小川の流れ

牧野信一





 或日彼は、過去の作品を一まとめにして、書物にすることで、読みはじめると、大変に情けなくなつて、恥で、火になつた。――身も世もなき思ひであつた。
 就中、純吉といふ主人公が出て来る幾つかの作品では、堕落を感じて、居たゝまれなかつた。「純吉」が、他人ひとをモデルにしたものでもなく、架空の人物でもなく、読む者に作者自身であるかのやうな概念を与へるのみか、作家自身の態度が充分そのやうな心組の許に、悪る騒がしいタツチで筆をふるつてゐるのが彼は、堪らなかつた。――彼にとつては、その作者である己れが、読者である己れに対してあまりな冒涜家であつた。
「純吉の小説」には屡々Y子といふ娘が現れた。純吉はY子に秘かな恋を感じてゐた。事毎にそれが裏切られてゐた。性格に強さを持たない純吉は、口の利き振りまでが常の純吉ではなしに、悉くY子の悪趣味におもねつてゐた。
 事実では決してそんな筈はなかつたのであるが、その頃の心のかたちを創作にして見たならば、そんな風にY子が自分の心に喰ひ入つてゐたのかしら? ――彼は斯うも思つて見たが、それもあまりに空々しかつた。そんなことを創作の上で想像した当時の自分さへ、彼は解らなかつた。
 ……何よりも彼に、破廉恥を感ぜさせるのは、小説上の事件ではなしに、事実ではあのやうに淡白であつたにも関はらず、Y子に対する純吉の態度がフールのやうな挙動であることだつた。ヘラヘラと冗談口を叩き、皮肉を衒ひ、狡さを戦はせ、そして得体の知れぬ悦に入つてゐるかのやうである。
 彼にも、恋の思ひ出はある。いつ思ひ出しても澄んだ涙を誘はれるかのやうな、切なく甘い思ひ出がある。恋ではなくても、人の純情は、そのまゝ何時までも消さずに残してゐられる自信を彼は持つてゐる。――だが、Y子の純吉(斯う云つていゝ)に依つて架空された彼は、
「Y子の悪影響だつたのかしら?」斯うも考へたが彼は、それほど呪はれた弱さがあるとは思へなかつた。――だが、あんな風なことを書いたといふことは事実である、Y子に恋してゐるかのやうな………。
「嘘だ! 嘘だ!」
「では、退屈のあまり法螺を書いたのか?」
 それは、また、何んな場合にも彼には信じられないことである。彼は、何んな場合にも「道楽」は出来得ない人間であつた。彼は、一時は「戯れ」と思つたことも、反省して見ると悉く一途な情熱の変形であつたことに気づいて、常に息窒いきづまつた。――彼は、恋愛を(人生至上のものと思つたことはないが――)偶像視してゐる者であつた。恋愛の為の痴愚と云はるべきものを聖なるものと信じてゐた。彼には、結婚を忘れた恋のある筈がなかつた。同時に、妻帯者の「恋」は悉く汚れで、唾棄すべき戯れで女性に対する怖ろしい悪徳で、単なる、軽蔑すべき道楽に過ぎなかつた。彼等は、莫大な物資を携えての上で、遊里へ赴くの他、婦女に対して戯れの心を持つことは許されなかつた。
 彼の妻は稍ともすれば云つた。「さういふ種類の人が、道楽を始めると大変なんだ、何とかの一心といふもので――」
「さういふ心配は無いよ。僕とあゝいふ雰囲気は怖らく反対だし大嫌ひだし……」
「そこは安心だけれど――」
「それをもう一歩すゝめて云ふと僕は、あたりの日本的な風俗・習慣・人情に悉くいれられないと思つてゐる。」
「小さい範囲で云つてゐたつて、仕方がありませんわ、あなたのやうな――」
 Y子のやうな人物は、凡そ彼の趣味・風俗に合はぬ者だつた。
 だから、その頃だつて彼がY子に恋らしいものを感じた筈はないのである。第一彼は、Y子を信じてゐなかつた。関心は、その当座だけは軽く持つた、それは軽蔑である。それなのに彼の「純吉の小説」に依ると、純吉は全くY子の純吉である――といふのは、自分の主張が皆無で、純吉の心は全くY子の反映で、彼女の操り人形なのである。――軽蔑を感じてゐる相手が、そのまゝ軽蔑に価する己れに映じてゐるのだ。
 更に云ふ、痴愚を云々するのではない――彼は、それらの虚偽らしきものを恥ぢるのであつた。
「然し、そんな嘘がつける筈のものではない、少しでもY子に対して結婚を予想する心があつたのかも知れない、――少くとも彼女の姿を目のあたりに眺めてゐた間は……」
 彼は、斯うも思つたが、如何にも空々しくて何の思ひあたるところもなかつた。
 それどころか、彼女が彼に対する約(戯れだと彼は思つてゐたし――)を自ら破つて、嫁いで行つた時などは寧ろ爽々すが/\しさを覚えたことを思ひ出すことが出来た。彼女の母親が酷く勿体振つた態度で、婦女画報に載つてゐる結婚写真を彼に示して、何か得意気なことを云つたことを彼は覚えてゐるが、自分は何んな心地がしたかも、彼は、今はもう知らないのである。たしか、この人は――と彼女の母親は、たしかに立派やかな、顔の細長い、髪の毛を真ン中からぴつたりと分けた、白手袋を握つて花嫁姿のY子の傍に直立してる燕尾服を指差して、何とか会社の重役の倅で、今年からは何処何処の支店詰となつて、長となり、間もなく夫妻共々打ちそろつて欧米視察に出かけるのだ、その時にはあんたは勿論行くだらうが、お父さんやお母さん、なるべくならば叔父さん叔母さんも、出来るだけ大勢みんなそろつて見送りに来て貰ひたいものだ。先方の見送り人には到底敵ひつこはないが、これは内密だが此方では夫々手配りをして他人まで頼んであるのだ、そして、あんたのお父さんの音頭で景気の好い万歳を唱へて貰ひたいのだ……といふやうなことを云つた。
 感心しないと彼女の母親が不機嫌になりさうだつたので、彼は傍から覗き込んだのであるが、容易に彼女はその頁を翻さないのである。
「どうよ、純ちやん?」
「綺麗ぢやありませんか――」
「あんたも、今に斯んな風にして写すでせう。」
 彼は、何故か、結婚の写真を写しそこなつた、父親が丈夫の時分で、大神宮の御前に、ひれ伏して、ちやんと当り前な結婚式を挙げた筈であつたが――。
「あんた、まあ、この着物の柄や何かも好く見て頂戴よ、張り合ひのない人だねえ。」
「見てゐるぢやありませんか、この通り――」彼は、何の秘かな悲しみもなかつたから云はるゝまゝに達磨の眼をして眺めてゐたのである。
「ぢや、何とか、おつしやいなね、一言位は――」
「だから、綺麗ぢやありませんか。」
 全く彼にはそれより他に感想はなかつた。綺麗過ぎて、Y子の顔なんて恰で似てはゐない――と彼は思つた。彼には、どうもY子の済してゐる姿などは見たこともないやうに思はれた。Y子の顔は、ものでも食つてゐるところか(彼女は夥しい乱食家であつた。)、愚かなことを云つて(彼女は蓮葉はすつぱな芸妓の云ふやうなことを好んで口にし、また、一切花柳界的な人情・習慣に憧れてゐた。)笑つてゞもゐる顔より他に印象がなかつた。芸界の芸には憧れずに、たゞ、無駄を誇りとするかのやうな野卑なる、花美くわびにのみ溺れてゐた。――彼は、彼女の写真姿と実生活とを連想することが出来なかつた。彼は、テレて、傍らの字を読んだ。
