父の百ヶ日前後

牧野信一





 彼が、単独で清友亭を訪れたのはそれが始めてだつた。――五月の昼日仲だつた。
「先に断つておくがね、僕今日は用事で来たんぢやないよ。……芸者をよんで、そして僕を遊ばせて呉れ。」
 彼は、玄関に突ツ立つて、仏頂面でそんな言訳をした。彼の姿を見ると、女将は眼を伏せて、黙つて頭をさげた。それで彼は、一寸胸が迫つたので、慌てゝそんな気分をごまかす為に、決して云ひたくはなかつたのだが、強ひて晴々と笑つて、
「僕だつて、斯うなれば時には独りの遊びをしたいからなア!」などゝ妙な声を張りあげて呟いだ。――斯うなれば……その言葉がもう胸にセンチメンタルな響きを残した。
 清友亭は、彼には慣れた家だつた。地震で潰れたり焼けたりしない前の半年位の間、続けて来た日もあつたのだから、殆ど一晩おき位ひに此処へ来たのだつた、と云つても誇張にはなるまい。父親がお蝶といふ女と親しくなり、そして父親の事業の相談が忙しく東京などからお客が多かつたのだ。母が嫉妬深くて夜十二時近くなると、屹と彼を清友亭に差し向けた。母と彼と一処に乗り込んで、父の顔を赤くさせたことも度々あつた。
「旦那の百ヶ日は、もうあさつてなんですつてね。早いこと……」
 女将は、何となく手持ぶさたらしく、窓に腰かけた彼を手をとるやうにして正座に落つかせた。
「よくあさつてだなんて知つてるね。僕はおとゝひ迄そんなことを忘れてゐた。」
 いくら慣れてゐる清友亭だつたにしろ、彼は自分が主になつて然も独りで斯ういふ処に来たことはなかつたので、眼の据え処にさへ迷つた。彼は、食卓を前にして、痩躯を延して、かしこまつてゐた。
「忘れる人はありません。――それに昨日お宅から通知がありました。」
「何の通知?」
「御招待――」
「こゝに、はゝア! 阿母かしら?」
 問ひ返すまでもなく彼は、心にその通りに思つたのだが、軽く空とぼけた。彼はそんな風に、わざとらしい淡々さを装ふのが癖だつた。そして、
「奥様は仲々気のつくお方ですよ。」などゝ女将の口からカラお世辞を云はせたのは、寧ろ彼の猿智慧だつた。そんな馬鹿な心を動かせてゐるうちに、彼は、はつきり親身の者の姿が個立して描けるやうな気がするのだつた。
 憐れな母親だ――彼は、さう思つて、如何にも自分には冷い観照眼があるものゝやうに思ひ違へて、イヽ気な迷想に耽つた。
「うちの阿母は、随分可笑しな人だね。道徳を説くのは好いが、悲しい哉、彼女は嫉妬心が強い、悴――即ち吾輩の前に馬脚を現し……」
「もう済んだことです。」女将は彼を、叱るやうにさへぎつた。女将は、彼の心根の安ツぽさを見極めてゐた。
「僕、今日は独りでのうのうと酔ふんだ。」
「これからは、あなたが当主なんですからね、しつかりしなければいけませんよ、少しはお母さんの心にもなつてあげなくては……」
「さういふ評判だつてね、親父が亡くなつて以来、家が益々傾いて来たんだつてね? 長男が何となく見得を切るのが悪いさうなんだよ。」
「悪い/\、お母さんがしつかりしてゐらつしやるうちは……」
 お世辞かな! と彼は邪推した。何としても彼には、この女将が彼の母をそんなに好く思つてゐるとは考へられなかつた。
「僕はね、この間君が阿母の見舞に来てゐたところを傍で見てゐた時、可笑しくつて仕様がなかつた……」
 うつかり彼は、そんなことを云つて取り返しのつかぬ思ひをした。家庭のボロを好い気になつて喋つてゐる自分の姿を考へて、救はれぬ思ひをした。それにしても、若し何処かに自分のやうな男があつて、傍からさんざんに其奴を煽てて、聞手になつて、その破境を眺めてゐたら、さぞ面白いだらう――などゝ思つた。
「家の阿母は何処がしつかりしてゐるかね?」
 彼は、微笑を含みながらさう云つた。
「通つてゐますよ――」
「だつて君は、さうは思はないだらう、……通つてゐるんなら有り難いが、少くとも君の眼に映じた彼女の印象はどうだ?」
「もうお酔ひになりましたね。」
 彼は、未だそんなに酔つてはゐなかつた。ほんとうに彼は、この女将の見た自分の母親は、いゝ加減彼の軽蔑観と一致するだらうと思つてゐるのだつた。
 彼は、父の在世当時の幾つかの場面を追想した。それは皆な、低級な新派劇に見受ける光景と大した差違はなかつた。
 ……事業熱に浮されてゐるお調子者の父親、母親はうわべでは旧家の格式を重んじ、夫や悴を古風な教育に屈服させようと努めるのだが、夫は彼女を軽蔑してゐた。
「十何年も外国で暮して来た男だ、妻を棄て子を棄て、家財を蕩尽して――。家柄もへつたくれもあるものか、うちの方が一級下の身分なんだつてよ、そんなことを鼻にかけてる阿母なんだ。」彼女の夫は悴に、酔つてそんなことを云つたこともあつた。「やきもちやきなんだよ、/\、いゝ年をして……」
 そんなことを父が喋ると、面白がつて笑ふ彼だつた。そして独りの心で、憂鬱になる彼だつた。彼は、既に嫁を娶つてゐる年輩の不良青年で、頭にも腕にも何の覚えもなく、漫然と父母の膝下に生きてゐた彼だつたから、父が妾を持つて家庭に風波が起つても、母の命令で父を迎へに遊里へ赴くことを、内心寧ろ花やかに思つてゐた。
 こんなこともあつた。
「随分遅いなア! また迎へに行つて来ませうか。」母思ひらしい口振りで彼は云つたが、肚はあの賑やかな父の居るところへ行つて一処になつて遊びたいのだ。彼は、友達とは何回かさういふ処へ行つたことがあるが、父と一処に酒に酔ふのが好きだつた。それに、父の席だと、芸者達が好い具合に彼をもてはやして呉れるので、彼はそれが嬉しくて仕様がなかつた。
「私も一処に行かう、伴れてツておくれ。」と彼の母は云つた。
「それは好くないでせう。」彼は機嫌の悪い顔をした。「僕だつて実に迷惑なんですよ。清友亭なんぞへ行くのは――」
「だから……」と母は一寸笑つた。「私も一処に行かうよ。今夜こそは、満座の中で阿父さんにきつぱり意見してやる――」
 彼は、ゾツと身震ひした。……定めし阿母は、やることだらうな――と思つた。
「お止めなさい/\。柔かく当らなければ駄目ですよ。……阿父さんに気の毒だ。」
 母と彼は、俥を連ねて清友亭へ駆けつけた。
「私は一寸買物をして行くから、お前は先へ行つてゐてお呉れ。」
 母は途中でさう云つた。
 彼は廊下でお蝶と出遇つた。彼は堪らない気遅れを感じた。一寸挨拶が出来なかつた。
 お蝶は嬉しさうに笑つて云つた。「今お宅へお電話を掛けるところ――。お迎ひの催促、トン子さんもゐますわよ。」
「大変だ/\、阿母が来る/\!」
「えツ!」とお蝶はたぢろいだ。
 彼は慌てゝ父の座敷へ走つた。そして同じことを叫んだ。父は、尻をまくつて、出たらめな奴さんを踊つてゐる最中だつた。
「私はあつちへ行つてゐます。」とお蝶が云つた。
「いゝよ/\。阿母が納得するやうに話してやらう。みつともねえ! 五十代の夫婦だ。」
「…………」
 彼は黙つて、正面の父の席に坐つた。この前の時彼は、父とお蝶の前でトン子といふ若い芸者を推賞したら、或はその為かも知れない、座敷の隅にちやんとトン子が坐つてゐた。彼は、惜しいことになつたと思ひ、トン子と父の顔を意味あり気に一寸眺めた。
「馬鹿奴!」父は笑つて、彼に云つた。
「来た/\。」と彼は小声で囁いだ。廊下に、妙に冴へた足音がしたのだ。お蝶は逃げ出した。父は、彼の方を向いて大きく口をあけて見せた。
 女将に案内されて、母が仕方がなく来たやうなしなをつくつて入つて来た。女将と初対面の挨拶などした。
「いろ/\御厄介になります。お騒がせして申しわけありません。」
 女将は返答に困つて、お辞儀ばかりしてゐた。父と彼は、交互に盃のやりとりをした。
「皆な帰らないでもいゝよ。今日は家内中での遊びだ。」と父は云つた。母さへその気になれば、それは一寸面白い――と彼は思つた。
「シンイチに気の毒です。」と母は開き直つて云つた。「勉強が出来ないと云つて、毎日これは滾してゐます。これは夜でなければ勉強が出来ないたちです。」
「さうか?」父は彼を振り返つた。彼はにや/\と笑つて、盃を重ねた。
「私にばかり滾さないで、お父さんにはつきり断つたらいゝでせう。」
「…………」
