坂道の孤独参昧

牧野信一




 何故俺は些う迄性のない愚図なんだらう、これツぱかりの事を何も思ひ惑ふにはあたらない、手取り早く仕度さへすれば二時間も掛らないで出来上る……が、純造は「明日こそは――」と叱るやうに決心した。前々の日に出掛ける筈で既に叔母から旅費はちやんと貰つて大切に机の抽出に蔵つてはあるのだが、つい出遅れて、これも度重なつて具合も悪く、この日は午後から到々頭痛がすると称して二階の室に寝て了つたのである。――眼を瞑ると、渺茫たる青海原が陽春の日の下に凪ぎ渡る……間もなく彼の肉体はその喜びだけで充満する――「一時も早く彼の海辺へ走らう、それだけが今の俺は唯一の心からの希望だ。」と、思つて行先の想像に恍惚として、熱海へ行つてからの細かな処まで様々に想ひを回らす、――丁度望遠鏡か何かで遠くの美しい景色を眺めてでもゐるかのやうな怠惰な悦びを感ずる、――と、今日でなくてよかつたと思ふ、明日迄このしみつたれた予想に耽り得る時間に延び延びとしたルーズさを覚ゆる、――その怠惰さ加減を彼は今強く叱つた筈だつた。で、彼はもう明日迄も待てさうもない気持に焦かれて、突然爪先を整えると怖ろしい勢ひで被着を蹴つた。燐寸の棒を折つた様に胴と脚とが殆ど直角に屹立して、臀を中心にしたそれは弥次郎兵衛の通りに二三回フワフワとぎつこんばつたんをした。「それで腕組をした儘起き上れるか?」「他合もない。」「ならやつて見ろ。」――そんな興味を感ずると、一寸胸を轟かせて一つ勢ひを附けて「ヨイシヨツ」と思つた。見事に起き上れた時子供らしい喜びを、ふいと感じた。
 夕暮れで、白い雲が徐ろに動いてゐた。彼は椽端の籐椅子に身を落して空を眺めた。たゞ喟然たる気持のみが不安な程胸に拡がつてゐた。旅先の楽しい幻も稍ともすると「何にも考えてゐない」――白い煙りの彼方へ紛れ込みさうになる、――旅を想ふ余りの幻なのか、それとも単なる無稽な妄想なのか、見境ひが付かなくなる。……彼は難解な顔付をして、烈しく首を振り回した。ガラン胴の鈴でもあるかのやうに、たゞ軽かつた。さうしてピタリとその振動を止めた。――沈丁花の香りが、ふいと香つた。頭の中には、鐘をついた後のやうな微かな余韻だけがフラフラと残つてゐた。純造の意識は、たゞ執拗にその響きを追つてゐるのみだつた。
「明日からのことは先づそれでいゝとしても、今夜はこれからどうしよう。」――さう思つて見たのも、今に限つてはそれが故意に考えてゐるやうにも見えて、その先の手段に迄は想ひを運ぶ気もしなかつた。――切りに煙りを吹いてゐるばかりだつた。吐息の合間合間に丁子の香りがした。小さな庭の隅に咲いてゐる花だつた。……沸々として涌き出づる泉の微温が潺湲と胸に滾れたかと思ふと、愚かな五体は徐ろに無何有の郷に溶けて行つた。で、脳裏は風船玉の如く、洞ろな肢体は春の海に漂ふ舟の如くに軽く、「ひねもすのたりのたり」の海辺に拉し去られた快は、他合もなく幻のうちに微笑まれた。
 そんな気持に彼がなつたのは珍らしかつた。嘗て旅など想像したこともないし、一週間ばかり前にそれを思ひ立つた時などは実際情けない気持で仕方がなく決めたやうなものだつた。
「兄さん、電話ですつて、島田さんから。」階段の上り口で従妹の光子が呼ば張つた。――純造は、フヽンと思つた。その癖、同時に、あゝ助かつたと云ふ嬉しさが烈しく胸で踊つた。また別に、斯んな心残りも感じた――折角ヒトが快い落着に浸り得たものを、若少し此儘面白い空想に耽らせて置いて呉れゝばいゝのに、また無惨にも白痴を戯ふ了見でひつかき回しに来たのか。
 大体この三つの感情が紛紜して直ぐに立ち上らうともせず、新しい煙草に火を点じて、然し明らかに醜くゝ弱い心だけに急変して、静かに煙りを吹いた。この嫌な自らの心を傍観する病的な快感もあつた。
