(四月――日)
また、眼を醒すと夕方だ。とゞけてある弁当籠を開いてウヰスキーを二三杯飲むと、はつきり眼が醒る。鰯には手が出ない。セロリを噛む。
手紙を書くので明方までかゝつてしまつた、春の晩、灯の下で手紙を書く――これは、いくつになつても余の胸を和やかにさせる、春になると君は手紙を寄す人だ……などゝ云はれたことがある。
(次の日)
眼を醒すと、また夕暮時だ。
机の上に鉛筆の走り書きで、妻の言伝が乗つてゐる。その一節「今Bさん達がお見えになつたので此処に案内して来たのですが、どうしてもあなたは起きません。」
Bの走り書の一節「フクロ!」
Bの妹さんの走り書き「諒闇中だから雪洞はともさないんですつて、夜、来たつて駄目よ、もうそろ/\散りかゝるわ!」
B――「だが、この儘そつと帰つてやらう、夜来るかも知れない。」
Bの妹さん――「あたしは、さよならよ。」
妻――「あまり勉強すると毒よ。」
(その次の日)
Bに起される。
「銀座へ行かないか、これから――」
「東京の?」と余は訊ね返した、「いくら急行何とかゞあると云つたつて、厭に東京を近くしたがりアがるな。」
「ぢや、止さう。ぢや撞球屋へ行かないか。」
「何年にもキユーをさはつたこともない。」
「俺のうちへ行かないか。」
「これから?」
「何時だらう?」
「俺は時計を持つてゐない。」
「俺も――」とBも云つた。
見て来るとBは云つて外へ出て行つた。小一時間もかゝつて漸く彼は戻つて来た。「おい、冗談ぢやない、もう一時過ぎだぜ、どこもかもみんな寝てゐる――停車場の近くまで行つてやつとこれを探して来た。」
Bは、ふところからアスペルの鑵とカマボコを取り出した。
「おい、そこら辺に紙の皿があつたな、あれを出さないか。」
「弁当籠にいれて返してしまつた。」
……「何だか、あたりが直ぐに静かになつたやうだつたが、して見ると俺がやつて来た時刻も早いわけぢやなかつたんだな。」
「さうかも知れないね……眠くなつたか。」
「朝まで話して行くよ。」
「俺になるぞ、あしたから……」
「関はない、――験べかけてゐるものがあるんだが、それを此処へ持つて来ても好いか。」
「君さへ好かつたら……」
「学生時分とさつぱり変らないことになつてしまふね、試験勉強気分だね。」
余は、悲しさうに頬笑みながらBの前にあるウヰスキー・グラスを指差した。するとBも、頬笑んだかと思ふと、この時まで息も切らずに喋舌つてゐたのを、稍暫し眼を伏せたが、突然わけもない声を張りあげながら、盃を執り、余のそれにプロージツトして――そして余等は見事に盃を干した。
(次の夜)
妻が、今夜は久保田さんのラジオがあるからといふことを告げに来た。暫く振りで妻の方へ行つて晩飯を食べようといふことになつてBと出掛ける。
Bの妹さんも居た、余の母もゐた、Bと、余とそして余の妻と、みんなでラジオを聴く。Bは、久保田万太郎の好き読者である。声を聴くのは初めてだと云ふ。
「ほう! 彼は、三十九かね、もう!」などとBは呟く。
「あたし、もう先からそれ位ゐの齢の人かと思つてゐたわ。」とBの妹。
「馬鹿! 手前えなんぞに何が解る……」Bは、熱心に聴いてゐた。
ラヂオのお花見だ。Bは、ボートの選手をやつたことがある。
Bもヨロ/\、余も怪しき脚どりで、眠くなりかけたらしい彼女等をそこのバラツクに残して、二人で去る。提灯をさげる。肩を組んで田甫道を帰る。――「薄紫きのアーク灯!」「ガスとボンボリ鶴の群――」「石油エンジンコト/\と」「タイワン館のシイナの子――だ。」「シヨンボリ立つた後ろから馬鹿バヤシ――か?」
一句一句が切れ/″\にしか口に出ない、闇雲にところどころ思ひ出す白秋の「ルナパーク」をBは、ひとりであらん限りの声で叫んだ。
「かうして俺は、ころがし廻る、この樽を、デイオゲネス聖者のやうに、この樽を、真面目かと思ふと冗談で、冗談かと思ふと生真面目で、あれからこれへ、これからあれへ、あてがあるやうで、あてがなく……」とBは歌つた。
「何の歌だ、それは?」
「デイオゲネス先生の樽のやうに――」
「もう直ぐだよ、あまり大声は止せよ。出たらめはもう止さうよ。」と余はBを支えた。
「憎しみからと思へば
「おい、変な即興歌は御免だよ。」
「俺の歌ぢやないよ、それはヨハンの――」
「ヨハン?」
「さうだ。文句はちつたあ違つてゐるかも知れないが、これはヨハンの歌だ、ヨハンが作つた歌なんだ、ヨハン・オルフガング・ゲイテの……」
(次の日)
また夕暮時に――。
(その次の日)
また――。
あまり勉強すると毒ですよ――と、また妻が書いて行つた。鉛筆で、紙の皿の隅に。