凸面鏡

牧野信一




「君は一度も恋の悦びを経験した事がないのだね。――僕が若し女ならば、生命を棄てゝも君に恋をして見せるよ。」と彼のたつた一人の親友が云つた時、
「よせツ、戯談じやねえ、気味の悪るい。」、と二人が腹を抱へて笑つてしまつて――その笑ひが止らない中に、彼はその友の言葉に真実性を認めたから、自分を寂しいと思ふ以上に、親友の有り難さに嬉し涙を感ずる、と同時に、「そんなに心配して呉れないでもいゝよ。」と答へ度いやうな安心と軽い反抗とを感じた。それは彼が恋をした最初の瞬間、同時に失恋をしたところの道子を思ひ出したのであつた。一分間の中で、恋をして、失恋をして、さうしてその悶へと、恋の馬鹿々々しさとを同時に感じて、然もその同じ一分間を何辺となく繰り反した「ある期間」を道子の前に持つた事がある、と彼は思つてゐたから、――あの一分間をだら/\に長く延したものを持つた人が、所謂「美しい恋の絵巻」の所有者となつて誇り、あの一分間に感じた失恋を、ちよつと形を違へて(幸ひにも)長く経験した人は痛ましい失恋者となつて自殺することも出来るが……自分は――で、もう、あらゆる恋の経験はして来たのだ、といふ気がしてゐた。この気持が友によく解つたら友は屹度安心するだらう、が何しろその恋なるものゝ形式が余りにはかないので、どうやら言葉で説明したら、この親愛なる友を慰める事が出来るだらう、……と、など彼は考へて居た。
「しむみりしたいゝ晩だね。――どうだい君、散歩は止める事にして、ひとつどこかへ飲みに行かないか。」と友が云つた。
 ――あべこべに、慰めやうとしてゐるな……と彼はムツとした。どうやらわけが解らなかつた程強い、友に対する反抗心と自暴と妙な落着きとが、不愉快な気持となつて、彼の理性に逆つた。
「俺はもう絶対に遊びや酒は止めやうと思つてゐるのだから、行くのなら一人で行き給へ。」と彼は云つた。――友は帰つた。
 ――矢張り自分は道子に真実に恋した事だツたのだな、と彼は、友に今持つた感情が間違ひでなかつた、といふ気がした。
 ……何にも考へてゐないぞ、と思はるゝやうな清々しい平静な気持で、彼は剃りかけてゐた顔を剃り初めて居た。
 ――一処に出掛けやう、ちよいと顔を剃る間待つてゐて呉れ、と友を待たせて居た間に、つい友を帰らせてしまつて、でも少しもその事は心に反応を感じなかつたが――奇麗に顔を剃り終へて、ふと、ホツとした刹那、
「あゝ、一処に行けばよかつた。」といふ気がした。
 後を追ひ掛けて見やうかな、と思ひ乍ら彼は煙草に火を点けて坐り直した。――道子が嫁に行つてしまつてから一年目の春のある夜だつた。