「親がこの態では、子供のしつけなんて出来る筈がありません。」母は、醜くゝ落つき払つてそんなことを云つた。
「御免/\、親父が馬鹿なら阿母が賢夫人だから、丁度いゝぢやないか。親父のやり損ひは愛嬌としてしまへ。――」
 彼は、自分が玩具にされてるやうな不快を感じた。だが斯うなると彼は、上ツ面ばかりが安ツぽく狡猾になつて、
「いゝですよ、阿母さん。」とワザと調子の低いしんみりとした声を出して、
「私だつてもう小供ぢやないんだから……」と云ひかけて、残りは万事胸に心得てゐるといふ風に、笑顔をもつて点頭いて見せた。何を心得てゐるんだか、さつぱり心に何の目当も無いのに――。その芝居は、愚かな母をうまく煽動した。
 母は、お前の可憐な心持は好く解つた――といふつもりらしく唇に力を込めて、微かに点頭いた。そして夫の顔を凝と視詰めた。
 そこで彼は、父の立場を気の毒に思つて、
「それで……」と母に向つて云つたが、何と云つていゝかんな言葉も続かなかつたので、たゞ如何にも物解り好さ気にニヤ/\しながら、隣家から駆けつけたお座なりの仲裁人の気持で、好い加減に口のうちで
「まアまア!」と呟いだ。
 何とかして母の気分を紛らせて、父と母とお蝶と芸者達と、そして自分とが皆な有頂天になつて笑ひさんざめいたらさぞさぞ面白いことだらう――彼はそんなことを考へた。さう思ふと彼は、四角張つて自分の前に端座してゐる母の格構を打ちくつろがせるやうに計ることが、難題であればある程興味深く思はれた。遊女は凡て汚らはしき者と思ひ切つてゐる母である。彼が嘗て、遊里を讚賞する詩をつくつたのを母に発見された時には、
「腹を切る度胸があるか?」母は斯う叫んで拳を震はせた。
「ある一瞬間の心のかたちを、詩に代へたまでのことだ。」と彼は答へた。たしか彼が二十歳の時だつた。
「そんな子供は、私は生まない。」
「生まないと云つたつて、私は此処に斯うしてちやんと坐つて、息をしてゐる。」
「この親不孝者奴!」
 母は夢中になつて、納戸へ駆け込んだ。間もなく母は、古ぼけたつゞれの袋に入つた懐剣を携へて来て、彼が絵草紙で覚えのある桜井の駅の楠公の腕の如く、ぬツと彼の鼻先へ突きつけて、
「さア!」と云つた。人間の心持が高潮に達した時は、芝居的になるものだ。演劇のワザとらしさを笑ふのは不自然な業かも知れない――この時そんなことを思つたのを彼は今でも記憶してゐる。
「これは私がこゝの家に嫁に来る時持つて来た岡村家の女の魂だ。」
「女の魂?」彼は思はず慄然として問ひ返した。
「こゝの家はどうか知らないが、女だつて貴様のやうな腰抜にヒケを取るやうな女は、岡村の家にはゐないぞ。」
 自分の里のことは何から何まで立派なものと据えておいて「こゝの家/\。」と此方の一味ばかりを、何の場合にでも弱虫の例証にしたがる母の愚が、グツと彼の胸に醜くゝ迫つた。
「私はこゝの家の長男だ、――口が過ぎる。」
「腰抜ざむらひの子か!」
「何だと……」
 彼はカツとして、いきなり母の手から懐剣をもぎ取ると、キヤツと云つて、鞘で空をはらつた。すると母は非常に慌てゝ、
「もういゝ/\。」と云ひながら彼の腕を確りとおさへて離さなかつた。彼は湯殿へ駆け込んで泣いた。
 その時のことを思ふと彼は、自分に皮肉な嘲笑を浴せずには居れなかつた。「この愚かな損けン気は母の系統だ。」
 何年か経つた或る時酔つたまぎれの戯談に彼はそのことを父に話した。父は、膝を叩いて笑つた。――尤も彼は、父が嬉しがるやうに、出来るだけその時の母の言語や動作に尾鰭をつけて芝居もどきに喋つたのだ。そしてその時の自分のことは毛程も洩さぬのみか、返つて自分はその時も笑ひながら傍観してゐたのだといふやうに白々しく仄めかしたのだ。
「斯んなところでは話が出来ないから、兎も角私達の顔をたてゝ家へ帰つて貰ひませう。」
 母は更に切り口上で父に詰ると、彼に同意を求めて、
「ね、シンイチ。」と云つた。彼は仕方なく、
「それが好い、それが好い。」と親切ごかしの讚同をした。そして尚も母に逆に阿る為に、見るからに苦々し気な表情をして一座を眺め回した。彼が密かに想ひを寄せてゐる若いトン子は、部屋の隅に縮こまつて、この不気味な光景をぎよつとして眺めてゐた。彼は、彼女に大変気恥しい思ひをした。……「ひとつこゝで非常に凜々しい親孝行振りを発揮して律気者と見せて彼女の心に印象せしめてやらうかな?」彼は、うつかりそんな馬鹿な想ひに走つてゐた。そして彼は、あまりに小さく利己的にこだわるわが心を省みて、気持が悪くなつた。「腰抜けさむらひ!」胸のうちで、彼はそつと自分を叱ツた。
「シンイチだつてあゝ云つてゐるぢやありませんか。さア帰りませう。」
 いやに俺の名前を引ツ張り出すな! ――彼はそんなに思つて迷惑した。
 その時まで黙つてゐた父は突然、
「煩せエなア! 俺ア斯うなれば何と云つたつて今晩は帰らねえよ。」と怒鳴つた。それと同時に、さつきからむしやくしやしてゐた彼の心はポンと晴れやかに割れた。――親父! 無理もない/\、これから家へ帰つて大ツ平に意見されちや誰だつて堪るものか、居直れ/\――彼は心でそんな風にけしかけた。普段母の前では、何の口答へもせず我儘放題にさせておく父の態度を、彼は歯がゆく思つてゐるのだ。
 母は唖然として、彼の方を向いた。彼は母の味方だと云はんばかりに、物々しく腕組をして何となく点頭くやうに母の視線をうけた。
「帰つてくれ/\、手前えの顔を見るのも厭だア!」父の声は上づツてゐた。母に乱暴なことを云つたことのない父だつたから、余程の決心の上で無気になつたらしい、言葉が止絶れるとその厚い唇が性急に震えてゐた。自家でなら、もつと/\さんざんにやられても黙つてゐる父なのに、やつぱり周囲の眼を慮つて斯んなにのぼせたのか! 彼はそんなに思つて一寸父を軽蔑した。
「お黙りなさい。」母は落ついて口を切つた。「私はあなたに罵られるやうな悪いことはしません。自分勝手なことばかしゝてゐて人を馬鹿呼ばゝりをするとは何事です。云ふことがあるんなら、第一あたり前の言葉で話して下さい。」
「ぶん殴るぞツ!」
「言語道断だ!」さう云つて母はセヽラ笑つた。
「面を見るのも厭だア、あゝ厭だ/\。」父はさう叫んでドンと卓を叩いた。
「大旦那! 何を云つてゐらつしやるの!」見るに見兼ねて初めて女将が口を切つた。「そりや奥さんが斯ういふ処へいらつしやるのは悪いでせうが……」
 その声を耳にすると母は直ぐに、眼眦を鋭くした。女将はいくらか亢奮して、頓着なく続けた。おそらく父の味方だつたに違ひない。「奥さんや若旦那の心持にもなつてあげなさい。――」
 彼は思はず首を縮めた。そして、怖ろしい顰ツ面をしてゐるものゝ何となく間の抜けてゐる父の横顔を、そつと偸み見た。――「阿父さんは芸者などに大旦那/\なんて煽てられてイヽ気になつてゐるんですよ。」いつか彼は母にそんな告げ口をして、母を厭がらせてやつたこともあつた。
 女将にさう云はれると、さすがに父も吾に返つて気拙さうに苦笑した。で一寸静かな調子になつて、
「貴様が斯んなところに出しやばるといふ法がないんだ。――折角の賢夫人も笑はれ者になつてしまふぞ。」
「僕が悪かつたんだ。僕が阿母さんを無理に此処に伴れて来たんだ。」と彼は云つた。
「この年になつて何が楽しみで斯んなところへ遊びになんて来るものか。」父は彼には見向かず、母に稍々ねんごろに話した。その種のことは折々父が沁々といふことで、それは彼には嘘とは思はれなかつた。尤も父の喋ることは、どんな馬鹿/\しいことでも、それはそれなりに感情を、彼の如く偽つたりすることはないらしい――彼は常々父をさう思つてゐた。が、彼は、露悪家ではない(それ程気の利いた心の働きを持つてゐる彼ではない。)けれど、父のそんな性質を好きがつたり、尊敬したりする程の孝行な悴ではなかつた。父が若少し続けようとすると、
「そんなことは、もう聞きたくもありません。」
 母は、語尾に傍から見ると、実に異様な力を込めて云ひ放つた。……「どうせ親がろくでもないんだから、子供だつて……」
 彼は、アツと思つた。――ひとり自分はいゝ子になつて、具合よく母を瞞著してゐたつもりだつたら、やつぱり母にはこの俺の心根が見へ透いてゐたのか!
