「シン! シン!」
夢の中で彼は、さう自分の名前を呼ばれてゐるのに気づいたが、と同時にギュツと頬ツぺたをつねりあげられたので、思はずぎよツとして眼を見開いた。――Fが酷い仏頂面をして彼を睨んでゐた。彼は、縁側の椅子に凭れてうたゝ寝をしてゐたのだ。
「失礼だ!」とFは叫んだ。「私はもう横浜へ帰る/\。」
「Fはあまり短気すぎるよ。」
彼は、一寸具合が悪かつたので、云ひたくもない独言を放つて、椅子から身を起した。そして彼は、酷く六ヶ敷気な渋面をつくつて、自分だけのことを考へてゐるんだといふ風に、晴れた空を見あげた。五月の薄ら甘い朝の陽が、爽やかな感触で、さつき剃刀をあてたばかしの彼の頬にヒリヒリと、光るやうに沁みた。
「お前は若い梟だ。――お前は頭が鈍いから説明してやるが、私は愚といふ言葉の代りに梟を用ひたのだよ。」
さう云つたFは、余程疳癪を起してゐたと見えて、二つの拳を胸の前で「馬鹿ツ!」と叫ぶ変りに、力を込めて打ち振つた。
「説明をするとは大変な侮辱だ。」と彼は、さもさも自分は物解りの好い男だといふやうな不平顔を示した。だが、まつたく彼は、説明なしに「お前は若い梟だ。」と云はれたならば、これを或る種の讚美と誤解したに違ひなかつた。
「私はお前に侮辱を捧げたのだよ。お前は軽くて上品な洒落の解らぬ哀れなジャップだ。」
「僕は洒落をもつて他人を嘲笑するやうな不正直は大嫌ひだ。」
彼は向ツ腹をたてゝ斯う怒鳴つた。
「お前の父のH・タキノはお前に比べると何れ位ゐ交際が上手だか知れないよ。」
「無論僕は交際上手ぢやないよ。まして僕はお前の国の習慣なんて一つも知らないよ。」
「私と交際し始めて、もう二年になる。いくら梟だつて二年も実地練習をすればいくらか解りさうなものだ。」
「此方のことだつて解りさうなものだ。」
「解つてゐるさ、お前は怠惰で、そしておべつかつかひだらう。」
「おべつかつかひだツて! それは僕を讚めた言葉なのか?」
正面でばかし、斯んなに無神経で饒舌のヤンキー娘に物を云つてゐるのは馬鹿々々しくなつたので彼は、こゝで気持を転換させて、狡猾に笑ひ返した。Fも、到頭噴き出して了つた。
「だが――」彼は、もう一息圧へて置いてやらうと思つて、真顔になつて「だが、僕はFが想像してゐるやうに、決して柔順なFのピエロオぢやないよ。」と云つた。
「もういゝ/\。」Fは、唇の端で軽く笑つて、彼の肩を叩いた。
Fは、彼の家の珍客だつた。彼の父が米国に居た時Fの父とは学校からの友達だつた。Fの父が横浜に店をもつてゐたので、二年も前からFは日本に来てゐた。前から彼は、Fと知り合ひだつたが、外国人に対して非常に臆病な彼は、つい近頃までFと親しめなかつた。――Fが彼の家を訪れたのは、これが初めてだつた。もう一週間近く滞在してゐた。
そんなお客が来るんなら私達は逃げ出さう――家の中で牛肉を煮ることすら決して許さない彼の祖母は仏壇に錠を下して、彼の母を促して温泉へ行つてしまつた。彼の父は、忙しくて殆ど家を空けてゐた頃だつた。
彼の家は、草葺家根の古い家だつた。長押には煤のかゝつた黒い槍が懸つてゐた。寝る時には電灯を消して、昔ながらの塗のはげた行灯を用ひてゐた。その家の中が、Fの来訪以来奇妙な白さを醸した。――それでも彼が勉強机にセセッション型のテーブルと椅子を用ひてゐたので、それを座敷の真中に持ち出してクロースを懸けて、食卓に代へ、Fは彼などの名も知らない西洋花を買つて来ては毎朝取り換へて、飾つたりした。父は建具屋に頼んで、涼み台のやうなベッドを拵へさせたり、自分が外国に居た時用ひた色のさめた羽根蒲団を持ち出したり、便所の腰掛をつくつたり、座敷の隅に洗面台を据ゑたり、床の間の懸物を鏡と取り換へたり、風呂場に錠を付けたり、台所には怪し気なオーブンを据ゑて、Fが伴れて来たアマさんが不平さうな顔で料理を拵へたりしてゐた。――それでも、どうやらFの起居に堪へられるだけの設備を整へたが、まるで家の中は奇術の舞台のやうになつてしまつた。
「ほんとに僕は、眠くて堪へられないんだ。許してくれ、一時間でいゝから眠らせて呉れないか? Fと一緒に朝飯を食べるといふことは僕に取つては何よりもの努力なんだよ。」
