「三田文学」と巌谷夫人

牧野信一




 これに出てゐる「十二時」といふ小説は、姉のだよと十郎が僕の机の上にあつた「三田文学」を指さしたので、僕はおどろいてそれをとりあげ、早速その場でその小説を読みはぢめたときのことを僕は今でもはつきりと思ひ出せるのだ。僕らが二十歳になつた頃であるから凡そもう二十年に達しようとするむかしのことだが。「十二時」といふ好短篇は、お午の十二時の食卓を囲んで健やかな大勢のきようだいが談笑にふけつてゐるさまを至極さわやかな筆致で淡々と描いたスケツチ風のもので人物の名前なども在りのまゝに「善九郎さん」「十郎さん」といふようになつてゐて、僕はその時あらためて眼の前にゐる十郎の顔とその文章を見くらべて水々しいろうまん的な夢をさそはれたことを今でも憶ひ出せるのだ。その文章の詳しいところはそれよりほかにはおぼえてゐないのであるが、徹頭徹尾平凡であるといふわけではなしに読む者に、たゞさういふ類ひの感じを与へるといふ文章といふものゝ方が、むしろ斯んな突調子もない人物が現れて、こんな事件がおこり、深刻であつたといふ風なものより、僕は好きであり、そしてその「十二時」といふ作品がなつかしいものであつたことを、今でも想ひ回らせるのである。

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 それまでに、僕はたま子夫人にお目にかゝつたことが、あつたのか何うか、その時も僕は知らなかつたが、僕がそれよりも、もつともつとちいさくサーベルなどをさして威張つてゐた時分から、母がしばしば、たまちやん、たまちやん――とうわさして、たまちやんといふ母の若い友達が稀な秀才であるといふ印象は持つてゐた。そして夫人が、未だ夫人ではなくて、お茶の水の学生であつたことを、知つてゐたようであつた。むかしの新橋の停車場で母が、ひとりの女学生と手をとりあつてさかんにはなしてゐて――それから銀座を散歩をしたか、母には他にはそのやうな若い友達がなかつたらしかつたから、その学生がひよつとするとたま子夫人だつたのかも知れない。だが、その時の僕にははつきりとした印象はなかつたので、小説に出遇つても夫人の姿を想像することはできなかつた。

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 で、その後間もなく十郎が慶應の理財科の学生であつた善九郎さんたちとともども夫人の家に移り、僕はしばしば訪れたのであるが、小説などを書く夫人がゐるのかとおもふと何だかひどくおつかないやうな気がして、二階の十郎の部屋でゞも、どうかすると朝から晩まで、そして引つゞいて夜ふけまでも喋舌つてゐるのだが――是非とも同人雑誌をやらうぢやないかとか、プランタンに凄え美人が現れたぞとか――極く極く低い声であつた。
 やがて同人雑誌の議が可決されて、四五人の同人もあつまり「象徴」といふ題などもきまつて先づ「創作朗読会」なるものが催されることになつた。麹町、元園町――十郎の部屋にあつまることになつたのだが、行つて見ると、何かの都合で階下となつて、それが夫人の部屋のとなりだつた。
 十郎は評論が志望だつたが、折あしく原稿が間に合はず他の同人は何うであつたか稍記憶が怪しいのだが、何うしても僕が先づ最初に朗読しなければならぬ仕儀に立ち至つてしまつたのであつた。
「はやく読めよ。」
 と十郎は、はや稍むつとして宣告するのであつた。彼は、非常に気むづかしいたちで、僕は年ぢうおこられてばかりゐた。彼からきいたのであるが、「十二時」といふのは永井荷風に読んで貰つたのださうだつたが、僕は荷風が嫌ひであつた――が、それはともかく僕は夫人に聞えやしないか? とおもふと、額には冷い汗が滲み、胸は正しく気たゝましい半鐘であつた。誰か読手はあるだらう、そしたら俺はごまかしてしまはうといふ位ひのつもりで、また僕はむしろ幹事側なのだから大丈夫だらうとおもつて、原稿なども持参しなかつたのであつたが、運悪く十郎に閲読を乞ふために前々から預けてあつた「愚かな朝の話」と題する一篇があり、これは好いよ、これを読めよと十郎が云ふのであつた。僕は、があんとしてしまつたが、観念して、愚かな朝の話――或る朝彼は寝ころんで、ちいさな窓からあをくきれいに晴れてゐる空を見あげてゐた……と、震へながら読みはぢめたのであつた。

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 それはさうと僕は今、こんな恥を書くつもりではなかつたのだが、それから間もなく僕は、巌谷氏(小波氏の令弟冬生氏)と、その、たま子夫人に文才を認められて、冬生氏の紹介で時事新報社の少年文学部へ入社した。
 さて、たま子夫人の印象を誌したいのであるが、今日は止むなく簡略にしておくのであるが、夫人が秀才であるといふことや、小説を書いたといふことで僕が漠然としたおそれを抱いてゐた変な堅苦しさは少しも感ぜられず、いつも、あの「十二時」から享けたとほりの稀なる和やかさと、夢のやうな滋味をもつて最もなつかしく、最もシリアスに、稍ともすれば架空的な感想を吐いたり、悩みの相談に出かけたりする青年のとりとめもない愚かさを、夫君と共々に何んなにいたはつて下すつたことか。お宅にそのころ静坐会といふものが開かれて、僕も時々それに加はつたが、普段でも僕はいつもきちんとして、恰度島崎藤村先生のお宅へうかゞつた時のやうに端坐してゐるのであつたが、一体に大へんに行儀のわるい僕が、さうしたポーズで半日も一日も楽々としてゐられたといふことは、ひとへに夫人のひろいこゝろと夢の影響であつたに違ひないと今もそのまゝの感謝の念を持してゐる次第である。
 夫人はその後宗教的に傾かれたゝめか、小説はその一篇しか現れぬのであるが、いつも僕は「三田文学」を手にするたびにきつとあの「十二時」をおもひ出すのである。十郎さんも僕もすつかりおとなになつてしまつたが、あの「十二時」をおもひ出すのである、金釦の僕がやはりその小説の中の人物のやうに、ぼんやりと明るく、爽やかな巌谷氏の十二時のかずかずが幻となつて浮び出すのである。あした天気が好かつたら、十二時ごろに突然巌谷家を訪れて御無沙汰を詫びて来よう。





底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「三田文學 第八巻第六号(六月号)」三田文學会
   1933(昭和8)年6月1日発行
初出:「三田文學 第八巻第六号(六月号)」三田文學会
   1933(昭和8)年6月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月15日作成
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