 さうは気附いたものゝ浅猿しい彼は、憤ツとして口をとがらせた。父は、その彼の心の動きを悟つたらしく、寂しさうな苦笑を浮べて、貴様がこゝで阿母に逆ふのは浅はかの至りだ――といふ困惑の色を現した。
「帰ると仕ようかね。」父はさう云つて、冷くなつた盃をグツと飲みほした。
 彼は、後架にたつた。袂で顔を圧へたお蝶が、廊下の、庭に面した薄暗い窓の隅に凝ツとたゞずんでゐた。


「僕がかうやつて、……」彼は、軽い冗談でも云つたつもりで、ひようきんに胸を張り出した。
「どうだらう? 似合ふかしら? 似合はないだらうな。修業をすればなれるかね? だが何としても親父のやうに、事業にかこつけることが出来ないのは、弱つたなア!」
 冗談にせよ、父親を引合ひに出したのを、女将は一寸あきれたらしかつた。彼は、自分が如何程武張つて、そんなことを云つたところで何の自分にそんな身柄のないことを知り抜いてゐるのだが、独りで斯ういふ処へ出入することが、自分にとつても不自然な気持を起させない位ひにしたかつたのだ。
「ハツハツハ……五十三で死んでしまつては親父も気の毒には気の毒だが、それもまア好いだらうさ、あと十年生きたところで僕が親父を嬉しがらせることがあるとは思へない。……尤もさういふ考へ方はあまり好くはないが――」変にすらすらと彼は口を切つたが、終りに近づくと愚図/\と口のうちで、ごまかしてしまつた。
「今でもトン子さんのことは、思つてゐらつしやるの?」
「あゝ思つてゐるね、大いに思つてゐるね。」
 それ程でもなかつたが彼は、やけにはつきりした声を挙げた。だが、さういふと同時にふつと周子のことが浮んだ。結婚してもう四年になるか! わけもなくさう思つた。
「それで?」
「それで今日来たといふわけでもないんだがね……」
 彼は、さつき使ひを頼んで、お蝶に来て呉れるように云つた。お蝶は、彼の家へ手伝ひに行つてゐるので今直ぐには来られないが、といふ返事だつた。
「東京からお客様ださうです。」
「ふゝん。」――叔父達だな、と彼は思つた。
「今日はお帰りになつた方が好いでせう、お忙しいんでせう。」
「生意気云ふな!」彼は首を振つた。女将は、失笑を堪へた。――「来られないんなら、夜でもいゝから来て貰はう、さう云つてやつておいてくれ――兎も角芸者を大勢呼んでくれ。今晩は俺は家には帰らないんだよ、誰が迎へに来ようと帰らないんだよ。阿母が迎へにでも来れば面白いがなア……」


「五六日うちには、屹度帰つて来るから……」彼はさう云つて息を一つのんで「安心してゐていゝ。」と付け足した。
 お蝶は、黙つて点頭いた。
「僕にだつて相当の了見はあるんだから――」彼は更にさう云つた。ところが、相当の了見、そんなものは可笑しい程さつぱりと何んな形でゞも彼は持ち合せてゐなかつた。
 母や親類の者共が、どんなにお前を排斥したからとて、斯うなれば最早自分が父の代理が務まるから、決してお前の身の立たぬやうにはしない――彼は、さういふ意味のことをそれとなくお蝶に伝へたつもりなのだつた。
「若旦那ひとりが、頼みです。」お蝶は眼を伏せて微かに呟いだ。
 彼は何の分別もない癖に、そんなことを云はれると、何となく自分が出世したやうな喜びを感じて
「阿母などが何と頑張らうと、僕は既にわが家の主人公なんだからなア。」などゝ云ひながら尤もらしい顔付をして、ゆるゆると煙草の煙りを吹き出した。
「無論ですわ、奥さんが若旦那に相談をしないといふ法がありませんよ。」
 お蝶は、斯ういふ風に彼の母を非難すると彼が益々有頂天になるのを知つてゐた。お蝶や今迄父のところへ出入してゐた北原や石川などゝいふ老人を前にすると、彼は無暗と概念的に母を攻撃するのだつた。
 蔭ではそんな風にするものゝ、彼が家に帰つた時母がいろいろと――例へば、持家は悉く焼けて仕舞つたこと、地代は震災以来一つもあがらぬこと、父が莫大な負債を残して行つたこと、それを銀行に何と始末することか、方々に投資した財産を何うして回収すべきか? お前はもう東京へは出ずに家の後始末をしなければならない――といふこと……そんな相談はいろいろと彼に持ちかけるのだが、彼は何の返答もしなかつた。横を向いて、間の抜けた顔をしてゐるばかりだつた。暗い相談ばかりを選んで持ち懸けられるやうな不平を感じたりするのだ。――どんな悲しい破境に陥つても、何か其処に面白い明るさがなければならない、例へば家が破産と決つたら、整理するなんていふことは止めて、あるだけの物で各々享楽した方が増だ――父が死んで以来彼の頭は常規を脱してゐるに違ひない、そんな幼稚な享楽派の文学青年でもが云ひさうなことを、稍ともすれば心から考へたりするのだつた。
 つい此間も、母は彼に斯んな事を云つた。
「この先お前はひとりで、暮しが出来ると思つてゐるの?」
「……」彼は出来るとは思はなかつたから黙つてゐた。そんな抽象的な(彼は、面白くない話になると直ぐに抽象的だなどゝ決めて、手前勝手な憂鬱を感ずるのが癖だつた。)……そんな女々しい予想に怯かされるなんて恥とする――母の言葉でほんとに彼は怯かされたもので、虚勢を示したのだ。
「出来ると思ふんなら、東京へ出るのもいゝでせう、だが私にはそれは信じられない。お父さんはお前にこそ云はなかつただらうが、お前は学校を卒業してから、もう何年になると思ふ、学校を出た年には新聞社へ務めた、その時だつて学生時分に比べて月々三倍も余計なお金を取寄せた、その後何年か家にごろ/\してゐたが……」
「止して下さい、止して下さい、何をして来やうと、それでやつて来られたんだから好いぢやありませんか……」家のものは凡て俺の物なのだ、母親などが女の癖に、既に一人前の男に生長した長男に向つて、兎や角云ふのは非礼なことだ――彼はさういふ図太い了見を示した。その種の返答は、父の在生中は母に向つておくびにも云へない彼だつた。今となつたら少しはこの俺を尊敬したら好いだらう、第一実印をこの俺に渡さないといふのからして間違つてゐる……彼は、そんなに思つたりした。
「此頃はまた東京だ、東京と聞くとゾツとする、女房や子供は家に置きツ放しで、何をしてゐるんだか解つたものぢやない……」
 母が一寸無気になつて、さう云ふと、彼は意地の悪い笑ひを浮べた。――勿論、何をしてゐるか解つたものぢやないよ、東京へ行けば独りでのうのうと出たら目な享楽に耽つてゐるんだぞ。――彼は、母を脅迫したつもりなのだ。地震で家が潰れて以来彼は東京へ出て、以前関係のあつた新聞社の社会部の下級社員に採用して貰つたのだ、そして小胆な彼は汲々として働いてゐるのだ、母達の懸念とは全く反対に、母や妻や子供のことばかしを案じながら、文字通りに善良な日を過してゐるのだ。
「お父さんが丈夫な時分は好いだらう、私だつてお前が思つてゐる程のお金持ぢやないよ、それだのに此頃は、この前に務めた頃に比べると五六倍も余計なものを……」
「僕は、これから東京で事業を起さうと思つてゐるんです。」彼は、てれ臭さのあまりそんな出たら目を口走つた。彼は新聞社へ入つた当座は、お調子者だから気軽くぽんぽんと飛び廻るので大分うけも好かつたのだが、近頃では次第に同僚達に安ツぽい肚を見透かされて、今では社内の軽蔑の的になつてしまつたのだ。
