環魚洞風景

牧野信一





「まつたく、ひどい音響おとだね! あれは――もう僕は、大抵慣れたつもりなんだが、だがさつぱり駄目だよ。――これほど突拍子もないものになると、一日に何辺繰り反されても、その度にひどく驚かされるんだ、その余韻が消えるまでには、相当の時間を要するほどに――だ。……で、ね、もう起る時分だな、と、さう思つて、時にはね、いたづらな反抗心といふやつをもつてさ、つまり――何の、さアやるんならやつて見ろ、といふほどの心になつてさ、(それは、まア例へばなんだぜ、勿論――)、待ち構へて見るんだ、と、ぴつたりとその予期にあたつてさ、あいつが此方の呼吸と一処にだね、ドカン! と鳴るんだね、でも駄目だね、うつかりしてゐる時に打たれるのと、まつたく同じやうに驚かされてしまふんだ――尤も、この頃の僕の心は、余ツ程……」
 たつた今、藤村ふぢむらは、山のいつもの音響に出遇つて、思はず、
「アツ!」と、(私も同じく――)驚きの声を挙げてしまひ、そして二人は思はず顔を見合せて間の抜けた微笑を浮べた時、そんなに拙い調子でクドクドと変な説明をした。
「それにしても、今のはまたバカに大きかつたね。」
 私も仰山な驚き方をしてしまつたのが、気恥しかつたので、さう云つた。
 山の音響といふのは、鉄道のトンネル工事が初まつてゐるこの町の西側を取り囲んだ大きな山から響く爆破の音なのである。――山の両裾が翼になつて、湾を抱いてゐる。小さな町は、そのふところで温泉の煙りに蒸されてゐる。朝から夕方まで、何回となく大小の爆音が、もうすつかり慣れて平然と静寂を保つてゐる街の頭上をかすめ、或ひはふところの街に、物思ひに沈んだ酔漢が自分の胸に吐息を吐きかけるやうに、轟々と渦巻き、ゆつたりとした足どりで海の上へ消えて行くのであつた。
「いくら退屈な時だと云つても、バカな気持などの説明をされる位面白くないことはないね。」などゝ私は、勿体振つた藤村の云ひ方を笑つたりしたが、
「だが、僕だつて、あれにはさつぱり慣れないよ、実際あれ位の音響となれば、普通なら夫々が、相当の一事件なんだらうね。」と、など、此方も一寸尤もらしく首を曲げたりして、何でもないことを意味あり気にした。
「或る程度を超えた音響になると、こと/″\くが白雲の茫漠に通ふのみで、初めから何の種別もないわけなんだね。つまり、例へば――」と藤村は、何か類例を引かうとしたが、その代りに煙草の煙を細く吹き出しながら、
「いや、万象悉く宇宙の無限大に手を差し延べてゐるわけ……」
 藤村は、自分の云つてゐることが夢のやうな感傷に走つてゐるのに気づいて、変な笑ひを浮べた。私には、一体彼は、何を云つてゐるのかわけが解らなかつた。
「あの小さい方の音でも、日比谷公園あたりで聞く午砲どんに比べて如何だらう。」
 現実的で、その上頭の鈍い私は、何事でも手近な例を取らないと話も出来ない私は、相手の折角の話材を乾かすやうにそんなことを云つた。――藤村も、一寸私に似て、あまり話上手の方ではなかつた。無学で、別段の研究心もなく、世間話は一層不得意だし、そのやうな二人は、さつきからぼんやり二羽の梟となつて膝を抱いたまゝ曇つた海を眺めてゐたのである――黙つてゐるといふことに、互ひに軽い焦躁を感じながら――。だから藤村だつて、他にどんな種類の話材でもありさへすれば、決して「山の音響」などを問題にしたくはなかつたに違ひないのだ。
「悠長だとすれば、あれこれも同じやうに悠長なんだね。」
 私は、あまり阿呆らしい比較をしたのに気づいて、今度は有耶無耶にそんなことを云つて自らを※(「革+稻のつくり」、第4水準2-92-8)晦した。
「一寸似てゐるね。だが感じが違ふからね、此方のは、音響の色彩には、それやア区別がないけれど、事実が生々しいんでね。午砲は、君、悠長のシンボルそのものだけぢやないか……」
「いや、僕は、さうでもないな!」と、私は云つた。別段反対をしたかつたわけではないのだが、さう云つてしまつた後に、あれこれとそれに続くべき言葉を探したが、とてもさう直ぐには浮んでも来なかつた。
「だが――」と、また藤村は云つた。そんなに無理に喋舌らないでも好いのに――などゝ私は思つたりした。――「だが、そんなものを知らない観光団か何かゞ……」
 おや、午砲のことを云つてゐるんだな――と私は思つた。
「観光団だつて!」
「さう、いちいち眼を視張みはるなよ……」と藤村は、困つて笑つた。
「いや僕は、観光団といふ言葉を聞くと、妙な懐しさを感ぜずにはられないんだ。」
「ミス・フローラか?」
「……………」
 私は、点頭うなづくやうな、さうでもないやうな顔をしてゐた。
