交遊記

牧野信一




 そのころも手帳に日記をつけてゐた。学生時分からの友達は鈴木十郎と柏村次郎だつた。大正九年のころ、時事新報の雑誌部に勤めてゐた。鈴木の義兄にあたる巌谷氏の恩顧だつた。鈴木とは子供の時からの友達で、僕が二年先に早稲田の文科に入り、受験生だつた彼を同じところへすゝめたのである。今でも彼は何うかすると、あの時お前が文科などへすゝめなければ俺は重役くらゐになつてゐるんだぞなどゝ云ふことがある。彼は、しかし、未だ僕が同人雑誌にも小説を書かぬ時分から、どんな片々でもを読まされて、耽念に批評した。自分は殆んど書かなかつたが、批評は非常に厳密で、大概の僕の作品は落第だつた。僕は破いては書きして、稀に辛うじて及第すると興奮した。柏村次郎とは有楽座で天勝のサロメを観てゐたのがはじめであつた。それから教室でも後ろの方にならんだが、僕は横浜の知合のアメリカ人のところでヴアヰオリンに熱中して学校を一年しくじつた。鈴木が未だ受験生のころで、僕は一層学校を止めようと思つたが、柏村と鈴木に忠告されて学校の近所に下宿した。同級には下村千秋や浅原六朗がゐて後に彼等と共に「十三人」といふ同人雑誌に加つた。柏村は長谷川浩三や吉田甲子太郎と「基調」、鈴木は浜野英二や故近衛直麿と「象徴」などを始めた。
「時事」は銀座の亀屋の横で南鍋町だつた。柏村は兵隊に行くので「中央美術社」を辞め、鈴木は学生で、私達は毎日のやうに「パウリスタ」や「プランタン」で落合つた。鈴木は飲まず、柏村と僕はぽつぽつと酒を覚えて長谷川や吉田を誘ひ出した。この二人は何故ともなしに僕を子供扱ひにして、憤らせては、笑つた。同社の文芸部に佐佐木茂索がゐて、僕は柏村から紹介された。僕の部は手持無沙汰の時間が多く、折を見ては文芸部へ出かけて佐佐木と銀座を歩いた、ウーロンやライオンで、久米正雄、広津和郎、田中純――これ等の人々に折々出遇つたが、いつも佐佐木茂索と一緒の時だけで、そのあたりを歩いた記憶もあるが、僕はまだ余程おとなしかつたと見える。「君は好くそんなに黙つて居られるな!」と広津和郎に感心されて「余は大いに赤面せり。」などゝ当時の日記に記してある。或日佐佐木からの電話で、中戸川吉二と新橋の東洋軒にゐるから来ないかと誘はれた。中戸川には短篇を一つ認められてゐたが未だ会つたことはなかつた。その夜三人はあちらこちらとはなし廻つて、遂ひに夜を明した。
 柏村はゲーテの研究でドイツへ留学し、鈴木と僕はつまらぬ誤解から仲違ひとなり僕は社を辞めて田舎へ去つた。地震の後まで三年もそのまゝだつた。その三年の間は、小田原で二度中戸川に、湯河原へ彼を訪ねて一度、熱海に住んでゐた僕を彼が一度、佐佐木に小田原を訪ねられて一度――それより他に誰にも会へなかつたことが、やはり日記で数へられる。急に友達のなくなつた田舎生活を紛らせるために次第に酒との仲が深かつた。国民新聞に載つてゐた中戸川の小説を読んで、折々感想を送り、ベルリンの柏村へ手紙を書いた。彼はワイマールへ移つて美しい恋人を得たことを報じた。地震の直後中戸川からの電報で呼ばれて上京した。彼が主宰で雑誌の発刊が決り、僕は編輯員となり一切の訪問事務を受持つた。水守亀之助を編輯顧問として中戸川から紹介された。牛込にゐた佐佐木の西洋館の一室を無理に借りて、編輯室と定め、僕はそこにひとりで寝泊した。雑誌は半年ばかりで終つたが、故葛西善蔵と久保田万太郎とはその後に交遊がつゞいた。