 その癖彼は、自家に戻ると母や細君やお蝶の前では、夢にもない大きな法螺を吹くのだつた。例へば、もう半歳もすれば社会部長に昇進するとか、社長に最も信用のあるのは自分だけで、現在では社長の第一級の秘書を務めてゐるとか、だから一ヶ月のうち半月は休んでもいゝのだとか、だからそれは一家一族の名誉にもなることだから、金銭などを念頭に置いてゐられる場合ぢやないとか……。
「事業はお父さんで懲りないのか。」
「僕だつて一つ位の事業はやりたいものです。万一僕が一つや二つの事業に失敗したからとて、それが何です。親父は幾つとなく事業をやつて皆失敗したぢやありませんか、僕だつて僕だつて……」
「そんな資本金はもう家にはない。」
「親父が皆な費つてしまつたんだ、阿母さんだつて一処になつて面白い思ひをしたに違ひない。一等馬鹿/\しいのは僕だけだ。」清友亭位ひで少々費ふのが何だ――彼は、母が意に留めてゐないところにこだはつた。
「……」母は、あきれて横を向いた。そして唇を噛んだ。


 彼は、お蝶に酌をされながらチビチビと酒を飲んでゐた。縁側には、五月の明るい陽が一杯射してゐた。周子は、眠つた子供を抱いて、お蝶のことを姐さん/\と称んでゐる若い芸者の百合子を相手に、縁側の隅で呑気な雑談に耽つてゐた。彼が清友亭へ来て以来、一週間近くにもなる。酒に飽きると、稀に彼は母の家をのぞいたが、一時間も居ずに引き返した。いつの間にか、周子も子供を伴れて此処に来てしまつたのだ。
「あたしだつてもう家には帰れないんだから、あなたが東京へ帰るんなら一処に伴れてつて下さい。」周子は、彼とお蝶との話に気づいて呼びかけた。周子は、彼の味方になつて叔父と母の前で争ひをしたのだといふことである。それが為に彼が内心どんな迷惑を感じてゐるか、彼女は知らなかつた。
「東京へいらつしやる、いらつしやらないは別として、若い奥さんまでが此処に来てしまつてゐるのは好くありませんよ。」
「何だか私たちが、蔭の糸を引いてゐるやうにお宅の方に思はれる気がします。」
 女将とお蝶は、迷惑がつてさう云つた。周子は苦笑ひしてゐるばかりだつた。彼は、憎々しく周子の様子を打ち眺めた。
 周子が来て以来、夜になつても賑やかな遊びも、トン子の顔を見るわけにもゆかないのは彼は不服だつたが、斯んな風な状態で周子達と共々此処に引寵つてゐるのも「一寸アブノルマルな感じがして悪くもない。」などと思つた。嘗て「真剣」とか「緊張」とか「深刻」とかいふ文学的熟語に当てはまるやうな経験を持つたことのない彼は、一寸夢見心地になつて自分の現在の境遇を客観して見たりした。――父の急死から一家の気分が支離滅裂になり、長男が慌てふためくこと、彼の細君が露骨に彼の母に反抗し始めたこと、母は自分の兄弟達と相計つて愚かな長男を排斥して善良な弟を擁立しようとすること、長男が嫉妬心を起すこと、そして彼は父の馴染だつたお茶屋に細君と共々滞留して、お蝶達を集めて不平を鳴してゐること――そんなことを思つて見ると彼は、今更のやうに自分が「非常」な境遇に面接してゐるやうな気がするのだつた。そして小説とか芝居とかに見る「悩める主人公」に自らを見立てゝ、自ら「深刻」なつもりのヒーローになつて安価な感情を煽りたてた。彼は、ワセダ大学に在学当時、クラスの文芸同人雑誌に加つたことがあつた。そして彼等の議論に接して怖れを抱いたことがあつた。彼等は非常に「真剣」だつた。口を開けば必ず「芸術」と叫び「魂の悩み」を歌ひ、「血みどろに生きる」ことを誓つた。「十三人」といふ名前の雑誌だつた。彼は、去年一年自家を追はれて熱海に暮した時、退屈のあまり「十三人」の頃の自分のことを長く書き綴つたことなどを、ふと思ひ出した。……彼は、今の事件を小説的に書くことを考へて見た。すると彼の気持は、おどけて散乱してしまつた。事件などには、何の興味も持てなかつた。父の死、破産、長男のこと、母のこと……それだけで、キレイに片づいて了ひ何の細い感情も伴はなかつた。折角の「深刻」も「緊張」も後かたなく吹き飛んだ。
「さうだね、周子は兎も角あつちへ行つてゐた方が好いね。」
「あなたまでが、そんなことを云ふんですか。」周子は頑なゝ眼つきで、恨めしさうに彼を視詰めた。
「あゝ、さうか/\。」彼は、軽々しく点頭いて「まア、そんなことはどうでもいゝや、皆な心配するねえ、おいチビ公! 貴様ひとつ踊りを踊つて見ろ。」
 雛妓をしてゐるお蝶の養女お光をつかまへて、彼は威張つた。が、彼の気持は未だ一寸小説の空想に引つ掛つてゐた。ふと「十三人」の頃のことなどを思ひ出してゐた。同人にはなつてゐたが彼だけは仲間脱れにされてゐた。
「彼奴は人生を遊戯視してゐる」とか「末梢神経の奴隷だ」とか「甘くて浮気な文学青年だ」とか「人生の暗い悩みなんてに気附かないのだらう」とか「あんな奴がどうしてわがワセダ大学の文科などに入つて来たのだらう、幼稚な夢を描いてゐるとしたら惨めなものだ」とか「カフエーにでも行つて歌でも歌つてゐればいゝんだ」とか「不真面目で、酒飲みで……」とか、そんな風に彼等から片づけられてゐたが、そして彼はそれでは一寸味気ない気もしたが、人生を遊戯視してゐるも、してゐないも、そんな理屈は考へたこともなかつたし、彼等からさう云はれると、或はさう云ふ種類の人間かな? と思はれもした。といふた処で、何とするわけにもゆかず、有耶無耶に彼等から離れて仕舞つたまでのことだ。そして、洞ろで悲しいやうな心を抱いて東京を離れた。
「あゝ。」と彼は思はず溜息を洩した。「俺は何といふ阿呆な人間だらう、何といふ頼母しくない男だらう。」そんな風に鞭打つて見ても、何ら感情が一点に集中して来なかつた。彼等の所謂「芸術的」にも「真剣」にもなつて来なかつた。
「あなた! 何を考へてゐるの?」
「いや、兎も角、お前達を伴れて東京へ行くとなると……」
「心細いの?」
「うむ……」
 だが彼は、別に心細くもなかつた、と云ふてその反対のものでもなかつた。
「古い十三人のお友達だつてあるでせう、その人達の中には一人や二人は、あなたの思案にあまることは、相談になつて呉れる人だつてあるでせう、河原さんといふ人や石黒さんといふ人や……」
 そんなことを云はれると、彼は急に変な心細さに襲はれて、
「お前に斯んなことを云ふのは、悪いことだが――」と口のうちに弁解しながら、
「俺は、実は彼等をあまり好んでゐないのだ。」と云つた。それは彼の、小人らしい卑しい自尊心だつた。正直な心では、寧ろ斯う云ひたかつたのだ――俺のやうな男とは、彼等の方がほんとには附き合つて呉れないのだ、普段ぴよこぴよこしてゐる罰で、斯んな時には惨めなものだ。
「そんな考へだから駄目なのよ、そこのとこだけは没くなつたお父さんは偉かつたんぢやないの。随分大勢の人が出入りしたが、誰とでも親しく、そのことをお母さんからあんなに厭がられても、誰にだつてお父さんは厭な顔なんて見せたことはないぢやありませんか。」
「死んだと思つて、讚めるな。」
「あなたの心は曲つてゐる――。お父さんが繰り反し/\云つてゐた通り、お蝶さんの方と家を持つたのは、あれは確かにお蝶さんの為ばかしぢやないのよ、確かにお客の為よ、自家うちだとお母さんが厭な顔をするもので……」
「俺ア、手前んとこの親父は大嫌ひだ。」
「今は、あなたのお父さんの話をしてゐるところぢやありませんか。」
「熱海へ行つてゐる時分、貴様は俺の親父の悪口ばかし云つてゐたらう、顔を見るのも厭だなんて云つたらう。」
「あなただつて云つたぢやないの。」
