いつまでつゞくか、仮寝の宿――わたしは、そのとき横須賀に置いた家族から離れて湘南電車で二駅離れた海ふちの宿にゐた。東京からあそびに来てゐる若い友達のRと、文学と人生のはなしに耽つてゐると、飛行機の爆音が、屋根裏にとゞろいて、耳を聾し、はなし声を消して、ふたりは
窓に乗り出して、さかさまに見る海のやうな青空を、こつちも宙返りでも演じてゐる如きおもひで見あげると、三体の戦闘機の、けふもまた凄まじい演習だつた。銀色の翼が
横浜へRと活動を観に行つて、夜更けに宿へ曲る薄暗い露路にさしかゝると、水兵がひとり垣根の傍らに倒れて、うめき声をあげてゐるのが、月あかりに透かされた。そして、苦しい/\と唸るので、わたしは慌てゝ宿からサイダーをもらつて介抱すると、やがて泥酔の彼は、バネ仕掛のやうに飛びあがつて、不動の姿勢と同時に、厳めしい挙手の礼を保つのであつた。彼の両眼には涙が溜つてゐたが、いつまでも姿勢をくづさずに相手の顔を視詰めてゐるので、わたしは、困り、
「しつかり、歩け!」
といひ棄てゝ立ち去つた。
「ハツ、気をつけるでありますツ!」
彼は明確に応へたが、やがてわたしの後ろ姿が闇に消えると、歩調とれ! のやうな重い、しつかりした跫音が、わたしの耳に聞えた。わたしは露路に立つて、その跫音が聞えなくなるまで耳をそばだてゝゐたが、やがてそれは駆足に変つた。何か、わたしはもう、はつきりと春を感ずるのであつた。
「上官だと、おもつたんですよ。」
Rは、わたしの口真似をした。わたしは、決して、わざとそんな口を利くわけではなかつたのだが、しつかりせんかツ! とか、おいツ、こらツ、酒に飲まれて何うなるものか! などゝ真似るRのいふことを聞くと、なるほど自分が変な奴! だと思はれ、帽子もかむつてゐなかつた五分刈あたまを撫でた。わたしは紺の海軍マントを著てゐた。
翌晩、食膳を前にするとわたしはいつものやうに飲まうか止さうか、とそれは恰も哲学的な無限大と無限小の迷妄に囚はれて、凝つと坐禅を組んでゐると大田黒吉郎といふ名刺の人に訪ねられた。軍艦△△乗組一等水兵で、ゆうべの人物ださうだつたが、わたしは顔に見覚えがなかつた。大田黒君はシトロンを三本贈つた。
「静坐法に耽つて居られるんですか?」
「いゝや、酒にやられて半年ばかり静養してゐるんですが、晩飯時が難関でな……」
とわたしは唸つた。その時わたしは、自分がいたく官僚的な口調に変つてゐるのは、フアシズムに憧れたといふよりも、飲みたい酒が飲めぬための力瘤が、飛んだ現象を呈してゐるのだとはじめて悟つた。
だが、わたしと大田黒君とは間もなく乾盃の歌をうたつてしまつた。
「これ、今、そこの街角で描かせたんだが記念に置いて行きたいんであります。」
かれは画学紙に描いた似顔画を、わたしに贈りたがつた。
「ありがたう――」
といつてわたしは、あまり拙劣過ぎる似顔画なので眺める気もなく、机の上にほうり出して、改めて当人の顔を見ると、やゝ面長で鼻筋がとほり、映画俳優の中野英治を髣髴させるかのやうな爽快な可憐味に富んでゐた。そしてかれは、わたしの写真を欲しい、ブツクに貼りつけて置きたいので――などといひ出した。わたしが、持合せのないといふことをいふと、
「ぢや、大滝町まで行つて並んで写真を撮らう、是非たのむ――」
といつて諾かなかつた。水兵は写真を写すのが好きだと聞いたが、なるほど――とわたしはおもつた。街の似顔画屋も、いつも水兵の客で繁昌してゐた。
「写真屋へ行つたら、しやんとなれるでありますか――背おふでありませうか?」
「貴様、恋人でもあるんぢやろ、ゆうべ、貴様の眼には涙が溜つてゐたぞ、別れが惜しまれるのか、こらツ!」
「こくな、こやつ――海ゆかば、水つくかばね――聞かさうか……」
わたしたちは、腕をとり合ひ、酔つた声をあげながら、西にありてふビクトリイ――などと歌ひながら、街へ出た。Rは、舌打ちをして寝てしまつた。
街の酒場で、わたしは大田黒君から、上田五郎、武藤春雄といふ二人の水友に紹介された。
「大田黒は泣き上戸なのです。しかし、こやつは感心なことには酒はいくらでも飲むんだが、他の道楽はせんといふ模範兵であります。」
