わたしのうちには頭のやまひの血統があるといふことだが、なるほど云はれて見るとわたしの知る限りでも、父親の弟を知つてゐる。つまりわたしのほんとうの叔父であり、医学士であつた。誰よりも子供のわたしと仲が善くて、学生時代から彼は何彼につけてわたしを愛しみ、父のやうであつた。わたしの父はわたしが生れると間もなく外遊してわたしが十二三のころ一度帰朝し、また間もなくその後も二三年おきには外国の旅へばかり出てゐたのであるが、はぢめてわたしは父を見た時、あれは何処の人? と母に訊くばかりで決してお父さん! などゝ呼べもしなかつた。だつて写真でいつも見てゐるではないか、と母がわらつても、どうも写真とは違ふようだとわたしは空呆けるばかりで、一向なぢまうともしなかつたとか、ついこの間も母は何かわたしをからかふような調子で憶ひ出したりした。で子供の折のわたしの記憶には余程あの医者叔父の姿がはつきりしてゐるのである。その叔父が学校を終へて医者になつたはぢめての夏だつたさうである、わたしは六つだつたかで、自分では憶へてゐないのであるが、叔父に伴れられて釣舟を沖へ漕ぎ出した折、わたしはどうかしたハズミに海の中へ堕ち、危ふくそのまゝになつてしまふところを船頭が慌てゝ救けたのださうである。戻つて叔父が皆なから詰問されると、彼はひどくとり済して「なあに、僕がちやんと法を結んでゐたから大丈夫さ――」
と答へ、夫がそもそもの病気の発端だつたさうである。わたしは少々薄ぼんやりの児であつたらしいのだが、どうやら常態の時よりも「
今、憶ひ出すと、あれは、つまり座敷牢といふものゝ一つであつたのか! 渡り廊下で行く離室があつた。どうもその入口の扉には厳丈な錠が降りてゐたらしいのであるが、わたしひとりはいつも平気で出入してゐたので、一向にそれが世にも陰気な病室であつたといふ気はしなかつたのである。近頃不図、母に訊ねて見ると、やはりそれは正銘の座敷牢であつたといふことで、わたし以外の者が現れるとピストルやサーベルでおどされたさうである。尤もそれらの兇器は勿論玩具でサーベルはボール紙に銀紙を貼つたものであり、ピストルは木製の豆鉄砲だつたといふことである。話されて見るとわたしも朧ろ気にその部屋の有様を思ひ出すことも出来るのであつた。大概その人のその病気は、その後三年乃至五年毎に周期的に勃発して、一回の患期がやはり三年乃至五年に亘るのださうであるから、わたしの記憶もやがてわたしが七八歳に達した折だつたのであらうから、どうやらはつきりしてゐるのであらう。
ボール紙の筒を彼が耳にあてゝ、切りと何やら享け応へしてゐた姿がわたしは憶ひ出すことが出来る。その、受話機ほどの長さの円筒の両端には紙の蓋が貼られて、中には数個を
彼の第一回の病ひが収まり、わたしが中学生になつた頃、久しく物置と化してゐたその部屋がまた整理されたかと思ふと、やがて何処からともなく一人の白哲長身の至つて物静かな蕭条たる僧侶が現れて、部屋の主となつたが、その時は別段扉に錠などは降されず、部屋はあたり前の書院風に雅びてゐたが、その僧侶は、やはりあの病気の患者で、祖父の弟なのだつた。わたしは、ずつと後までその人が左ういふ病気の持主であつたといふことは知らず、回想してもそれらしい症状は発見出来ぬのである。
その人はいつも端然と毛せんの上に坐して画を描き、わたしに蘭や竹や山水の南画を手ほどきした。わたしの画は一向ものにならなかつたが(それはわたしの不熱心も原因したが、師匠が常人でなかつたことも不運であるのだ。)雅号だけは麗々と「朶雲」と貰つた。すつかり忘れてゐたが、先達田舎の親戚へ赴いた時図らずも幾枚かの「師匠」の作品を見出したので、何やらヒヤリとして、隠れて験べたら「朶石」と誌されてゐた。一字呉れたところを見ると、多少の見所を彼はわたしに期待したのだつたかも知れないが何しろ肝心の師匠は正銘の精神病者だつたといふんだから、飛んでもない仕儀である。将軍病のことを、オキツアンといふのがこのあたりの旧時代の方言で、今でもわたしなど冗談わらひの母から、わたしが何か自慢めいたことを口にしたりすると、
「オキツアンの弟子が……」
とやられるのであつた。それは単に、バカな! といふほどの軽い意味で、何も、朶石のことではないのであるが、わたしはその度毎に(また何といふこともなしにわたしは母からそんな言葉を稍ともすれば浴せられることが屡々なのだ。)朶石師匠の傍らで絵具を溶いたり、筆を洗つたり医者の先生に笛を習つたりした自分を思ひ出すのである。
考へて見るとわたしはこの二人の師匠から随分といろんなことを習つてゐる。朶石からは画の他に漢詩作法と篆刻と築城講話と、そして国手から半弓と碁と笛と釣りと箱庭作法とを習つた。それにしてもわたしは現在、それらの技の何ひとつ初段の程度に達してゐるものとてもなく、まるで無稽至極で、全く何も習はなかつたと同然である。云ふまでもないことであるが、どうせ時間をかけて物を習ふあかつきは、相当の師匠を選ばなければならぬと今更後悔でもないが、いつそ滑稽感に誘はれたりするのである。この二三ヶ月わたしは、たゞ漫然とあちこちの海辺や山のほとりを旅してまはり、人は、自分の専門の仕事ばかりを特に専念して思考する場合は、思惟の対照を、思ひも寄らぬ別様の形式の上に求めぬ限り容易に精神的の成長は望めぬものではないのかなどゝ思つた。わたしは、そこで様々なる余技を考へるにつけ、今更途方に暮れて、不図これらの師匠からのことに思ひ及んで見たが、それらの何れをとりあげて見ても、まるで雲をつかむようであり謂然とするばかりであつた。
二人とも既に十数年以前に故人となつて居り、どうやらわたしの家系にもさういふ血統は根絶したらしい。酒などに酔ふと、わたしが怪しい! と母から嘲笑されることもあるが、それは全くの冗談で、文学にたづさはつてゐる限りは常に自己に対して客観的のものを保つて居る故、若しかの場合に紙筒を受話機と構えてゐるようなことがあつても、それは怪しい業ではないのだ。それにしてもわたしは、三日の間でも関はぬから大将軍になりきつて、浜の子供等とでも遊んで見たいといふ願望は仲々逞しいけれど、キチガヒ師匠の言行は凡そ忘れてゐて、轍を踏まうにも恰で埒もあかぬのである。医者の叔父は病ひが相当にすゝんでゐる場合でも、一ト頃は余程の間誰の眼にもそれとは悟られず、普通に聴心機を構えて開業してゐたことがある。どうやら、さういふ場合には却つて手術の腕など異様に冴えわたつて好評を拍したといふことを聞きもしたが、それこそ人生の皮肉といふべき現象に相違あるまい。わたしなど傍らからはらはらとして眺めてゐたものであるが、神妙に着飾つた婦人連などが、容体を述べてゐるのを彼が神妙にうなづき、立派な享け応へをしてゐた光景などを憶ひ出すと、わたしは人生の尺度といふものに疑念の涌く思ひがするのである、尤も彼のさういふ病気の発作を発見するのは、何故かわたしだけが誰よりも逸早くて、家人すらも気づかなかつた場合が多かつた。中学から早稲田へすゝんだ年輩になるに従つて、わたしは彼のさういふ気合ひに気づくやいなや、早速に旅行へ伴れ出すのを慣ひとしたので誰の眼にも発見されずに時機を脱したことも屡々だつた。軽度の将軍病者との旅行の憶ひ出は、鳥渡不思議なものであり、何処に旅して何処に宿泊しても気づかれたこともなかつた。彼と旅した思ひ出が、斯うしてゐると、次々に展開されて来る。少しもわたしは迷惑の感もなかつたのが寧ろ不思議である。
(九月末、於箱根)