          *

「妾はね、随分痛ましい恋のヒロインなのよ。事情といふ、妾達にとつてはどうでも関はないものゝために、心から愛し合つてゐる二人が別々の世界に離されてしまつたの。
 それが運命なのだ、とは知つてゐても……ね、妾にはどうしてもあきらめ切れない……で妾は勿論死むだつもりでお嫁に行く……ね、解つたでせう、ね、純ちやん、解つたでせう、妾の心が。同情して下さいね。」道子が、買物に行くのだから一処に行つて呉れ、と、彼と二人して銀座へ出掛けた道々に、その長い物語を(道子の睫毛には涙がまばらに溜つたりした。)――と、結むだ時、
「そこゐらで、グワーンと鐘が鳴る場面だよ。チエツ! くだらねえ。」彼は冷かに(が、道子へは愛嬌であると見らるゝ程度で)答へると後から後から自分でさへ感心する程巧妙な軽い(それも勿論道子への軽いと響かせる程度の技巧が加つてゐる)皮肉や洒落が出て、決して予期しては居なかつたが、まんまと終ひに道子を噴き出させて仕舞つた。
 ――あんな事を云つてゐやがる癖に、と彼は、道子が、普段のにはこれがいゝだらう、あれがいゝだらうなどゝ、財布を一つ買ふのにも実用と虚栄とを目安にした問をうるさく掛けるので、……道子の一挙動までに悉く憤懣を感じた。先程さつきの恋物語に、同情して、運命の敵し難さを共々に咒つてやつて、涙を流しかけてゐた道子を、何故もつと泣せずに――然も悲しい努力をまで感じながら、笑はせてなど仕舞つたのだらう、と彼は悔いたりした程、道子が買物となると嬉しさうにはしやいでゐるのを見ると――「道子の恋人なる人は馬鹿を見たゞらうな、可愛想に。」といふ気がした。同時に、此間道子の机の抽出しから男へ宛てた手紙の反古を発見した時、嫉妬の余り鼻をかむで仕舞つた自分を、彼は思ひ出した。
 一月も前に嫁入仕度はすつかり出来て仕舞つてゐるのに、それでも未だ毎日のやうに、母達がチヤホヤするのでイヽ気になつてゐるのだらうが、「出掛けて見なけりや細いものは見附らないから。」と、母が「つてから恥をかいちやならないから――精々散歩するつもりで、落着いて、一つゞつでもいゝからね、日に。」とかなどゝ云つては、婚礼の為にのみ生きてゐるやうな素振ばかりなので、「死ぬつもりでく……がきいてあきれる。」、と彼は思つた。勿体をつけるためにあんな長たらしい物語などしやがつたんだな、(活動写真でやれ手を握られたとか、嫌らしい男がひとの顔をジロジロ眺めてそりや気味が悪かつたのよなどゝ貞操にかこつけて無貞操な自惚れをよく云ふやうな道子だから。)といふ気がした時(獲物をした探偵のやうな、と彼は思つた。)浅ましい寂しさを感じた。
 浅ましい、と思つただけに彼は妙に恥しさを感じたから、裏切者がその罪を覆はむが為の嘘偽と、「愚人に説教する道徳家」のやうなたかびしやな気持で、資生堂の前に来た時、五六歩遅れて来る道子を振り反つて、
「寄るんだらう?」と云つた。道子は笑ひながら否と眼を振つた。――予期に反した不満などゝいふものよりも、彼は「しほらしい道子よ。」とある安心を感ぜずには居られなかつた。「ほんと?」
「今頃になつて――戯談じやないわよ。」
「あゝさうさう、資生堂行きといふ一日があつた事を忘れてゐたよ。プログラムの定つてゐる日は到底拙者などお伴の栄には預れないので……うつかりしてゐた。」――案外にも、といふ気が彼はした――極めて空虚な悦びを感じたから。
「ふざけちや嫌よ、みつともない。」と云つても道子の眼は先のものにばかり輝いてゐるらしく彼の言葉で更に新しい緊張を感じた如くソワソワとして、
「さうさう、でもちよいと寄つて見ませう、何かまた……」と、その日銀座に来た目的を決して忘れず、パタパタと草履の音をたてて駆け込むだ。彼は通りで煙草に火を点けて、それから店に入つた。
「また煙草……お止しよ、みつともない。」道子は小さな声でさゝやいだ。彼はその言葉に取り合はない事に非常な快感を覚えた。

 道子が彼方此方あつちこつちとウロウロしてゐるのを、彼は見ない振をして、傍の飾り箱に見入つてゐた。その中には剃刀とか小さな鏡や美爪具などがならべてあつた。
「何かいゝものがあつて?」と、いつの間にか道子は彼の傍へ来てゐた。
 お前のものなんか探してゐるのぢやないよ、と彼は云ひたかつたが――ふと妙案が浮むで、道子の言葉には耳も借せずに、番頭を呼んで、「これを出して呉れ給へ。」と、その瞬間まで心にもなかつた顔剃用の凸面鏡を指して云つた。
「買ふの?」と道子が云つた。と、道子が云はなければ自分は買はないだろう、と思ひながら、「あゝ。」と彼は答へた。
 道子は金を払つて一歩遅れて出て来ると、好人物らしい微笑を浮べながら、然もある満足を感じてゐるらしく、
「それ、重宝なの?」と優しく云つた。
「あゝ。」彼は横を向いて答へながら、絵葉書屋の前に立つた。
「兄さんはね、純ちやんの事を大変に心配してゐるらしいのよ。此間大変に酔つて帰つた晩……いつものやうに乱暴してね、阿母さんは髪の毛をむしられたし、妾も(涙声で)……止めやうとしたら「殺すぞ。」と怖しい見幕になつて……、
 その後で兄さんは急に泣き出したの、純は居ないか/\ツて……」
「ほんとうに兄さんには困つた……何しろ病気が病気なんだからね。」彼は涙ぐましい気持になつて珍らしくもしむみりと道子に答へた。
「……純が若し気でも触れたらどうしやう、と兄さんは泣くのよ。……純は何故勉強しないのだらう、一体何処の学校へ入るつもりなのか、何になるつもりなのか、俺はそれが心配で狂ひさうだ。……彼奴には俺の腹が解りさうもない、俺はどうしたらいゝんだらう、彼奴は気狂ひぢやないのかしら、人にこんなに心配を掛けて……とそんなことを切りに云つてゐたわ。――まさかね。」道子は寂し気に笑つた。
「兄さんはそんなに僕の事を心配してゐるのかね。」彼はこみ上げて来る涙を辛じて堪へた。兄の病気にそれ程まで自分の事が係つてゐるかと思ふと悲しさに堪へられなかつた。
 ――兄の胸にとりすがつて心ゆくばかり泣き度い、気持がした。自分の小さな決心に依つて多少でも兄を慰めることが出来るのならば、どんな苦しみも厭ふまい……先づ兄の前で心からの決心を持つて「勉強します。」と云はう、と彼は堅く思つた。
 ……その矢先彼は、道子の口から極めて案外な(勿論初めて聞いた。)言葉を聞された。然もそれが道子にとつては左程の不自然さもなく云はれてゐるらしかつた。
「妾の結婚と云ふ事は兄さんには無論秘密なのよ。だけどもう薄々気が附いたらしいわ。困つて仕舞つたのよ……此間のやうな勢ひじや兄さんは妾を殺すかも知れなかつたわ。」

