牧野信一




 寒い晩だつた。密閉した室で、赫々かつ/\と火を起した火鉢に凭つて、彼は坐つて居た。未だ宵のうちなのに周囲あたりには、寂として声がなかつた。
 彼は二三日前から病気と称して引籠つて居た。別に、どこがどう、といふのではなかつたが、それからそれへ眠り続けた勢か、頭は恰でボール箱の如くに空漠として、その上重苦しい酒の酔が錆び付いてるやうで、起きる決心が付かなかつたのである。焦れぬいてゐるのだつたが、頭は容易に自分のものに返らなかつた。尤も彼には、こんなことは応々の事で、一寸とした新鮮な感じに行き当りさへすれば、ひよいと治るのであつた。
 室には煙草の煙りが蒸せ反る程詰まつて居る。午迄眠つて、残りの半日を煙草と濃い珈琲とばかりで暮してしまつたので一層ぼんやりして居た。――それでも彼は手から煙草を離さうとはしなかつた。金魚のやうに、ぷかぷかと煙を吸つては吹いて居る。
 彼は早く治りたい、と焦れるより他何にも考へては居なかつた。ごろり寝転んだり、又坐つたりしてゐる。時々大きな声で出任せな唄を発した。つい無意識に余り馬鹿馬鹿しい文句を吐いたのに気が付くと急に可笑しくなつて、ひとりで笑ひ出しさうになつたりした。
「チエツ」と彼は舌鼓を打つた。さうして俄に立ち上つて、着物の襟を正したり帯を絞め直したりしたがそれでもいけないので、此奴を懲らしめてやれと、自分の手で自分の頭を一つポカリ殴つた。と又そんな仰山らしい事が可笑しくなる。密に冷汗を覚えながら、他人に見られやしないかと回りに気を配ったりした。
 結局は再びごろりつとなるより他はなかつた。呆然と天井を覗める。又大きな声が出さうになる。手はいつか煙草に触れてゐる。――こうした動作が何辺となく繰り返されて来たのである。
 彼は何にも考へずに黙つて坐つて居る。

 寝るのにも化粧をする程お洒落で、お転婆な彼の従妹の道子は、丁度風呂から上つて唇や頬を塗り終へて、威勢よく梯子段をドンドン昇つて来るや、ガラリツと手荒く彼の室の障子を開けた。
「馬鹿!」若少しで彼は道子を叱り飛ばすところだつた。
「まあ酷い煙り! 毒よ。」道子は顔を顰めて煙りを払ひ除けながら、彼の傍に坐つた。
「あ、痛い/\、どうもこう頭が痛んぢや、とてもやり切れない。」頭が痛いといふより他に病気と自称する自分の容体を発表する術はなかつたので、彼は如何にも感傷的な表情をして、道子の荒々しい態度が病人である彼に対しての順当な動作でないぞ、といふやうに、又自分が終日引籠つて居た事に勿体を付けるために、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)を一本の指先で突いて見せた。
 道子は空とぼけてゐるやうな顔をして両手を火に翳しながら、
「だつて時々面白さうに唄など歌つてるぢやないの。それもねえ、大きな声でさ。」仲々同情はしないよといふ風に答へた。
「紛らせやうとしてさ。」と即答はしたが明に彼はその弱点を握られたのである。口惜しいけれども事実だから仕方がない――弁解すべく余りに頼りないみすぼらしい病状なのだから。いよ/\喧嘩をしなければならないと思つた。
「僕は何も他人に同情を求めたくはないよ。まして道ちやんなんかに――。ハヽヽヽヽ。」
「おや、まあ変な兄さん。可笑しくもないのに、どうしてそんな気味の悪い笑ひ方をするのさ。」道子は彼の眼を見た。