 極めて自然な冷淡を装ふ――結果は相手に焦噪と嫉妬とを強請する寸法なのである。純造の邪推深い悪癖で、自らもそれを効果のある Adulatory method として謀むことが往々あつた。――この気持が起つたのに気が付くと、酷い自己嫌悪に陥るのだつた。全く、照子と云ふ年上の女との長い関係(それは下劣な感情の争闘のみを多く戦はせた。)の後で、至純な恋の心がすつかりひねくれて了つた後で――つい近頃延子(島田)を想ふようになつたのであるが、その延子に対しても変な臆病さと、「一種の虚栄心とも云ふべき感情の戦ひ」を勝手に挑むでは、勝手に自らテレたりするやうな愚を、うつかり繰り返して了ふのであつた。延子の愛を肯定してゐながら、否定の形でそれをチヤカして見る、それで相手の心をグイと引張り寄せやうとする試練を行ふ、涙ツぽろい嬉しさの心ばかりの癖に、それと反対な態度で――つまり媚びて見るのである。照子と彼との関係が、その間男の心が如何に不自然に働いたかは、(それは彼の度し難い性癖かも知れないが)その後彼が延子を恋するやうになつてから、どんなにそのコヂれた感情の為に苦しむでゐるかといふ、たゞ延子との相対関係に反映した情実だけに止めて置く。
 愛することの満足――「ロマンテイクな恋」に努めて自惚れを持つてゐる純造は、「あの悪い心」を性質としてあきらめて了ふことは余りに寂しいことだつた。だから彼は「あゝ、俺は照子のやうな女に翻弄された報ひですつかり俺の心はくさつて了つたのだ。」と思つてゐるのであつた。「屹度此の心は取り返して見せる。延子の心はほんとうに正当で純なのだ、俺だけが悪いのだ、俺は自分勝手に低いレベルで極めて下賤な誰も見て呉れない独り芝居を打つて勝手に焦れてゐるのだ。延子に対して俺は全く済まない男だ。」――斯うなると「延子が恋しい」情ばかりがムツと胸につかえる、好きなセンチメンタルの涙が快くもホロホロと胸に溢れる。
 接吻が出来たらどんなに嬉しいことだらう、とそれを翹望してゐた間は可成り長かつたが、――彼は忘れもしない、××日の夜、しつかりとそれを果したが、――その時、どうしたものか急に可笑しくなつて「フヽツ」と吹き出して了つたのだつた。延子の桃色の眼瞼には涙が宿つた。
「失敬だわ、あなたは――」
 純造はもう一辺接吻がしたくなる。……彼は袂から煙草を出して徐ろに喫した。……勘忍してお呉れ……まさかさうも云えない――と考えた。後悔の念ばかりで、五六間黙つて歩いた。
「……なる程……ウン、さうか。」うつかりと純造はそんなことを呟いた。
「あなたはこれ位ひのことを何ともないものゝやうに思つてゐるんでせう。そりやあなたなんてさうに違ひないわ。だけど……」延子が云ひ続けやうとしたとき、純造は女の自尊心に反感を覚えて、
「或はさうかも知れない。」と吾ながら落着いた憎々しい調子だつた。
「こんなことで感情を悪くするのは莫迦/\しいから――」
「妾が悪かつたわ――」
 純造は、さう聞くと意外な気だつたが、それだけにもう何の悪意も持てなかつた。諛ひに慣らされた彼の感情は、こゝで息の根を止めらるゝ程な高びしやな嘲笑を浴せられて、此方もそれに合せてコケテイシユな戯談でヘラヘラと笑つて了ふことの方に多くの肉体的の満足が想像出来た。然し彼は此場合順当な男としての恍惚にも浸り得た。その陶酔の果は、夥しい寂しさに陥つた――少しでも信じられたり尊敬されたりすることは何んな侮蔑よりも苦痛なやうな気がする。これも彼は、照子に依つて慣された悪癖として――逃れることを欲して居た。
「始めてなんだらう。」
「厭、そんなことをきいては――」
 勿論純造は疑つて居る筈はなかつた。
「危ねえ/\。何だか解つたもんぢやない。」
「ね、照子さんて方は今でも稀には手紙位ひはやりとりするの?」
「二三遍寄したけれど、つまらないから返事も出さなかつた。」それは夢にも無い嘘なのである。
「悪いわ。」
「仕方がないさ。照子なんて思ひ出しても気持が悪いや。」
「まあ酷い人ね。」
「いや、さう云ふ意味ぢやないんだよ。」純造は、実際の照子が自分に取つて何ういふ風であつたか、と云ふことを一寸説明したかつたが、延子の言葉の様子に何らの嫉妬がましい点をも見出すことが出来ないので不満を覚えたのである。「照子なんて、それでも稀には此方のことを思ひ出すやうなことがあるのかな。」
「そりや人だもの。」
「人とは心細いな。――」
「何だ自分だつて始終思ひ出してゐる癖に。」
「そりや人だもの。」――純造は愉快を覚えた。それにしてもこゝでそんなに照子のことを問題にすることは照子に取つては勿体なさ過ぎる、などゝ思はれた。
「あなたはあゝゆう風なタイプのハイカラな人が好きなのね。」照子の写真を延子は純造から見せられたこともあつた。
「うむ、好きなんだ。ところがすつかり振られて了つてね、――いたく悲観の態さ。」
「照子さんとこへでもいらつしやいよ。」
「アツハツ……。まあ、さう御機嫌を悪くなさるものぢやありませんよ、延子殿。」
「人をバカにしてゐるわ。」
「あゝあゝ、つまらねえ/\。――遊びにでも行き度くなつたつてえ気持だ。」
「勝手に行つたらいゝぢやないの、なあんだ。いゝ加減人をバカにしてゐら。いくらそんなことを云つたつて妾なんかちつとも嫉いたりなんてしやしないわよ。可笑しくなら。」
 烏頂天になつて噪いでゐた純造の気持は、これでガツクリとして酷い冷汗を覚えた。余りに安価で見え透いた口先の技巧にイヽ気になつた一刻前の自らに怖ろしい羞恥を覚える。「あゝ俺は何といふ下らない人間なんだらう。」――延子の前にのめのめと顔を曝してゐることが堪らなく苦痛になる。
 毎晩、同じやうに彼等はヒドク足労れる迄散歩した。屹度、別れ端になると純造の心はジリジリした。何か延子は、幻滅を感ずる程な悪い感じを此方から享けて――自分と別れてゐる間の方が余程爽々しい気分を感じてゐはしまいか――そんなことが可笑しい程心配だつた。余り純造が薄ツぺらな戯談や下品な調子で喋りたてて或晩の事、到々二人は白けて了つて、珍らしくもさつぱりと別れたことがあつた。――家へ帰ると純造は滅多に手紙は書いたことがなかつたが、強い心細さに追はれながら、こんなことを書いた。――自分の態度が浮々とすればする程自分の心はその時厳粛になつてゐる、此の憐れな性質はどうか理解して貰ひ度い。だから僕が下らないことを喋舌るのは本気で云つてるのではなく一種の愚かな見得なのだ、と思つて貰ひ度い。然し「理解出来ないから振り棄てる。」と云はれても、「それなら仕方がない。」と答えて、その寂しさに自分だけを瞶めて居られる程な強い気には到底なれない。だからこんな手紙も書かない方がいゝことはよく承知してゐる。何といふ図々しい頼みをするイケナイ男なんだらう。
 延子の返事には斯う書いてあつた。――そんなことを云はないでも私にはよく解つて居ります。私は嬉しく思ひました。心配なんてしないで下さい。
 それを見た時に純造は、うつかり正直過ぎることを書いて了つて損をしたやうな気がした。延子が速断してゐるよりも、もう少し此方の心は複雑なんだといふやうな途方もない自惚れを感じた。さうして、延子自身に安心を与え過ぎて了つた後悔と、イヽ気になつて落着いたらしい延子の高びしやな感情に反感を持つた。実際は手紙に書いた程心配なんてしては居ないんだ、あれはちよつとしたその場限りのセンチメントでね――と、笑つてごまかして了ひたかつた。
「妾は決して夫の世話にならうとは思はない。妾は幸ひ物質的に恵まれてゐるのだから夫の愛さへ変らなければ、普通の形式の結婚なんて成るべくしたくないわ、いよいよとなる迄は――」或時延子はさう云つた。