「今は、煩悩の話をしてゐるんぢやないよ、バカだな。――えゝと、その何処かの観光団か何かゞだね、人力車にでも乗つて歩いてゐるとするんだね、つまり、その丸の内あたりをだね、――その時突然、午砲どんを聞いたら如何だらう、と云ふんだ、その驚きは、この驚きに比べて如何だらう、音響のそれと同じく、驚きといふ一つの感情も、或る程度を超えてゐる時には、ドの驚き、レの驚き、ミの驚き、そんな区別のある筈はないね。いや、僕のこの頃の気持では、東京にゐたつて、うつかり午砲などに出遇へば屹度飛びあがるに違ひないんだ……」
「何にしても、あまり馬鹿々々しく大きな話は面白くないね。」と、私は云つて鬱陶しい顔をした。――私は、ミス・Fのことを思ひ出してゐたのである。
 雨に降りこめられた私達は、止むなく異様に愚かな饒舌家に変つてゐた、四五日も前から――。二人とも自分では気づいてゐなかつたが、未だ嘗て斯んな種類の饒舌家になつた経験は、一度もなかつた。私達は、晴れた日だけ仕事に出かける漁夫が、雨に降り込められてゐるのにも似てゐた。だが、漁夫には網を作る仕事もあるだらう、炉を囲んで、この次の綱の張り方に就いて仲間の者達と、熱心な計画や研究もしなければならないであらう、私達は、漁夫の無能の弟子に等しかつたのである。
 一体自分達は、この先き何になるんだらう――二人の胸には一様にさういふ不安がわだかまつてゐたのだ。怠惰と、浮々としたお調子者、他愛もない失恋、親との不和、そして二人とも夫々別々な私立大学を卒業してゐるのだが、学校では何も覚えなかつた、今では、たつた一つの肩書であつた「大学生」も奪はれて、キョトンとしてゐるより他に能がなかつた。
「何処かに寛大なお伽噺作家がゐて、僕達二人を、その作中の端役にでも好いから使つて呉れる人はないかね。」
 そんなことを、殊のほか無気になつて話し合ふことすらあつた。
 藤村は、実家を追はれて(勿論、型通りに古風な放埒と古風な親の譴責から――)、これもまた殆ど同じ状態で、この町に追はれてゐる私の寓居に二ヶ月ばかり前から滞留してゐるのであつた。私のは、藤村のそれと比べて、一オクタルヴ位の差違はあつたかも知らないが、破境となれば先程の藤村の無稽な比喩が正しくあたつてゐる単純な音響のやうなものである。父親と衝突して斯んな処に逃れ、父親の怖ろしい顔にふるへながら、愚劣な日を送つてゐる青年の心の悲しみなどに、何処に同情などを寄せる人が有るべくもない。だから二人は、薄気味悪い程の親しさに打ち溶けてゐるのだ。幸ひにも私が斯んな逃げ場所を持ち、そして母の情をつないでゐたから、斯うしてゐられたものゝ、若しそれがなかつたならば私達は、トンネル工事の手伝ひか、漁夫の弟子にでもなるより他はなかつたらう。
「僕は、漁師の手下にならなれる自信があるが、君はどうだ。」
 藤村は、そんなことも云つた。
「僕は、出船の合図に、法螺を吹く掛りがあるね、あれにならなれる自信があるんだ。ラッパの素養があるから。」と、私は答へた。
「あれは何処で売つてゐるだらう?」
「あいつを練習するのも一寸興味があるな。」
「あれが、うまく吹ければ行者にだつてなれるだらうね。」
「欲しいなア!」
「江の島では、たしか売つてゐたと思ふが。」
 私達は、そんな話に花を咲かせたりした。
 雨程、思想のない、そして何の落つきも持たない私達を困らせたものはなかつた。雨にならないうちは、気持の鬱屈には何の変りもなかつたが私達は、カラ元気を振りしぼつて、毎日海辺へ降りて、痩ツぽち同志の角力を取つたり、駆け競べをしたり、逆立ちの練習をしたり、時には、自転車の遠乗りをおこなつたり、などして夕暮脚を引きずツて帰ると、まつたく落第書生のヤケ酒のかたちで、好きでもない酒などを飲み、そして時代おくれの学生となつて粗野な酩酊に陥り、毎晩同じな歌を高唱したり、出鱈目な踊りを踊つてゲロを吐いたり、突然あらん限りの声を張りあげて体操の号令を叫んだり、して死んだやうに眠つてしまふのであつた。そして朝は、寝坊の競争をして、午近くになつて花々しく起床して、跣足で海辺に駆け出すのであつた。
 家は、海辺の石垣のそばにあつた。私達は、砂浜から窓をめがけて、声をそろへて、
「ムスビとサイダーを持つて来てくれーツ」などゝ叫んだ。一度で反響がないと、反響があるまで同じ言葉を繰り返したりした。
「毎日、こんなことをしてゐれば、俺は実に呑気で、平気だね。」
「あそこにペンキ塗りの家を建てゝゐるだらう、あれは何でも東京風のカフエーにするんだつて話だぜ。」
「そいつア好いな。」と、藤村は膝を叩いた。
「反つて斯ういふ処には、素晴しい美人が忽然と現れるかも知れないぜ。」
「山の家の方に追ひやられるといふのは何時頃だらう。」
「夏になると、家の者や親類の奴が、交り交りに出掛けてくるんだらう。それとも親爺の慾深が、誰かに法外の値段で売りつける話にでもなつたのかも知れないよ。何でも大分僕の家は、この頃景気が悪いらしいから。」
「厭だな、山の方へ行くのは……」
