ人は居らんのかね、とそんな風に云はれてゐる人もあつた。それがまた、酷く厭々らしい憤つたやうな調子でさ……」
「…………」
それがどうしたの? といふ風に良子も、さつきから沈黙を保つてゐる周子と退屈さうに顔を見合せてゐた。
ヤマザキといふ人の方が、私よりも先に用事が済んで、
「お先きに――。大分混んで来たやうですから聞き損はないやうになさいよ。」と云つて帰つて行つた。
私は、煙草を喫しながら窓に凭つて、白く光つてゐる真向ひの窓や、そこの石の階段や、まぶしく陽を享けてゐる小砂利の道などをうつとりと眺めてゐた。
「タキノといふ人……H・タキノといふ人は居らんのかね。」
二度目にさう呼ばれた時に私は、木槌で胸を打たれたやうに吃驚りして
「はアい!」と、思はず、相手に反感を覚えさせる程に太く返事した。
「居ります、居ります。」
さう云ひながら私は、慌てゝ小さなトンネル型の窓口に突きすゝんだのである。積つたばかりの雪の上を歩くやうに、厭にガクガクする膝骨をしつかり爪先きと踵で踏み応えながら、夫々の脚に注意深さを注ぎながら。
「直ぐに返事をして貰はんければ困るね、後がつかえてゐるのに。」
「はア、どうも――」と、私は、吻ツとしながら叮嚀にあやまつた。
「良ちやんは、二三日のうちに帰るんだつて?」
私は、そんなつまらない思ひを振り棄てるやうに首を振つて、新しく良子に訊ねた。
「どうしようかしら?」
「僕らが帰るまで居たら好いぢやないか、一処に帰らうよ。」
「えゝ――だけど?」
「もう飽きたかね?」
「飽きもしないけれど……」
周子が何も口を出さないのが私は、何となく気になつて無理にでも良子と話さなければならない気がしてゐた。
「ぢや、明日あたり皆んなで何処かへ遊びにでも行かうかね。」
「えゝ。」と、良子は、笑つて生返事をしながら立ちあがつた。――そして良子は、栄一を伴れて外の方へ涼みに出かけた。
「汽車にでも乗つて、日帰りが出来る処ぐらひにでも行つて見ようか。」
私が、そんなことを云つても周子は黙つてゐた。そして彼女は、わざとらしく欠伸などして私の反感をそゝつた。
「口の臭い人となんか何処かへ出かけるのは御免だ。」と、彼女は、取り済して呟いだ。
この間以来私たちは、それに就いての話は互ひにてれ臭さを抱いてゐるやうに一切口にしなかつたのだが、突然洒々と彼女からそんな言葉を聞くと私は、グツとした。
「…………」
「好い気になつてら!」
「何だとう!」と、私は唇を噛んで怒鳴つた。
「あなたは、自分ばかりを好い子にしたがると云ふ風な癖があるのね。良ちやんばかしぢやない、一体に誰の前でも、変な風に自分の妻をのけ者にするといふ風に、そして変に自分が他人に思ひやりがあるといふやうな思はせ振り……」
「何ツ、生意気なことを云ふない。さつきから癪に触つてゐたんだが、我慢してゐたんだぞ――」
「此方こそ……」
「キヽヽヽヽ。」と、私は歯ぎしりをした。「図々しい奴だ! 殴られるな。」
「殴つたりしたら!」
彼女は、怖ろしく血相を変へて私の顔を睨めた。
「言葉の通じない国に来てゐるやうなものだ。……不便なことだ。」
「ぢや、喋舌るな。」
「喋舌らないや!」
さう叫んで私は、彼女の頬をピシヤリと打つた。――そして、わざと憎々しく落着いて、横を向いて、魚のやうに口をあいて煙草の煙りを吐いてゐた。
……フヽンだ、皆んな何処へでも行つてしまへ、独りが一番静かで清々と好いや、皆んな出て行つてしまへ、俺は何ンにも喋舌りたくはないんだ、喋舌るのは面倒臭いんだ、厭だ/\面倒だア!
そんな毒口をついたら、終ひには気狂ひのやうに暴れでもしなければ収まりがつかなくなつてしまふだらう……。
「フヽンだ。俺アお園さんのところにでも遊びに行かうかな。」
「よくも、打つたな……フン、何処へ行つたつて相手になんてなるものがあるもんか!」
「キ……、未だ生意気なことを云ふか。」
私が、手を振りあげやうとすると彼女は「今度やつたら、あたしが暴れるぞ。」と、あたりに遠慮して声を殺して云つた。――そして、嫉妬の気色でもなく、たゞ沁々と私を見さげるやうに、
「あなたは――あなたは、毎晩この頃変に機嫌好く酔つてゐたわね、フツだ。……気をつけろ、馬鹿! あたしが一寸とでも傍にゐなくなると、急にでれ/\して良ちやんの手を引つ張つたりなんかするんだつてねえ! それが薄気味悪くて厭だから良ちやんは、帰らうかと云つてゐるんだよツ!」
さう云つて彼女は、冷たく突き離して私の顔を睨めた。――私は、急に彼女の正視に堪えられぬ程、理由もなく顔が赧くなる思ひで、云ふ言葉が見出せなかつた。彼女は、私の弱点を突いたやうに思ひあがつて
「さうして、厭らしい顔つきをして、口を突き出したりするんだつてね、厭アな奴――この口をよう。」と続けて、矢庭に、ぽかんとしてゐた私に、震える手を差し伸すと、力一杯私の両唇をつまんでギユツとねぢりあげた。私の唇は、貝のやうに堅く閉ぢられて、縦になつた。
何と云つたら好いか?
私は、眼ばたきもせずぴかりと眼を視開たまゝ、云ふべき言葉の浮んで来るまで、その儘凝ツと唇を縦にされてゐた。私は、鼻腔だけで呼吸した。
――静かな夏の夜だつた。