 すると、何うだ! 余り馬鹿々々しいので彼は、今でもはつきりと思ひ出せるのであるが、Y子嬢は、△△女学校を優等の成績で卒業後、××英語塾にて語学を専攻し――とか、三絃を何某氏に踊りを何流に、茶の湯、生花――とか、さもさも、さうした嗜みに深いといふ風なことが、写真の傍らに証明されてゐるのだ。彼は、思はずY子の顔と見くらべた。が。花嫁姿の傍では、そんな途方もない空文も別段嘘らしくもうつらなかつた。
 遠縁にあたつてゐるとかで(父がそんなことを云つたので彼が母に訊ねたら、母は知らないと云つた。そして、さういふ家に倅を寄食させる父の考へが解らぬ! と云つた。)その頃彼はY子の家に寄食して、二階で、Y子と机を並べてゐた。凡そ、十年も前のことである。――Y子は、△△女学校を、賄賂を贈つて辛うじて卒業し(彼女はそれまでに二度も学校を転じた。)そして級友達よりは二つも年上で、彼と同年であつた。××英語塾へ通ひ、彼は、彼女や彼女の母親達が、何故か、嫌つてゐる文科の早稲田へ行つてゐた。
 店が別なので彼は詳しいことは知らなかつたがY子の父は毛織物の輸入商を営んでゐる傍ら、株券の売買に従事してゐるらしかつた。珍らしい好景気の頃で、Y子の家庭の空気は、彼にとつては、常に祭礼の如く賑々しく、花やかな別荘にでも招かれて客となつてゐるかの如く面白く、稍ともすれば、云ひ知れない不安を感ずることが多かつた。彼は、面白気には見ゆるけれど、彼等と共々に烏頂天になり切れずに、そのくせ、薄ら甘い誘惑を覚えながら、何故か独りの邑想を忘れ得ない自分を、心憎く思つたが、恰度それは、軽い眠さを、辛えてうとうととしてゐる時の、何んなものゝ象も輪郭が滲んで、たゞ、ひとりでに艶めかしい幻想に誘はれて行くかのやうな快いまどろみに似たものでもあつた。まどろんでゐれば何も彼も艶めかしかつたが、はつきりと眼を開き言葉を耳にすると、小さな不自然の色彩りが、惨めに殺風景で、自慢をもつてすゝめられる何堂の菓子も、何亭の料理も、滑稽なばかりで、有りがたくなかつた。
「話せないわね、純ちやんは! 此処の家の洋食の味が解らないなんて――」
「Yさんが、つくつたら、屹度僕は、もつと/\おいしく食べられると思ふがな。」彼は、お世辞でなく云ふのであつた。
「チエツ、そんな厭なことを云つたつて、悦ぶやうな閑人はゐないわよ――」
 彼女は自分で料理などつくる興味は一切無いのである。無いといふよりも、嫌ひで、出来なかつた。稀に、それでも母親が料理や裁縫についての彼女の身だしなみの無さすぎることを喞つたりすると、不承無承に針を持ちかけたりするが、直ぐに指先きを怪我をしたり、頭痛がしたりしてしまふのであつた。
「芸事に励んでゐる人とか、学問で身を立てやうとしてゐる人なんかなら、女だつて、男のやうな人もあるけれど、お前のは、何一つ他に、これと云つて……」
「煩いわよ、母さん。――女は、おつくりさへ上手ならそれで好いんだわよ。」そんな調子で、彼女は遠くから鏡をのぞいてゐるのであつた。彼女は、座敷に座つてゐる時でも遠くの鏡台に顔が映るやうに、鐘の面を斜めにして置くのが常だつた。
「あゝ、さう/\。」と直ぐに母親は賛同して娘の横顔を凝つと見入つた。「でも、顔ばつかり見てゐないで、その座り方の下手な処も映して見たら何うよ。」
 そして彼女は主に母親を相手にして、芝居の噂、百貨店の品定め、父親が吾家うちの者に対して吝嗇で悲しいといふこと(彼女等は Golden touch の夢を信じてゐたらしい。)――などを、何時彼が階下へ降りて行つた時でも、脚を投げ出したり、何うかすると肘枕で寝転んで、屹度何かを喰ひながら喋舌つてゐた。彼女は、学生らしいこと、陽の下で汗を誘ふあらゆる類ひのことは一切嫌ひで、彼が好きな山遊びや、運動や、遠足などと云つたら、聞いたゞけでも身震ひするのであつた。殆ど友達などとも手紙のやりとりなどはしないらしく(夥しい悪筆である為か)彼は若い娘といふと凝つた封筒や紙箋を想ふのであつたが、来ることも、出すこともなかつた。彼は、彼女の友達が遊びに来そうなものだと思ふこともあつたが、全く友達との交際はないらしかつた。彼女は、様々な祝儀袋などを集めてゐた。
 夜になると店の者や、株式店の社員のやうな若者などが集つて芸妓などを引きつれて帰つて来る主人と、車座になつて弄花の戯に耽つた。にわかに栄えたつた店だといふ話だつたが、さう云はれて見れば、主人と雇人との隔りなども無茶苦茶で(彼は、何故かそのことだけには好意を持つた。)だらしのない若者の酔つ払ひが野放図な歌をうたつたり、主人の家庭であることも打ち忘れて女にからかつたりするやうな騒ぎも珍らしくなかつた。彼は、酒は勿論、花合せの遊びも知らないので大概二階に逃げ込んで、何となく偉さうな顔をしてゐるのが常だつたが、寄り合ひがはじまるとY子は決して机の前に現れなかつた。騒ぎは手に取るやうに聞えるし、とても本などは読めないし、話相手もないので、つい彼も、うかうかと見物に出かけてしまふのであつた。
 Y子が、仕事に熱中してゐる態は、彼は、花合せの時より他に見たことがなかつた。そして、これだけは、相当巧みであるらしかつた。夜中の二時、三時も厭はなかつた。
「五カンぢやおりられねえ!」
 彼女は、斯んなことを云ひながら神妙に首を傾げたりするのであつた。
「さあ、来い!」などゝ云つて、腕まくりをしたり、吾を忘れて膝をたてたりするのであつた。さうかと思ふと、接戦の中ばで、不意と、真ン中に積みあげてある札を素早く取りあげて、
「チヨツ、なめてやがら!」などゝ叫んで、失望のあまり、思はずピシヤリと自分の頬を叩いて、
「助平しちやつたなあ!」
 生真面目にそんなことを呟いで、眉一つ動かさないのである。言葉など誰も、一切気に留めぬ風であつたが、彼は、驚きのあまり、胸が震え出すのであつた。
「昨べは、斯んなに勝つちやつた。おごつてやらうか。」
 彼女は、彼の目の前で財布を振つて見せたりした。
「何さ、その目つきは! 汚らはしいとでも思ふの?」
「金なんて、かけてやるの!」
「当り前ぢやないのよ。子供ぢやあるまいしカラ花なんて誰が引くものですか!」
 酒宴などが始まつてゐると彼女は常一倍マセた口を利いて若者達にからかつたり、屡々、妙齢の娘の言葉として、到底彼には想像もし得ない卑猥な冗談を事もなげに放言したりするのであつた。
「ターさん!」彼女は、ふざけてそんな風に彼を呼んだりした。
「あんたも、二三杯でも飲んで御覧な。」
「何アンだ。あたしぢやなかつたのか。」田代といふ若者が笑つた。
「うちの樽野さんたらね、いくら飲んでもちつとも酔はないんですつてさ。」
「酔ふもんか。」と彼は、苦々し気に云つた。(あの「純吉の小説」に依ると、彼は、何かY子に感ずる嫉妬のやうなものが動いて、苦々し気にうなつた、といふのであつたが、事実は、単に、汚らはし気に――であつた。)
「喜三さん、あんたは此間の晩、うちの帰りに真直ぐ帰らなかつたでせう?」