「きつとさうだ、売るに違ひないんだ、――山の家といふのは君、それやアひどいものだぜ、地所の目標代りに立てた掘立小屋同様のものなんだ。」
「ぢや湯なんて引いてなからう。」
「湯どこの騒ぎぢやない。つまりあそこへ行けば畑の見張り番にされるわけなんだよ。」
「見張り番! でも好いな、さういふ職業にありつけるだけでも――」
「僕は、厭だな、――いつそ東京にでも行つてしまふよ。」
「君が東京へ行くんなら僕も一処に行くよ。」
「その方が好さゝうだね。」
「…………」
「…………」
「つまらない話は、止さう/\。」
「さて、……君、もう逆立ちで、いくつ歩ける?」
「歩くのは出来ない。」
「僕は、トンボ返りが出来るやうになつた、いゝかへ、見て御覧!」
 斯う云つてシヤツ一枚になつた藤村は、見事なトンボ返りを打つたり、パクパクと汀のところまで逆立ちで歩いたりした。私も、その練習をした。――そして私達は、疲れて帰るのであつた。
 晩春が過ぎ、玩具おもちやのやうなケイベン鉄道の笛の音が、麦畑の間からピーと聞え、海の色も紫がゝつた。間もなく、梅雨期に入つたのである。主に冬の浴客を呼んでゐたこの町では、今年からは「夏の宣伝」を仕ようといふ議が起つて、町の公会堂では演説会が催された。
「演説を聞きに行つて見ようか。」
 隣家の町会議員に誘はれて藤村は、困つて、私に話しかけた。私は、それには答へないで、議員に向つてうつかり、
「トンネルは何時頃出来あがるんですか?」と、訊ねて、議員の情熱のこもつた長い説明に出遇つて辟易したりした。
 未だ、五年かゝるか、十年かゝるか先きの見込みはつかない、今では、山と人間の意地との戦ひになつてゐる。山にしたつて、ドテツ腹に風穴をあけられやうとするんだから、黙つてもゐられまい、水を吐いて防ぎもしよう、火も吐くであらう――そんな意味のことを議員は述べたりした。
 小雨に煙つてゐる山からは、一日に三つ位大きな音響が響き、その間にもいくつかの爆音が続いてゐた。
「だが、一朝事成れば、トンネルと共に吾が町も、一躍世界的の名所になる。」と、議員は云つた。彼が立ち去つた時藤村は、
「あの人は、今夜の演説の練習をして行つたに違ひないよ――屹度、あれと同じ調子でやるぜ。行つて見ようか?」と云つた。
「悪いから止さう。」
「君は、変だ。僕は、何もあの人を軽蔑して云つたのぢやないぜ。」
「そりや、僕だつて……」と私は、慌てゝ付け加へた。おそらく神経衰弱にでもなりかゝつてゐたのだらう、自分の存在は何処に置かれても邪魔なものなのだ――そんな途方もない消極的な妄想に駆られてゐたのだ。
「悪いからだつて……気障だなア。が、まア止さうよ、僕だつて――」
「…………」
「おい、変に瞑想的な顔をするのは止めて呉れよ。……あゝ、何しろ雨には敵はないね、この頃ぢや運動不足のせゐか、酒を飲んでもたゞ翌日気持が悪いばかりで、うつかりすると寝そびれてしまふなア!」
 藤村は、斯う云つて上向けに寝転び、天井を眺めて口笛を吹いた。
 この時、また山の音響が二つ三つ続けて鳴り渡つた。――藤村は、
「ヤツ!」と云つて、坐り直した。「それにしても、近頃はバカに頻繁だな。」
「一寸、好いぢやないか。」
 私は、細く低い声でそんなことを云つた。音響が、そんなものではビクともしない、といふ風にも見ゆるし、また、あゝ怖ろしい怖ろしい、凝ツと静かにしてゐよう「宿かり」のやうに、といふ風にも見ゆる煙つた町の多くの家々の上を、波のやうに走つて行く姿や、また何処かの部屋でも湯治客などが、トンネルを話材にしてゐるであらうことなどを私は、想像しながら、自分が細かい叙情的気分に欠けてゐることを今更のやうに物足りなく思つたりした。
「チヨツ! 厭だな。」
 藤村は、ひとりでそんなことを呟いて、その頭をコツンと拳固で叩いた。――「一体僕は、普通なら斯んなに驚き易い性分ぢやない筈なんだがね。」
 私は、僕も、いや僕達はこの頃たしかに神経衰弱とやらに陥つてゐるに違ひないんだよ――と、云ひたいところだつたが、うつかり調子に乗ると、決して笑ひたくない藤村が、一寸でも擽られるやうな思ひに打たれると縦令たとへ厭々ながらであらうとも、さういふ癖の彼は、何とか皮肉な文句でも思案せずには居られないで――いや俺は、一寸センチメンタルな芝居を演つて見たところなんだよ――などゝ云ふであらう、それが私には、何だか彼のために痛ましい気がしたのである。性来エゴイストである私が、縦令曲りなりにもそんな風に他人の感情などを憶測することなどは稀な話なのだが、私の心も酷く雨に祟られて、因循に歪み、後方あとへばかり逼つてゐたのである。――私達は、まつたく二個の木像に相違なかつた。パクパクと口だけは動かすが、それは無理な糸で操られながら余儀なくする不自然な働きに過ぎなかつたのである。
「不良児なんてものは、案外臆病なものなんだらうね、殊に斯ういふ種類の……」
 私は、そんなことを云つて、笑つて藤村を見たりした。
