ライス・ワッフルの友

牧野信一




 こんなことを何も僕は決して誇り気に誌すわけではないのであるが、今不図考へて見て男の友達でも女の友達でも――それはいつも極く少人数であるが、一度交際した人と、自分から先に離れたといふ記憶を持たない、つい口の慎しみがなくて親しむに伴れては喧嘩などをすることは屡々であるが、その場限りで二三日経つと悪いことは皆な忘れてしまふ。ナンシーといふアメリカ娘もそのひとりである。少年時代からの友達で、尤も十余年以前に彼女は自国に戻つて幸福なミセスになつてゐるが、未だに文通が絶えない。彼女に就いては、僕は屡々、余程カタチや事情は誇張したが、これまでいろいろと自作の創作中にとり入れて居り、ひところは熱烈な恋愛の相手であつたかのやうにも書いてゐるが、事実を思ひ出して何のうしろ暗さも覚えぬのである。例へば数年以前に観光団に加つて横浜に到着したのを、僕は妻と共々に迎へ、彼女と僕は久闊を述べるいとまもなく感極まつて堅くその場で相擁し、しばしは嬉し涙に掻き暮れたといふ光景を現出しても、別段僕の妻も厭な顔もせず、われわれも何の気もとがめもしなかつたのである。
 それ以来は、つい返事の手紙を書き損じ勝ちの僕よりも寧ろ彼女は僕の細君とひんぱん気な文通を交すようになり、爾来また幾年も円満である。僕は屡々判読の相談で細君からNの手紙を示されるのである、が僕の健気な妻はNの手紙の度に、ミセスN流のものゝうちで最も簡単な料理や菓子の作り方に就いて余程熱心な質問を発してゐると見えて、Nの手紙の二伸の個所に僕は度々如何にも彼女が慎ましやかな恥らひをもつて誌したかのやうな筆致で、だが何時も忠実に応答してゐるのを見出すのであつた。例へば菓子の製法などでは、
POP-OVERS――(Two cups of flow Sweet milk, two eggs, one teaspoonful of milk, and salt, bake in cups in a quick oven 15 minutes, serve hot with a sweet sauce.)
FLANNEL CAKES――(……)
POTATO GRIDDLE――(Twelve large potatoes, one or two eggs and ――)
 製法の説明を全部そのまゝ写しとるのは場所塞ぎ故略するが――
HASTY PUDDING――(……)
RICE WAFFLES――(…beat the eggs well, separately and add the stiff whites of all.)
 といふやうな具合に、簡単ながらも要を得た製法をいろいろと教へてゐるのであつた。細君のクツキング・ノート・ブツクはいつの間にか半ばを埋められて、季節毎に筆記の増えてゆくのを余程楽しんでゐるかのやうであつた。ピクニツク・ランチとか“For the camping ready”などゝいふ項はピクニツクやキヤムピングに赴かぬ場合でも、折にふれてはわれわれの貧しい食卓の役に立つた。
 つまり、何うせ僕は何処に住んでもキヤムピングに等しい暮しばかりを過して、女房の不機嫌をかふと同時に“N's Cooking note”ばかりが役にたつてしまふのであつた。
 稀には斯んなのをつくつて見たいな――と細君は「四五人の客のための円卓子」とか「冬の茶友達への――」といふやうな項を開いて嘆息を洩し、
「もうすつかり暗記してしまつた。」
 などゝ悲しさうに、恰もキヤンドルの燭つた円卓子ラウンド・テーブルを空想するらしいのであるが僕はさういふ場合には直ぐに横を向いて哲学的なことを考へてゐるやうな顔をするのが癖となり、どんな安つぽい円卓子ひとつ買つた験もなかつた。当今僕はまた東京に移つてアパートに住んで居り、酒などを飲むので一向菓子は喰ひたくなかつたが、斯うして夜更まで机に向つてゐる折など、フライパンひとつで仲々巧みに細君がつくるヘースティ・プディングやライス・ワツフルは至極便利であり、隣室の人になどもその製法を教へてやるのであつた。ライス・ワツフルには、古い友の美しい味はひがあるなどゝ僕は勿体振つたりした。





底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「昭和文学研究 第十九集」笠間書院
   1989(平成元)年7月25日発行
初出:「Home line(ホームライン) 春季臨時増刊号」玉置合名会社
   1936(昭和11)年4月発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
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