「いよいよとは何う云ふことなんだ。――それよりも、そんな空想は安ツぽい一時の興味に過ぎないんだ。そんな歯の浮くやうな夢に駆られてイヽ気になつてゐられては此方がやり切れない。」
「さうゆう意味ぢやないのよ。」
「可愛がられることは不愉快だ。」
「――妾だつて厭だ。」と延子が云ふと、もう純造は何だか解らなくなつて了つて不安な気だけに駆られる。
「それはどつちの意味なの?」
「どつちも嫌ひなんでせう、あなたはさ。」
 あゝさうか、と漸く純造は解つた。俺は何の自信もないから他人から少しでも信用されたりするとやりきれない、などゝ云ふことを彼は度々延子に云つた。彼は、延子の好意に感謝し切れなくなる。
「僕はね、他人から直ぐに飽きられる性質を多分に持つてゐるんだ。さうして自分でもそれをよく知つてゐるんだから情けないよ。――もう少し経つとこの人も屹度……」純造は不格構な小鼻をうごめかしてニヤニヤと笑ひながら延子の胸を指差した。
「あなたは非常にイケないわ。あなたはね、自分で勝手にその「飽きられる性質」とかに酔つてゐるんだわ。自覚ぢやなくつて、悪く云へば自惚れで、そんな言葉を楯に取つて……」
 斯う云はれて始めて気附いたのではあるが、云はれて見れば此方の態度や言葉が充分虫のイヽ負担を相手に求めようと試みてゐるものであつた。
「戯談に云つてゐるのに、さう頭からヤツツケられちや堪りやしない。」わざと、相手にしないものゝやうに笑つて「ほんとうに延ちやんは可愛いゝね。」と云つた。
「どうせさうよ。」
 此方の愚劣な感情をテキパキと片附けて呉れる延子の鋭さに、純造はすつかり嬉しくなつてゐる。
「僕はたしかにいけない。」うつかりそんな嘆声を洩らして彼はヒヤリとした。――「若少し僕の悪い処を、関はないから――延ちやんの口から僕に見せ附けて呉れないか。」
「つまらないわよ。」延子は心細さうに薄笑ふと、耳のあたりをあかくして下向いた。
「接吻しよう。」――何とも云はずに抱き絞めたかつたが、何だかオツカナイやうな気遅れがして、可笑しかつたが仕方がなくさう云つてオドオドしながら延子の肩へ手を掛けさうにした。
「――」一刻前には景気よくまくし立ててゐた女の唇は造え物のやうに堅く閉ぢてゐる。
「よう!」純造の要求は軽く皮肉な境地に飛んで、一寸おどける。――「厭なの?」
「――――」
「そんならいゝよ。」
 稍暫く経つて、(その間純造は女のことは考えてゐなかつた。)
「あなた憤つたの?」と延子は云つた。
「……」好い機会に出遇つた如く気附いた純造は殊更に感傷的な眼ばたきをして少年のやうに怫然として見せる。
「どうして?」延子は眼を見張つて男の顔を瞶める。――純造は、己れの気持を唾棄した。
「僕はね、フザけた気持は今少しも持つてゐないんだよ。」
 そんな説明をされて延子は酷く意外らしかつた。純造は、どうすることも出来ない気恥しさと焦立しさとに混乱して了つて――。
「憤るも憤らないもないけれどさ……」――これツぱかりのことで此方の気を病はされちやとてもやりきれない……そこ迄は云えなかつたので、「憤るなんてそんな莫迦げたことはないけれど―― ……いや、僕は近頃どうも神経衰弱らしいんでね、弱つてゐるんだ。うつかりどうも他人の感情を害すやうなことばかりして了ふんだ。悪く思はないでお呉れ。確かに神経衰弱だ。」などゝ好い加減なことを呟いた。
「妾、さつきから別に感情なんて害されやしなくつてよ。」
 純造はもう一歩更にテレくさつて了つて、
「だからさ……それならそれでいゝんだよ。」――至つてわけの解らない答弁でごまかして了はうとする。「静かないゝ夜だね。」と云つた。