 阿佐ヶ谷にゐた時柏村次郎の訃に接した。エルナといふドイツ生れの細君が、悲嘆に暮れて泣き、思はず手をとり合つたが普段英語だけではなし、急場の言葉は何も出なかつた。友達の不幸は柏村がはじめてだつた。その前に僕が父に別れた時には未だ彼は外国から戻らず、長い手紙を呉れた。父の時には中戸川も来て呉れ、葛西善蔵が非常に酔つてやはり弔問に訪ねて呉れ、そのまゝ四五日酔潰れて、共々に東京へ引上げた。僕はうちうちの事件の為に益々桁放れの酒飲と化し、善蔵の下宿に妻子共々厄介になつたり、中戸川に迷惑をかけたりした。三年ばかりまた田舎に止るべく余儀なくされ、その間に葛西善蔵の訃に遇つた。昭和五年になつて、また東京へ移つてからは馬海松、井伏鱒二、小林秀雄、河上徹太郎達との新たな交遊が主だつた。酔つては、久保田万太郎を襲つたり、中戸川吉二を憤らせたり、飲みもしない鈴木十郎をおどかしたりするのは益々度重つた。魚籃坂にゐる頃は河上をはじめ中島健蔵、佐藤正彰、三好達治――これらの人達と銀座で夜を更し、寺町の寓居へ引あげた。三好達治が入院したのはその頃で、河上と一二度、故嘉村礒多と一度見舞ひに行つたが、多少の自責を感じた。嘉村は寺町の時折々見え、謹厳な彼が何か心易さを覚えたかのやうに肘を突いて横になりながら長閑なはなしをした光景が、特に彼である故妙にあざやかに憶出される。彼とは余程前葛西善蔵のところで知合つたのだが、訪ね合うたのは此の時分で僕も二三度牛込へ行つた。またそのころ真夜中に門口が破れるやうに叩かれるので、火事かと思つて見ると小林秀雄が酒の壜を振つてもう間もなく明るくなりさうな霞の中に立つてゐた。小林は東京に来ると一つ橋の青山二郎のところから屡々誘つた。隣りが永井龍男だつた。僕は此処で幾度か酔ひつぶれた。永井とも相当あちこちを飲み歩いて、僕は仲々のメフイストフエレスであつたかのやうな気がする。麹町の下宿にゐた頃は夕暮時になるといつも馬海松と伴れ立つて銀座から日本橋へ歩き、グラウスとかリラなどゝいふ酒場で、小林、井伏、中村正常達に出遇つた。馬海松と小林は、僕があちこちと移り住んで、ぼんやりしてゐる時、いつも折々不意と訪れる人で、僕はあまり言葉もなく、肖像画の人物を見るかのやうな印象が不思議とあざやかである。
 酒に負けて僕は、今年のはじめ一二ヶ月のつもりで田舎へ移つたのが半年となり一年となりさうだ。あちこちと移り住んで、ひとりのまゝ音沙汰もせず、今机の傍らには本が三冊、これが最近の交遊と云ふべきか。「月あかり」「テスト氏」詩集「零時零秒」――詩集の著者は喜志邦三、彼とは十五六年も前にシエレイを語つたことがあり、去年、立上秀二を訪ねて兵庫から上京した時、久闊を叙したのだ。――今、鎌倉が近いので、そこまで行けば、久米長老に敬意を表し、菅忠雄、小林、深田久彌達と何時でも飲めると考へてゐる。――大森と五反田と小田原のことを誌す余裕がなくなつた。





底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「新潮 第三十二巻第一号(新年特大号)」新潮社
   1935(昭和10)年1月1日発行
初出:「新潮 第三十二巻第一号(新年特大号)」新潮社
   1935(昭和10)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード