適量の日本酒を静かに吟味しながら愛用してゐれば、凡そ健康上の効用に此れ以上のものは無いといふことは古来から夙に云はれて居り、わたしなども身をもつてそれを明言出来る者であつたが、誰しも多くの飲酒者は稍ともすれば感情のほとばしるに任せては後悔の種を育てがちになるのも実にも通例の仕儀ながら、わたしも亦その伝で銀座通りなどをおし歩きながらウヰスキーをあをりつゞけたお蔭で、例に依つて例の如く、終ひに閑寂なる療養生活に没頭しなければならなくなつた。兎も角、十何年もの間それに親んで来たものが、一朝にして盃を棄てなければならないといふ段になると容易ならぬ騒動だつた。おそらくそれは失恋者でもあるかのやうな止め度もなく呆然たる日々を持てあまさずには居られなかつた。はぢめの半年は小田原の郊外に移つてゐたが古なぢみの酒友が仲善くて、返つて飲む日が多くなるので、いつそわたしは思ひ切つて、全くはぢめての土地である三浦半島に移つて、横須賀に寓居を定め、金沢、浦賀、三崎、城ヶ島、油壺などゝ、歩いては泊り、泊つては歩いた。恰も、失恋にぼんやりしてゐる友達を慰めてやるかのやうに、酒を飲みたがらうとする自分に向つて、別の自分が親友となり、忘れ給へ、忘れ給へ、否応なく忘れるより他は何うするといふ術のありよう筈はないんだもの……と忠告して、天気でありさへすれば散策へ誘ひ出すのであつた。一里や二里では次第に収まらず、やがて袋を背中につけ、地図をひろげ、薬用酒をポケツトになし――まこと、見るからに頼もし気なるハイカーに相違なかつた。わたしは中学生の時分から、植物や昆虫に通俗的な興味をもつたまゝ現在に至つてゐるので、何処に住んでも大概は何時の間にかあたりの山野を跋渉しつくしてしまふのが慣ひであり、この頃でも網と毒瓶ぐらひの用意は忘れなかつたが、そんなことよりも当時は酒を忘れようとする思ひの方が強かつたので、何は兎もあれひたすらに靴踏み鳴して歩きまはるのであつた。
そのうちの或る一日のコースを誌さう。この道は東京からの、日帰り乃至は一泊の旅には最も平易であり新緑と海の香りを満喫するに充分であらう。
わたしは湘南電車(品川発)を、浦賀終点の一つ手前の馬堀海岸駅で降り、先づ観音崎の一周を試みようと思ひ立つたのである。馬堀から走水のキヤンプ・ビレイヂまで約三哩、横須賀からのバスが通つてゐるが、わたしは海のふちを歩いた。砂蟹が人の跫音をきいて八方へ逃げ出すので踏むではならないと気をつけ出すと、蟹の巣が無数に砂の中にならんでゐて、到底そんな
さねさしさがむのをぬにもゆるひのほなかにたちてとひしきみはも
ノ御歌ヲ
*
海は半島の山々の緑を写した如くに晴れ渡つて、横浜を出る数々の船舶や軍港の沖合で演習する駆逐艦や巡洋艦の姿が、あまり眼ぢかにはつきりと眼に写るので、恰も陽炎の中に浮ぶ蜃気楼のやうに不思議なる美しさをもつて眺められるのであつた。折から空には三体――五体の戦闘機が入り乱れてゐた。その銀色の翼が斜めの
空を見あげて歩くうちに、わたしは間もなく観音崎の灯台に着いてゐた。やはり灯台の見物へ赴く二人の女学生と二人の水兵が道伴れになつてゐた。灯台の役人は、何処の役人にも見当らないかのやうな滋味に溢れた親切な方で、螺線の階段を導いて頂上に達すると、事細かにランプの説明をして呉れるのであつた。おそらく、あの灯台を訪れた人で、あの温厚な科学者風の、そして、まことにプラトニツクなる人懐し気なる慈眼を湛へた青年灯台守に厚意を抱かぬ者は無いであらう。――案の条、帰りの崖道で二人の女学生が大いに灯台のロマンテイシズムを論じてゐた。