「やゝゝゝゝ! どうぞ御内聞に――」
「馬鹿ね、あんたわ、あたしが斯んなことを云ふと本気にしてゐるわ、御内聞にだつて! 嘘つき! あの晩妾が一寸店に寄つたら、あんたはちやんと独りで寝てゐたぢやないのよ。」斯んなことを云つて彼女は、相手に恥を掻かせて、腹を抱えるのであつた。
「あんたの寝像つたら、妾は、吃驚りしちやつてよ、あんな寝像の悪い人つてえのが世の中にあるかしら! ……アツハツハツ……」
「ほんたうですか?」
「妾、それからといふもの、あんたが凝つたなりなんかして歩いてゐるところを見ると可笑しくつて/\堪らないわ。」
 田代でも、喜三と云はれる若者でも、彼女にそんな風にからかはれても、不愉快がる気色もなく、努めて娘の気嫌と合せるかのやうに、事更に生真面目さうに、参つたり、眼玉を白黒させたりするのであつた。――彼女に云はせると田代と喜三は競つて、彼女を「張つて」ゐるのださうである。それに彼女は、蔭では彼等を悪態に冷笑してゐたが、会ふと、いろ/\な意地悪るをしながらも、機を見ては如何にも意味あり気な親切を示すのであるから決して彼女が云ふやうに男ばかりが「おしが強い」のではなかつた。
「ね、母さん、今度喜三公きざこうの奴が来たら、それとなく気をつけてゐて御覧、滑稽つたらないわよ、隙を見ちや、それあ、もう、何とも云へない、妙な眼つきをして妾の方を見るわよ。」
「へえ! さう云へばあの人は、来ると長つちりだね。現金でさ。お前のゐない時には、用達だけ済すとさつ/\と帰つてしまふ。」
「一寸見ると、おとなしさうでせう。あれでゐて、仲々隅にはおけないのよ。つい此間まで茅場町の牛屋の女中と好い仲だつたんだつてさ、ところがさ、彼奴、あれでゐて、とてもきりよう自慢なんだつて!」
「でも一寸、男前ぢやあないか。」
「あらア! 母さん――」と彼女は真顔になつて打ち消すのである。母親の云ふ通り喜三は、苦味走つた、いつも髭の剃痕が青々としてゐる長身の美男子なのである。「あんなのを好いと思ふ? 冗談でせう――銀ながしぢやないのよ。」
「Yさんにあつちや敵はないわね。」母親は、あんな美男子でも、ものとも思はない娘のたくましい自尊心を悦んだ。
「あれでね、あの人は、おツそろしいやきもちやきなんですつてさ――それがもとで女の方で愛想を尽かしてしまつたんだつて――」
「ほう! あんたはまた誰に聞いたのさ、そんなことを?」
「田代クンが皆な妾に云ひつけたものさ、彼奴ツたら、田代クンに向つて、Y子の奴は、俺に女のあることも知らないで岡惚れをしてゐやあがる――ツて云つてゐるんだつて。しよつてやがらあ。」
「何だつて、そんな太いことを抜かしたの、彼奴が。さあ、あたしは承知出来ない――父さんに云ひつけてやらうか知ら!」
「憤らなくつたつて好いわよ、母さん、田代クンの云ふことだつて、まるツきり当になんてなりはしないわよ、母さん、彼奴こそいけ図々しいのよ。」彼女は、親でも、斯んなことを云つて顔色を変へさせて見るのが道楽であるかのやうだつた。「此間、学校の帰りに乗換場で遇つたらばね、Y子さん、これから一寸新富しんとみの立見に行きませんか、だつて――妾、あんな奴に、あんな処で話かけられて、すつかり赤くなつちやつたわよ、癪に触つたから、お角が違ふでせうツて云つたらばね、急に厭味つたらしい笑ひを浮べて、僕の――だつてさ……」
「あの人の僕――は、ほんとに気になるわね、あの人、おつに、大学出てえことを鼻にかけてゐる見たい――」
「僕のラヴアが今日は彼処に行つてゐる筈だから、一目で好いから遠くから見て下さい、あんたはいつも僕の云ふことをほんとうにしないから、今日といふ今日は見せてあげたい――だつてさ、ああ云へば斯う云ふといふ彼奴は法螺吹きなのよ。――女の苦労をした人でなければお話にならないと、いふやうなことを妾が不断あまり吹き込み過ぎたもので、てんでんに好い加減な空ごとをつくつて、妾の顔色を読まうとするんで、妾、可笑しくつて堪らないわ――それに、あの人、ひたかくしにしてゐるけれど、田舎ツぺえでせう、だから妙にネツいわよ、云ひ出すと。」
「立見へなんて一処に入つたら、それこそ大変ですよ。」
「お気の毒様――母さんたら随分失礼しちやふわね。……あゝ、妾、沁々悲観したわ、父さんがあんな商売をしてゐるもので、低級な人達ばかりが出入りするんですもの。」
「学問をさせると、ふんとに気位ゐが高くなるものね――まあまあ、結構だわよ。」
 婦女雑誌には彼女が英語に堪能だなどゝ誌してあつたが、彼女の語学の力は二年の中学生にも劣るものだつた。教科書には、テニソンや、ラスキン、エマアソンなどゝいふ洒落たものを毎日包みにして通つてゐるにも係はらず、単に音読だけでも、彼が一度試験して見ると、辛うじて片仮名読みにたどらなければ声が出なかつた。形容詞と副詞の区別も知らなかつた。
「それで専門程度の英語塾の生徒なのかい!」彼は、激しい語気で斯んなことを云つたことがある。机の前だと彼女は事の他従順だつた。
「学校ぢや読ませたりしないの?」
「えゝ――」彼女は、英語に関して斯んなに無智であるといふことだけは親達に秘密にして呉れ! と彼に頼んだ。
「ふん、女は羨ましいものだ。」と彼が、ほき出すと彼女は、酷く悸々おど/\とした。「一年か二年の本を出して御覧な、読むだけで好いから、それを読んで御覧よ。」
 だが彼女は、それすらさつぱり読めなかつた。そしてわけもなく彼の気勢を怖れてゐるかのやうだつた。
「チヨツ、まあ、何てえざまなんだらうな。」
 彼は、日頃の苦々しさを晴すかのやうに高飛車に舌を鳴すのであつた。すると彼女は、益々切端詰つて、ポツン/\と読んで行くうちに、思はずせき込んで、学校へ――などゝいふ処を、ツー・スチヨールと云つたり、ナイフをキニフと発音したりしてしまふのであつた。
「止さう/\……」彼は、堪えられない不気嫌な顔で、投げ出した。「出来たつて出来なくたつて、籍さえ置いてあれば、それで済むんだから好いさ。――喋舌つたりはしないから、それは安心しておいでよ。」
「屹度よ、一生のお願ひよ。」
 長唄や藤間流の稽古にも通ふには通つたが、芸ごとにかけても彼女は性来が驚くべき不器用で、自ら辟易して、それとなく中絶させてしまつた。――だが彼女は、さうした一切の無智・無能を決して気に留めてゐないばかりでなしに、何か自身には女としての確固たる誇りを持つてゐるかのやうな自信と落つきを、何時も――それは、見る者に感じさせる、云ひ知れぬ自由な甘さを、姿や性質に生れながらに持つてゐることは争はれなかつた。他の若者達が、あんなに騒々しい彼女にからかはれても、彼女に対して毒を感じない理由を彼は認めることは出来た。才能や智識や教養の点では何一つ取得のない彼女のやうな女が、考へ方に依ると男にとつては悩ましく朗らかな魅力を放つやうなことになるのかも知れない――などゝ彼は想像したこともあつた。