「黙れ、貴様の了見は下品だ――第一俺は手前の阿母が、これまた気に喰はないんだ、あのペラペラと薄つペラな唇を突き出して愚にもつかない自分好がりの文句を喋る格構は想像したゞけでも鳥膚になる――アヒル婆アだ、貴様も好く似てゐる……」
「自分の阿母さんは、どうだ。」
「…………」
 お蝶と百合子が、まアまアと云つて彼をなだめたが、彼は諾かなかつた。
「貴様の親父は悪党だ! 金を返してくれ、金を返してくれ、あの紙屑爺のおかげで家では二万円も損をした。」
「うちのお父さんのおかげで、あなたのお父さんは借金することが出来たんだ、あなたのお父さんみたいな無頼漢は、小田原でさへちやんとした人は相手になんてしませんよ。」
「さうだらうよ、さういふ人のところに、巧みな甘言を用ひて附け込んだ貴様の親父は、悪漢だ。質が好くないといふものだ。手前えなんぞは何処の馬の骨だか解つたものぢやないぞ!」
 初めのうちはそれ程無気になつてゐた彼ではなかつたが、ふと二万円といふ言葉が浮ぶと、父が死んで以来心の調子の狂つてゐる彼は、そんな種類の金のことなぞを耳にしても、かツと取り逆せて夥しい疳癪を起すのだつた。そして、そんなに古臭い、彼の母でもが云ひさうな文句を叫んで、何の罪もない周子を虐待した。口先でばかり巧みなお座なりを喋つて、娘の縁家先などを餌食にした周子の父親の心根を想像すると、その片割れである周子の色艶までに憤懣を起したりした。「男ならば、それであればこそキレイな親情を示していゝわけだ。」周子にそんなことまで云はれたこともあつた。
 つい此間、彼が母と共に父の書類を整理した時、遇然周子の父親の名前になつてゐる借金証書を発見して、二人とも唖然とした。自分勝手に周子などゝいふ女と結婚したのが、父や母に対して慚愧の至りに堪へぬ気を起したりした。
「周子の家の方は、一体この頃どうなつてゐるんだらう?」母はいくらか彼に遠慮しながらそんな風に訊ねた。
「どうだか僕は、少しも知らない。」彼は不機嫌に呟いだ。尤も彼も母も、前から周子の父親があまり質の好くない人間であることは薄々知つてゐた。
「あんな家は駄目だ、失敬だ、……俺に対して失敬だ。」彼は常規を脱した声を挙げて、母に媚を呈した。
「どうも困つたものだ。」母はさう云つて、見るからに不快気な、棄鉢な格構をした。すると彼の胸に、もう一つ別な心が浮んだ。……困つたとは何だ! 何でもを自分のものと考へるのは図々しいや……そんな風に思つて彼は、一寸母をセセラ笑つた。そして母が今迄周子に執つた態度を回想して、あれぢや周子が口惜しがるのも無理はないと思つたり、また母から見たら、さぞさぞ周子までが心憎いことだらう、何と浅はかな母親よ――などゝ思つて反つて母に同情を寄せたりした。
「あの親父は、実に酷い奴ですね。」彼は、軽い遊戯的な気持だつた。
「だから御覧なさい、周子だつて似てゐるところがあるぢやないか、あの子はなか/\怖ろしい心を持つてゐるよ。」
「どうも僕にも気に喰はないところが!」
「あれぢやお前が時々疳癪を起すのも無理はないと私は思つてゐるよ、生意気だつたらありやアしない! あんなのが女優志願なんてするんぢやないかしら!」
「志願したつて仕様があるものですか、あの顔に白粉を塗つたらのつぺら棒だ――」
「クツクツク……」母は、嬉しさうに芙つた。「まつたくね! 遠国の者は気が知れないからね。」
「もつとも彼女あれには悪い気はないですよ、悪気でもある位なら、いゝんだが……」彼は巧みに母を操つてゐる気がした。
「そりやアさうね、その日暮しのそだちをして来た者は御苦労なしだよ。……だからお前がそこをしつかり教育さへすればいゝんだ。」
「なまじイヽ家からなど貰ふと反つて気詰りでせうね。」彼は多分の皮肉を含めたつもりだつたが、母にはそれが通じなかつた。
「さうとも/\。」と母は易々と点頭いた。するとまた彼は、自分だけで周子に憤懣を覚へた。自分よりか、この阿母の方が矢ツ張り好人物なのかな? そんな気がした。
「これからはお前の代なんだから、痩せても体面を汚さぬようにしなければいけないよ。」
 彼は、もう少しで噴き出すところだつた。
 ――彼は、若き男でありながら卑屈な姑根性なるものが、よく解る気がしてならなかつた。母の態度に、それを見る時、それを興味深く思ふこともあつた。飽くまでも執念深く発揮すれば面白いが――そんなに思つて不足を感ずることさへあつた。若し自分が、女に生れて、そして年を取つたら、古めかしい型通りに卑屈で強情な、さぞさぞ意地の悪い鬼姑が出来あがることだらう――彼はそんな空想に走つたりした。
「あそこの母親もね……」
「フツフツフ、……」
 自分達だけは小高い丘に坐つたつもりで、他人を冷笑することの好きな母と子は、不気味な親しさに溶け合つて、卑しい笑ひを浮べた。
「あたしはあなたを見損つた。実に男らしくない人だ。」周子は、お蝶達の前もあつた為か、蒼い顔をして唇を震はせた。「今迄お金のことなどに就いては、如何にもキレイな顔をしてゐたのは大嘘なんだ。親同志が話し合つてしたことを……」
「親同志、なる程ね、得をした親の方はいゝだらうが、此方は損をしたんだからね、……」彼は落付き払つた態度をした、だが、なる程今迄は周子の前では、度胸が大きく金銭などに就いては非常に高潔振つてゐたことを思ひ返して、一寸我身に自ら矢を放つた思ひがして小気味好かつた。
「……何が芸術家だ! 友達などに会ふと体裁の好いことばかし云つてゐるくせに………」
「お前にも今迄は体裁の好いことをワザと云つてゐたんだよ。」
「大うそつき! そんな嘘つき芸術なんて……」
「あゝさうだ/\。俺は芸術家でもなんでもありませんよ、私には、あなたのやうに高尚な気分なんて生れつき持ち合せないんですからなア――だ。」
 大分酔の回つて来た彼は、ほんとにさういふ気で、憎々しくふてくさりながら、ニユツとひよつとこ面をつくつて、周子の鼻先へ突きつけた。
「死んでしまへツ!」周子は金切声を挙げて叫ぶと、思はず彼の頬を力一杯抓りあげた。女が、さういふ形で極度に亢奮したのを見ると彼の心は全く白々しくほぐれてゐた。そして、得体の知れぬ快さを覚えた。
 彼は、もつと/\周子を怒らせてやりたくなつて、にや/\と笑ひながら、
「理屈はいりませんから、先づ第一にお金を先に返して貰はうかね、エツヘツヘ……」
「お金は返せば済むことです、私が享けた恥はどうして呉れますか?」
「御尤も/\。――だが二万円は一寸好いね。あゝ、思つても好いね……」さうふざけて云つたが、ふと彼はわれに返ると、頭は夢のやうにとりとめもなく煙つてゐるばかりだつた。
「あなたが、そんな見下げ果てた了見だからあたし独りが家中の者から馬鹿にされるんです。あなたは自分の妻といふものに対して、一体どういふ考へを持つてゐるんですか、それから先に聞かせて貰ひませう。」
「あゝ、面白い/\。」彼は、妙に花やかな気持になつて、ふらふらと立ちあがつた。
「お光、俺と一処に踊らう/\。――周子も、もう止せ/\、……ところで、梅ヶ枝の手水鉢――といふ唄を皆なで合唱しよう。」
 周子は、唄のことは知らなかつた。それで、酔つ払ひにからかふのは止めようとでも思つたらしく、赤い顔をして横を向いた。
 この機会を取り脱しては、また厄介だと悟つたお蝶は、二三人の若い芸者に三味線を引くことを命じた。「梅ヶ枝の――」ではなく、彼の知らない賑やかな囃しが始まつた。お光が気乗りのしない掛声をして、鼓を打ち、太鼓をたゝいた。
