習慣と称ぶ暴虐なる先入主を打破せんと欲する者は、多くの事柄が、単にそれに伴ふ習慣のと皺とに支へられて何等の疑念なく認容せられてゐるのを見るであらう。然しながら一度びこの仮面を剥いで、事を真理と理性との前に引き出して見るならば、自己の従来の判断が殆んど全く顛覆したといふ感じがすると共に、却つてそれが前よりもずつと確固たる基礎を得たと感ずるであらう。
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モンテーニュの「随想録」といふ本を購読して見ると以上のやうな言葉に出会つた。ポウの「ユリイカ」を翻くにつれて、僕の亢奮と歓喜と戦慄の奥底を揺がせたものを一言にして言ひ換へるならば、正しく凡ての習慣が真理と理性の前に引き据ゑられて、とどのつまりは神秘の極光に射抜かれたと云ふより他は無かつた。この場に於ける「神秘」を、僕は“Serpent of Eternity”の意訳から用ふるのであるが、神秘と永遠の分析に関して、凡そ意味ありげなる漠然たる言葉を排して、恢々たる煌星の姿を直言した斯の如き大演説に接した験しはなかつた。僕の偉大なる自慢の鼻“Nose-of-wax”は、まんまとへし折られたものの、遠く近く無何有に煌くアンドロメダは金粉となつて降り灑ぎ僕は何も彼も忘れて、光りの雨の中に恍惚とした。云ふを止めよう、どうやら白銀製の鼻が盛りあがつて来た感が強いだけだ。
思へば僕がこの書に初めて接したのは七年前の初夏のことであつた。海辺の庵で、大学生の岡崎六郎と互ひに大声を挙げて朗読し、やがて互ひに威張り散らして掴み合つた。そして僕達は、不思議な笑ひ声を挙げて東西の果に別れたが、爾来岡崎から寄こす手紙は「ユリイカ」のことばかりで、僕は碌々返事も出さなかつた。野に憧れて誘蛾灯を灯し、街裏にしけ込んで銀箔のしはぶきに咽びながら僕は、「ユリイカ」の
尚、上梓にあたつては友人河上徹太郎と芝隆一君の誠意に富んだ薦めに順つて、云はば偶然の機を見出した次第である。