おそらくあの娘は、私より二つか三つぐらゐの年上だつたに違ひないのだが私には相当のおとなに見えた。兄弟はないらしかつた。
私の家にも稀には母親に伴れられて遊びに来たのであるが、よそに来ると私とさへ碌々口もきかずに母親の蔭で愚図ばかり鳴らしてゐたので、そこでの記憶は何も残つてゐない。あの家でのあの娘の記憶はところ/″\ばかにはつきり残つてゐるにもかゝはらず――。
はつきりとしてゐる気がしても、とりあげて見ると、泡のやうに忽ち消えて、何のとらへどころもない、シヤボン玉をつかむやうな記憶である――ほんとうにシヤボン玉の記憶が先に浮かぶのである――。
土蔵があつた。土蔵の壁は白かつたが、らく書きが一つもしてなかつた。私は、塀や壁に接するとらく書きに注意するのが癖だつた。
外では、風にこはされて面白くない、風がなくてもにげてしまふからあつけない――「お蔵の中だと面白いよ。まつすぐにシヤボン玉があがつて行つて、天井は暗いからいつ玉が消えるのだかわからない。折角、キレイな玉をつくつても直ぐに眼の前でこはれてしまつては、がつかりぢやないの! だからあたしはシヤボン玉を吹く時はいつでもお蔵の中でするのよ。こはれないよ。しまつておけるわ。――どこかしらにかくれてゐる。それを探しツこをしない! 鬼ごつこ見たいに。」
彼女は、そんな意味のことを、私の記憶ではもつと/\芝居じみた言葉で熱心にいつたことを私は覚えてゐる。
――「あたしは、ひとりでもいつもそんな遊びをしてゐる。」
「厭だ。」と私はいつた。
「厭だつて! その遊びをしないとひどい目に合はすぞ!」
鋭く男のやうな言葉で突然彼女は打つやうに叫んだので、私はゾーツとして否応なく承諾したことを覚えてゐる。
隅の方に妙なかたちの朱塗の椅子があつた。娘は、それに腰をおろして、魂をこめてシヤボン玉を吹いた。
「どんなに騒いだつてかまやしないわよ、聞えやしないから――早く/\、早く梯子段を駈けのぼつて……お化けなんてゐやあしないわよ。意気地なし……」――「ほうら! もうどこかへ見えなくなつてしまつた。だけど、こはれちやゐないことよ。きつと、二階の隅にとまつてゐるよ。……早く、見つけておいでツていふのに。」――「天井裏にね、昔、おしおきに使つた竹の鞭があるよ。それは、触るとお爺さんに叱られるけれど、あんまり愚図々々してゐると、それを出して来てあんたをひつぱたくよ。」
*
私は、あの娘の笑ひ顔を想像することが出来ない――笑つた顔を見たことがない。痩せてゐた。そして
「もう帰らう、母さん。」と私は母にせがんだ。母は、娘の祖父と母と対座して、海棠の花が満開の庭を眺めながら、花見の御馳走になつてゐるのであつた。
「
「その速いの速くないの!」と娘の祖父は、さういつて息をのんだ。――「あゝいふ子はうつかり叱ることも出来ないんです……そんなひどい怯え方をするんですからな――こつちがもうこはくてこはくて!」
幸ひその夜は月夜だつたからよかつたものゝ、それでも村中の騒ぎだつた、翌朝たづねて見ると何も知らないといつてゐる……。
「よく子供にはある病気なんだが、あれのは大分ひどすぎる!」
「そして――」と娘の母が続けた。「悪いことにはあれは意地悪なんです、男のやうに乱暴な――玩具だつて満足には一ト月と保つものはありません。」
――「何かまた、意地悪をしたんでせう? 仕様がない、かんにんしてやつて頂戴ね、あれは少し病気なんですからね。」
私は、自分が意気地なしにされた不満を覚えたが病気と聞いたので
娘は、まだ土蔵から出て来ない――何かいふなら今のうちだと私は思つた。
「父親がないと思ふと可哀想で――」と娘の祖父はいつた。
*
私たちは、ブランコに乗つた。私は、この遊び道具を好まなかつた。ひとりで、あまり大振りをせずに乗つてゐる位なら辞退するほどではなかつたが、大振りは肉体的にかなはなかつた。機械体操なら多少の離れ業が出来るにもかゝはらず、特にこの遊び道具が私には適してゐなかつた。少し大振りを試みると私は五体が硝子の壜に化したやうな寒さに戦くのであつた。そして、眼がまはつてしまふのであつた。
だから私は見物をしてゐた。
娘は、これが非常に好きだ――といつた。朝晩これに乗つて一回づゝおそろしい運動をしないと、
「気色が悪くつて――」
いちにち中わけもなく焦れつたくてならない、何んでもないことに堪らない癇癪が起こつて、どうかすると飛んでもない乱暴を働いてしまふやうなこともある――といつた。
