その村を憶ひて

牧野信一




怒田村のこと


 鬼涙きなだ寄生木やどりぎ夜見よみ、五郎丸、鬼柳きりう深堀しんぼり怒田ぬた、竜巻、惣領そうれう、赤松、金棒、鍋川――足柄の奥地に、昔ながらのさゝやかな巣を営んでゐるそれらの村々を私は渡り歩いて、昆虫採集に没頭してゐた。私の、いろいろな短篇小説の中に屡々現れるいくつかの村の名前は、あれは悉く現実の名前なのか? といふ意味の質問を、先夜シエーキスピアの会の帰りに宇野浩二氏から享けた。
「夜見、鬼涙、五郎丸、鬼柳、竜巻?」
 と宇野氏は数えられた。
 私は何故か、稍暫し返答に迷つた後に、
「鬼涙と竜巻とを除いた他は、凡て在りのまゝの名前です。」
 と、ぼんやりしてゐた。
「では、その二つの村の名前は?」
「創作……」
 私は極く低声に呟くのであつた。といふのは今では私は、その二つの名前が自分だけの命名であつたことすら忘れてしまつてゐたのであつた。自分の夢の中には、まるでその二つの村が、そのまゝの名前をもつてこの世に存在することになつてしまつてゐるのだが、気づいて見れば、それは赤松と怒田の二つが在りのまゝの原名だつたのである。それ故私の夢の竜巻と鬼涙は、名前を別にすれば、歴然とこの世に存在する小さな、そして奇妙な村である。――不思議な村である。
 怒田――そんな村が何処にあるのか私達は見当もつかなかつたが、此名前は幼年の時代に稍ともすれば聞かされたものだ。
「そんな顔をする者は怒田へ行くが好い。」
 私は憤りつぽい少年で、つまらぬことに直ぐと肚を立てゝ、ふくれ顔を保つのが悪い癖だつたのだ。で、私がそんな顔をしてゐると祖父や祖母が、屹度左ういふのであつた。
「此度源さんが薪をつけて来た帰りに、源さんの馬に乗つて怒田へ伴れてつて貰ふが好からうよ。」
 怒田といふところから薪を運んで来る源さんといふ人は、仁王のやうな大男で、いつもつとしてゐるやうな不気嫌さうな赤銅色の大きな顔で相手が何か話しかけても碌な返事もせず反方そつぽの空ばかり向いてゐるのだ。それでも更に相手が話しかけてゆくと、さもさも迷惑さうに「おいら、そんなことは知んねえだよ。」と突つ放すだけだつた。見るからに人間嫌ひであるかのやうであつた。然し口や態度は左うであるが、人情は至極親切であるとのことであつたが、如何にも彼の挙動から親切さなどを想像するのは困難であつた。でも、彼が薪を降ろし終へるのを待つて、私が彼の馬の脊に飛び乗ると、何時間でも彼は小屋の前に突ツ立つたまゝ空などを眺めてゐて、私から先に馬に飽きて乗り棄るまでは、素知らぬ顔を保つてゐた。
 然し親切であるなしは別にして、怒田村の人々は源さんに限らず、誰も彼もが皆な明けても暮ても怒つた顔ばかりで、先祖代々、子々孫々までも、憤つとして、誰とも口を利きたがらぬといふのであつた。それは何ういふ地勢と風土が彼等を左様なさしめたものか――。
 ともかく気嫌の好い顔つきや愛嬌に富んだ態度を目出たしとのみ望んだ私の祖父母や、そのあたりの人々は、人の仏頂面を見るにつけ「怒田へ行つたら好からうよ。」と、遠い霞の彼方へ見へもしない足柄上の奥の方を指差すのが習慣だつた。

