坂口安吾の作品集が出たことは近頃僕にとつての稀なる快心の一つだ。といふのは友情的な心懐を全く別にして
*
これは断じて僕の単なる偏狭な数奇眼からでなしに(超絶論者でもない限り、特にそんな奇矯癖を振り廻すはずもなく、一人の僕が読んでこれほど欣快至極であつたものが、正直誰にとつてだつて小説本を読むほどの趣味と教養のある人々ならば、これが退屈であらう筈はないのだ)何時何処で聞いても不滅なる音譜を聞くが如く、つきざる夢の幻妙さに酔はされるものであつた。
*
それが、どうした世の中のハズミであつたか知らぬが、むかうの城砦の倉に蔵はれたまゝになり、次第には僕ひとり位ひが折々の虫干日に取り出して、寧ろ専有感の快を貪つてゐた折から突然、此処に改めて展覧される機会を得たことは、吝嗇なる僕としては稍物惜しみの自負心さへも手伝ふ位ひであるが、兎も角大方の紳士淑女よ、試みに夕べの窓ぎわでなりと「黒谷村」一巻を繙かれるならば、なるほど君のいつた通りおもしろく夜の更けるのも忘れたよとばかりに僕に握手を求められるであらうとさへ秘かに期待してゐる次第である。
いろ/\な騒ぎに聾せられて、否応なく趣味と人生観の低下を余儀なくされてゐる折から、
*
要するにおもしろい本は、君にとつても僕にとつてもおもしろいといふだけのことで、もともと「純文学」が特に専門的であるなんていふ莫迦気た話しがある筈もないではないか。言葉が足りぬが、ともかく一本を繙かれるならば、少くとも一掬の文学の妙に酔はれるであらうことは、僕としては疑ひを持たない。
文学は理屈ではなく、比べるならば香気深き酒に似たものであり、これは徒らなる推賞文でもなく、僕は五六年も前から安吾のこれらの小説については再参公言もなく、また秘かに繰返して愛誦してゐるものである。
新しき友よ、読後の感を、僕にもきかせてくれ給へ。あれは酒だ、僕は酔はされた。
(独り山をのぼり箱根の宿にて六月牧野信一記)