「妾、吾家が、何時何んなに貧乏になつたつて平気よ。妾、その時は直ぐに芸者になつてしまふから好いわ。自分も面白くつて、それで親達に尽すことが出来るなんて、こんな有り難いことは無いと思ふは――。妾、斯う見えても、おなかの中は仲々持つて親孝行者なのよ。」結婚などゝいふものよりも彼女の憧れは、そんなところにあるらしかつた。
 彼は、気持を悪くして空ふくのが常だつた。「そんなに芸者になりたいんなら、何も貧乏になるのを待つ必要もなからうさ。なれるものなら、遠慮なくなつたら好からうに、試験でおつこちるに決つてゐる。」
「試験だつて! 何云つてんのさ――なると決れば妾だつて修業にとりかゝるわよ。」
「何年習つたつて駄目だらうよ。」などゝ彼も彼女の天性の不器用さを攻め寄せるのであつたが、彼女は飽くまでも平気で、勝手なことを云ふが好い、芸事が出来なからうと、物覚えが悪からうと、お前などには解るまいが妾には妾の持つて生れた立派な得意があるのだからかまはないのだ。修業だとか、勉強だとか、そんなことは何うでも好いことなのだ、なまじな手習ひなどをして折角の自分を歪めでもしたら、それこそ取り返しがつかないといふものだ――といふやうな意味のことを言葉のうちに含めてゐるかのやうであつた。
 不図斯んな事を新しく回想して見ると彼は漸く彼女の白々し気な傲慢さが、圧迫を強ひるかのやうに感ぜられた。そして彼女こそ、持つて生れた素質を、最も素直に育くんでゐたものである――そんな羨望さへ覚えた。そして彼が嘗て、苦々しさを覚えたり反感を誘はれたりした様々な思ひ出は、彼女にとつては、たゞああした家庭にゐて、あんな生活をしてゐたが為の、その場/\の衣裳に過ぎないもので、そんなことを、趣味に反する! とか、好みが野卑! だとかなどゝ正面から反撥した自分こそ、ものゝ心をつかみ得ない軽薄なる卑賤な徒であつた――そんな敗北を感じさせられた。
 また、あれらの小説に対して執つた自分の態度や言葉だけが悉く誤つた業で、吾知らず、重苦しく、彼女に対して愚かな反撥を強ひてゐた憐れむべき自分で、真実あの家庭にゐた頃は、自分こそ胸のうちを底知れず攪乱されてゐたのに違ひないのだ――と彼は仔細らしく首をひねつた。そして、Y子といふ女は、眼の前に居る間は、相手の胸を悩めるが、一度去れば何の余韻も残さずに消えてしまふ爽々しい金魚のやうな質なのだらう、白の洗面器の中に金魚を放つと水は忽ち染められたかのやうに赤く映えるが掬ひ出してしまふと、もとのすき透つた水である――彼は、自分が嘗て口にしたといふ思ひも寄らぬ言葉を、現在のY子から聞いて吃驚りすることが屡々だつた。
「妾達が若しあの時結婚してゐたら、何うだつたらう!」斯んなことをY子は、ためらふ気色もなく云つた。彼女は、未だに彼が彼女との約を守つて、自分達の破婚を嘆いてゐる者と定めてゐた。そして、彼がこんな意味のことを云つたのださうである――どんな境遇に離れても、お前のことは忘れない、自分に妻が出来ても、それは空しい人形に過ぎないだらう、お前は自分の一生を通じた永久の恋人である。
 そんな馬鹿なことを、何うしても云はすやうな芝居をしくんで彼女は、云はせたのだ。若し愛を感じたにせよ、金魚と同様なその場限りの幻で、凡そ永久の何々などゝいふものとは反対のものである筈なのだが――今の彼女の態度に依ると、別段彼女は、昔も芝居を演じたわけでもなく、純粋で、彼が最も唖然としたことには彼女に寄る彼は「未だに」彼女を想つてゐるのである。芝居、皮肉、意地悪、戯れ――そんな風にのみとつて、反撥し、忘却し、軽蔑し去つた彼こそが、白々しい哀れな独断家であつたことを、出し抜けに彼は感じさせられなければならぬやうな破目に陥つた。だから彼は、心苦しかつたので、あの時分からの偽はらぬ心持を、或日彼女に告げると、いきなり彼女は腕を延して、彼の頬ツぺたを、厭といふほどひつぱたいた。
「ひとを※[#「りっしんべん+滿のつくり」、U+6172、263-14]したんだな、畜生! 何と云やあがつた。その口で! その口で!」
「乱暴は困るな――実際僕は、そんなことを誓つたやうな覚えはないんだがな。」
「嘘つき! 堕落書生……あゝ、妾はお前に今日といふ今日まで※[#「りっしんべん+滿のつくり」、U+6172、263-16]されてゐたのかと思ふと、口惜しい/\!」
 彼女は、そんなに叫びながら、恰も冷酷な情夫を罵しるかのやうに激しく、彼に飛びかゝつて、息もつかせず、二つの拳で力一杯男の胸板を大鼓のやうに叩いた。
 ……はつきりと断つて置くが、彼等は接吻をさへ交したこともない仲なのである。恋心をもつては、手を握つたことも、肩をすれ寄せたことも、一切、そんな静かな、嬉しい記憶もある筈がなかつた。そして、彼は、仮りにもそんな衝動を感じて、息苦しく胸に秘め終せた――といふ記憶もなかつた。
 あの頃は、あんな風で(今も大して変りはないのだが――)真面目に思はれるやうなY子の態度を彼は見たこともなかつたし、此方が当り前のことを当り前に話してゐてさへ、やれ気取つた顔をして気障つぽい――の、野暮臭くつて片腹痛い――の、などゝ嘲笑するし、その位彼だつて怖れることもなかつたが、此方も我を通して多少でも真剣な顔を続けて論理をすゝめやうとでもすれば何んな人身攻撃的な嘲笑をもかまはず、満座の中で恥をかゝせやうとしたりするので、煩いから彼は相手にしなかつたまでゞある。彼は、独りでハーモニカや、ヴアヰオリンを奏でるのを楽しみにしてゐた者だつたが、その音を耳にすると意地悪く彼女は覗きに来て、演奏中の彼の顔つきと云つたら、妙に夢でも見てゐる見たいに細い上眼をつかつたり、酷く勿体さうに唇を歪めたり、それに伴れて小鼻がピクピクと動くところなどゝ来たら、疳癪に触る程可笑しい――そんなにも無礼なことを臆面もなく放言するのに辟易して彼は、残念の極みであつたが好きな楽器の趣味をも棄てさせられた位ひであつた。
「妾はね、何ういふわけだか、お師匠さんの処へなんか行つてもね、きちんと向ふ前に坐つて、いざお稽古が始まらうといふ途端になると、文句なしに、そんな風に真面目くさつてゐる格構が可笑しいやうな、擽つたいやうな……で、凝つとしてゐられなくなつて――」彼女は、自分の無芸をそんな風に弁明したことがある。
「それがね、妾のは何も年頃の娘が、何でもかんでも可笑しがるといふあれとは何だか違ふやうに思はれて……」
「馬鹿の癖に不真面目なんだよ。」と彼が苦り切つて一蹴すると、不図彼女は、珍らしくも打ち沈んでしまつたことがあつた。
 斯んな風であつたから、泊り客などが多くて屡々彼女と二人りの部屋にやすむやうなこともあつたが彼は、全く、意を用ひては手を触れ合つたためしもないのである。――田代君が、或時、真に迫つた顔をして妾の手を握らうとしたので妾は思はずその場で噴き出してしまつた――とか、満員電車の中で、斯んなことをする奴がある――とか、などゝいふことを彼女は寝に就いてからも話したりするのであつたが、彼はもう飽々してゐたから聞いてもゐなかつた。――もう少したつと喜三公の奴があんたが、此処に寝てゐることも知らないで、忍び足で覗きに来るから、シンとしてゐて来たらいきなり二人でワツとおどかしてやらうぢやないか