「斯ういふ種類のね……」
 藤村は、直ぐに私の言葉を奪つて、頤を突き出して私を差した。――「兎も角、一日も早く入梅が明けて呉れなければ、救からないね、いくら入梅だと云つたつて、斯うも毎日降らなくても好さゝうなものだが……」
「さうだなア……」
「晴れやアがつたら!」と、藤村は叫んだ。――「ウント、泳いでやるぞ、あゝツ!」
「雷が鳴らないうちは、梅雨は明けないんだつてね。」
「変なことを知つてゐやアがるな。――止してくれよ、雷なんて……」
 細かい雨がしきりに降つてゐた。海には、今時珍らしく古風な二本マストの帆船が、この間うちからずつと滞留してゐる。この船の錨が巻かれ、帆があげられて走り出す光景は、一寸想像し難い姿で、凝ツと船は五月雨に濡れてゐた。


 藤村は、未だ眠つてゐる。
 午少し過ぎなのであるが海の色は、恰で夕暮のやうである。――暫く寝床のなかで夫々天井を眺めながらつまらない話をしてゐたのだが、いつの間にか藤村は眠つてしまつた。見ると軽い鼾をたてゝ彼は、口を開けて眠つてゐた。この間私も藤村から、口を開いて眠つてゐたよ、と云つて冷かされたのであるが、今彼の寝顔を見ると私は、痛ましい憂鬱を強ひられた。おそらく彼も私のそれを眺めた時そんな気がしたに違ひないのだらうが、私を笑はせ鬱気を払ふために強ひてあんな冷かしを云つたのであらう、私の心には今はそれ程の努力もない……。
“Hurrah”
 私は、ふとそんな声を聞いた。――私は、をどされた。胸がひとつ不気味に鳴つた。振り返つて見ると藤村の寝顔には、変な微笑が浮んでゐる。彼が、口のうちで何かわけのわからぬ寝言を呟いたのであつた。――それを私は、そんな風に聞き違へて感じた、といふより、汽車の轍の音や時計の音が聞きやうに依つては様々な種類に聞かれる、あれと同じものだつたのである。例へば、コケコッコーでも、カック・ア・ダッダルドウでも※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声だらうし、太鼓の音を、ドンドンドンと吾々の幼時から云ひ現はし慣れてはゐるが、ラッバダブ・ラツバダブでも別段に反対のとなへようもない――まつたく私は藤村の寝言の叫びを“Hurrah!”と聞いたのである。
 おやツ! と、私は思つた。冷くて甘いものに一閃胸を撫でられた。
(……なアんだ! Flora のことか。)
 私は、その窓の下の細い道が一筋、ずつと右手の方に突き出てゐる岬の中腹を縫つて、指先で弧を描いた程に小さいトンネルの中に消えてゐるところまで視線を追うた。
(あの半町足らずのトンネルは、たしか環魚洞くわんぎよどうとかといふ物々しい名前の名所だつたな? あれをくゞり抜けたところが、潮見崎しほみざき? うむ、さうだ。――今度は未だ彼処には、一度も行つて見なかつたな。晴れたらひとつ藤村を誘つて、あの道をずつと先きまで歩いて見ようかな。)
 湾に添うて拾つて行くと、ゆるやかな螺状の道は次第に断崖の中腹にのぼり、環魚洞が頂点なのである、其処が岬の突端で道は断崖を指し、まさしく絶壁を見降してゐる――私は、その出鼻に立つて、背中合せの断層を見あげ、脚下数十丈の海を見降ろすことを想像すると、にわかに足の裏がムズムズして、身は忽ち鞠になる震へを覚えた。
 いつか藤村が、あの岬を指差して自転車の遠乗りを主張したのであつたが、その時も私は同じ震へを覚えてはだへに粟を生じ、頑として車輪を反対の方角に向けた位である。
“Hurrah!”
 さうだ、私は、Flora の感嘆の声を思ひ起したのである。――彼女が、さう叫んだ時私は、「なるほど――」と、彼女に微笑を感じたことを思ひ出した。――如何程物凄い絶景に出遇はうとも私には、とてもそんなに快活な声はあげられない。
“Hurrah!”
「…………」
 私も、脚を震はせて石欄に凭り、脚下の怒濤を見降ろしたのであるが――なるほどね、そんな言葉は、初歩英文法の Iterjection の項にだけ引かれる非実際的な模範語かとばかり思つてゐたんだが……なるほどね、云ふんだね、こんな場合に――Hurrah ……。
 異人種との交際に慣れない私は、変に感心したのである。そしてもう可成り打ち溶けてゐる筈の彼女に、今更のやうに新しく、まんまと研究資料にしてやつたほどの白々しさを感じたのである。
 と、だけなら何の今頃思ひ出しても胸を塞がれる思ひもないんだが、同時にこの冷い語学研究生は、絶景に接して放たれた彼女の清らかな亢奮のことばに、甘く胸を塞がれる肉感を覚えたのである、そしてたゞでさへ欄干から波を見降ろしてゐる私の五体は、硝子管に化してゐたのが、危く怖ろしい夢に酔はされたのである。――だから私は、今だにあそこの風景を想像したゞけでも眼が眩むのである。二年も前の話なんだが。
“Hurrah! Hurrah!”
