喧嘩咄

牧野信一




 ちかごろ或る日、十何年も他所よそにあづけ放してあるトランクをあけて見ると昔のエハガキブックや本や手帳にまぢって、二十歳前後の写真を二束見つけた。その中に“To Mr. S. Makino. ――From Saburo Okada”と誌された手札型の岡田三郎の半身像と、「屋上」小会紀念とある故片上伸先生をとりまいた一団の学生の写真があった。学生は十四人ならんでゐるが(斯ういふ写真には裏に名前を書いておくべきだと思ったことには――)そのうちに、浜田広介、須崎国武、下村千秋、水谷勝、岡田三郎、神崎勝とまでは指摘出来たがその他の七人は、顔には覚えがあるのだが何うしても名前が浮ばなかった。「屋上」といふのは原稿紙を綴ぢて一冊とする廻覧雑誌の名で、僕は何とかといふ全くはぢめて書いた小品を岡田三郎の手から綴ぢて貰ひ、それぎりだったので準会員といふやうな感じで何時いつその雑誌が止めになったのかも知らなかったが三郎との交際はそのころからはぢまった。何時どうして変になったのか、別段反感を覚えたり喧嘩をした覚えもなく、彼がフランスへ発つ時には送りにも行き帰朝の時には迎へにも行ってゐるところを見ると、口も利かなくなつたのはその後のことらしいが信一としてはどうしてもはっきりとした源因が思ひ当らぬのである。だが日を経るに伴れて益々変梃で終ひには銀座などで出過ってもどちらもその顔つきは厭に嶮しく果はフンといふやうな態度を示すに至ったのである。浅原六朗と三郎がいろいろと人の集ったところで徹底的に牧野の悪口を吐くといふことを聞き、また彼等の、折々見た僕に関する文に接すると事毎に暗然とさせられるのであった。三郎といふ男は何か悟ったとこのあるやうなやつで、妙に人の悪口を云はないね――と、僕は柏村といふ亡友と学生時分からはなしてゐたので、聞くにつけ意外の感に打たれた。六朗には漠然としたことで種々の源因もあり、また僕の小説の文中にそれとなく突き返すような個所があったりして無理もなかったが、感想のペンやまた人の前でも僕が少しも彼等のことを口にしないのが、狡いとか白々しいとかといふ風な感じを与へて二重に苛立たせた結果に赴いたと想像された。事実、だまってゐるといふ態度は如何にも相手を黙殺し、軽蔑でもしてゐるかのやうな感で僕としても二重に若しかったわけであるが、不幸にして僕は平和円満論者で「人生は舞踊といふよりも寧ろ相撲に似てゐる」といふ言葉の反対で、寧ろ舞踏と云ひたく、そゞろ感傷的になって黙ってしまふに他ならないのであった。
 それは、新興芸術派といふ旗が花々しく翻ってゐる頃であった。或る暑い日に牛込のS社を僕が大変寒気だった思ひで訪れ、二階の階段の突き当りにロビーのやうな型ちをとって夏だけ置いてあった椅子にぼんやり腰かけてゐると隣りの部屋から大声で、今時牧野なんぞは古臭くって――とか、あんなひとり好がりな馬鹿野郎は――などゝいふ声が、ドアの隙間から飛んで出て、よろしく斯る古めかしい田舎者の小説などは弾劾すべきが順当ならむといふ冷笑の風が吹きまくつてゐた。そして、その合間を縫って、それらの言葉を、巧みな滑稽の調子で、ヒヤヒヤとか然り/\と煽動する笛のやうな声が挙った。彼等は僕が階下にゐると思ってゐるらしいのであったが、そのうちに扉が颯っと風に煽られて開け放れ、僕が横目でチラリと見ると怖るべき声の主は三郎と六朗であり、巧みな太鼓のたゝき手は井伏鱒二であった。僕は彼等に気づかれぬ間に外へ逃げ出した。三郎と六朗のことはさておき、その場の鱒二の姿には慨嘆に堪えぬものを覚えさせられた。何故なら僕はその頃鱒二を知って間もなくの時分で銀座や日本橋の酒場を飲み歩き自然とグルウプが成り、それは三郎や六朗とは云はゞ反対側であり、三郎や六朗の近代生活といふものに対しては鱒二が辛らつな非難の声を放つのを聞いてゐたからである。また彼は幾度も僕をペテンにかけるので、つい僕も酔った紛れに向っ腹を立てたこともあったが、決して蔭で云々した次第ではなかった。その頃彼の左ういふ太鼓は二度や三度ではなく、謹厳といふことで有名だった亡友のKが、屡々唇を震はせて僕に注告したが、僕は鱒二のそれは彼独特の単なる愛嬌であらうと思ってゐたので悲しみもしなかったのであるが、はからずも斯様な無情の風景を見るに及ぶと、まこと慮外千万な暗鬼に打たれて感傷的にもなれず胸先がじゃく/\と痛み出すのであった。敵とはなってゐたが三郎や六朗の一つの純心に関しては僕は学生時代に知ってゐたので落着きもあったが、口上手な鱒二は終に僕にとっては砂漠のスヒンクスに化してしまった。