「あの、廊下トンビに眼を廻させてやらうぢやないか!」
 そんなことを云つて独りで、さも/\可笑しさうにゲラ/\笑つてゐたかと思ふと、いつの間にか彼女はぐつすりと寝込んでしまふのだつた、そして、翌朝になつて残念がつてゐた。
 口でこそは、淫らがましいことを遠慮なしに喋舌るのであつたが(あんな風で、近寄る者も出来なかつたのか)事実の上では別段に何の不行跡な振舞ひもなかつたらしい。――勿論彼だつて、怪しからん野心などを持つたことはないのであるが、親達も彼女の行跡については絶対に信用してゐるらしく、仮りにも若者である彼を一つ部屋に寝ませて疑念さへ抱かなかつた。
 稀に彼と一処に映画などを見に行つて、接吻の場面などに出遇ふと、彼女は心底から苦々しさうに横を向いて、
「妾、活動も好いけれと、あれが大嫌ひよ。尤もらしい顔をしてあんなことをするのを見ると妾は、とても済して見ちやゐられない、馬鹿臭くつて/\!」などゝ真に堪らなく退屈さうに舌を鳴すのであつた。娘のつゝましやかで、そんな光景を眼にするのを恥らふのでも嫌ひがるのでもなく、彼女のは、人間の無気や恍惚などゝいふ状態を、黙過するに忍びない因果な性癖に依るらしかつた。


「何と云つた、/\! 嘘つき!」
 ……だが、彼女は矢庭に斯んなに叫んで、無気になつて彼に飛びかゝつたのである。彼は、真に愕然として色を変へずには居られなかつた。真実を込めて云つたのならば、何年前のことであらうとも、彼は忘れる質ではない。よし「戯れ」の問に答へたのであらうとも、口にしたのならば思ひ出せる筈である。
「よくも人を※[#「りっしんべん+滿のつくり」、U+6172、266-6]したな、口惜しい! ……憎らしい、そらつかひだ!」
「…………」
「さあ、もう一遍云つて見ろ!」
 彼にとつては、実に意外な夢である。彼女は、恋人に求めるかの如く、真剣に掻きくどくのである。
(大変な我儘女だ!)と彼は、胸のうちで呟いた。そして彼は、地震後の彼女の家庭のことや彼女の面白くなかつたらしい結婚のことなどを思ひ合せて、可愛相に、この女はヒステリイにでもなつたのかしら? と思つた。が、彼には何うしても彼女がそんな病ひにとりつかれるやうな質ではないことが好く解つてゐるのだ。――口先で云ふことを信じないといふ風な彼女は、いつか無言のうちに約してゐるといふやうなことについては深い確信を持つてゐて、裏切られると、その時こそは火になつて怒るのである……斯う解釈すると彼にも合点が入つた。すると彼は、彼女について、あの頃、この頃などとやゝともすれば区別でも仕様とする自分こそ、何と見解の浅い者であつたか! と思はれる、吾ながら卑俗の眼が益々後悔されて来るのであつた。
 あの頃、あゝいふ彼女を、あんな眼で見てゐた自分が、返つて独り好がりの邪者よこしまもので、彼女こそ常に変らない筍である! ――さう云ふ思ひに一層彼は陥つた。
「何を、妙な顔をしてゐるのよ!」
「…………」
「それが、あんたのほんたうの心なの?」
 彼女は、一息いれて坐り直すと、まざまざと彼の顔を睨みながら、静かに開き直つて、返答の次第では何をするかも解らないぞ……と云はんばかりな剣幕で詰め寄せた。
 ふざけてゐらあ、子供ぢやあるまいし――と云はんばかりに彼は、女の姿を見直したのでもあつたが、そして、あまりな無内容に情けなくなりながら、尚も、興奮に眼を怒らせてゐる彼女の様子を眺めてゐるうちに、若し、これが真実に深い仲の自分の情人であつたら何うだらう? などといふ途方もない想ひに耽つた。
 それにしても、一刻前の一撃で一たまりもなく度胆を抜かれてゐたところだつたので、憎態なことを呟きながらも、一方では怖ろしく胸が震えてならなかつた。すつかり本来の自分を見失つてゐるかのやうだつた。
 ………………
(情人だつたら何うだらう?)
 彼は、決して女にうらまれた経験がなかつた。この頃電灯会社に務めてゐる知人に誘はれて幾度か遊里に赴いたことがあるが、その男は妻や子もありながら其処にも美しい情人があつて、女が来ると大概の場合つまらぬことから口争ひが始まつて、終ひには、他人目ひとめもはゞからず大立廻りを演じたのを彼は見たことがあるがその時彼は必らず秘かな羨望を感じたものであつた。そして女は今、Y子が叫んだやうなことを云つて男を罵つた。そして自分といふ伴れがあるにも関はらず、女を相手に争ひなどをしてゐる相手が大変頼りない者に見えたりした。
「おい、喧嘩はもうお止しよ。」彼が、見兼ねて、仲裁すると、あの男は、
「ぢや御免よ、あやまるよ、ヘイヘイ、この通り。」などゝ、眼に涙を溜めてゐる女に謝まつた。
「憎らしい、覚えていらつしやい。」女も斯んなことを云つて許してしまつた。そして、二人とも親密になつて、盃のやりとりなどをした。そして、男が歌をうたつた。彼は、その歌を酷く快く聞いてから、すご/\と吾家わがやに戻つたのである。すると細君が、彼を汚らはしい者のやうに爪弾いた。細君が、故もない嫉妬をした。彼は、嫉妬されるに価しない自分の置場に迷つた。
 不図そんなことを思つて彼が、キヨトンとした眼の先でY子が、
「返事が出来ないのか?」と叫んだ。彼女の眼には涙が溜つてゐた。
「ぢや御免よ、あやまるよ――」と彼は、思はず口走つた。すると、する/\と口が滑つた。「御免/\、一寸、斯うYさんをからかつて見たんだよ。だつて、さうぢやないか、今日に限つてまた馬鹿に君は今更らしいやうなことばかり云ふんで、僕は、さつきから何となく背中がムズがゆくつて堪らなかつたんだぜ、何うしたつて云ふのさ、Yさんらしくもない――あんまり、ワザとらしいことを云ふのは止めてお呉れなねえ。」
「何あんだ、そんなことだつたのか。」と彼女は、がつくりと力を落して、初々しく額をあからめた。「だけど妾、妾と違つてあんたは、あんたが口で云ふことは何時も思ひのまゝのことをきつぱりと云ふ人だといふことを思ひ込んでゐるので、あんな風に空とぼけられると思はずカツとしてしまふのよ。御免ね。これあ、どうもすつかり妾のお株を奪はれてしまつたかたちね……」
 彼女の心持――そして、嘗て彼も約したといふこと(彼女の態度があんな風なので彼は冗談として忘れ果てゝゐるのだが、)は、今の彼には、いや以前だつてさうだつたのに違ひない――、手短かに言葉で云ひ現すならば、
(一生涯、心持の上だけでは離れ難い恋人同志で暮さう。)
(妾は妾で良人を持つたつて、この心は決して変らない。これは良人に対しても別段後ろ暗いことではないし――)
(僕も――)
(他人に疑られたつて仕方がないけれど、妾達の間にさへ厭らしいことさへなければ好いのだ。それでこそ、何時までもサツパリした仲で、仲善く暮せるといふものだ。)
(プラトニツク、ラヴ!)