 私は、岬を望みながら秘かに故意わざとらしくそんな声を繰り返して、胸の熱くなる思ひに打たれた、風景を消して、眼の前に彼女だけを思ひ描いて――。余程の無理をしないと彼女だけは思ひ描けなかつた、渺たる私たちを環魚洞の風景が執拗に抱きたがつた。
 藤村は、微な鼾をたてゝ眠つてゐる。
 他人の寝顔を覗くなどゝは何といふ非礼な話だらう――私は、自分をそんな風に叱つた。
 ……(彼は、自分が近頃失恋をした相手の人の話などは殆ど聞さないが、間が濃密であればあつた程他人になど話す興味もあるまい。その反対の間であつた私は、稍ともすれば心境を誇張して、失恋の域にも達してゐない程のことを悲し気に吹聴する卑しい癖を持つてゐる。彼こそ斯うして眠りながら失うた恋の楽しい夢路を辿つてゐるに相違ない――夢を醒まさないやうに努めよう。)
 いつの間にか雨の密度が増したらしく、岬のあたりは一抹の滲みを引いて模糊としてゐた。――だが、私が二年程前、彼女とあそこまで初めての探勝を試みた日は、アジロ通ひのガタ馬車が円かなラッパの音を撒きちらしながら戛々かつ/\と走つてゐた麗らかな夏の朝であつた。
「三日間、ジュンと一処に送つたら病気になつてしまふだらう、ワタシは。」
「僕は、いつも云ふ通り散歩は嫌ひなんだよ、第一どんなに立派な景色を見ても、さつぱり面白くないんでね。」
「それは自分の国の見慣れた景色だから、さう思ふんではなからうか?」
「いや違ふんだ、僕は、嘗て旅行もしたことはないし、この町にだけは何遍か来たことはあるんだが、あの岬の先きまでも行つたことはないんだ、何時でも進んで留守居番だけを引受け通したよ。」
「あはれな案内者ですね。」
「おや/\、いつの間に案内者にされたのかね。唖の案内者を伴れて歩くなんて随分君も物好きな人だよ。」
「ホッホッホ……」
「だがね、唖だと云つてもあまり軽く見て貰はれると僕は、迷惑するんだ。」
 私達は、ともかく愉快な気持で、そんな他愛もない会話を取り換しながら夫々杖を曳いて、山を見あげたり海を見降したりしながら一筋の崖道を歩いてゐた。
「ほんたうに――」
 私は、半分ふざけた口調で、だが妙な力を込めて思はせ振りな笑ひを浮べた。相手の語調に合せる為に此方の言葉も気持も芝居でも演つてゐるほどなギゴチなさになつてゐるのが、反つて私の心を明るく無責任におどけさせて、婦人に対する羞恥心を紛らせるのであつた。若し私が、自分と同種族の美女と語らふ場合があるとすれば私は、大人らしい引込み思案で、非常な唖になる筈だつた。――彼女には私は、割合に大胆だつた。臆測、邪推、因循な遠慮、言葉の表裏――それらの不純粋に慣らされてゐた私が、彼女を軽蔑してゐるわけではなかつたが、それらの感情からは見事に救はれてゐる気がするのであつた。
迷惑トラブルサム? ぢやお前の胸にはいつも何かの計画プログラムがあるの?」
 彼女は、私のことを、ジユンと称んだり、アナタと云つたり、お前と呼んだり、時にはキミなどゝ云ふこともあつた。
「プログラムだつて?」
 うつかり私は、顔を赤くした。私は、決して彼女の前で英語を用ひたことがなかつた、用ひたくても不得意であつたし――。で私は、往々彼女の言葉の間にはさまれる英単語や英動詞を誤解して、あらぬ苦悶を強ひられる場合もあるんだが、この時は、お前は私に恋をしてゐるんだらう、ハッハッハ、と笑はれた程の驚きに打たれた。
「ボクの方が――」と、彼女は云つた。「余外な面倒トラブルを感じなければならない。……いゝえ、計画プランさ? どんな種類の?」
「英語をはさまれるとオレには、意味がわからなくなつてしまふんだよ。」
「ワタシが観光団員でなかつたことは、お前にとつては随分の幸福なのね。」
 日本語が出来る、といふ程の意味なんだな! などと私は、いちいち反省して見なければならなかつた。
「それだつたらオレ達は、交際をしなかつたゞけで、オレは却つて……」
「惨めなプランを探られる思ひもせずに済むわけ……」
 おやッ、と私は思つた。だが直ぐに、意味あり気に解釈しようとするのは惨めなわけだ、と気づいて
