日曜の朝でした。――「
「だつてお母様……」と、あべこべに不機嫌な顔をして、「だつて……だつて……」と、わけのわからない
「そら始つた、こんな時に限つて勉強なんでせう。」
「だつて……」
「勉強なの?」
斯うお母様に
私? 私ですか? さあ私は、この二人のどつちの味方になるでせう? 少し考へる時間を与へて下さい。
私にも、美智子の母の心持はよく解ります――私だつて斯う見えても、もう一人前の大人ですから、さつき、「あゝ美智子といふ子は何といふ我が儘な子でせう。」なんて慨嘆に似た声を出して見たのです。ところがこの私――大人とは云ふものゝまだ学生時代の夢から脱けることの出来ないでゐる大人なのですから、何の見得もなく正直に、私のこの場合の感情を表明したならば、「美智子、怒れ怒れ。」といふ気持も多分にあつたらうと思ひます。
美智子が今、母に言はうとしてゐるところのものは、この私にはちやんと解つてゐるのであります。美智子は少しも知りませんが、前の晩私は少し用事があつて、十時過ぎに帰宅して見ると、私の机に凭かゝつてゐたのは従妹の美智子でした。「おや、泣いてゐるのか知ら?」と私は軽く驚きました。美智子は嘆くものゝ如きかたちでぴつたりと私の机に打伏してゐるのです。これは何か
こんな上手な、悲しい歌の作者はさすがに違つたものだ。なる程かうやつて、うむ、今屹度あゝして歌のことを考へてゐるに違ひない。して見れば、その美しい夢を破つてはならない、と思つた私は、足音静かに室に入つて行きました。
ところが、それは大違ひであつたのです。詩人美智子は、詩を考へてゐるのでもなければ、真珠のやうな涙に泣きぬれてゐたわけでもなかつた、詩人は居眠り――いや、耳を澄まして聞いて見たら、グウグウと鼻を鳴してグツスリと寝込んでゐるんぢやないか――よくポンチ画にある図でインキをこぼして、顔を真黒にしてゐなかつただけが見つけものだつた。
「そりや詩人だつて眠くなれば眠るさ。」美智子は無論怒つてかう弁解するに決つてゐる、だから自分もそんなことを美智子に云ひはしない――だが兎に角、余り見場のいゝ光景ぢやない。
美智子は日記を書きかけてゐたらしい。私は悪いと思ひつゝそつと覗いて見ましたが、手帳の上に鼻をペツシヤンコにおし付けてゐるんだから、よくは読めなかつたが、漸くのことで私は以下のやうな文章の書いてあるところを見ることが出来ました。曰く……あゝ寂しき夜なり……(その次のところは美智子の指にかくれて読めない、以下も飛び飛びにしか見えません。)……もう明日は日曜である。私は日曜が大好き! 殊に明日の日曜は待ち遠しい。何故なら……パラソル、靴、リボン……それだけのものは如何しても……大丈夫お母さんは……忘れるといけないから品物の名前を書き附けて置いて……今日は兄さんは何処へ行つたのかしら? 九時半だのに……。兄さんが居ないと……清々していゝ……。
この処まで見た私はムツとした、清々していゝとは何だ! おまけに吾が輩の机の上で……と思ひました。だけど忍耐の徳を弁へてゐる私は、十を数へる迄もなく我慢はしました。うつかり挑戦すると美智子は奥の手の泣き虫を発揮するし、美智子の母はさうするとやつぱり其方に加勢して「何だね、小ちやな者を相手にしてムキになるなんて!」などゝ云ふし、で、まあ兎に角その先を読み度いものだ、と私は思ひましたが如何に首を傾けて覗いてもその先は読めませんでした。
これが即ち前の晩の事情なのです。だから私は美智子より遅く起きて来て、縫物をしてゐる母の傍でしきりに美智子がねだりごとをしてゐる様子を見た時には、直ぐに「成る程!」と思ひ当りました。美智子の方では自分が今母に願つてゐる内容を、私がまさか知つてゐるとは思ひませんから、しきりに「だつて、だつて。」を繰返して居ります。美智子の願ひは無理はないとも思へたから、
暫くたつて母は「ぢや、まあ仕方がない。だけどもね、お母さんはとてもお前さんのお供なんてしちや居られないから、順太郎に一緒に行つてお貰ひ!」と、私の方を向いて「ねえ順太郎、お前美智子と一緒に松屋迄行つてやつてお呉れでないか?」といつた。――「真平御免だ。」と私は思つた。此方の都合も尋ねないで、頭から一緒に行つてやつてお呉れなんて……それだけでも私が怒る
「いやァよう、私、兄さんとなんか……」
何といふ甘えツ子だらう! 母が叱らないものでいゝ気になつてゐるんだ――私は非常に機嫌を損じました。
「此方は未だ行くとも行かないとも返事はしやしないよ。頼まれたつて厭だい! 莫迦々々しい。」と私は云ひました。
「ねえ、お母さんてば……」と、美智子は此方などには少しも頓着なく、しきりに鼻を鳴らして
「一体何を買ひに行くのさ?」
「お母さん、兄さんになんか云つては厭よ。」
「仕様のない子だね。お前には敵ひやしない。」
「だからさ、早く。」
「だからさもないもんだ……」と云ひながらも、母はそろ/\と仕事を片附け始めました。
あの日記の先に、一体どんなことを書いたらう、――と思つた私は、二人が出て行つて了つたら、「ひとつ見聞に及んでやらう。」と決心しました。私の心は微かに躍りました。
青空が気軽く見ゆる、風かほる快い日曜の朝です。自分もこれから何処かへ遊びに行かうか知ら、とも私は思ひました。その二つの心が間もなく溶け合つて、私はたゞ出掛けることのみに就いて考へ始めました。