「ハヽヽヽヽヽ。」彼は又笑つた。――考へて見れば全く其処に何の笑ふべき理由もない。彼は今道子から享けた痛手に惑はされて、自分の敗けたことを悟られてはならない、それに代ふるために鷹揚な笑ひを洩した心意りでやつたのだが、全く道子に取つたら敗けたも勝つたも考へてる訳でなし、彼の笑ひが異様に写つたのは無理もなかつたのだ。――やり損つた、と彼は思つた。
「兄さんは近頃余程変よ。母さんはあんなだから随分心配してゐるのよ。――夜中に突然大きな声を出したり、訳のわからない独り言を云つたり……全くおかしいわ。妾可笑しくて仕方がありやしない。妾兄さんがどんな挙動をしたつて、幾日寝てゐやうと平気よ。だつて余り馬鹿馬鹿しいんですもの、一体兄さんは横着で怠け者なのよ。此方こそ笑ひ度いわ。」
 道子は抱へて来た折箱の中から美味さうなシユウクリームを出して盛んに喰べ始めてゐた。
「何んだい。病人のお見舞じやないのかい。」到底道子に遇つては敵はないとあきらめた彼は、寧ろ彼女に詫び度いやうな気になつた。で普段の通りな戯談味のある口調でさう云つた。と、頭の鉛りが急に溶けて、快活さと清新さとの血潮が溢り始めた。「嬉しい! やつと治つた。」と彼は独り言つた。今度こそは不調和でない笑ひをハヽヽヽヽと洩した。道子も「お気の毒様よ。」と云つて笑つた。
 今迄大概の場合、彼は道子に敵はなかつた。如何に不機嫌に、道子を叱り飛ばして居ても、それ以上冷酷な道子の態度に接すると、一撃の下に敗けてしまつた。――さうして道子の華な世界に引き込まれながら、道子が彼に浴せた冷笑に、彼は反つて追従しなければならない事が多かつた。
 ――憎い、いまいましい道子、と彼は思つてゐた。
 彼は道子の顔を見るのも嫌になつた。彼は静に眼を閉ぢた。頭はすつかり醒めてゐた。
 その時彼は今眼を閉ぢたことに遇然な機会を見出した。それは、道子を偽つて彼女に不安を与へてやらうと思つたのだつた。
 そこで彼は悩む者のするやうに両手で確り頭を圧えた。
「頭が割れさうだ。」――暫らく沈黙を保つた後に、――重々しい、そして発言に遇然のやうな調子を加へて、
「――狂人になるんぢやないかしら!」と低く呟いた。
「くだらない。」道子の例の憎むべき冷笑の声が彼の耳に聞えた。喰べてる舌の音もしてゐる。
 彼は決して道子に云ふやうな態度を示さずに「僕は独言を吐いたのだ。――狂人といふものには、こういふ静な瞬間にふいとなるやうに思はれる。」と云つた。
「ぢや、もう狂ひになつてるかも知れないわ。」道子は相かはらず冷かな調子を保つてゐたが、稍彼の独白に動かされたらしかつた。
 彼はぴつかり眼を開いた。道子の顔色には明かに不安の色が読まれた。――彼は嬉しかつた。うまく効があつたらしい、どうだ敵ふまい、と密に云つた。こゝで、うんと道子を踏み滲つてやらなければ、時はない、と思つた。
「僕はね此間Kさんから直接きいたんだがね、その時Kさんは自分が気が狂つた時の気持を僕に話したんだ、――狂人になる時の瞬間といふものはね、つまり真人間から狂人に入る最初の一分さ、それは全く偶然なものだつてね。Kさんはある静な朝目を開いた時、ふと「おや俺は気が狂ふんだな。」と思つたのだつて、と殆ど同時にもう駄目になつて居たのだつてさ。急激な周囲の刺激に突き当つて血が騰つたわけでもなく――たゞある一種の空気と自分の精神とが触れ合つた一瞬間に、別の世界を見せられたのだ。よく歩いてゐる人が真空域に触れて突然筋肉の裂傷を見る場合があるじやないか、――何とか云つたね。」
カマイタチとか云ふわ。」
「それそれ、――丁度それと同じ様なものさ、精神といふものがある神秘な空気に触れゝば、人間の精神だもの敵ふわけがない、立所に裂傷を負はされてしまふさ。当然在り得べき事だ――。