はじめ彼女は、私の弁解を素直にきいて、では少しの間待つてゐておくれ、一汗絞つて
これは学校のブランコのやうに巌丈で、おそらく三間にも達するであらうほどな湿りを含んだ綱が、静かに垂れてゐた。これは大事にしてゐて、運動が済むと、先にカギのついた長竿でいちいち取りはづして自分で物置きにしまふのだ――といつてゐた。まはりには、土を掘りのけて深々と砂が盛られてゐた。
私は、そこにもある海棠の古木によりかゝつて彼女ひとりの遊びを待つことにした。その花の頃に、花見に訪れるのが例だつたのでそんな気がしたのかも知れないが、彼女の家には海棠の樹ばかりが多かつた。
彼女は、決して私などを眼中に置くことなしに熱心な運動を試みた。――
私は見物してゐるだけでも足のうらがムズ/\として堪らなかつた。――「今度は英ちやん乗つて御覧!」と彼女は、約束を裏切つていひ出した。「振れなければ、あたしがおしてやるから!」
私は、竦然として、物もいはずにその場を逃げ出したのであるが、
彼女の唇は神経的にふるへてゐた。
「チヨツ/\/\――あゝ、焦れツたい。」と彼女は病的に鋭く叫んで、私の腕を抜けるほど引ツ張つた。
そして、私にはあんな他人の心持はわからない、ヒステリックとでもいふべきか? 眼尻を釣りあげて、何としても臆病な私には
「どんなひどい目に合すかも知れないぞツ!」と、まつたく絹を裂くやうな声で噛みころした。――殺されるかも知れない! ほんとうに私はそんな気がした。
彼女は、己れの五体を地面に叩きつけずにはをられない、無茶に――発作的にそんな非常識な癇癪に燃えたつてゐた。
私は、唖然として、引かれるまゝにブランコの上に立たされた。
「何をぼんやりしてゐるんだよ。さつきからあたしは、お前が馬鹿面をして折角の運動を見物なんてしてゐるんで腹がたつて仕方がなかつたんだ、何んにもなりあしない! あゝ、気持が悪い。」――「あたしのやつた通りな大振りをしなければ、どうしても我慢が出来ないぞ。……突き飛ばすぞ!」
それでも私が、ぼんやりしてゐると、彼女はいきなり綱を握つて、グルグルツとそれをねぢつた。長い二本の綱が、私の頭の上から先きで一本にねぢれ合つた。彼女は巻き切れなくなるまで、グルグルとまいてしまつた。それが、殆ど咄嗟の間で私は手のおろしやうもなかつたのである。
一杯に綱がよぢれた時に彼女は、キヤツといつて飛びのいた。同時に私の体は、素晴らしい勢ひの風車になつた。私は、必死になつて綱にしがみついてゐた。
「もう、我慢が出来ない、馬鹿にしてゐる、気狂ひ扱ひにして黙つてゐてやればいゝ気になつてゐやあがる――喧嘩となれば貴様なんかには負けないぞ!」――「よしツ!」――「飛び下りて……」――「女だと思つて負けてゐてやつたんだぞ、馬鹿ア!」
それにしてもひどい勢で私の体は回転してゐた。それだけのことを私はやつと胸のうちで叫んだ。――眼がまはつた。
一度とけたが、勢ひがあまつて、綱は更にねぢれやうとした――私は、ハズミをねらつて蛙のやうに飛び下りたが、どうしても直ぐには立ちあがれなかつた。
しばらく呼吸を殺した後に私は、漸くフラ/\と立ちあがつた。何かにすがりつかずには居られなかつたほど、頭と足の見さかひがつかぬほど、グラ/\と眼が廻つてゐたが、私は、「馬鹿ア!」と叫んで、猛然と娘に飛びかゝつた。そして、彼女の頬をめがけて平手を飛ばしたが容易にあたらなかつた。――私は、もう夢中だつた。――砂をつかんだ! 無茶苦茶に投げた! 自分の着物の袖をひきちぎつた! 独楽のやうに狂つた! ……グラ/\と眼が廻つてゐるので暴れるのには却つて都合が好かつた。私は、転んだ。立ちあがると、直ぐに転んだ! 口にも鼻孔にも砂がさん/″\にとび込んだ。――何んにも見えなかつた。私は、ブランコに唾をひつかけた。
いくらか落着いて、眼を見開いた時には、どこにも娘の姿は見えなかつた。
*
至極おぼろ気な記憶である。
「海棠の家」
と私達は、稀にその家を口にする時には、たゞさうよんでゐた。それが私は、はじめその家の姓かと思つてゐたが、ずつと後になつてさうではないことに気がついたくらゐなのである。
庭に海棠の樹が沢山あつたので、その家のことを私の家の人々は、いつ、誰がいひ出したともなく、昔からさうよびなれてゐる風だつた。――その家と吾家との関係も私は知らない。たゞ、花の季節になると、母と私は遥々と花見に出かけるのが常だつた。