オホムラサキ


 私はこの数年来、あれらの足柄の村々へは幾度も出入してゐたが、今云つた怒田は未踏であつた。私は夜見村の水車小屋の二階に籠居して創作の筆を執り、または赤松村の酒造家の蔵にみこしを据えて赤鬼となり、或ひは鬼柳村の櫟林に屯ろして誘蛾灯を点したりして、謹厳であつた。私は、あの怒田村の昔のはなしなどはすつかり忘れてゐたところが、鬼柳の村長があまりに謹厳気な私の顔つきを評して、声をあげて嗤ひながら不意と、
「まるで怒田の人達のやうだな!」
 と云つたのである。
 私は驚いて、
「その怒田といふのは何方の方角でせうか、私は幼い時分に屡々その名を聞かされましたが、それは比喩的な、空想のところのやうな気がしてゐました。怒田! やはり、この辺にその村は在つて、村の人は、ほんとうにそんな顔ばかりしてゐるのですかね?」
 と、古い記憶の源さんの姿を憶ひ出したのである。
「在るとも/\、怒田村の村長は、わたしの家内の、また従兄にあたる苗字からして村名そのまゝ怒田権五郎といふ人物だ。あの村の人達は全く不思議だね、そろひもそろつて無口で、仏頂面……正しく、君などはあの村の村民たる資格があるぞ。」
 村長が左う云つて私の鼻先に指を差すと、何も私は人間嫌ひのために始終そんな顔つきを保つてゐるわけではなかつたのだが、何やらともなく癪に触る入道雲がむく/\と胸先に込みあげて来て、ツと口唇突らせ、憤つと頬つぺたをふくらませてしまつたのであつた。村長はその私の顔に接すると、更にもう一辺空々しい嗤ひ声を挙げた。
「益々それは適任ぢやわい。怒田の村役場へ赴いたら助役になれるぞ。」
「からかふのは止めて貰ひたいや、おもしろくもない。」
「また従兄の血筋でも争はれぬものか、わたしはうちの家内の笑ひ声といふものを見た験しがないんだよ、何しろあれも怒田の産だからね。」
「奥さんがお笑ひにならぬのは、村長の永年のお道楽が止まぬからでありませう。」
「笑はぬやつの傍に居るのが面白くもないから、道楽が止まぬのだ。」
「いゝえ、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は卵からかへるのさ。」
「馬鹿な、卵が※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)から生れるのぢや、女房が笑はぬのは俺らの所為せいぢやないぞ。」
「どつちが馬鹿だ、道楽にいんねんをつけて他に罪をなするとは言語道断だ。」
「忠告とはおぞましいぞ、青二才奴、怒田へ行け!」
 終ひに村長と私とは、あられもない口論の未、眼眦を裂いて別れたが、今もなほ、あの言葉は斯用に慣用されてゐるのを私は発見して、少なからずあきれたのであつた。
 或日私は櫟林の奥で※(「虫+夾」、第3水準1-91-54)蝶科のオホムラサキを発見した。久しい以前からの憧れの蝶なのであるが、どんなに熱心に探し索めても私はその影だに見出すこともなかつたのである。
 私の全身は緊張の極北で、震えた。私はつなぎ竿をのばして捕虫綱を宙高く構えながら、まるで私を嘲嗤あざわらふかのやうに櫟の稍を高く低く縫ふてゆく一羽の蝶を追ひはじめた。
 赤松から怒田までは山径四里と聞いてゐた。私の蝶の追跡は櫟林を奥へ奥へと登り降つて、谿にも流れにも驚ろかなかつたが、まさか四里もなく一里位には達したらうか。何処を何う走つたかの分別もなく、夢中のうちに私は間もなく、崖から脚を踏滑らせて煙草畑に落ちると、其処が、思はぬ怒田村の地であつた。