「ずつと向方むかふに見ゆる島は、浮島といふんださうだ、三マイルしかないといふ話だ。」
 そんなことを説明した。この程度の話でないと私には無理だつた、――おそらく今迄の会話だつて彼女にして見れば、それ程呑気なものに違ひない、辻褄が合はなくなつた時に、考へて見るなんていふ面倒は止した方が得だ――私は、そんなに思つた。
「おゝ、さう。」
 彼女は、熱心な眼で沖を眺めた。「今度あそこまで案内してくれない?」
「オレは船が嫌ひだから。」
「オレは、ボートは好き!」と彼女は、笑つた。私は、彼女がだんだんに私の気質を知つて来るやうな気がして愉快だつた。決して彼女の習慣におもねらぬぞ――私は、そんなことを思つた。
「で、アナタのプランとは何でしたか?」
 まだか! と私は、うるさく思ひ好い加減にごまかさうとして、重々しく、
「相当――」と、云つた。どんなに言葉のうけ交しが変梃へんてこなかたちにならうとも、向方も不思議に思はないのが私は、面白かつた。
「唖者にも夢がある、彼自身に許されたる夢がある――さういふ意味深長なマキシムが支那の昔にあるんだ、解る?」
 私は、無鉄砲に好い加減なことを口走つた。彼女が、一寸キヨトンとしたのが面白かつた。唖子ノ一夢ヲ得ルガ如ク、只自ラ知ルヲ許ス――そんなウロ覚えの怪し気な古語を私は、偶然思ひ出したのだが、さう云つて馬鹿気た見得を切つた刹那に不図私は、妙な寂しさに駆られて、沈黙の洞窟に吸ひ込まれた。私は、横を向いて、くつきりと浮んだ遠くの青い島を見た。
 私達は、出口が幻灯のやうに映つてゐる環魚洞のトンネルに入つて行つた。トンネルのほの暗さが私の心を救つた。彼女の靴の音と、私の重さうに引ずる下駄の音が、急に冴えた。――さつき彼女が、歩きながらもう少しで私を風景写真の点景人物に取り入れようとした時、私は慌てゝ――これは自分が交際した日本の或る青年なんだが、彼等は夏になると、斯んな帽子をかむり、斯んな服装で、斯のやうな素足で平気で往来を歩いてゐるのだ――彼女が後年国へ帰つた時に誰かに向つてそんな説明をしないとも限らない、そして若しその相手が彼女の亭主であつたら、此方こそ惨めなものだ――そんな邪推をめぐらせて、
「御免だよ、うつかりお前なんかに写真を撮られたひには、後で参考品にでもされるおそれがある。」などゝ云つて、巧に姿をかはし的をはづして、彼女に人物の無い風景写真を撮らせたのであるが、私は夏中それ以外の姿をしたことがない経木の帽子をかむり、ツンツルテンの浴衣を着て、腰には今にも輪のまゝにすつぽりとずり落ちさうな太い黒色のメリンスの兵児帯を憎態にくていに巻きつけ、おまけに棒のやうに貧弱な脚の先きには、武骨な庭下駄を突ツかけてゐたのである。――薄暗いトンネルの中に、彼女の靴の音と、重さうに引ずる私の下駄の音だけが、冴えた。
 トンネルを出ると同時に、潮見崎の――と云はうか、環魚洞の――と云はうか、吾々は切られた山の中腹に出て、右の欄干に支へられて、脚下の断崖に眼を落すべく余儀ない環魚洞の出口なのである。
 こゝで、このエピソードの冒頭に返る。
“Hurrah!”と、彼女は叫んだのである。この時彼女が、思はず私の手を握つたといふことは、さつきは述べなかつたが、その彼女の感投詞で私が、甘い切なさを感じた時、(なるほど、云ふんだね、そんな感投詞を、とは思ひながらも――)彼女は、その冷い手で私の熱い手を握つたのである。
 あゝ! 私は、それが今だに忘れられないのである。景色ではない時に、そんな機会が与へられなかつたことが永久に残念であり、そして私は、あの時の彼女と、あの風景とが、私にとつてたつたひとつの怖ろしい、楽しい夢なのである――と決めなければならないのが悲しい。
 だが、手の平の温い人は、心はその反対である、とかといふことを多くの女は云ふ――といふ話を誰かゝら私は聞いたことがあるが、私の手は何時でも温いのである。そんな迷信を信じよう、私は、彼女に依つて英文法の実地研究をしたことを、今だに面白く思ひつゞける……。
 私は、煙つた岬を眺めながら、手の平をそつと頬にあてゝ見た。――何といふ温い手の平であることよ!