私は、あの娘の父を見たことがない。一度そのことを私は母にたづねたことがあるが、たしか母は言葉をにごしてはつきりした返答をしなかつたので、そのまゝにした。
*
庭には、赤毛布をしいた床几が出てゐた。
母が、ありがたさうな手つきで娘の祖父から盃をいたゞいてゐた。――庭の床几には誰も掛けてはゐなかつた。
狂人をいれたことのある座敷牢といふものがある家だ――といふことを私は、祖母だつたか母だつたかから聞いたことがあるが、私は
「もう少したつと、きつとお爺さんはあたしを呼びによこすよ。」
「叱られるの?」
「叱られたことなんて、あたし一遍もないわよ――舞ひをやらされるのよ。」
「舞ひツて? をどりかい?」
「つまらアあない、――をどりみたいなものだけれど。」
「厭だらう?」
「厭さ、もちろん!」
「ぢや、やらなければ好いのに。」
「厭には厭だけれど――そんなに嫌ひでもないんだ。」
「…………」
「面白くはないけれど、あれは私の心を静かにさせる――。あたしがね、つまらない……といふことは嫌ひとは違ふのよ。」
「…………」
「あたし、つまらないことが好きなの、あんたには解らないだらう。」
「解らない。」
「何か、思ひツきりつまらないことはないかしら? そんなことをあたしは考へてゐることもあるのよ、さうして終ひには焦れつたくなつてしまふのさ。」
「何だか、ちつとも解らないな!」
「お客ツて、あたし嫌ひさ。煩さくつて!」
「こんな田舎は、寂しくはないの?」
「寂しいよ。」
「学校にもどこにも行かないの――」
「うん――。行かないの――」
「なぜ?」
「なぜだか……」
「行きたくはないの?」
「だつて知らないもの――」
「近所にも友達はないの?」
「ないわ。」
「なぜ?」
「なぜつてわけはないぢやないのさ! あんたは馬鹿ね……チヨッ! あゝ、もう煩い/\/\。」
突然、娘は、眼を閉ぢて激しく首を振つた。――「……さうだ。もうブランコに乗る時間だ。」
さよなら――といふ風に彼女は、きつぱりと立ちあがつた。話が前後してしまつた。ブランコの騒動はこの後に続くべきはずだつた。
*
私たちは、大抵その家に一晩泊るのが例だつた。
その晩は、私はどんな風に送つたかまるで覚えがない。娘と仲直りをしたかどうかも記憶がない。庭にぼんぼりがともされて静かに夜を更すのであるが、どんな催しがあつたかもまるで覚えてゐない。夜の記憶は、もつと前の年のことかも知れない。――その日の夕方、私はひとりで馬車に来つて帰つて来てしまつたやうな気もする。
だが、海棠の花の下に四つ五つのぼんぼりが桃色に滲んで、大へんに美しく見えた記憶は残つてゐる。
*
翌年あたりからは、私の代りに、漸く歩き出したばかりの私の弟が、母につれられて行くやうになつたのであらう。
私の朧気な記憶は、こゝでぴつたりと絶たれてゐる。
どこでゞもとまる乗合馬車を、その家の門の前に止めて、いつも私たちは翌日の昼過ぎにそこを辞するのであつた。
別れを惜んで海棠の家の人々は、皆門先に立つて私たちを必ず見送つたが、いつの時でも、なぜか娘の姿はそこに現れたことはなかつた。別段誰も怪しみもしなかつたが、私は、娘がひとりで何か遊びごとに熱中してゐるのだらうと思ひ、どんな遊びをしてゐるのだらうか? ――と考へた。
――――――――――
何だか、ばかにわけあり気のやうな話しになつてしまひましたが、これは、これ以上に何の意味もありません。われわれが、子供らしい遠回しな恋でも囁き合つたのではないか、とでも誤解されると、どうでも好いことですが、私としては、折角話したこの話の甲斐もなくなつてしまふのです。どこにも私たちは、そのやうな片鱗さへも感じてはゐなかつたといふことは、言葉を改めて断つておきたいのです。少年の淡い恋を語る位ならば、私は決してこんな話はしません。
*
地震であの家は、バラバラに潰れた。
娘の祖父は、大分前になくなり、その母もなくなり、何でも娘は地震の四五年前から精神が怪しくなつてゐたが、世間には知れずにひとりであの家にずつと住んでゐたさうであるが、住家がなくなると同時に、気違ひであつたといふことが村中に初めて知れ渡つた。中には、地震でそんな風になつたのだと噂してゐる人もある。娘は、今はひとりで小屋みたいな家に住んでゐる。私の母は一ト月に一度位ゐづゝ見舞つている。私も行きたく思ふのであるが、どうかすると今の私は、あのお
今ではあの村の直ぐ手前まで電車が通じてゐるので、行かうと思へばこれから出かけても日が暮れぬうちに行き着けるだらう。