たゞぼんやりと――自分は安倍さんの顔を瞶めた、必ずや自分の顔も安倍さんと同じやうに蒼然と変つてゐたに違ひない――大正十年三月五日午後二時十分――ちよつと自分はテーブルを離れて、どこだつたか歩いてゐた、さうしてテーブルのところへ帰らうとして、ストーブの前へ来た時、向方から慌しく駆けて来た安倍さんが、
「アツ……君々、大井君が死んだとさ……」
「えツ?」まさか、そんなことはあるまい、――と自分は思つた。
「青山へ電話をかけて、直ぐに行かう……」
「では山口さんに」と呟きながら自分は山口さんを探しに行つた。何だか、嘘のやうな気がしてならない、さうしてこの驚きを山口さんに知らして――さうしてまた山口さんの驚きの顔を見ることが堪えられないやうな気がした。
漸く


「……山口さん、山口さん、アノ……大井さんが……」と自分は漸く伝へることが出来た。それを云つて了つて自分はこれは大変なことになつた、といふ気持が初めてピツタリと感ぜられて来た。
それから先のことは自分は書くことも堪へられないのである。――逗子には安倍さんが行くことになつた。――自分達は怖ろしい夜の中で、未だ望みを持ちながら切りに待つた。笑ひ顔の大井さんより他想像出来ぬ自分は、笑ひ顔の大井さんを想ひながら――。
「ヤア、心配かけて済まなかツた。」と云つて帰つた時、自分は何と云はうかしら――自分はそんなことだけを考へてゐた。
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今自分は名状し得ぬ寂しい気持で、このペンを握つてゐる。さうして何にも書けないのである。自分の隣りに並んで居るテーブルと椅子……埃りが溜つてゐる。インキ壺、硯箱、ペン……「お前達は孤児になつたな。」……自分は今凝と其の方を眺めてゐる……。
(三月十八日午後)