 感情に説明をつける事は容易だつたが、説明を附ける事が余りに怖しく滑稽さへ感ぜられて……その夜彼は机の前に座つた儘ぼんやりとしていつまでも寝やうとしなかつた。
 道子に買つて貰つた鏡を解いて、大きく写つた顔を凝と視詰めた。……力一杯自分を殴ることが出来たらどんなに愉快だらう、と思つた。

「純ちやん、妾が居なくなると喧嘩の相手がなくなつていゝでせう。」
「ほんとだ、余ツ程いゝ、煩くなくつて。」
「だけどね、戯談でなくさ、よく勉強してね、さうして今年こそは及第してお呉れ、ね。」
「余計なお世話だい。」戯談の形式で且充分さう響くやうに努めてゐつたのだつたが、「戯談でなくさ。」と彼の表現の希望通りに棄てられてみると、グツト癪に触つて、――と、冷かに答へたが、同時に冷に過ぎたかな、といふ気がすると、ハツと思つた、で彼は続けて、「勉強なんかするもんか。」と頼りない強迫的の気持で云つた。
「どうして純ちやんは此頃さう意固地になつたのでせう。妾が何か云ふと直ぐに喧嘩越になるか、ひやかすか……少しも妾の云ふ事を真面目に聞いて呉れないのね。」道子の眼眦は桃色に上気して、もう露のやうな涙が光つて見へた。
「――――」
「いゝよ、たんと妾に心配させなさい。」道子は立ち上らうとした。概念的なこの思ひ切りのいゝ道子の態度で「とても敵はない。」と彼は思つた。道ちやん許してお呉れ、どうか棄てないでもう少し今の通りでいゝから優しい言葉を掛けてお呉れ、と念じながら、
「僕はこれから君千代の処へ行かうや。」と、壁の方へ視線を反らせて、彼は立ち上つた。
「純ちやん、お待ちな。」道子は元の通りに坐つた。
 ――善人に幸あれ、と彼は思ひながら、「何か用があるの?」と、?に、利己的の調子を強く現して、空とぼけて云つた。
「まあ、お坐りなさいつてえば!」
 ――彼は(涙を感じた。)傲然と安坐をかいた。
「――」彼は煙草に火を点けた。
「――」道子は亢奮し切つた声で「純ちやん。」と呼むだ。
 勇ましき楽天家オプテイミストよ、その幸を配けて呉れ、と彼は真心で呟いだ。
「妾はね……妾はもう四五日でこゝの人ぢやなくなるのよ。」道子は泣声ふるはせた。
「――」――
「妾の……、純ちやん、……妾の……お願ひするわ。妾の最後の言葉を……。もうお別れの間端なんじやないの……ね、真面目になつて……」
「いくらお別れの間端だつて、まさか芝居の真似事は出来ないよ、フヽツ!」道子の凝視から離れてゐたら、屹度俺は自分の頭を割れる程殴る事は容易だ、たしかにやつて見せる、この手で、と思つた彼は懐中で堅く手を握つてゐたのに気が附いた、と急いで手の平の汗をシヤツで拭つて……煙草を取つてゐた、まで殆ど無意識の動作だつた。
「何てえ人でせう! 純ちやんには、阿母さんや妾が普段からどの位お前さんの事を心配してゐるか少しも解つてゐないのね。
 試験の準備ツたら少しもしないし、その上夜ときたら十二時前に帰つたことはなく……静だから勉強なのか、と思つて、妾は一日に何辺そつと見に来るか知れないのよ――いつでもお昼寝ばかりなんじやないの、でもね、妾達は責めませんでしたが、妾は阿母さんと、純ちやんの事が心配で何れ程泣いたか知れませんよ。阿母さんは八幡様へ御願まで懸けてるのよ。
 それに純ちやんには兄さんの事も心配にならないの? え?」
「試験など馬鹿/\しい。学校なんか止めだ。――兄さん? 仕方がないよ。病気なんだもの、」
 彼が近頃は酒を飲むと云つて母や道子は大変に心配してゐるらしかつた。尤もいつの晩だつたか、友達の家で酒をすゝめられたが嫌ひでもあり弱くもあつたので、二三杯漸く飲むで少し酔つて家へ帰つた時、道子の前で実際の酔以上の酔態を示した事があつた。君千代といふのもそれと同じやうなものだつた。
 家系に精神病の血統があるといはれ、現在彼の兄が発狂してゐるとは云へ、酒を飲むだらしいなどゝいふ事になると「試験が心配である」といふ言葉にかこつけて、そんなことよりも彼の精神状態や日常生活などに、ある疑ひの眼をもつて云つてゐるらしいところが往々に母や道子の言葉の裡にうかゞはれるので、彼は、余りに彼等の無智が嘆げかはしい、と思つた。
「まあ!」道子はつくづくあきれた、といふ投出しの色を示した。「純ちやんには真情といふものがまるでないのね。」
「あゝないよ。」
 火鉢に翳して細かに震へてゐる白い道子の指先から、その上気した奇麗な頬を想つた刹那、彼は穴へもぐり度いやうな羞恥を感じた。たつた二年足らずではあるが、全く姉と弟のやうにして同じ家で暮した道子に、「実は僕は姉さんに恋してゐるんだよ。」と云つたら――とてもそんなあり得べからざる光景は想像すら冷汗を覚ゆることで――でも、道子がどんな顔をするだらう、とまで思はずには居られない……と思ふと、――思ふさへ余りにとてつもない滑稽で、その前の晩なども、冷汗さへ許されぬ冷汗から、堪らなくなつて急いで電灯を消して、亀の子のやうに四肢をかじかめて床へもぐつた、馬鹿、馬鹿、馬鹿、と慌てゝ口走つた――この俺の顔を鏡に写して見度いと思ひながら。鏡に写した顔を、様々に――こんな顔も出来るものかなと思つた程、変つて、少しも笑ひたくならず……其儘凝と視詰めた……道子を想つた後は……。
 ――この俺の顔を鏡に写して見度い……と彼は道子の指先からこの瞬間羞恥の果へ落ちて――割合に呆然とした。
「ほんとなの、純ちやんは……」
「ほんとだとも。」
「勝手になさい。妾はもう知らないツ。こんな馬鹿じやないと思つた。」
「何云つてやがるでえ。」彼は自分ながら落着いた憎々しい口調で「どつちが馬鹿だ。」と云つた。

 兄の病気の為によくないから、と云つて母は家中の鏡と顔の写る塗物類などを秘して仕舞つた、彼の凸面鏡もその一つとして選ばれた時、彼は妙な寂しさを感じて、
「阿母さん、そんなことは迷信ですよ。」と笑ひ乍ら云つたが、母の意の儘に彼はそれを母の手へ渡した。道子の結婚が無事に済むだ後だつた。
 兄は桜の花が散り終へた頃には病勢が益々募つて到々脳病院へ入れられた。

          *

 間もなく友から電話が掛つて来た。
「今ね君の後を追ひかけやうかと思つてゐたところなんだよ。」
「多分そんな事だらうと思つてね。」
「ぢやすぐ行くよ。」

 春か! と彼は、ステツキを振りながら呟いだ。
(八年四月)





底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「新小説 第二十五巻第八号(八月号)」春陽堂
   1920(大正9)年8月1日発行
初出:「新小説 第二十五巻第八号(八月号)」春陽堂
   1920(大正9)年8月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月26日作成
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