(言葉がなくて、心持の上だけで好く解り合つてゐるといふ人程有り難いものはない、妾達がそれなのだ、これは恋だか何だか解らない、が、もつと大切なことだ。何時、何処で思ひ出しても爽々しく、そして力強い。)
 さう云ふやうな、ひとりでに醸された約束なのだといふのであるが、彼には、全く有りがた迷惑だつた。Y子のやうな女がそんな理想を抱き続けてゐたのかと思ふと、余りに不調和で、うつかり神妙に点頭いたりしたならば、また何んな冷かしを蒙らないものでもない位ひに思はれた。
 然し種々思ひ合せて見ると彼女には、そんな寂しさがあるのだ――といふことが次第に彼にも深く点頭けた。
「でも、そんなことを話し合つたことがあるかしら!」
「もう、怒らないから大丈夫よ。どうよ、そんな風に相手をからかつたりするのは仲々面白かあなくつて! 何となく胸が透くでせう、この仇は屹度とつてやるから覚えてゐらつしやい。」酷く好い気嫌になつて彼女は、独りではしやぎ出した。面白いどころか彼は妙に不安でならなかつた。
 蓮葉な女、無芸な不真面目な女、出鱈目な饒舌家――そんな風にばかり思つて軽蔑してゐたが、今に初めてよくよく注意して見ると稀に健やかな情熱に、内に、ほのかな陰影をふくめた屈托のない花のやうに、明るく、果敢なく、はてしもなく咽び入つてゐるかのやうに思はれた。――彼は、やゝともすれば角張つた感想を洩すのであつたが、いつの間にか彼女に新しい魅力を感じ始めてゐる自分に気づいた。そして、それが、おそらくプラトニツクなものとは反対な胸苦しい痴情であるのを知つて、秘かに胸を悩めた。手の裏を反した如く彼女に対して美しい幻影を惜まなかつたが、何うも、それがその場限りの愛慾に依つて醸し出された不貞な好奇心が口吟む、薄情な口笛と思へるばかりであつた。
 娘時代の千代紙細工のやうな姿から次第に離れて、分別を持つた、身に就いたおしやれを事としてゐる凡ての好みが、漸く自身の人柄に沁み透つたかのうにしつくりとして来て、彼は、事毎に、無言の彼女の姿を眺める時に、ふつと、己れが主になつて好ましい美妓を侍らし、得も云へぬ爽々しい陶酔を購ふてゐるかのやうな涼しさに打たれる事があつた。それが、全く無芸な妓であるなどは思ひも及ばなかつた。――凝つと耳を澄すと、何処からともなく香気の朗らかな風韻がかほつて、思はず、ふらふらと三昧の境に吸はれて前後不覚になりさうだつた。
「あんた今日は、何れ位ひお金を持つてゐるの。一寸ガマ口を見せて御覧な。」などと彼女が、兄弟同志の親しみと同じな、いつもの隔てなさを示したりしても、彼は忽ちだらしのない伊達者になつてゐるかのやうな夢に駆られた。……「まあ、たつたこれつぽつちしか持つてゐないの、好くも図々しくこれで東京くんだりまで出かけられて来たものね。これぢや、何処へも出かけられやしないぢやないか、二人でなんか……」
 斯んなことを云はれると彼は、不気嫌になられては大変だ……と思つて、その瞬間までは考へても居なかつたのに、突差の気転を働かせて、
「それあそうさ、明日になつて、牛込の叔父さんの処へ行く約束があるんだよ。叔父さんから受取る金があるんだよ。」などと巧みに女におもねつた。そんな話などは夢にもなかつたが、それ位ひのことを云はないと自分の男らしい価値が忽ち吹き飛んで、頼み甲斐なき虫のやうなものになつて、嫌はれてしまひさうな怖れを覚えた。――彼は、嘗て、想像で描き、再読して、恥で、火になり、堕落を覚えたといふ旧作中の主人公を、いつの間にか今は身を持つて体験してゐる怖ろしい廻り合せに戦きながらも、恋しい女の為なら、恥も外聞もなく、ピエロにでも、ラスカルにでも豹変するを辞さない! といふやうな思ひがした。――「いくら僕だつて、それつぽちの金を持つて東京へなんぞ出かけて来るものかね、冗談ぢやない。」
「いくら位ひ貰へるの?」
「行つて見ないことには解らないが……さうだな?」と彼は、仔細らしく眼を挙げたが、不図吾に返ると、これはうつかり飛んでもないことを喋舌つてしまつた! と気附いて、思はず竦然として首垂れてしまつた。
「考へ込まなくたつて好いわよ、いくらだつて好いわよ。ぢや、明日の都合でさ、芝居へ行くのは止めて、着物を買はない、妾が見たててあげるわ。」
「着物は御免だ。」と彼は、思はず頓興な声で叫んだ。縦令何んな場合でも彼は、そんな気になつたことはなかつたが、Y子の好みの着物などいふものを考へると、思つたゞけでも身の毛がよだつたのであつた。
「だつてさ、あんたは碌な着物一枚無いらしいぢやないのよ。幾才いくつだと思ふのさ! 着物と云へば絣ばかしで、袴なんぞはきこんで――妾が、それぢや一処に歩くのも厭だ! と云つたら、今度は、そんな洋服一点張りで、尚更厭だわ、妾その変にでこりんとしたヅボンを見ると、虫唾が走るわ――」
 彼女が厭がつたばかりでなく彼は、一切和服嫌ひで、吾家に在つても細君共々に斯の姿で、夏になれば主に野天生活に等しかつたのである。
「だつて僕は帯の締め方も知らないよ。」彼はそんな話を紛らせたかつた。
「好いわよ、妾が締めてあげるから……」
「窮屈だらうな……」などと彼は呟いたが、彼女にそんな親切をされる光景ありさまを思ふと、忽ち無分別な感覚派エピキユリアンになつた。
「妾、ほんとうにそんな身装みなりの人とは何処へ出かけるのも厭なのよ。」
「何うしたら好いだらうな。あゝ、困つた! 困つた!」
 斯んなやうな話を交してゐても彼の心は、先へ先へと、途方もない妄想に駆られて、波立つてはうろたへ、醒めたかと思へば忽ち酔ひ痴れ、目眩めまぐるしく浮きつ沈みつしてゐるばかりで、うつゝの言葉などは何でも関はなかつた。――彼は、そして、決して思ひのとげられない痴想に翻弄されてゐると、馬鹿/\しく悲しくなり、眼の先にたゝずんでゐる女の姿が、全くの人形に変つて、自分は、この偶像に切ない恋を捧げてゐる変質者であるかのやうな嘆きを覚えた。そして「ホフマン物語」のことや、「ピグマリオンの恋」などが思ひ起されたが、案外斯んな切実な慾望が源になつて、人の永遠の憧れ! とか、健全なプレトン愛などゝいふものが、海原のやうな巽を拡げ始めるのかも知れない――と想像して、辛うじて陰気な変質感を打ち払つた。
 彼は東京へ出かけて来ると、この頃は、下町から四谷に移つてゐるY子の家に寄宿するのが常だつた。彼は、内容が絶無であるにも関はらず彼女の家を訪れる時には、恋人がゐる遊里へでも駆け込むかのやうに花々しく胸が躍り過ぎたから、要もないのに細君に対してY子を秘せずには居られなかつた。
 父親が没くなると一処に破産をして、彼女の老母は他家よその縫物などをしてゐる位ひであつたが、Y子は相変らずしめつぽい話には頓着なく、たゞ昔と幾分変つたかたちで自由に羽根を伸してゐるまでゞあつた。それが、彼が見たあんなけば/\しい空気の中にゐた頃と違つて、仔細な光りを放つて(彼に発見させて)嘗て彼が抱いた反感や、不安や、孤独エゴ感等を拭ひ去り、楚々たる明快な川瀬に達したかのやうな安らかさを覚えさせるのであつた。
 母親は、彼女が留守だと、寂しくて/\片時たりとも凝つとしては居られないのださうだつた。
「だからさ、妾は、身売りをするわけにも行かないのさ、ね、母さん、さうでせう。」
「あんなことを云つてゐる!」と老母は縫物をしながら微笑むのであつた。「東京のうちならわたしも一処に伴れて行かれるから、何にでもなるなんて云つてゐるくせに――」
「あゝ、それあ東京のうちなら関はないけれど、嫁入りであらうと、親が何うであらうと妾はもう都おちだけはこりこりしたわ、痩せちやふからね。」
「東京だつて、これぢや痩せやしない?」
