驚いた話

牧野信一




 去年の冬であつた。私は非常に憂鬱であつた。身も世もなく憂鬱であつた。真夜中に至るに伴れて私のそれは私の魂をも奪つた。私は、何うする事も出来なくなつて、床の間に人型を作つて飾つてある鎧を身につけ、面当を被り、冑も執つて、真夜中の床の間に幾時間も凝つと模型になつてゐることがあつた。そして吾身の、此世に在ることを、せめても忘れたかつた。――
 その夜も私は灯火を消して、框に掛けた鎧の中に凝つとこの身を閉ぢ込んで、怖ろしい無念無想に沈湎してゐた。
 何時の間にか私は、街道に迷ひ出てゐた。静かな闇の夜であつた。冑が、深く鼻まで覆ふほどで、闇夜でなくとも、私の眼の先は殆んど真ツ暗であつた。私は、面あての口腔から外を見れば見る――それほど、それは私の身に不釣合であつたので、一層私は殆んど目を瞑つて、よたよたと歩いてゐた。たしかにこの方法は、頑固な私の憂鬱を想外のものとすべき奇妙な効果があつた。
 不図私は、私の身近かに、
「ギヤアーツ!」といふ、おそらく嘗て地上では聞いた験しのない物凄い叫声に打たれた。同時に私も爆弾のやうに仰天して、
「ギヤアーツ!」(?)といふ悲鳴を挙げた――私は、何うして自分の部屋にとつて返したか覚えはなかつた。
(私は、斯んな突飛な驚きを経験したことはない。)
 翌晩私は、素面の夜は決して堪へられぬので、泥酔すべき覚悟をきめて村境ひの居酒屋に出向くと、酒場の隅で次のやうな話に花が咲いてゐた。(その一節。)
「仁王門を抜けて行くと、あの銀杏の傍らに、ぬうツと烏天狗が立つてゐるんだ。よく/\見とゞけてやらうと思つて、近寄ると、ふつと、もう姿は消えてゐたといふことだが――」
「まさか、烏天狗ぢやあるまい。誰かの悪戯に違ひないさ。」
「あの人が此処を出たのが一時頃だつたから、恰度丑満時だらう。今夜も出るかも知れないから、皆なで正体を見とゞけに行かうではないか。」
 そして私もその一行と(誰も一人では帰りたがらなかつたので、)帰路を共にして仁王門を通り過ぎたが、鎮守の森にさしかゝると一同は水に浸つたかの如く寂としてしまひ、森を出ると誰かゞ「ワツ!」と叫ぶや、てんでに蜘蛛の子を散らすやうに飛び散つてしまつた。無論私も先頭に――。
 その時云ひそびれたので、後になつて私は、あの晩の自分のことを説明したのだが、何故か誰もそれを信じなかつた。そして夜になると仁王門の傍らを独りで通るのを皆な嫌がつた――私も――。





底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文學時代 第三巻第二号(二月号)」新潮社
   1931(昭和6)年2月1日発行
初出:「文學時代 第三巻第二号(二月号)」新潮社
   1931(昭和6)年2月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
2016年5月9日修正
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