 ついこの間、早稲田文学の会で三郎と六朗に出遇った。六朗とは、彼がいつか新潮の交遊記の中に書いてゐた如く、直木三十五の告別式の時にほんの暫時であったが、どちらからともなく和やかなはなしをかけて、十年戦争も屁となってしまったが、三郎とは、その時、僕からおい! と言葉をかけて、意味もない笑ひに達するまでは、同じ会合の席に居ても、どちらも知って知らぬ風といふ調子で、余程変だった。僕は六朗や三郎とは、あのまゝ一生仲直りなどする機会もなく、不図彼等の写真でも見た時には、北欧のイプセンの云つたやうな口真似でも出来る状態にでも達したならば、どちらも凄いものだが、などゝいふ夢に走ったりした。――或る人が或時イプセンの書斎を訪れると、その壁にクローグの描いたストリンドベルの肖像画が掛つてゐたので、意外の感に打たれ、その所以を訊ねると、書斎の主は稍悲し気に眼を伏せて次のやうに答へたといふのである。――「わたしが彼の肖像画をこんなところに掛けておくといふのは、別段彼と友達といふわけでもなく特に親密や尊敬の念を抱いてゐるといふわけでもなく、またクローグと親しいからといふ理由でもありません。画家は未知の人です。わたしは全くこの肖像画の人物とは喧嘩ばかりして来ました。ところが、わたしは何ういふわけか、自分でも解らないのですが、この途方もない男が、その薄気味悪い狂人沁みた目つきで、凝っとわたしの方を見くだしてゐないと、仕事の筆が運ばないんですよ。」
 こんな比喩はまったく途方もないけれど、言葉をもって僕は反敵こそはしなかったが、(それは前述の如きわけで、僕は感傷家ではあったが、決して無下に弱くもなく、狡いわけでもないのだ。)喧嘩は仕方ないことであり、不自然な平和などは余っ程偉くでもない限りは保てる筈のものではなからう。道こそは両岸にわかれてゐるものゝ、互ひに文学の寂しい山みちを何年も何年も独りでとぼとぼと歩いてゐるといふことは、おそらく井伏の法螺鱒などには想像もつくまいヨルダン河の暗々たる、千年一日の如く舟楫の便とても見出せぬ惨たるふちをたどつてゐるやうなもので、辛く重苦しい修業ではあるが、これが若し六朗が重役で三郎が頭取でゞもあったら、喧嘩の種もありようもなく、十年が過ぎ二十年と重ったあかつきには「屋上」の写真のやうに、何うしても名前すらが思ひ出せないといふやうな他人になってゐたゞらう。せめても僕は、文学の生活の息苦しさに、吐息をついて、こんな街角になりと、妙! を見出したいものと思ってゐるのだ。
 いつか何かの雑誌で、貴下は文学の生活に身を投じたことを後悔してゐるか? といふ題下で諸家の意見を集めてゐたのを見ると、誰ひとり、後悔してゐると答へてゐる者はなかった。そして僕も、しばしば心底から後悔することがあるけれど、問はれたならばやはり諸家と仝様な返事を発するであらうと、人生と文学についていろいろと興味深いことを考へさせられた。
「俺は、お前えのことについては、随分とこだはってゐるんだぞ。夢を見ることもあるんだぞ。」
 三郎は稍酔ってもゐるらしかったが、僕をとらへて切なさうに斯う云った。
「…………」
 また僕はだまってしまった。これがいけないんだ! と思ふんだが、つい、ふっと、横を向きさうになったりするのである。
「俺は、これまでお前えの悪くちばかり云つてゐたぞ。」
「……あゝ、俺はお前えの悪くちは一辺も云ったことはなかった。」
「それにしても、何故、交遊記の中に、俺のことを書かなかったんだ?」
 彼は云ひかけて「もっとも俺が、その前にあんなことを書いてゐたからな!」
 と彼は寂しさうに苦笑した。たしかに僕も、三郎のそれを読んで、反撥的になって、わざと書かなかった、といふのは、つまり、強情といふわけでなしに、書けなかったまでなのだ。――書けないといふこと、だまつてしまふといふこと――こいつは、あらためて、考えなほし、ひとつ了見を容れ換えなければならぬと僕はおもふた。
 十何年ぶりかで、はぢめて真正面から眺めて彼等の姿も、六朗が自ら云ふやうに、そんなにとしとったとも僕には思はれず、冗談を云はぬ、嘘はない、妥協は嫌ひといふらんらんたるものは、やはり彼等の面上には益々深く見えた、だからまた何時どういふことになるかも知れないが、だまってゐることで、相手をも自分をも苛立せるといふことは、改めようと僕は考へた。
「何としても俺の憧れてゐるのは、美しさ――だけなんだ。美しいものに向って俺は、たゞ夢中であるだけなんだ。」
 僕は、亢奮して斯んなことを叫んだ。ひとくちに、そんな大きなことを云ってしまってはおしまひだが、三郎も六朗も反対ではないらしかった。
 当今僕は、軍港の街に住んで、飛行器や軍艦に関する通俗的智識を得ようと励んでゐる。大空に乱れた戦闘機の群の木の葉と散り、鳶と舞ふては翼を翻す戦ひや、花々しい軍艦の進水式などを拝観すると、生涯の夢をさゝげて放浪の旅にさ迷った、かの即興詩人の作者の言葉などが、ゆくりなくも思ひ出されたりするのである。――「美しいものを見ると、わたしは友達が欲しくなる。友達と語らひながら、それをたのしみたい。これがわたしのホームシックです。」と。





底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷
初出:「文藝放談」
   1935(昭和10)年4月
※底本のテキストは、手書きの遺稿によります。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
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