失題

牧野信一




 一刻も早く家へ帰り度い気持と、それとは反対に、どこかへ行つて見度いといふ気持――がその二つの心にのみ面接してゐたといふ程ではなく、ただその朧ろげな二つの気持を「空漠」とした白さが濡紙のやうにフワリと覆つて、つまり彼はその三つの心を蔵して歩いてゐた。而も彼は家路へは逆に歩いてゐた。――。

(その宵に限つた事ではない。一度外出して、帰路に着かうとする時はいつも同じやうに起る近頃の彼の気持である。以下もこれに準ずべきものである。)

 ――その事が更に彼を不機嫌にする。帰らない所を見ると(自分は「ペッ」と歩道に唾を吐いた程焦々してゐながらも)、彼の大嫌ひな白い気持が一番大きく彼の心を支配してゐる事は明瞭ではある。
「――ところで?」と彼は何気なく呟いた。余りに無稽な妄想で、彼は自分ながら可笑しくなつた。彼は、その独言で、勝手にテレて――さうしてまた彼はそのテレた気持を回復しようと努める為に、稍暫く絵葉書屋の前に立つて、ヨソメには如何にも熱心な絵葉書の愛好者であるが如く見ゆる程、凝と絵葉書を眺めた。
 いつの間にか彼はその店の奥の方迄侵入してゐる事に気が着いた。……。
「エヽ? ……と?」小さな声で彼はさう云はずにはゐられなかつた。
「あの、活動のならこちらに見本がございますから、どうぞ。」
 その声で彼は、一足飛びに活動俳優の愛好者になつてしまつた。その一秒前に、さう見られた事が不快で、ヒヤリとしたのに。
「伊太利ものは?」
 極めて順調な、而も「通」がかつた調子で云つてゐるのに驚くと、――彼は、首だけが自分勝手に様々な言葉を発してゐるやうな、酷くテレた気持になつた。
 彼は刻明にアルバムを繰つてゐる、実際に彼は厳密な選択慾にのみ駆られてゐた。
 ――店の女が退屈さうな顔をしたらしいのを、彼は瞥見した。彼は、無茶苦茶に――二三枚と思つたが悪いやうな気がして七八枚抜き取つた。
「先づそこいらか。」そんな事を彼は呟いた。
 通りへ出た彼は、ホッとして、可成り足早に歩いてゐた、矢張り家へは反対に。その歩き方の速さは、到底用の無い人間だとは見受けられない。
 或店の店頭の大鏡の前に来た時、歩きながらちよつとその中を彼は覗いた。――彼は襟巻で顔を覆ひながら「フヽッ」と笑つた。難解な哲理でも摸索してゐる、とでも云ひ度いくらゐ鹿爪らしい顔付をしてゐるのを見て、何となく羞しさに駆られたのだつた。
 それから、彼は、どうしたのだらう、ふと立止つた。――彼は、何気無さを装うて軽く周囲を見渡した。さうして、恰も何か忘れ物を思ひ出した態を露骨に表す、といふ自分ながら妙な(と思つた)虚栄心で、
「……」何やら首を動かして点頭くと、クルリと踵を回らせた。と、またスタスタと歩き初めた。で、また鏡の処まで来ると、偸むやうに卑しい視線をチラリと投げた。と、彼の視線と、見知らぬ人との視線がその中で出会つた。彼は慌てて踵を元へ戻した。
 次の横町を、当然のもののやうに速かに曲つた。――。

 暗い横町に入ると、彼は軽いながらも、醒めたやうな気持がして、何となく落着いた。
「何故、俺は早く家へ帰らないのだらう。」と彼は思つた。
「オヤッ」と、彼は慌ててふところに両手を容れた。……。
 ……「畜生奴!」彼は、ガチッと下駄を踏み鳴らした。(ガマ口を紛失したのである。)……彼の後悔の気持は、想像通りに醜く強烈だつた。「その気持に」凝と浸つた彼は、反つて小気味よい快感を感じた。
「俺は少し頭がどうかしてゐるぞ。」と彼は思つた事には、三分ばかり後には、三分ばかり前と同じやうな呆然とした心に覆はれて行くのに驚いたくらゐだつた。
「どこかからひとりでにガマ口は出て来るだらう。」そんな途方もない事を、現在の気持とは別のもののやうに冷かに、考へてゐるのに驚いた。――。

 その次の横町から、悠然と煙草を啣へながら、また彼は明るい元の大通りへ現れた。さうして先刻さつきと同じやうな鹿爪らしい顔付で、寒いせゐかいくらか鼻頭をあかくして、――尚も家路とは反対な同じ道をヒヨロ/\と歩いてゐた。
ところで? ……!」――。
 星を仰いで、彼は呟いた。
(九年十二月)





底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「十三人 第三巻第一号(一月号)」十三人社
   1921(大正10)年1月1日発行
初出:「十三人 第三巻第一号(一月号)」十三人社
   1921(大正10)年1月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月6日作成
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