水の無い村


 怒田村は、切り立つた櫟林の屏風の山で囲まれた崖下の部落であつた。街道は遥か頭上の山合ひに位して、旅人の眼には脚下の村の存在は断じて見出せなかつた。戸数五十六、人口三百と算へられた。電灯がなく、電信電話の便も知らなかつた。五十の家々は、これまた悉く豪家の構へで、土蔵と厩小屋を持ち、何れの家の蔵にも千両箱の載積が重たげであつた。ところが、こゝは水利の便が極めて悪く、全村を通じて、北側の崖下に流れ出てゐる鉛筆ほどの細さの筧の水が滾れ落ちてゐるのみで、この鉛筆一本の水で三百の民が命を保つ次第であつた。入浴や洗濯は雨天の水を待つのみであつた。畑には、煙草のみが植ゑられ、米は産せず、云ふまでもなく酒の醸造は適はぬわけであるから、酒の味を知る者とてもなく、更に如何ほど自家に産出しようとも煙草の自家製は国法に依つて厳禁されてゐるが故に喫煙者すらも見出せなかつた。彼等は煙草畑の季節以外は、薪を切り出すことを唯一の仕事としてゐたが、古来から斯る処にのみ住み慣れて来てゐたので、凡ての享楽の術も知ることなく、出荷の後に銭を得ても、それはそのまゝ馬の脊につけて土蔵の中へ運び込むばかりであつた。それが何代ともなく時計の針のやうに正確に(時計と云へば、時計の在る家などは一軒もなかつた。)つゞいてゐるのだから、何の家でも自然と多額納税者となつてゐるのは道理だ。尚も営々と子々孫々へつゞくのだから、彼等の土蔵は年毎に金袋の置場を造り足して……終ひには何うなることであらう――と私が心配して、源さんの息子の五十歳の源太兵衛に訊ねると、彼は誰でも左うである通りの仏頂面に、稍悲し気な憂色を浮べて、
「そんなこと知るものけえ!」
 と横を向いてほき出した。
 私は、八十歳に到達してゐる源さんの家で負傷の身を養つてゐた。墜落の時に腰骨に打撲傷を享けたのである。
 源さんは左程の齢に達してゐたが、三十年の昔に私が見た時と別段変り栄えもなく、夜があけるとマサカリを担いで山へ赴き、日が暮れると大きな鼾声で眠るだけだつた。ランプはおろか、宵のひとゝきすら行灯をともす家とても皆無であつた。恰度その頃、灯火管制の演習が関東地方の隅々まで施かれたが、怒田村は古来から永遠へ向つて、灯火管制であるわけだつた。
 朴訥とか、節約とか、そんな言葉で彼等の人情風俗を律する要もない、寧ろ誠に不思議な原始人とも云ふべきであらうが、一体この憤つてばかりゐるやうな逞しい沈黙振りや、断じて笑ひ声ひとつ聞くこともない、奇天烈な彼等の性質の、その起因するところに就いては、居住を共にして見ると自づと点頭かれもするのであつたが、私は、これは優生学上の見地から研究すべき価値がある――と、真暗闇の中で碌々眠ることも適はず、加けに連中の大鼾が天狗でもが乗つて来さうな嵐のやうに鳴り響く中で、呟いたりした。怒田を竜巻村と称び代へてゐたのも、妥当であつたと思つた。実際あれらの鼾は馬とも鬼とも、竜巻の音とも聞きわけ難かつたのだ。
 二週間目に始めて私は杖を突いて戸外へ出た。私にとつてはあんなに稀重けてう至極なオホムラサキが、見るとこの村のあちこちには恰で木蓮の花弁はなびらが風に飛び散る如く、さんさんと舞ひ乱れてゐた。――それは左うと、不図ガマ口の蓋をあけて見ると、崖から転げ落ちた時には五十銭が一つだつたのに、その後に町から見舞金などが二度もとゞき、それが一文も減らずに五十銭玉の何十倍にもなつて溜つてゐた。





底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「都新聞 第一六五四四号〜第一六五四六号」都新聞社
   1933(昭和8)年12月8日〜10日
初出:「都新聞 第一六五四四号〜第一六五四六号」都新聞社
   1933(昭和8)年12月8日〜10日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月15日作成
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