上田君がわたしにこんなことを説明すると、かたはらから武藤君が、
「おい、上田、止さんか――大田黒の顔を見い!」
とたしなめた。
「それツ、はじまつた/\!」
と上田君がからかふと、大田黒君は、もう卓子に突つ伏して顔もあげなかつた。
「何んにも理由なんて、ないんであります。何か、斯う、嬉しいんだか、悲しいんだか、わからないもやもやしたものが胸に一杯で――」
たうとうその晩、上田君と大田黒君とがわたしの宿に、飲み明すことになつて街を引きあげて来る途中、今度は妙にしつかりとしてゐるわたしの肩に大田黒君がつかまつて、月を見あげながら呟くのであつた。山の上にかゝつた下弦の月が、薄靄のなかに暈を描き、わたしたちは別れしなに武藤君が夫々の手につかませたフリジアの花束を持つてゐた。
「あなたは、ゆうべはじめてお目にかゝつた時、何だかわたしは、ひとのそんな気持が、はつきりとわかるやうな人に見えて……」
「大田黒、酔つてるぞ、気をつけい。」
上田君がそばからかれの肩をたゝいた。
「ぢや、上官だとおもつたわけぢやなかつたんだね。」
「まさか――であります。」
「大田黒水兵は――」
と上田君が、おどけた口調で、いひかけたが、ふと白けたわらひにまぎれて――「親孝行なのであります。たゞ、それだけのことであります。こゝろみに、谷の灯ともしごろ――といふ唄を歌つて御覧なさい……たちまち、かれの両眼からは滝の涙が流れ落ちるでありませう。」
などと、からかつた。――大田黒君は、いつの間にか、わたしの手を握つてゐた。そして、宿の者から聞いて、大分前からわたしのことを知つてゐた、そして、小説家としては、それよりも前から知つてゐたが、まさか、こんな若いやうな男ではなからうと想像してゐた――などといふのであつたが、それは酔つたまぎれの冗談でもあるらしかつた。
「しつかりせいツ……」
と、わたしは何といふこともなしに、ふりもぎつて、例の官僚的な声でうなつた。そして、更に、
「こらツ、しつかり歩かんか!」
などと命令した。上田君が声を立てゝ、わらつたが、大田黒君ははつと立ち直つたかとおもふと、歩調をとつて先へすゝんだ。そして、わたしの宿に曲る露路にさしかゝつても脇眼も触らないので、わたしが声をかけようとすると、
「そつと、しといてやらうよ。あの男は、喧嘩をするか、泣くかしないと、酔つたときは人に別れにくいといふ癖なんだよ。わざと、あんな風にしてゐるんだから……」
と上田君が、さゝやくのであつた。で、わたしはその後ろ姿を、ぼんやりと眺めてゐると、次第にその歩は速くなつて、やがて、駈け足となつて闇に消えた。手にしてゐる白い花が、かれの跫音に伴はれて、蝶々のやうにチラチラとわたしの眼にうつツた。
それから、四五日たつて、大田黒君の肩に腕を載せてゐるわたしたちの写真がとゞいて来たので、宿のものにかれの在否をたづねて貰ふと、艦隊はきのふの午、出航したといふことであつた。
「――また帰つて来る時分には、僕はもう此処にゐないかも知れないし、君は折角だつたが、僕との軍艦見物を仕損つたね。」
わたしは、大田黒君の所属艦に宛名を書きながらRにいつた。
街に出ると水兵の群はまばらだつた。
あの写真を見ても、何故ともなくわたしは、その水兵がもうまるで夢の中の人物のやうに、見覚えもないやうな感じで、道でなど出遇つても気づきさうもなかつた。それよりも、たゞ、薄闇の中に飛んでゐた蝶のやうな花のことだけが、あざやかであるばかりで、写真は立去る時、宿に忘れて来たが、取り戻しに行かうといふほどの気もおこらなかつた。
わたしは、春霞を衝いて沖合ひを走つてゆく艦隊の出動の光景を見損つたのを残念がつてゐた。何故か、わたしは、たゞ、きさらぎの、淡い陽炎の中に煙りをあげて、遠方への巡航へ出向いて行く艦の姿を望遠したかつたのみである。艦隊の出動は、いつも市民の知らぬ間であるほど急なのが慣ひださうである。――海には海兵団のボートが木の葉のやうに浮び、空には飛行機が戦闘の演習をつゞけてゐるが、母艦は艦隊所属であつたから、それらは艦上機ではない。岬は、ところどころを靄にさへぎられて、島のやうに、点々と見えた。艦隊の帰航は、青葉の頃であるときいた。
戦闘機の爆音は屋根裏にとゞろいてゐる。