「僕らも期限が空けたら、灯台守を志願しようかな。」水兵が真面目な顔でそんなことを云つた。
「見学に行きますわ。サインして下さい。」
女学生は手帳をひろげた。
「艦を参観にいらつしやい。」
さつき灯台の見学許可を得る時に、わたしよりも先に署名した水兵の乗組は、呉所属の巡洋艦○○であつたことを、わたしは記憶してゐた。
「いつ、出航ですか?」
とわたしは訊ねた。翌々朝の多分五時だと、水兵は云ひながら、綺麗な思ひ出を残して、あの灯台を見上げるだらうなどゝわらつた。わたしは、初夏の朝霧を衝いて岬を出てゆく巡洋艦のデツキから、明方の空へ極夜の光りを放つてゐるであらう灯台を見上げる二人の水兵の姿を想像した。
「あゝ僕たち、きのふ、あそこを通つて来たんだな。」
さつき灯台の欄干から眼下の海を見降ろしながら水兵たちは話してゐた。
「このラムプは九万燭光ですが、千時間
役員が説明すると、誰かゞ、その電球は一つ幾何ほどですか? と訊ねた。わたしは、その電球が、やはり、マツダ・ラムプであるのを見て、何やら全く意味もない親しみのやうな感じを秘かに覚えたりした。
「さあ、電球はいくらになるでせうか、会社の方で取り換へて呉れるのですが、電灯料は大体一ヶ月、十五円ぐらゐですな……」
「やあ、それは、安いね――」
と誰やらも驚いてわらつたが、わたしも、九万燭光が十五円で点されるなら、普段の如くメートルなんかにケチケチしないで、一番借家のサロンに二十万燭光ぐらひの景気をつけて、借金とりでもおどかしてやりたいものだが――などゝ、途方もない馬鹿なことを考へたりした。
「これが点くと、塔の下で充分に新聞が読めるのであります。但し、月の晩は別として――」
灯台の高さは四尺、水面から測るならば十七丈八尺――光達距離は凡そ十里――。
わたし達は崖を
「御機嫌好う……」
「さよなら……」
とわたし達は手を振つて別れた。水兵が呉れた駄菓子の袋をポケツトに入れて、ぽつぽつと噛じりながら歩かうとした時、一羽のジヤコウアゲハがわたしの眼の先を飛んでゐるのを発見した。わたしは慌てゝ網を振りながら、追ひかけたが、トンネルの前まで来ると、蝶は糸に引かれるやうに直角に丘の上へ逃げてしまつた。跳びあがつたが、到底とゞかなかつた。あの蝶は他では六月ごろでなければ見ないのに、今ごろ(五月のはぢめ)飛んでゐるのを見ると、やはり半島の陽気は東京に比べて十度位暖いのであらう。
トンネルの中は薄暗いから、稍見得坊のわたしは歩きながら喰ふのは厭だつたが、折角の水兵の厚意を味はつて見ようと、ポケツトに手をやつて見ると、いつの間にか駄菓子は悉く紛失してゐた。大き過ぎる袋で稍始末が悪く、半分以上ポケツトから
三崎行のバスに乗り、一先づわたしは久里浜で下車するつもりだつた。ところがわたしと並んで乗込んだ土地の人らしい乗客達は、女車掌が切符を切りに来ると、至極さり気ない済した風で、その行先をたゞ一言、
「ペルリ。」と告げるのみであつた。
「ペルリ。」――「ペルリ。」
誰も久里浜とは云はなかつた。わたしも左う云ふべきだと思つたのであるが、何故か、妙に気恥しくなつて、云ひ損ひ「三崎――」と告げた。
飲酒常習者の