「母さんは、それだから馬鹿だといふのよ、変ね――東京でさへあれば好いのよ、妾は――店などがなくなつて清々してゐるわ、母さんだつてまるつきりの東京育ちのくせに、厭に浅間しく愚痴つぽいのね。」
 そして彼女が続けたことを聞くと、自分は相変らず「変な享楽は、頼まれても御免だわ。」といふのであつた。彼の如く、なりふりも関はず、懐ろ具合もたしかめずに、それ、散歩へ行かう! 活動写真が好きだ! カフエーだ! 涯から涯まで円タクを飛す! 等は悉く反趣味で、三日飯を食はないでゐても吾家に引き籠つてゐた方が「面白い」のださうだつた。以前から彼女は、汽車に乗ることすらが大変な騒ぎで、彼の田舎は二時間位ひで行かれる海辺の町であつたが彼が学生時分に一度訪れて来たゞけである。それも、お供を伴れたり、仰々しい土産を携えたりして、彼の近隣の人々が門先に立つて見物した程の花々しい姿で繰り込んだのである。吾家ではあんなに凄じい饒舌家であるにも関はらず、その時だつて、田舎空気には半日も落ついては居られずに妙に遠慮深くそわ/\として愴慌さうくわうと引きあげてしまつたものである。――彼は、そんなスタイリストは望ましくなかつたが、彼女の非難も亦当然であるとは思へた。そして一ト時の如く逆に軽蔑などする気にはなれなかつた、相手がY子である限りは――。
「空気なんて幾ら好くつたつて仕様がないぢやないのよ。変梃な帽子なんぞかむつて、海岸散歩! だなんて、妾は若し肺病になつたつて、転地なんて御免だわね。」Y子は斯んなことをうそぶいた。――夜になればダンスで、相手の見境ひもなく打ちはしやいだり、暑くなれば水着一つで終日海につかつて真ツ黒な彼の女房やその友達などに彼は、いつも仲間であつたが、斯うしてY子に接して見ると、自分達の方ばかりがおそらく殺風景の極みに思はれた。
 Y子は、彼にあんな野望が潜んでゐることなどは露程も知らなかつたから、昔なぢみのまゝに無遠慮に、彼の眼の先きで肌脱ぎになつて化粧をしたり、一寸首筋を叩いて呉れと云つて牡丹刷毛を渡したり、一つの蚊帳にやすんで、彼女の別れた良人が何んなに「厭な奴」であつたかといふことを吹聴したり、今は母との二人暮しで女中も居ないので、湯殿の中から呼んで、水を持つて来て呉れ! などゝ彼の手をわづらはしたりされる毎に、彼は細君の何んな美しい友達を相手に踊つた時にも、脇腹を抱いて泳がせてやる時にも、決して覚えのない――繊細な圧迫と悩ましい夢に誘はれるのであつた。「つい此間人伝に話があつたのだけれど、一層思ひ切つて××さんの世話になることに仕様かしら! どうも、結婚といふのは妾には変に白々しくつて、妙に真面目沁みてゐて、馬鹿なことだけれど、とてもテレ臭くつて堪らない。」斯んなことをY子が云ひ出すと彼は、酷く不安な想ひに駆られた。
「何うだらう、そんな考へ方は堕落だなんて思ひやしない……だけどよ、境遇が何うつて云ふんぢやなしに、ほんとうに妾は、娘の時からそんな風に――」
「止してお呉れよ。」と彼はうなつた。それがY子の真実の心だと知つてゐればゐるだけ彼は、他合もなく逆上した。そして、口先きでは堅苦しく正義派めいた言葉をはき出した。「僕は嫌ひだ、そんな話は! 馬鹿だな、一度の結婚が失敗したからといつて、忽ちそんな悟りを開くなんて――」
「いゝえ/\、さうぢやないのよ。」と彼女は慌てゝ説明しやうとしたが、それは彼には充分忖度出来るが、益々、道理ではなしに、刹那的の嫉妬感で、
「断然駄目だよ――大変な心得違ひといふものだ。」と、さへぎつた。口や態度では解らなかつたが思ひの他に彼女には、だらしのない親思ひの了見があつて、如何にも冗談めかしくは云ふものゝ、何時そんな大それた計画を決行しないとも解らなかつた。娘の時分から、芸者になりたい! などゝいふことを口にしてゐた愚か者のことだから、浮きたてば、何んな命知らずの井戸へでも飛び込み兼ねないのである。あの結婚だつて(彼女の母親が死ぬ程の幻滅を感じた。)彼女は殆どくうの思ひで伴れ去られたやうなものではないか! そんな風な彼女は、自ら求めることがなくて単に公然の条約の下でさへあれば、全く遊女の如き無貞操観念に支配されてゐるのであつた。
「さうかなあ! 矢つ張り、そんな考へは駄目かね?」彼の言葉が余り断然としてゐた為か、彼女は珍らしく神妙に思ひ返した。
「大間違ひさ! 第二夫人を志願するなんて、悪いことだ。」
「ぢや、もう一度結婚を仕様かな。その方の話なら、二つばかりあるんだけれど――」
「…………」
 前の調子で進めば当然彼は、欣然としなければならない筈なのにも関はらず、思はずウツ! と喉が塞つた。彼女が再び結婚してしまつたら、何んな寂しさが来るかも知れない――などゝ、早くもそんな未練が胸へ込みあげてゐたのである。前の調子で、此処でも、断然駄目だよ――と云へたならば何んなに愉快なことだらう……などゝ彼は飽くまでも自分勝手な愚痴に低迷した。
「何を変な顔をしてゐるのよ。薄つ気味の悪い人だわね。――それが嫌ひさあ、あんたは、直ぐにかしこまつたやうな顔をして、さも/\親切なことでも考へてゐる見たいに、上眼を使つたりして……何よツ! 柄でもないわよ。……そんなことは心配して呉れなくつても大丈夫だわよ。何時、結婚したつて好いわよ。結婚でさへあれば好いんでせう、妾にとつちや何方だつて同じなんだから、ホツホツホ! ぢや、あんたの御親切を有りがたく頂戴して、そのうちに、盛大な結婚式を挙げるから――冗談でなしに、今のうちからお祝物の為に貯金でもしてゐてお呉れな。」
 ――そんな話に、悩まされたこともあつたが彼は、何となく忘れてしまつて、話さへしなければ、そんなことは全く対岸のことで、そして独りで考へれば、早くY子も結婚して呉れないと困る? と思はれるだけだつた。あの時、牛込の叔父さん――では、とんだ失敗をしたが、翌日ほんたうに訪れて見ると、好いあんばいに留守で、一寸厭な苦笑を覚えたゞけで、烏耶無耶になつてしまつた。
 だが、或晩彼は、また結婚の話で、さんざんに悩まされた。――話は、彼の知らぬ間に「見合ひ」にまですゝんでゐた。
「盛大な結婚式?」
「いゝえ、あれは冗談よ。それとも、あんたがもつと沢山に費用を負担して呉れるんなら兎も角。――でも、此方のことは好く解つてゐるんだから、若し決つたにしても形だけで好いのさ。」
 彼は、母と娘に頼まれて近いうちに彼としては莫大な金策を試みなければならなかつた。だが、そんなせはしさこそは、それこそ変質的とも云ふべき惨めな執心で、奇妙に快い頼まれ甲斐を感じた。
「見合ひといふことを、あんたは経験があつて!」
「全くないよ。」
「ぢや、結婚の時は……」
「何となく前から顔だけは知つてゐたんだもの――」
「それあ好かつたわね。」と彼女は、少しも疑念をさしはさまなかつた。つまり彼も、彼女と同じやうに結婚などゝいふことに就いては、単に形ちだけのこと以外には関心を持つてゐないことを信じてゐるかのやうであつた。左う思つて見れば彼も、妻に対して何となく淡白な隔りを感じもしたが、Y子の如く相手の配偶者を度外視するわけには行かなかつた。
「だけど、まさか母さんと妾と二人で出かけるわけにも行かないでせう。この頃吾家では親類とは一切行き来をしてゐないし……」
 だから彼に同伴者になつて呉れ、といふのであつた。「あんたが適当だと思へば、それで妾は決めてしまふわよ。」
「それは迷惑だな。」
「いゝえ、たゞ、あんたが見て、その感想だけ臆面なく云つて呉れゝば好いわよ――それだけのことで――」
「劇場――で、なんだね。一処になつて、お茶でも呑むのかしら?」
「そんなことは、間に立つた人が、その時の都合で、いろんな風に手配りをするでせうさ、両方の顔色を見て――だからさ、妾には何んな顔色も出来ないわよ。そこで、あんたは、何うツてことを、眼つきで妾に知らせて貰ひたいのよ。」