彼は、さう云ふと頭をかゝへて再びどかりと椅子に落ち込んだ。――前の晩の夜更し、あの馬鹿々々しい騒ぎ……そのことを夢のやうに思ひ出して、彼は酷い冷汗を覚えた。
……昼間になつて、いか程白々しく鹿爪らしい顔をしてゐたつて、夜になればあんなにも他愛なく酔ツ払つて、あんな騒ぎを演じるんぢや、これはどうもFに軽蔑されるのも無理はない……彼は、後悔の念に駆られながら密かに呟いた。「俺のやうな柄の男が、第一西洋の娘と交際するのが間違つてゐるんだ。だが今更そんなことを考へたつて始まらない、兎も角もつとテキパキと、ニッカボッカの如く晴れやかに振舞つてFの度胆を抜いてやらなくては口惜しいぞ……」
「シン、シン、シン! 眠つちや駄目だよ。」
Fは、けたゝましく脚を踏み鳴した。
「一時間の猶予を与へて呉れと頼んでゐるぢやないか。」
「厭だ/\。――あゝ、私、キュウカンボが食べたくなつたから、庭へ降りて剪つて来てお呉れな。」
彼は、よくは知らないが、また失礼だなどゝ云はれるのも厭な気がして、異人流を重んじてやるつもりで、厭々ながら花鋏を取つて、小さな裏の畑から胡瓜を剪つて来た。
Fはナフキンで、ぞんざいに胡瓜を拭ふとその儘、白い歯をむき出して
「お前もお食べな。」
Fは、さう云つて二本ばかりの胡瓜を彼に差し出した。彼は、相手にしなかつた。
「こんなに輝いた朝だから、これから海辺へ行つて見やうか、ランチをつくつて貰つて。」
「厭だ。」と彼は物憂げに答へた。知つた人にでも会ふと気恥しい、とも思つたのだ。
「お前は、ほんとうの梟だね。夜にならないとその眼を大きく開かない。」
「あゝ、早くフアヽザアが帰つてくれば好いな。」
「シンにはお友達は一人もないの?
「此方には一人もなくて寂しいんだ。だからFが来てゐると幸福なんだ。」と彼は云つて独り擽ぐつたく思つた。これ位ゐのお世辞を振りまかないとFには通じぬらしい。彼が、思ひ切つた誇張の言葉を用ひても、彼女は極めて自然にそれを享けた。その落着きと云はうか無神経と云はうか――それには彼も圧倒されたが、また別に呑気で面白かつた。思ふさまの歯の浮く科白をペラペラと云つてのけ得る相手として、彼は一寸面白くもあつた。
「尤も東京へ帰ると友達は沢山あるよ。」と彼は、安価な虚栄心から出鱈目を附け足した。
「ぢやお前は、もう東京へ帰りたくなつたらう?」
「あゝ、帰りたくなつたね。」と云つて彼はにやにやと賤しい笑ひを浮べた。そんな因循な反語的態度を知らない快活で正直なFは、
「おゝ、それは困つた!」と鮮かに眉を顰めた。「課業の方は自由なの?」
「ボートレースの準備で、当分休講だ。」
「お前はレースには出ないの?」
「出ない。」
「お前は運動は不得意なの?」Fは一寸嶮しい眼付をして、彼の返答を待つた。不得意には違ひなかつたが、不得意だと正直に答へてしまふのが、彼は具合が悪かつた。常々彼はFの趣味におもねつて、いかにも自分は運動好きの快活な若者であるといふ風に見せかけてゐたから――。
「僕は、思索が得意なんだ。」と彼は苦し紛れに答へた。Fは少しも可笑しがらずに、
「ぢやお前は詩人なの?」と訊ねた。
「……」彼は思はず、顔をあかくして口ごもつた。
「Fは詩人が好き?」彼は、急に蚊のやうに細い声で怖る/\呟いた。
「私は、アラン・ポーとウォルズヲルスと、ジョン・キーツとそしてバイロンの詩は好きだ。」と躊躇なく云ひ放つた。何々と何々との詩は、――と「は」で断定し切つたFの度胸で、彼の心は一撃の許に震へてしまつた。そして内心Fの博学に舌を巻いた。……此方の無学を
「お前は誰が好き?」
「僕は日本の白秋・北原は好きだ。」
「お前自身は詩は作らないの?」
「嘗て、一度も……」
「そして今後は?」
「多分駄目だらう。」
「お前は、たつた今思索が得意だと云つたが、それは主に哲学的思索なの?」
「……」彼は、空腹に酒を
「Fは哲学者の本も読んでるの?」と訊くことで返答に代へた。
「私は哲学者は一人も知らない。」