「あゝ清々といゝな! この分なら親父の二代目だぞ……」
 ふつと彼は喉が塞つた。
 彼の酔つた頭は、意久地もなく無反省に、明るく溶けてゐた。
「合掌!」わけもなく彼は、そんな気がして、思はず静かに眼を閉ぢた。
 ――父上、私は何もいりません、私はあなたの凡ての失敗を有り難く思つてゐます。
 暫くあなたに会ひませんでしたね、――この世に在ることも、無いことも、そんな区別はもう止めに仕様ぢやありませんか! どうですか、解るでせう、……少しも私は悲しいだの、寂しいだのなどゝは思ひません、愉快ぢやありませんか! 今日は、またひとつ大いに飲まうぢやありませんか。
 いつか私が、あなたから招ばれて、どうも阿母や周子たちが困つた顔をするので、それでも私は行きたくつて堪らず、とうとう彼等を偽つた私は、テニスのシヤツ一枚でラケツトを担いで、自転車に飛び乗つて、こゝに駆けつけたことさへありましたつけね、お客人や芸者達に私はあの時随分キマリの悪い思ひをしましたが、あなたは平気で、少しも笑ひませんでした。笑はないあなたを反つて私は可笑しく思つたりしましたぜ――。
 まア、そんなことはどうでもいゝんだ。あなたは貧乏になる時の私を大変心配してゐたらしいが、そんな臆病は今の私にはすつかりなくなつてゐます、……あなただつてほんとは貧乏だつたんぢやないですか! あの時分は……。
 彼は、そんな他愛もない文句を、とりとめもなく思ひ浮べたが、それはたゞ徒らに喫す煙草のやうに何の心に懸はりなく、心は白く漠然と明るく澄んでゐるばかりだつた。
 お光は、精一杯喉を振りしぼつて、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)のやうな叫び声を挙げて、切りに太鼓を打ち続けた――。
 お光、お前も可愛想だよ、馬鹿/\しいからそんなに精を出すのを止めろよ、何としても俺ぢや駄目だぜ。お前達もこの先どうなつて行くのか? そしてこの先この俺もどうなつて行くのかな?……。
 彼の、もろい頭は更に感傷に走つてゐた。
 お蝶も、皆なと一処になつて三味線を引いてゐた。
 その時、隣室に寝かせてあつた彼の三才の子供が疳高く、怯えた泣声を挙げた。――不興気に、ぽかんと一座のこの光景に視入つてゐた周子は、慌てゝ隣室へ駆け込んだ。
 彼は突然、くしやツと、一見すると笑つたやうに口もとを引きつらせた。それが彼の、泣き顔なのだつた。彼はグツグツと喉を鳴らしながら、一杯涙の溜つた眼を梟のやうに視開いてゐた。そしてお蝶達が隣室に遠慮して三味線の手を止めやうとすると、彼はきゆツと唇を歪めた儘伏向いて、もつと続けろ/\といふ意味のことを、何かを戴くやうな格構に差し出した両腕を切りに上下に振り動かせて、彼女等にすゝめた。


「阿母さんだつて、決してあなたの為にならないやうな事を考へてゐなさるものですか。第一ですね、斯んな場合にあなたが家をあけて、その上あんな場所に泊り込んでゐるなんて外聞が悪いぢやありませんか。」
「僕は、帰つてはやるが、阿母とも岡村清親とも、顔を合したつて口は利かないよ。承知だらうね。」と彼は念をおした。清親といふのは彼の母の二つ年上の兄だが、彼はこゝで「叔父さん」といふのが業腹だつたので、わざと長たらしく姓名を呼んだのだ。
「私が一処だから大丈夫さ。」宮原は彼を伴れ帰りさへすれば役目が済むとでも思つてゐるらしい無責任な調子だつた。宮原は彼の父が在世時代から、彼の家の細々した走り使ひなどをしてゐた父より余程年上の年寄である。一寸宿屋の番頭のやうな型の男で、カラお世辞が巧みで、父の居た頃は彼は殆ど言葉を交したこともなかつた。
「話だけは、はつきり決めて置かなければなりませんよ。その上でならあなたは東京へ行かうと、自分の好きなことをやらうと差支へありません。」
「話とは何だ? 好きなことをやらうとやるまいと余計なお世話だ。それに、もうこれからはそんな余裕のある身分ぢやない。」
「そんなことあるものですかね、あなたさへ確りしてゐれば、安心なものさ。」
「僕は何も心配なんてしてはゐない、確りするもしないも、僕は僕だ、……」
「若いうちは、元気があつて羨しいね。」
「チエツ! 何云つてやがるんだい。」
 宮原はどんな酷いことを云はれても怒らない男だつた。それをいくらか彼は、附け込んでゐた。
 酔つて足もとの危い彼は、宮原に促されて不精無精に清友亭を出た。周子も昼間、宮原に伴れられて帰つたが、何としても厭だと云つて今は宮原の家に居るといふことだつた。
 彼は、宮原の後ろに従つて、仮普請で建付きの悪い格子を閉めて自家の玄関を入つた。彼の胸は怪しく震へた。子供の時分、運動会で出発点に並んだ時、これに似た気持を経験したことがある――などゝ彼は思つた。
 清親と母は、物思ひに沈んでゐるだらうと思つた彼の予感を裏切つて、割合に明るい顔をしてゐた。清親は正面に大胡坐を掻いて、酒を飲んでゐた。そして彼の顔を見ると、確かに笑つてゐた顔を急に六ツヶ敷く取り直した。
 彼は挨拶もなく、敷居傍にぬツと坐つた。その彼の態度を、母が苦々しく感じたことを悟つた彼は、更に太々しく黙つて煙草を執つて、悠々と煙を吹いた。
「おーい、俺にもお酒を持つて来てお呉れ。」
 彼は、台所の方へ声を掛けた。
「何しに帰つて来た?」と清親は眼を据えて彼を睨めた。
「何しに帰つて来たとは何だ!」彼も清親のやうに太く重い作り声で、訊き返した。
「何事です。」と母は飛びつくやうな声を挙げた。「叔父様に挨拶をしなさい。」
「厭なことだ。」彼はさう云つて、凝と清親のたるんだ頬のあたりを視詰めた。彼が母方の者に斯ういふ態度をしたのは始めてゞ、その為に清親や母が何れ程自尊心を傷けられたか? と想像すると彼は愉快だつた。だが胸の鼓動は異様に高かつた。宮原は、あつ気にとられて切りに煙管をひねつてゐた。
 清親と母は軽蔑された憾みを火の如く烈しく炎やしてゐるだらう……さう思ひながら彼等の亢奮の上句蒼ざめた顔色を、等分に眺めた彼は「馬鹿奴、こゝのところは俺は親父とは違ふんだぞ!」と云つたつもりの力を込めた。
「何しに帰つて来たんだ。」余程気が転倒したと見へて、清親はまた同じことを繰り返した。
「自分は何しに来てゐるのだ。フヽンだ。」
 彼は茶飲茶碗に酒を注いで、一息に飲み下さうとしたが、とても不味くて、そんなことは出来なかつた。彼は、たゞ狐のやうな虚勢を示すばかりだつた。今迄は清親と会へば、いつも行儀よく膝も崩さず、「叔父様」と呼び「私」と称してゐた彼だつた。それも母の教育で、彼女は自分の身内に対しては飽くまでも厳めしい礼儀を強ひるのだ。それもいゝだらう、それならば何故此方の者のこともさうしないのだ……彼は、清親と母が、父が居る時分でも、父が留守だと、父を冷笑的に批評してゐたのを知つてゐた。
「御挨拶をしなさい、挨拶を――」
 母は事更に言葉をそこに引戻さうとして、彼に詰つた。
「厭だと云つてゐるぢやないか。誰がくそ――」
 彼は洒々として天井に顔を反向けた。親父の兄弟の悪口なら喜んで聞く癖に……何が礼儀だ。
「岡村清親なんて出しや張るな!」
「叔父をつかまへて呼び棄てにするとは何事か!」清親はカツと口を開けて怒鳴つた。母は眼眦を逆立てゝ彼を睨めた。
 ――斯うなれば何と悸かされたつてビクともしないぞ――彼はそんな力を容れた。
「貴様が家をあけて、誰が家のことをすると思ふ、清親叔父さんだからこそ斯うして親切に面倒見て呉れるんだ。自家の兄弟なんて幾らあつたつて、役に立つ人は何もないぞ。」
 母はキンキンと響く声で滔々と喋り始めた。その言葉の内容の如何に係はらず、この種の母の文句を耳にすると、彼は無性に肚がたつのが癖だつた。理性もなにもなく、たゞ嫌ひな料理を無理矢理に鼻の先へ突つきつけられるやうな嘔吐感を催すのだ。
「生意気な口をきくなら、何から何までキチンと自分で始末したらどうだ、手紙一本だつて満足には書けない癖に――お金の勘定は誰がして呉れたと思ふ? 誰が……」
 彼には母の言葉がはつきり聞えなかつた。耳も頭もガーンとしてゐるばかりだつた。用ひ古したレコードの雑音を聞くやうな不快を覚へるだけだつた。
 母も母なら、清親も清親だ――眼の前でそんなに母から労力を吹聴されて、てれもせず平気でゐられる清親風情奴! などと、彼は思つたりした。清親は、母に代弁させてゐるやうなつもりで、厭に得意らしく、頤をしやくり上げた儘済してゐた。
「叔父さんにお礼を云ひなさい。」
「誰が頼んだ! 余外なお世話だ。」彼は叫んで、一寸立ちあがり、ドンと一つ角力のやうに脚を踏み鳴して、直ぐまた坐つた。徳利位ひ倒れるかと思つたのに、徴兵検査は体量だけで落第し、それ以来五百目も増へない十一貫なにがしの彼の重味では清親の盃の酒さへ滾れなかつた。
「貴様などは自家うちに帰る資格はないんだ。何処へでも出て行け。」と臼のやうに肥つてゐる清親は叫んだ。
「俺の家だ。」
「私の家だ。」一言毎に母は清親に味方した。成程この家は、母のものださうだ。そんなことはつい此間まで彼は知らなかつた。――俺は阿母にだつて出来るだけのことはしてあるんだ。――そのことか何か知らないが嘗て父が彼にさう云つたことがある。
「俺の兄弟だつて、それは皆な役に立たないが、阿母達見たいに意地の悪いところはない。」父はさう云つたこともある。
「僕はこれで、仲々意地が悪いよ。」彼はにやにや笑ひながら云ひ返した。彼が、父の思ひ出の断片は悉く酔つた父子のことばかりである。
「さうかね。」と父は一寸考へた。「貴様の顔は一体俺に似てゐるのか? それとも阿母系統か?」
「顔は親父系統で、心は阿母系統かな!」彼は、出たら目に笑ひながらさう云つた。
「そんなことはありませんわ。」とお蝶が傍から口を出した。「心は……」
「もういゝ/\。」と父は楽し気に手を振りながら「お前えは俺程の度胸がないからな。」
「ハツハツハ……阿父さんの度胸は一寸的が外れてゐるんぢやないの?」
「損をしても驚かない度胸だよ。」
「さうでもないでせう、やり損ひをすると五日も六日もムツとした顔で寝てばかし居たことがよくあつたぢやありませんか。」
「あれはね。……」と父は一寸笑顔を消して「あれはね、損を後悔するわけでないんだよ、何と云つたらいいかな、俺は時々さういふことがあるんだ。何をするのも厭になるといふやうな、無茶苦茶に気が鬱いで……ターミナル・ペツシミストとでも云ふのかね、柄でもないんだがね。」
楽天的厭世家オプテイミステイク、ペツシミスト! そんなものがあるか知ら。」
「そんなものがあるものか!」
「止さう/\。そんな話は――」彼は、ふつと厭アな気がして、庭に眼を反向けた。
「貴様には友達はないのか。」暫くして父はそんなことを訊ねた。
「あるにはあるけれど……」彼は、さう云つたものゝ気が滅入つた。
「親類の連中なんて当にはならんよ。」
 彼には父が、どうしてそんなことを云ふのか好く解らなかつた。
「僕だつて皆な嫌ひだ。」
「嫌ひだ、で済むうちは好いが……」
「清親なんて云ふ奴は、何て厭な奴だらう。」
「貴様がそんなことを云つたつて仕様がないぢやないか――」
 そんな話から、いつか友達のことに移つて行つた。イギリス人に親しい二人の友達を持つてゐることなどを父は話したりした。
 その時分同人雑誌の会合が毎月一度宛あつて、彼は厭々ながら稀れに上京した。――どうしたハズミだつたか、父は、来て呉れるやうな友達があるんなら、一辺此方へ皆なを招待したらどうか? といふやうなことを云ひ始めた。この前彼等に会つた時、
「近いうちに一辺タキノの小田原へ行つて見やうぢやないか。」といふ話があつたことを彼は不図思ひ出したので、
「ぢや今度行つたら聞いて見やう」と父に答へた。
「皆な主に何をしてゐる人なの?」
「新聞社とか婦人雑誌社とか中学の先生とか……」
「雑誌や先生は厭だが、新聞社はいゝな。」
「皆な相当に偉いらしいですよ。」
「東京の新聞社ぢや大したものだらう、尤も俺は日本の新聞社は何処も知らないが、――ヒラデルヒヤの学校にゐた時分の友達で、ベン・ウヰルソンといふ男が今でもニユーヨーク・ヘラルドの論説記者をしてゐる、つい此間も手紙を寄した、そら、お前が子供の時分にオルゴールを送つて呉れた人だよ。」
「さうさう、Twinkle Twinkle Little Star, How I wonder what you are といふ……さうさう、今でもあるかも知れませんよ。」彼は変に細かく叙情的な声をした。
「いつかベンに手紙を書いた時、俺の倅も今では大学を卒業して、新聞記者になつてゐると云つてやつたことがあつた。それはさうとお前はいつの間にか止めちやつたんだね。」
「僕、新聞記者は嫌ひになつてしまつたからさ。」
「ぢや、何になるんだ。」
「来年あたり欧洲へでも行きたい。」彼はてれ臭くなつて出放題を云つた。
「一二度行つて来るのも好からう。」父は常に自分が外国で永く暮したことを鼻にかけて、こんな話になるとワザとらしい淡々さを示すのだつた。自分は東京へ行くのさへ億劫がる癖に。「俺も来年は一寸行つて来やうかな。」
 彼は、わざ/\同人連中を迎へに東京へ出かけた。汽車賃がかゝるから厭だと云つて半分の者は、いざとなると止めてしまつた。残りの五六人が来た。その時周子は、河原や石黒といふ名前を知つたのだ。父は、そんなことは明らかにせずにお蝶の家の方に招待しやうぢやないかと云つたが、彼は、余り打ち溶けてゐない友達だつたから遠慮した。その頃彼は海へ近い方に、独りで勉強と称して新しい家を占めてゐたので、其処に泊つて貰ふことにした。
「借金をしたつていゝから、大いにやつてくれ。」人を招くことの好きな父は、調子づいて、母に厭な顔をされた。
 毎月の同人雑誌に出した創作の批評をする会合なのだ。会合の宿を一度も彼はしなかつたので、厭味を云はれたこともある。六七人来た。彼等と酒を飲んだのは、彼は始めてだつた。その晩は「批評会」は止めようと、彼等の一人が云つた。
 彼等は、直ぐに酔つた。彼は、珍らしいことには何時までも酔はなかつた。彼が好む学生気分の少しもない連中で、「俺はボーナスを幾ら貰ふ」とか「扇風機を買はうと思つてゐる」とか、また「日本の文壇なんて相手にしまいぜ」とか、主に彼等はその場限りの話に打ち興じてゐた。その最中に、すつと下手の唐紙が開くと、そこに羽織袴の父が、かしこまつて一礼してゐた。彼は、ハツと胸を衝かれた思ひがした。
「僕、△△新聞の斎藤茂三郎。」少ばかり酔つたひとりがさう云ひながら、父の傍へ行つて、
「あなたがタキノのお父さんですか、お父さんとは見へませんなア。」
「どうして袴なんかはいて来たの? 何処かの帰り?」彼は赤い顔をして、そつと父にさゝやいた。誰が命じたのか彼は知らなかつたが、父の会席膳も用意されて来た。