「眼つきで!」
「まあ、これで好かつた。日どりのことだつてあんたが来るのを待つてゐて決めたのよ。手紙で知らさうかしらとも思つたけれど、そんなことをして逃げられたら大変だ……と母さんが心配したので、其処にぽつくりあんたはやつて来たわけさ、決して逃げられないわよ。」彼女は、一人決めに片づけてしまつて、斯んな話は、もう止さう! と云つた。
 彼は、神経的な悪労わるづかれに浸されて何うしても眠れなかつた。酔つてもゐないのに(彼はY子の家では殆ど酒盃を執らなかつた。Y子は彼が飲酒家になつてゐるのを知らなかつた。)酒の悪酔で寝そびれた時のやうな虚無感に悶々としながら、雨戸の隙間から洩れる明るさが眼ぶしい金色に輝き出した迄、唸つてゐたが、間もなく、
「もう、十時よ、起きたら何う!」とY子にゆすられて眼を醒した時には、あたりは悉く開け放されて爽々しい微風が、梅雨あけの夏空に光つてゐた。
 彼は、無性に眠かつた。吾知らず眼を閉ぢると、忽ちうと/\と眠れるのであつた。
「昨夜だつて、あんなに好く眠つてゐて、妾が何を話しても碌々返事もしなかつたぢやないの――それで未だ眠いの。妾は、もう髪結ひにも行つて来てしまつたのよ。――お風呂が涌いてゐるから、先へ入つて頂戴よ。……あゝ、焦れツたい、鼾をかいてゐら!」
 Y子は力まかせに板の間をドンと蹴つた。
「…………」
 彼は、火花に打たれて眼を醒した。稍不気嫌であるらしい仏頂顔で縁側の籐椅子に腰をかけてゐるY子の姿は、凝ツと、青葉の間から斑らに射す長雨の後の麗らかな朝陽を浴びて、恰度油絵のやうに収つてゐた。
「困るわよ、何時までも寝てゐられては! 何時もとは違ふのよ、今日は――」
「もう十分で好いから眠らせてお呉れよ。」
「駄目/\! はぐわよ!」
 彼は夢中で飛び起きたが、たしか一時間も眠つてはゐない! おまけに二三日前まで烈しい徹夜を続けて創作に耽つてゐた後の、夥しい睡眠不足が一途に発して、立ちあがつたものゝ、こんにやくのやうに疲れてゐて、まるで力の容れ処もなかつた。
 彼は、風呂から出て、Y子の仕度が出来るのを待つ間も、新聞を読む振りをして、腕を組み、胡坐をして、居眠りをした。
 出かける時間が迫るに伴れてY子は、次第に苛々として、当り散らした。
「御飯を食べないつて! ぢや勝手にしなさいよ。後で何んなにおなかゞ空いたつて、知らないわよ。」
「何となく胸が一杯で、到底食べられさうもないよ。」
「何云つてんだい! もう一辺、冷い水で顔を洗つて来なさいよ。そんな、ぼんやりした顔ぢや見つともないわ。」
「外へ出れば、なほるよ――さあ、僕も支度を仕様か――」と彼は、厭々の旅行をする人が、いよいよ時間が迫つて思ひ切つたかのやうに、勢ひをつけて立ちあがつた。そして壁にかけてある洋服に彼が、飛びつかうとすると、
「そんなものを着て行かれて堪るものぢやないわよ。この間の約束で、ちやんと着物が出来てゐるわよ、母さんがお手のもので縫つたのよ。」
 そこを御覧! と云はれるまゝに彼が、隅の乱れ籠を眺めると、凡そ彼には似つかないであらう、彼の眼に依ると、「酷く粋な」上等らしい夏の衣裳が一とそろひ、気恥しさのあまり真つ赤になつた彼を待つてゐた。
「白足袋だけは許して呉れないかな。僕はこれだけは一生涯――」
「何を愚図/\云つてんのさ――さつさとお穿きつたらね。」
「こんな扇子も持つのかい?」彼は、何んな暑い時でもこれまで扇子といふものを一度も携えた験しがなかつた。且つ、そんなもので自分の顔を煽いだりするのは、考へたゞけでも厭だつた。
「煽がないだつて好いのよ、何か手に持つてゐなければ格構がつかないわよ、煙草ばかりプカ/\ふかされてゐるのも困るからね。」
「おやつ! これは僕の帽子かしら?」
 いつも手当り次第に山をつかんで凸凹に定めのない彼のソフトが、今日は悉く型を改められて、整然と看板のそれのやうに真中から尤もらしく折られてゐた。彼は、いつも耳にすれ/\まで深く、稍アミダに被る癖だつた。だらしがないと云つて屡々周囲の者に嫌はれたが、紳士風に浅く前のめりに軽く被つて見ると、今時、烏帽子でも被つてゐるかのやうな浮ついた、妙な気分になつて決して堪えられないのである。きんちやく頭で、そして小柄であることなどが彼に、そんな被り方を遠ざけしめてゐるのでもあつた。
「そのまゝ被つて行つて頂戴ね、今日だけは、ちやんと――」
「……」彼は答へる力もなかつた。一途に熱つぽくカーツとしてゐるばかりで、肚も立たなかつた。子供の時分に、外国に居た父親が気候の変り目時には彼方の着物や帽子を送つて寄すのだが、そんなものをつけて行くと誰も遊び相手になつて呉れないので厭がつたが母親が無理に着せさせるので、子供ながらも終ひには厭世的になつたことさへあつたが、それに似たやうな憂鬱が込みあげて来るのであつた。
「あゝ、焦れつたいな。――さあ、妾が手伝ふから、さつさとお着換へよ。」
 シヤツなんぞ着てゐては駄目だ――などゝY子は手荒く彼を引き寄せた。
「他人の帯つて締め憎いものだわね。」彼女は不慣れな手つきで二三度もやり直すのであつた。
「えゝツ、そんなに、ぐら/\してゐちや駄目ぢやないのよ酔つ弘ひぢやあるまいし。」
 疳癪を起した締め手が、帯の端をやり直しで強く引つ張ると彼はグルグルツと堂々回りをして、目が廻つた。気のせいか彼女の腕には、思ひの他の力があつて、グツと引き寄せられると彼は案山子のやうに彼女の胸に倒れかゝりさうになつたりした。彼女は斯うしなければ返つて締め憎いと云つて、彼を抱きかゝえて後ろに腕を廻して、厭といふ程きつく結びあげた。
「下へ降しては駄目よ、何う、そんなら体がキチンと引き締つたでせう。」
 彼の細い肚は引きちぎれるやうに細くくびれてしまつた。
「これぢや、僕は歩くことも出来ないよ、苦しくつて――」
「何て、まあ行儀の悪い人でせうね。それより下に締めたら下品になつて見られないわよ。我慢おしなね……」
 彼は目舞ひがして、やつと腰窓のところへ行つて、打つ伏した。Y子は、鏡台の前に坐つて最後の身づくろひに専念だつた。
「まさか居眠りぢやないでせうね。ほんとうに妾、心細くなつてしまふわ!」
 彼は、それは気の毒だ! と気づいたので、発止と元気を取り直すや、
「大丈夫だよ。やつと今眼が醒めた。僕の癖の目醒めの悪いことは好く知つてゐるぢやないかね、醒めさへすれば元気づくことだつて! 昨夜殆ど眠れなかつたので酷くだらしがなくて悪かつたけれど、もう平気になつた。今日の責任は屹度立派に果すから安心してゐるが好いよ。」と、自信を持つて云ひ放つた。
「あゝ、暑い/\、水でも呑んで来よう。」
 彼は、Y子がはさんで呉れた帯の間の扇子を引きぬいて、珍らしさうにハタハタと煽ぎながら勝手もとの方へ歩いて行つた。開け放された窓に向つて光つてゐるY子の鏡の面には、夏の真昼らしい碧空のむくむくとした積乱雲にゆうどうぐもの峰が鮮やかに映つてゐた。
(昭和三年七月)





底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新進傑作小説集12 瀧井孝作集 牧野信一集」平凡社
   1929(昭和4)年12月15日
初出:「文藝春秋 第六巻第九号」文藝春秋社
   1928(昭和3)年9月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2011年5月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「りっしんべん+滿のつくり」、U+6172    263-14、263-16、266-6


●図書カード