「俺は、語学か、或ひは昆虫学の研究に今後没頭しようかしら!」
 私は、ひよいとそんなことを思つたが、苦笑も洩らさなかつた。私は、口惜し紛れに途方もない、一種の自惚れを持つたのである。
「漁師の弟子や、畑の番人になるよりは、面白からう。」
 そこまで私は、生真面目に思ひ及んだ時、急に馬鹿々々しくなつて、何処まで自分の心は不真面目なんだらう――そんな気がして、テレた笑ひを浮べ、思はず熱い手の平でポンと景気好く額を叩いた。
 藤村は、未だ眠つてゐた。そして彼は、うつかり此方が聞き返したくなる程の、ウワ言を呟いだ。――もう“Hurrah!”とは聞えなかつた、通俗的な寝言の形容詞通り、ムニヤ/\/\であつた。


「おい、もう好い加減に起きないか! 好い天気だよ、今朝は!」
 斯う云つた藤村の晴々しい声で私は、突然夢を破られた。――なるほど、飴色のひかりが隈なく満ち溢れてゐた。開け放された窓から射し込んだ光りが、一杯私の顔にまであたつてゐた。――道理で、昏々と眠つてゐた私は、月からこぼれ落ちる冷い滴が、乾いた喉をうるほすのに足りないで、水に浮んだ魚の姿で夢中になつてパクパクと滴を貪つてゐた。酒を飲んで寝るので大概私は、何かしら水に関する夢を見るのが常だつたが、この昼間の月の夢は、その滴が、折角たまに落ちて来るやつを待ち構へて口にけて見ると、それは水ではなくて熱い酒なので情なかつた、さう思へばあの月は、色も怪しい……。
「あれは君、月ぢやないんだよ、俺が斯うして投げてゐるグラスぢやないか、ホラ御覧、これさ! 馬鹿だな、月だなんて……」
 藤村見たいな男が、斯う云つた。見ると、その手の平には、ありふれたシャンパン・グラスがのつてゐた。
「なアんだ! 道理で……」
「もう一遍投げて見るぜ、今度はうまく飲んで見ろよ。」
「だが酒ぢや御免だぜ、グラスは好いがさつきのあれは、中味は君、オデン屋の酒のやうに生々しく熱かつたぜ。」
「グラスを月と見紛ふ奴には、それで沢山……」
 ……「おや、やつぱり月ぢやないか、君の方が嘘つきだよ、あゝもう焦れツたい、月だつてオデンだつて何だつてかまはないから、早く水を呉れ/\/\。」
 私は、そんなことを呟いだ。――さつき藤村に起されたと思つたのも夢だつたのか?
「おい、もう好い加減に起ろよ、出掛けようぜ。素晴しい天気だよ。」
 藤村は、一寸焦れて私の肩をゆすつたので私は、初めて目が醒めた。――夢で思つた通りに綺麗な天気であつた。いや、さつき一度眼を醒まして、知らずにまた眠つたのだらう。
「随分、好く眠るなア!」
 藤村は、あきれたやうに笑つた。
「口をあいてゐたらう。」
 そんな気がしたので私は、先を越すやうに訊ねた。
「お互ひに馬鹿だね。」と、藤村は笑つた。
 暫くぶりの好天気で私達は、一寸アツ気にとられたやうだつた。――私達は、胸を拡げながら海辺を歩いた。古い徒手体操の号令に、前腕を平らに動かせ、と称ふのがあつた、そのやうに藤村は、両腕をギクギクと曲げたり伸したりしながら意気揚々のかたちで歩いた。
「斯うして俺達が歩いてゐる姿は、如何しても優等学生が勉強の合間に散歩に出たかたちだね……」
「前途有望な二人の青年……」
「止してくれ、気がとがめるから……だが、ひとつ俺達も一番改心して、何かの研究でも初めようぢやないか。」
 ふざけたやうに、だが殊の他心は塞がれてゐる調子で藤村は、そんなことを云つた。
「…………」
 云へば私は、何時ものとほり安価にふざけるより他に術がなかつた。
「暫く運動しなかつたので――山を見あげても、海を見おろしても、眼が眩む……二三日は散歩以外の遊びは出来さうもないね。」
「ぢやア空を見あげたら如何だらう!」
 私は、そんなことを云つて仰山に青い空を見あげたりした。
「おい、止せ/\。斯んなところで……」
 立ち止まつた私を藤村は、慌てゝ促した。私達は、山に迫られ、一歩ひとあしごとに海が奈落になつて行く崖、潮見崎へ行く細道をつどうてゐた。暫くぶりの晴れた日の為だつたか、私達は、つい見慣れぬ風景に心を惹かれたのだつたらう、別段相談もしなかつたのであるが、ひとりでに脚がそつちへ向いたのである。
 西側の山からは、いつもの音響が、その日は晴々しく響いてゐた。
 トンネルに差しかゝつた頃はもう私達は、話もなくなつてたゞ漫然と脚をひきずツてゐた。
 そこを抜けると私達は、決められた者のやうに欄干てすりに凭つて海を見下ろした。
「やア……」
 私は、そんな感投詞を放つた。
「止さう/\。」と、藤村は私の袂を引いた。――雨あがりで濁つた水が、渦を巻き、岩にあたつて水煙をあげてゐた。
 老婆がひとりで番をしてゐる掛茶屋が、直ぐ背後うしろにあつた。前に来た時私は、そんなものに気づかなかつたやうだ。
 茶店に腰を掛けて、前を眺めると、絶壁が空の半ばを覆うてゐる。曲りくねつた松が、水平線の上に突き出てゐる。見えないが、底の方で波が轟々と鳴つてゐる。トンネルの出口が、片眼のやうに凝ツと見ゆる、さういへば、この断崖は達磨の頭のやうな円味を持つて海に面してゐるのだ。
「ビールを飲むのも厭だよ、酔ひさうで……」
 藤村は、達磨の頭上を仰いで、そんなことを云つた。まつたく私達が、蠅のやうに翅を休めてゐる位置は、達磨の肩にあたつてゐた。
「お婆さんは、此処に泊つてゐるんですか。」などゝ藤村は訊ねた。
 トンネルの中から洩れる音は、筒をあてゝもの云ふやうに、散らずに響いて来る。下駄を引ずる音が聞えた。にぎやかな話声が洩れて来た。――私達は、黙つてトンネルの出口を眺めてゐた。そこを通つてくる風は特別に冷たかつた。
 田舎からの湯治客らしい二人の老爺としよりが、晴々しく、物珍らし気な微笑をたゝへて、そこから出て来た。彼等は、景色について愉快さうに話しあうてゐた。
 そして私達の傍に来て、腰を降した。
 若者が、おびえた虫のやうに息づいてゐるにも関はらず、彼等は飽くまでも明るく、享楽に充ちてゐた。
 二人の老爺が、如何な話を取り交してゐたか、今私の記憶には何も残つてゐないのだが、勿論彼等は、暫らく振りの天気を有り難がりながら、こゝの絶景に就いて愉快な嘆賞の声を取り交してゐた。彼等の会話を覚えてゐて、今私がこゝに挿入することが出来ると、この蕪雑な私の文章にも多少のうるみが生じ、そして叙景の拙い私の筆の代りになるのだが、忘れてしまつたのだから仕方がない。――たゞ私は、田舎言葉のまゝで無造作に放つた老爺の明るい、一つの声が、今でも耳に残つてゐる。一人が、達磨の頭を見あげて、
「アノ、てッぺんから、転ばり落ッこッタラ、如何ヅラァなァ!」と、頓興な早口で叫んだ。それに惹かれて相手の者も、無造作に眼を挙げ、
「粉になッちまふヅラァ! ハッハッハ。」と、景気好く笑つたのである。
 藤村と私は、思はず眼を合はせてテレた笑ひを浮べた。たしかに私達も、そんな思ひに打たれてゐたに違ひなかつた。――私達は、自分達の不甲斐なき因循さが可笑しかつた。
 帰りがけには、私達は、平凡な悲観家から、いつものやうな平凡な楽天家に変つてゐた。肩を組み合せながら、トンネルの中を歩きながら、
「アッハッハッ……粉になつてしまふヅラァ――は好かつたね。」
「素てッペンから転ばり落ッこちる! も実にうまいね……ハッハッハッ」などゝ、凡そ他の誰にもこれ程な面白味は感ぜられまい、それだけに自分達は……それ程の心で、異様に亢奮して、笑ひこけ、同じ言葉を何遍も繰り返した。
「素てツぺん。」といふのは「頂上。」、「転ばり落ッこッたら。」といふのは「若しも転げ落ちたならば。」、「ヅラァ。」といふのは「だらう?」――夫々、それ程の意味の方言である、然も私達の育つた地方の野語であつたから私達には、説明の要なく老爺達の会話がその儘、胸に響いたのである。


 私の小説「環魚洞風景」は、以上で終りなのだが、六年経つた現在でも私達は、未だ同じやうな状態にゐることを一言附記しておかうか。
 私は、あの頃のまゝの姿で、今や追はれ追はれて、名前も知らなかつた東京のある郊外の茅屋ぼうおくに、仮屋して佗しい日を送つてゐる。たゞあの頃と違ふと云へば、偶然に私は一女を得て妻となし、一人の子の父となつてゐるだけのことである。結婚当座一年ばかり、六年前の続きで、あの町に住んだが、そして藤村と同じ境涯に陥つた宮田といふ旧友の訪問で多少の寂しさを救はれもしたが、今では、あの町の二つの家共々、父の多くの事業の失敗の揚句から人手に渡つてしまつたのである――そして私は、未だ実家へ帰ることを許されないのである。――現在では私は、父とは仲直りしたのだが、新しく母との不和が生じてゐたのだ。――そして私は、たゞ徒らにあの頃と同じやうに夢見るだけで、何の研究方針も定まらないのである。
 藤村のその後の動静は略さう。ほゞ私に似たものであるから。――私のやうなものに取つて、結婚生活が幸福である筈はない、そんな夢こそ見たこともないんだから今更驚きもしないが。だから別段に、未だ独りでゐる藤村が羨ましいとも思はない。
「××山のトンネルが水を吐き出して、工事が出来なくなつたんだつてね、――君、見たか、新聞?」
 この間、暫く振りで訊ねて来た藤村は、自分達に関係がある話のやうに、殊更にそんなことを云つた。
「気がつかなかつた。」
「だが汽車は、到頭あそこまで通じたんだね、行つて見ようか。」
「だつて今ぢや行つたつて、畑の番人になることも出来ないぜ。」
「ハッハッハ、困つたね。――ミス Fから便りがあるか。」
「去年、ミセスになつたよ。」
「がつかりしたか?」
「俺、毛唐人だけは真ッ平だよ。」
「チェツ! 厭に収まつた顔をするねえ、」などゝ彼は笑ひながら「こゝはつまり武蔵野か、たしかにその面影があるね――野原ぢや大丈夫だ。転ばり落つこちる心配がないから。」
「さうさう、あれぢや笑つたッけなァ!」と、私は膝を打ッて、心細く窓の外を眺めた。
 二人が大分酩酊して来た時に藤村は、私の耳に口を寄せて
「細君がゐると、俺何だか気拙くて、あの頃のやうになれないや。」と、さゝやいだ。
「俺も/\/\、――」
 私は、他人事のやうな顰めッ面をして藤村に賛同しながら、襖を隔てたそれしかない隣室に向つて、頤を突き出して稍暫くの間憎々顔にくにくがほを保つた。
(十四・六)





底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「女性 第八巻第二号」プラトン社
   1925(大正14)年8月1日発行
初出:「女性 第八巻第二号」プラトン社
   1925(大正14)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
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