 道ちやんも今云つた通り僕の此頃の挙動は変に見えやうが、何も僕は酔興にわざとこうして居るわけじやない、僕の目の前には異様な幻が雪のやうに踊つてゐるのだ。Kさんもその二三日前には僕の通りだつたつて。これでもう一歩先の或るものが僕に見へた時は、もう今の僕……人間の言葉を巧みに使ひ得る僕ではなくなつてしまふのだ。僕はKさんの経験を聞き又自分も同感し得、ある解釈が附けば附く程、今こうして坐つて居ること、刻々と時が刻まれてゆくことが怖ろしいのだ。僕だつて気狂ひになることは真平だからね。」彼は仰山らしく身震した。
「さう……?」道子の心は明かに欺かれて来た。彼女は不安気に眼をしばたゝきながら彼の言葉で思ひ当る事を探してゐるやうだつた。彼は内々会心の微笑を禁じ得なかつた。頭は益々明瞭になり平時に復してゐた。
「僕は現実を笑つたのではない。僕の怪し気な幻と微笑を交換したのだ。だから道ちやんから見たら充分気味悪くも見へたらうが、僕自身にとつては別に不思議はなかつたのさ、ハヽヽヽヽ。」
「――」道子は彼の顔を穴のあく程凝視して居る。
「ハヽヽヽハヽヽヽ。」
「――――」
 道子がだんだん真面目になつて来るのを見ると彼は可笑しくてならなかつた。笑はずには居られなかつたのだ。彼は道子の珍らしくも浮べた不安の色を見ると、どうしても笑はずには居られなかつた。彼は今自分が笑つてゐるのを、道子が案外にも彼の思ふ寸法通りに取つて怖れ始めたかと思へば、嬉しくつて堪らなかつた。
「兄さん!」道子は急に頓狂な声を出して、慌てゝ指先を手布で拭ふた。「全体家には狂ひの血統があるんだつてね。今迄大抵一代に一人は出たつてえ事よ。」
「そんな事は今更云ふ迄もない事だ――」道子が稍々平伏して来たので痛快でならなかつたから、彼は強いて尤もらしく厳然と唸つて見せた。さうして彼は瞑想に耽けるが如き態度で、両方の眼を据えて凝と窓の方を睨むだ。
「実はね、兄さん――阿母さんもそれで此間から大変心配して居るのよ。妾は阿母さんの臆病や迷信はてんで相手になんかしやしないけれど、何でも兄さんの着物をそつと易者へ持つて行て見て貰つたんですつてさ――だけど兄さんは本当に今云つたやうな事を信じて居るのですか、えゝ?」
「誰が酔興に……」
 彼にとつては、こゝの処が仲々の難関だつた。もう一歩道子を信じさせてしまはなければならなかつた。こゝらで一歩違へば立所に道子は剣のやうな冷笑を真向から浴びせることは解つてゐる。さうなつてからいくら騒いだつてもうおつつかない。彼の見せ場はこの辺が最も六ヶ敷いのだつた。
「死ぬ死ぬてえ人に死んだためしはないてえが、何だか兄さんもその部類らしいのね。」彼女の眼は雲間を出た月光のやうに輝かうとした。「あぶないツ。」彼はヒヤリとした。
「まあ何とでも思ふがいゝさ。僕は何も他人に話してゐるのではない。まして道ちやんなど其処に居ようが居まいが、何も道ちやんに同情を求めやうとか心配させてやらうとかなどといふ馬鹿/\しい考へではないのだから……そんな事は云ふのも面倒だ。――若しならなかつたら幸ひだが……どうも俺は……あゝ頭が痛い――」
「そんなに痛むの? ……困つたわね。」道子が当惑の色を現した。彼は何年振りに、道子が他人の為に困惑の情を示したか、殆どそれは彼の記憶になかつた。