彼は、吻ツと胸を撫で下した。「僕は大体系統的には読んでゐる。僕には近代のものよりもどうもグリークのクラシックの方が面白い。」
こゝで多少の智識でもあれば得々と弁じたてようと思つたのだが、生憎彼はそれ以上云ふことは無かつた。
「でも僕はそれらの哲学者を研究しようなんて少しも思はない。」
「お前の思索の得意ツて、一体何よ?」
「形はない。」厭に言葉にこだはりやアがつてうるさい女だ――と彼は思つた。此奴、案外俺の腹の空ツぽを知つてゐて、遠廻しに嘲笑してゐるのかな……そんな邪推を廻らせたりした。そんならそれで、此方にも了見があるぞ――彼は、薄ら眠い頭の隅に、出たらめな力を忍ばせたりした。そして彼は、一寸Fの顔を見あげた。彼の椅子の肘掛に半分腰掛けてゐるFは、微笑を湛へながら庭を眺めてゐた。その白い顔には、まともに陽が射してゐる為か、頤から頬へかけての輪廓が、水蜜桃のそれのやうにふはりと滲んで見えた。
「お前の思索なんて怪しいものだ。」とFは云つて、彼の顔を見下した。畜生奴! やつぱり俺が想像した通りだつたんだ――彼はさう気附くと、たつた今忍ばせた力は突然何処かへ吹き飛んでしまつて、わけもない気恥しい気持ばかりがグツと喉に詰つた。そして彼は、Fの青く澄んだ眼を、思はず見あげた瞬間には、極めて女々しい涙が胸中に拡つて行く、奇妙な恍惚感に打たれた。
――――――
「また眠らうとする!」
Fは、鋭く彼の肩を握つた。
「あゝ、俺は白痴だ。」そんなことを彼は呟いた。
「それで、お前の学校のボートレースは
「未だそんな話か!」彼は太い溜息を洩した。そして彼は如何にも面倒臭さうに顔を顰めて「スミダ川、スミダ川。」と云つたきり、憤ツとして面をそむけた。
「お前は普段スポーツが好きだと云つてゐるが、そんならお前は何のチャンピオンなの? 私のやうに馬には乗れないし、テニスは私の不熱心な弟子だし、ビリヤードは二十だし、思索は悉く妄想で、おまけに無学で……」
何とでも云へ/\――彼は、眼をつむつてゐた。
「私の友達に紹介したくも、余りに行儀が悪く、婦人の前ではお茶も飲ませられない。……それにピクニックはおろか、公園の散歩すら不得意!」
「水泳なら相当のチャンピオンだ。」彼は、口惜しさのあまり斯う叫んだ。これなら大丈夫だ――と彼は思つた。うつかり他のことを云ふと、試される怖れがあるが、水泳なら今は五月のことだし、どんな法螺を吹いても失敗するおそれはない――咄嗟の間に、もう頭がすつかりぼんやりしてゐた為か、これもうつかり彼は叫んだのだつた。
「おゝ!」
Fは
「二哩だ!」と彼は夢中で答へた。実際の彼は一町も完全には泳げなかつた。
「私は幸福だつた。」とFは云つた。「今年の夏は私の鎌倉の別荘に是非来てお呉れ。そして私の水泳の教師になつておくれ。」
彼の胸は、異様な戦きを醸した。――「よしツ!」と彼は下腹に力を込めて決心した。……夏休みになつたら、直ぐさま何処か遠方の水泳場へ出掛けて、万事を擲つて専心泳ぎを練習するぞ、一ト月で上達するだらう、そして……そして――彼は様々な幻を描いて、馬鹿気た興奮をした。「よしツ、俺も男だ。」そんなことを胸で呟いたりした。
「お前に、そんな技量があるとは私は夢にも知らなかつた。」
Fはさう云ふと、平手で軽やかに彼の頬をはたはたと叩いた。……彼の興奮は次第に、涙ぐましく溶けて、その甘さはいつか情けなさに変つて行つた。
「夏になつたら山の温泉にでも行つてしまはうかな――」ふと、彼はそんなことを思つた。
Fは、お午のテーブルを手伝ふのだと云つて台所へ走つて行つた。――彼は、椅子から離れず凝と庭を眺めてゐたが、間もなくうとうとと快い仮睡に迷ひ込んだ。
「お午の仕度が出来た。早く済まして、海辺へ遊びに行かう。」さういふFの声に気づいた彼は、今度は極めて機嫌よく、
「あゝ、行かう。」と答へて、勢ひよく立あがつた。その彼は、立ちあがると、さつきFが残して行つた一本の胡瓜を、何気なく取りあげると、見るからに当然らしくそれをコリコリと噛みながら、悠々と茶の間へ入つて行つた。
Fが横浜へ帰つた翌日から、彼は疲労のあまり病気になつた。――胡瓜を見ると、むしづが走つた。
(十三年五月)