「タキノも東京へ来んけりや駄目ですぜエ、こんな田舎に引ツ込んでゐちや……」
「どうぞ、よろしく。」
「田舎も稀には好いですがなア、血気の青年が親の傍に居るなんて……」
「さうですとも/\。」と父は快げに賛同した。「何とか使ひ道はないものですか?」
「僕の社に世話をしませうか、僕は現在では議会方面を担任してゐますが、もう一人や二人は若い記者が必要なんですがね……」
「うむ、そりやいゝですなア、男は政治方面に入り込まなければ嘘です。」
「帰つたら早速取り計ひませう。」
 彼は、凝ツとして其処に坐つてゐられない気がした。親父が子供のことを、何分よろしく――なんて、さぞ/\皆な肚のうちで笑つてゐることだらう。
「この土地はこれで花柳界の方は仲々……ださうですな、社の連中の噂にも稀には出ますよ。」
「とても……」さう云つて父は一寸顔を赤くしたが、幾らか酒が回つてゐるらしく急に元気な声を挙げて「どうです諸君! 出かけて飲まうぢやありませんか……」などと云つた。
「よう、よう、賛成/\。僕らはもう学生ぢやないですからなア。」
「僕ア……」と彼の父も云つた。「頭はこう禿げてゐるが……」
「いよう、タキノの親父は素的だなア……」
 斎藤は、見るからに上べの冷笑を浮べて、からかつた。
 父は彼に、耳打ちをして、何故こゝにもお酌を呼ばないかと詰つた。彼は意地悪く聞へぬ振りをしてゐた。――父は彼に、厳しく促されて、挨拶だけ済すと、待せてあつた俥で帰つて行つた。「あとからお蝶の方へ来いよ、お蝶の方へ。」そんなことを、玄関に出た時まで彼に伝へた。父の俥の音が消ゆると、一同はドツと笑ひ声を挙げた。
 彼等が帰つた後も、晩酌の時になると父は屡々嬉しさうに彼等の噂をした。斎藤からはその後何の返事もなかつたが、彼は父にはさうは云はなかつた。その後たつた一度東京で彼等に会つたが、誰の口からも一言も小田原の話は出ないので、彼は寧ろホツとした。彼は、父が死んだ時、友達のうちで父を知つてゐるのは彼等だけだつたが、誰にも通知は出さなかつた。
自家うちの親類は皆な薄情だから、俺に若しものことがあると困るのは貴様だけだぞ。どんな相談相手だつて自家にはないよ……」
 父は、よくそんなことを云つて彼に厭な思ひをさせた。


「貴様などは長男の資格がないんだ、親不孝奴! 親の葬式の始末も出来ない癖に……」
 清親はさう云つて一気に彼を圧倒しようとした。
「俺が死んだつて、後の始末なんて誰にもして貰ひたくないツて、――」彼は胸が涙ぐましく詰つて、危く清親に不覚の敗北を取りさうな細い声に変つたのに自ら気づいたから、突然家中に鳴り響く大声で、
「親父が、僕にさう云つたア/\。」と滅茶苦茶に喚いた。
「狂ひだ。」と母が云つた。
「貴様達が親父を殺したも同様だ。」達といふのは周子をも含めて、清親が云つたのだ。
「さうだ。」と母も云つた。
「俺は周子如き女に甘くはないんだぞ。」彼は真心から叫んだ。清親や母は、周子にそゝのかされて彼が母に反抗するのだ、といふことを蔭で云つてゐるさうだ。
「手前の女房に馬鹿にされる奴も、まさかあるまいよ。」清親は憎々気な冷笑を浮べてせゝら笑つた。
「それぢや何故、俺のことを蔭で、そんなに云つた。……卑怯な奴等だ、そんな連中は、母とも叔父とも思はない。」彼は口惜しさばかりが先に立つて、言葉が出なかつた。
「女房さへあれば、いゝのか。」清親は更に嘲笑つた。
「…………」
 彼の極度に亢奮した心は、またふつと白けて、おどけて芝居のことを思つた。若しこれが新派劇だつたら、俺の役は一寸好い役だな! して見ると母も清親も、この儘舞台に伴れ出したら相当の喝采を拍すだらうよ――などゝいふ気がすると同時に、彼はわけもない冷汗が浮んで、心は虫のやうにジユツと縮み込んで、そつと清親と母の姿を眺めた。
「俺は、もう一生家には帰らない。周子とは、そんなら別れた上で、貴様達と喧嘩するぞ。」彼の気持は妙に転倒して、そんな拙いことを清親に云つた。
「勝手にしろ、自分の女房と別れるに人に相談はいらないよ。」
「……」彼は、また文句に詰つた。ほんとに周子とは別れやうか、思へば俺だつて彼奴の親父などは癪に触つてならない――そんな事を彼は思つてゐた。
「親父の位牌を背つて出て行つたらいゝだらう。」
「……」彼は涙を振つた。
「独りもいゝだらうし、親子三人伴れもいゝだらうし……」清親は、勝利を感じたらしく快げに呟いだ。
「何だと、もう一遍云つて見ろ。」彼は、何の思慮もなくカツとして、極くありふれた野蛮な喧嘩口調になつて腕をまくつた。
「何遍でも云つてやらう、百遍も云つてやらうか!」
「うん、面白い、さア百遍云つて見ろ。」
「何といふ了見だ。」母は傍からさへぎつた。とても清親が百遍それを繰り反せる筈はなく、さうなるとこゝぞと云はんばかりにしちくどく追求しやうとする彼の卑劣な酔ひ振りを母は圧へねばならなかつた。
「百遍聞かないうちは承知しねえ、自分から云つたんだ、さア云へ/\。」
 これにはさすがの清親も、一寸芝居の嘘つき者の如く参らせられて、思はず胸を後ろに引いた。で清親は、ムツと横を向いて、
「文句があるんなら、酔はない時にして貰はう。」とブツブツと小言を呟いだ。「何だ青二才の癖にして酒など飲みやアがつて……」
「何でもいゝから、百遍云つて見ろ! さア俺が勘定をするから始めろ/\……」
「お黙りなさい。」母は鋭い声で叫んだ。
「堕落書生、親父が死んでも悲しくもないのか。」と清親も怒鳴つた。
「親父が生きてゐる時分、よくも俺の親父を軽蔑したな、覚えてゐるだらう。」
「父の喪は三年だ。」と母が云つた。
「貴様には、これ程云はれても何の応へもないのか!」清親は厳然と坐り直した。
「――平気だ。さつぱり悲しくなんてないね。さて、これからまた清友亭へでも出掛けると仕様かな……」
「罰当り奴!」
「親父はさぞ悦ぶことでせうよ、清親さんのお世話になつたら……」いくら口惜し紛れの皮肉だとは云へ、もう少し鮮かな言葉もありさうなものなのに、それでも彼は一ツ端の厭がらせを浴せたつもりらしく、ツンと空々しく横を向いた。
「呆れた大馬鹿者だ。」
「ごまかすねえ、鬚ツ面。」彼は拳固で卓を叩いた。「百辺云はうと云つたのはどうしたんだ? さア云へ/\。」
 到頭清親と彼とは、つかみ合ひを始めたのである。彼より、三倍も肥つてゐるとさへ思はれる清親にかゝつては、一ひねりにされるだらうと覚悟はしたが、思つたより強かつた自分を、彼は別人のやうに感じた。だが忽ち彼は首ツ玉を圧へられて、難なく寝床の中へ投げ込まれた。一たまりもなく頭もろとも夜具に丸められて身じろぎも出来なかつたが、飽くまでも口だけは達者に、
「覚へてゐろ!」とか「百遍聞かないうちは承知しないぞ。」などゝ、いつまでも連呼してゐた。
(一三・八)





底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「中央公論 第三十九巻第十一号」中央公論社
   1924(大正13)年10月1日発行
初出:「中央公論 第三十九巻第十一号」中央公論社
   1924(大正13)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年4月21日作成
2011年1月17日修正
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