 彼は、わけもなく非常に嬉しくなつた。千載の恨みを晴したやうな気がした。然し彼はこの時次に言ふべき言葉を見出すことが出来なくなつた。勿論狂人になるなどゝいふ馬鹿/\しい考へは持たうとしても持てなかつたし、その儘にして置けば当然再び道子のために折角の勝利を目茶/\にされてしまはなければならないのだ――彼は膝に眼を伏せて、何と云つたらよいものかと考へ込んだ。道子は不安気に黙つてゐるけれど、好機逸すべからずの時であるけれど――どうしても言葉が見出せぬ。うつかりしたことは云へないと大事をとればとる程言葉が出ない、――彼は手持ぶさたをまぎらさうとして鏡台の引出を開けると鋏が手に触れたので、それを出した。何気なく爪をパチ/\と切つた。爪が火鉢の中へ飛んでジリ/\燃えた。
「あら! 兄さん! ……爪を燃すと狂ひになつてよ。」道子は慌てゝ――顔色が変つた――彼の手をおさへた。彼女の手先はブル/\と震へてゐた。
「ハヽヽヽ。」と彼は笑つた。
「戯談じやないことよ。」
「迷信だよ。」
「だつていけないわ。」道子は飽くまでも真面目だつた。
「昔の人はね、そんなことをよくいふけれど、それには多少理由があるんだよ。今に化学をやると解るが爪の中には酸素の一種で笑気と称する原素が含まれてゐるんだ。それが発散すると、丁度クシヤミ薬のやうに、人にくすぐるやうな感覚を与えるのさ。それから出たのさ。然し笑気といつたつてほんとに人を笑はせる程多量に含まれてゐるわけじやないのさ。分析の結果さういふものがあるといふだけのことさ。」彼は説明しながら尚も爪を火にくべてゐた。
「しまつたことを説明しちやつた。」と彼は気が付いた。折角道子の感情が高潮に達した処を――残念なことをしてしまつた、と彼は思つた。
「さう、やつぱり昔の人の云ふ事には何かしら原因があるものね。」案の条道子は平然としてしまつた。と同時にやつとのことで彼が欺いてゐた事すら凡て棄てゝしまつたやうに道子はいつもの通りになつてしまつた。
「しまつた/\/\。」彼は何辺も/\心の中で繰り返した。然しもうおつつかない。彼は此上もなく残念だつた。指が無意識に動いて爪を切つてゐた。爪は幾つとなく火に燃えた。……道子は笑ひながら見てゐる。
 一番大きな親指の爪を三日月の様に切つて、徐ろに彼はそれをつまんで火の中に落した。ジリジリツと音を立てゝ燃えていつた。ほんのわずかな煙りがフツと昇つた。
 ――もうどんな仰山な真似をしたところで徒らに道子の冷笑を買ふばかりだ、と思ふと今更彼は悲しさが込み上げて来た。さう思ひながらも彼は爪をとつてゐた。道子は無論平気で菓子を食つてゐる。
 のばさうと思つてゐた小指の爪も、知らぬ間に彼は切つてゐた。軽い自暴自棄が彼の胸に拡がつて来た。これでもう全部切つてしまつたのだ。――爪は又かすかな煙りをたてた。――再び得られぬこの瞬間! なるやうになれ、と彼はこゝぞと思つてニヤニヤツと凄い笑を洩して、道子に見せた。芝居にならぬことを内々切望しながら。
「チエツ、何さ!」道子は快活な嘲笑を彼の真向から浴びせて大きな声で笑つた。芝居になつてしまつた、然も喜劇になつてしまつた、と彼は思ひながら両脇に酷い冷汗を覚えた。で彼は今迄の仰山な真似を取消すべく、
「何でもないのさ。」と道子に合せて快活に笑つた。

 その夜彼は寝ながら呟いた。
「俺は道子の奴に惚れてるんだ。」





底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「十三人 第一巻第二号(十二月号)」十三人社
   1919(大正8)年12月1日発行
初出:「十三人 第一巻第二号(十二月号)」十三人社
   1919(大正8)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード