僕の運動

牧野信一




 僕は田舎にゐると毎朝毎夕欠かすことなく不思議に勇壮な運動を試みます。運動には相違ありませんが僕のは体育や精神修養やの目的ではなくて、あしたは竜巻になつて襲ふて来る煙りに似た悲しみと闘ひ、夕べは得体の知れぬ火に似た情熱に追はれて奮戦し――といふ風な孤独の騒ぎで、だから僕は馬に乗る、オートバイで駆け廻る、フエンシングの練習をしてゐる、棒高飛びをする、機械体操を試みる、大酒を喰ふ、舟を漕ぐ、夫婦喧嘩をする、美女を追ひ廻す、水泳を行ふ……等と種々様々な活動をしますが、以上挙げたもののうちの幾つかは別としても、僕のは決してノルマルな型をもつて技に従ふといふのではなくて、自分では解りませんが、おそらくその姿のだらしなく、醜く、若し眺める者があれば噴飯の値もなく忽ち顔を反むけるに違ひないのです。「最後の一句を元気よく合唱して呉れ給へよ。」と云ひながらアウエルバツハの酒場で不良学生が「毒を呑んだ鼠」の歌を唄ふところが僕の不断に愛読する「フアウスト」の中にあつて、鼠が「苦痛に堪へ兼ねここかしこ、掻き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)りては噛み囓り、悶え悶えて跳ね狂ひ、甲斐なく萎れて倒れしは、恋に焦れて悶ふるやうに――。
 合唱――恋に焦れて悶ふるやうに……」
「息も切れ切れ絶え絶えに、炉のほとりにまろび伏す……恋に焦れて悶ふるやうに、(合唱)恋に焦れて悶ふるやうに――」
 何とか何とかを「知らずに食べて七転八倒、恋に焦れて悶ふるやうに、(合唱)恋に焦れて悶ふるやうに……」――で、僕の運動は、まさしく、この歌でうたひはやされるべき類ひのものなのです。その上僕は、この歌をいつの間にかそらんじてしまつて(この如く、僕は今東京の友達の家の二階に滞在して、友達の机に凭つてこれを書いてゐるのですが、何とまあ節朗らかに、こいつを口吟みながら――)僕は、稍ともすれば口のうちで恰も覚へたての流行歌のやうに口吟むのが癖になつてしまひました。節は、その時その時に依つて変り、知る限りの唱歌、寮歌の節で口吟みます。
 で、僕の運動の話をつけ加へますが、僕は昨年の春あたりから「フエンシング」に興味をもつて、人知れず朝な夕な軽い剣を打ち振つてゐます。が、あんな訳で僕は相手はおろか人の前では断じて行はぬのです。閉め切つた書斎か、或ひは裏山の森深く忍び入つて、空気を相手に花々しい活躍を試みるのであります。いつの間にか僕は、僕流の型を自得して、勇敢な「フラツペ」で、吾と吾が胸を守つたり、鮮やかな「ヴオレイ」で、敵を参らせ、口笛を吹きながら「モツケ」してやつたり――そして、威気昇天の想ひを駆せて胸をひろげ、歌をうたひます。が、何とまあ忽ちウラ悲しくなることには僕の歌は「恋に焦れて……」の他より口に出ないのであります。
 僕は、この僕のフエンシングに就いての幾つかの息苦しいエピソードを誌すつもりでペンを執りましたが、気づくと既に規定の紙数に達したので、反つて吻ツとして、空を眺めました。然し、んな出たら目な格構でも、あんな運動を試みてゐると健康に益するところが多いと見へて、斯うしてもう二旬あまり田舎を離れ、剣を棄てて、斯んな日を送つてゐると、切りにあの薄暗い花々しい森のことが忍ばれてなりません。都の酒が僕に不適当なのか、運動が不足のせゐか、少量の前夜の酒が胸先に支へてゐて、大変苦しいのであります。僕は左の手の平で胸板を撫でたり、「ゲツ、ゲツ、ああ苦しい!」と呟いたり、水をガブガブと呑んだり、「猛烈な運動を試みなければ堪らない。スバル社までこれを駆け足で持つて行かうか、何処かで貸オートバイを探さうか。」と呟いたりしながら、この稿を終りペンを剣に擬したまゝ、窓先に向つて、気の毒気な身構へをしたりしました。そして、僕の口吟む「合唱」が、何といふわけもなく節をとらずに重々しく科白のやうに唸られたのが、遇然に階下の女房の耳に入り、外出しようとする僕の袂をとらへて「あなたは東京に来て以来何だかソワソワしてゐて妙だ。まるで、恋にでも焦れてゐるやうだ。若しも私の気嫌を害ふようなことを外でしたのが解つたら――」と云つて屹ツと睨みつけました。
 大変に不体裁な文章を書いてしまつたことをおゆるし下さい。
(四月九日午)





底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷
底本の親本:「スバル 第二巻第五号(五月号)」太白社
   1930(昭和5)年5月1日発行
初出:「スバル 第二巻第五号(五月号)」太白社
   1930(昭和5)年5月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年7月14日作成
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