「ほんとにあなた神経衰弱かも知れないわ。夜眠れて?」
「殆ど眠れない。」
「――妾のセイかしら?」
「そりや勿論だ。」純造は辛うじて失笑を堪えて、厳かに唸つた。
「それ程でもないんでせう、あなたはよ。」
「閉室恐怖病、――孤独恐怖から来る激烈な一種の神経衰弱さ。」女が甘えかゝらうとしたのを遮つて、もう少し苦衷を訴えて真剣にからかひたくなる。
「どうすれば治るんでせう。」
「刺戟物を避けて、自らの病的観念を自らに失はしむるやうにしなければならないんだ。」
「妾にはそんな六ヶしい病気は解らないけれど、転地しなければいけないわね。」延子が笑ひ出さないのが純造には不思議に思へた。
「転地しなければ当分治るまい。」
「これから成るべく妾、会はないやうにするから、当分安心して――いつそ何処かへ行つていらつしやいよ。」
 困つたな、と純造は思つた。延子に会えなかつたらそれこそほんとに神経衰弱にでもなつて了ひさうである。
「熱海がいゝわ、あそこなら妾知つてる家があるし、妾からさう云つて上げるわ、ね。」
「さうして貰はうか。」
「毎日一辺宛手紙を下さいね。妾も必ず出すわ。」
「うむ。」
 翌日延子から手紙で、熱海の古屋と云ふ家へ電話で掛け合つたら静かな室が開いてるとのことで、では二三日のうちに必ず行くからと約束して置いたからゆつくり行つていらつしやい、と云つて寄した。それから三日ばかり延子は何とも云つて寄さなかつた。純造も黙つてゐるより他はなくなつた。純造は到々熱海行を決心した。延子に対する醜い感情から救はれるが為に、それは自分に取つて一番いゝことだと思つた。少くとも鳥渡でも別れてゐる間は至純な恋心だけに浸り得るのであるから、これが土地を離れてはるかに延子を想つてゐたならば、どんなに理想的な美しい交はりが出来るだらう――恋々の情を筆にこめて切りに手紙を書く、延子はまたどんなに甘い手紙を寄すことだらう。――また、それとは別に今迄のウジウジした生活に断然と区切を付けて、長い希望である長編小説を書き始めなければならない――それを想ふと純造の胸は怖ろしく躍動した。延子なんか問題ではなくなる――向方に行つたら、女のことなどは一切頭に浮べずに専心創作をいとなむ、疲れたら海辺へ出て休む……「延子なんかしつてるもんか。」と思つた。
 それから一週間経つたのである。希望通りに刻々と彼の心は延子から離れて、輝いた明るさのみに浸り得た。その間に一度遊蕩に出掛けた。これも望み通り気味のいゝ程悲惨な気持のみで、それを続けようとする程な以前のやうに興味の上のアブノルマルな心には決してなれなかつた。――「俺は自らの下らない感情生活から解脱しなければ何も出来ない性分なんだ。」

「兄さん?」
「何だよう。」
「電話だつてえば。」
 チヨツ! と純造は舌を鳴らした。「うるせえな。」見得で云つたのか本気で云つたのか解らなかつたが、兎に角彼は極めて事務的な態度で悠々と階段を降りて行つた。尤も女から電話が掛つて来る場合は、努めて斯うゆう装ひをしなければならない家庭的の常識からでもある。
「あの花は二階に居ても香ふよ。」
「さうオ!」
「くせえ花だ。」
「あら厭ァあだ、バカ!」
 手軽く光子を笑はせて置いて彼は電話口へ出た。叔母や光子達への遠慮の為に彼はたゞ「うむ。」とか「そんな筈はないよ。」とか「あゝ。」とか位ひしか云へなかつた。
「純造さん明日は何時頃出掛けるの?」と叔母に訊ねられた。
「さうですね。成るべく早くしようと思つてゐるんです。」
「お母さん、危いわよ。愚図/\してゐるうちにお金を費つて了つて、四五日位ひお友達の家かなんかに泊つて白らぱつくれて帰つて来ること位ひは平気でやる兄さんなんだから。」
 純造の悪影響に感化されてゐる光子がこれ位ひのことを云ふのは当り前だつた。彼等は純造を実際以上に遊蕩児と思ひ込むでも居た。この時に限つて光子の言葉が酷く不愉快に純造の胸に響いた。
「余外なことを云ふなよ。」珍らしくも彼が生真面目な顔をしたので、光子はスツと立つて台所の方へ行つて了つた。
「ほんとに仕方のない子になつたもんだ。」叔母は光子の後姿を睨むで呟いた。それすら純造の胸に可成り痛く響いた。
「叔父さんは何とも云はないけれど、あれでお腹の中では随分お前さんのことを心配してゐるんだから、よく自分で気を付けてね。今度は勉強に行くんだから私も安心してゐるけれど、向方へ行つてもお酒なんて飲むぢやいけないぜ。」それ以上云ふと純造が気嫌の悪い顔をするのを知つてゐる叔母は夕飯の仕度に立つて行つた。たゞ漠然と、純造は明日迄も居たゝまれないやうな気がした。間もなく自分は此家を離れて、新鮮な温泉地で思ふ様爽々しい日が迎えられるのだ――などゝ思ふと、これからまた同じやうに狭い家の中でイヽ気になつて単調な生活に甘んじてゐられる家内の者共に軽蔑の念すら起つた。自分だけがひどく恵まれた地位にある喜びを痛切に感じた。
「あゝ妾も何処かへ行き度いな、阿母さん明日妾芝居へ行つてもいゝでせう?」
「此間兄さんと一処に行つたばかりぢやないか、芝居なんかゞ好きになつちや仕様がないよ、癖になつて。第一近所に対してもみつともいゝことぢやない。」
「つまんないな。」
もうせんにはこんなでもなかつたんだが。」
 純造は、思はず咳払ひをした。
「ちよいと妾におあんばいを見せて。」
「何だよう、この子はまあ!」
「未だ少し水ツぽい!」
「どれ?」
「何だ自分だつて! お静、お砂糖の瓶を取つてお呉れな。」
 障子を隔てた台所から聞えて来る親子の莫迦気た争ひを耳にして苦々しさを覚えながら純造は火鉢の前で安坐をかいて新聞に眼を曝してゐたが、活字が虫のやうに浮き上つて網膜に映つたのを眼ばたきもしないで、瞶めてゐるばかりだつた。
 七時に延子と新橋の停車場で合ふことを約束した。少しばかり会はないでゐたのが、反つて新しい興奮を唆つて碌々飯も通らない位ひだつた。会はないでゐる間、あんな気持になれたことは苦し紛れの妄想で、未だ出掛けもしないでウロウロしてゐたことの恥しさ位ひは何んでもなかつた。「買物に行くのなら妾も一処に行かうか。」と光子は云つたけれど、「帰りに友達の家へ回るかもしれないから。」と彼はごまかした。
「一処に行きたいんだよ。アイスクリームが食べたいんだ。」
「余り毎晩伴れ出すと阿母さんに厭だからさ。帰りに何か買つてやる。何が好い?」
 彼は何となく光子が気の毒だつた。出来るなら伴れ出したかつた。自分が酷い食辛棒であるが為に他人のそれには可成りの同情を持つのでもあつた。いつそ思ひ切つて伴れ出さうかとも思つた。どうせ接吻位ひでお仕舞ひなんだから――反つて此方の弱々しい心を見せずに快活に会へるかも知れない、その上此方が平然として光子を伴れて行つたならば延子は屹度不満を覚ゆるに違ひない、それを圧し匿してどんな態度をするか、俺の予猶のある気持をつれなく思ふであらう、さうして一層焦れるであらう、ところで合間々々を狙つて極めて甘い言葉をかけるのだ……「確かに面白い、確かに効めもある。」と思つた。
 然しイザ決心して見ると、到底そんな勇気は出なかつた。
 では食べるものはいらないから、これこれの物を買つて来て呉れ――ともう光子は図に来つて到底母親にはねだれさうもない香水を要求する、純造は他人の斯う云ふ心にも反つてほんとの同情が出来る。何だか高価さうな気もして急にオジケも感じたが、こんな時でゞもなければ義侠の快は味はゝれない……で、思ひ切つて、
「うむ、宜しい。――だけど阿母さんには内緒だぜ。」と云つた。「少し遅くなるかも知れないからさうしたらお前の箪笥の上の抽出しに入れて置く、明日の朝は早いと云つても到底九時前には起きられないから――兎に角明日は顔は見ないだらう、お前が学校から帰らないうちに俺は熱海へ行つて了ふし。」
「さうね。そんなことを今更のやうに云つて見ると何だか可笑しいものね。ぢや朝は起さないから……と、そんなら御気嫌よう、――だわね、明日の早手廻しよ。でも精々十日位ひでせう。」
「学校に出す論文――と云ふのも可笑しいがね、兎に角それを一日も早く片附けなければならないんだし……」
 外へ出た純造の心は無性に明るく躍動した。嬉しさの渦に切実な延子の幻を瞶めた。会へることの喜びが是れ程簡単に凡ての神経に解決を与へて呉れたのが寧ろ奇妙だつた。どんな速い車に乗つても堪らないやうな性急さのみに追はれて居た。
 それだのに彼は、加けに時間はぴつたり七時になつてゐたのに、尾張町で電車を降りると、ぶらぶらと歩いて――光子の誂へ物などを買つたりした。悪意といふ程の意識はなかつた、戯れ気でもなかつた、たゞそんな予猶に浸りたかつたのだ。彼は変な顔をして、独りで笑ひながら歩いてゐた。
 十五分過ぎて居た。彼は吃驚りした。慌てゝ新橋へ駆け付けた。……ところが其処で三十分の上待たされて、――自分ながら手が附けられぬ程焦ら立つた心ばかりになつてどうすることも出来なかつた。延子の有りがたさ加減をすつかり挑発された上句烈しい憎みを覚えた。……彼は紙包みをほどいて香水の瓶の口をあけて、その香ひを嗅いだ。
 到底待ち切れなくなつて思ひ切つて帰つて了はうかとも思つて、待合室の入口でまごまごして、――が、また腰掛に戻つて、また懐中から香水を取り出して、その香ひを嗅いでゐた時、漸く延子はやつて来た。
「遅れて済まなかつたわ。随分待つてたでせう。」
「丁度よかつたよ、僕もたつた今来た処で……」
「あら、さうなの、ぢやよかつたわね。」
 それだけで此の問題が片附けられて了ひさうなのが純造は癪にさわつた。
「さつき本を読みかけてゐた処でね、二十枚ばかりでお終ひになるんでそいつを片附けて来たんだ。」
 延子は決して訝しがる様子もなく反つてその無頓着を嬉しがるやうに、
「あなたは本を読み出すと夢中なのね、さつき電話の時もさうだつたんでせう。何か小説なの?」
「あゝ。」
「そんなに面白いのあつて? 読んぢやつたら妾に借して呉れない?」
 この言葉を純造は不快に思つた。延子の到底知りさうもない外国語を云はうとしたが、うまくそれが浮ばなかつたので、たゞ易々とうけ流すやうに「あゝ。」と云つた。
「今ね、妹と一処に来たの。」――さう云はれて突然純造は酷く吃驚りして、思はず入口の方へ眼を遣ると成程妹の政子が笑ひながら此方を見て立つて居た。――純造の声は急に晴々しい快活な調子に変つた。「なんだ政ちやん、そんな処にくつついてゐるから解りやしないよ。此方へお出でよ。………いや、兎に角銀座の方へ歩かう。暫く見ない間に何だかばかに大きくなつたやうだね、えゝ、どうしたい……」純造の唇はペラペラと動いて、うつかり子供に云ふべからざる戯談が滑りさうになる。「毎日学校に行つてゐる? 此頃何時始まりさ?」落胆さは強烈なだけにそれはそれだけ遠く心の一隅に圧縮せられて石の如くに堅くなつた儘転がりもせずに、十重二十重の気軽さに覆はれた。自分でも時々その明るさを見せかけた心に快い陶酔を覚えた程――。
「八時だわ。」
「八時とはおつそろしく早えなあ――どうだい少しは此頃英語が出来るやうになつたかい。えゝと、今度は二年になるんだつたね。」
「もう此間なつちやつたわよ、忘れつぽい人ね。だけどちつと教えに来て頂戴よ。此頃ちつともいらつしやらないのね。」
「ハ……」純造は言葉を見出すのに大変な努力を要した。「あゝ、さうか、……」
「母さんもさう云つてゐたわ、此頃どうしていらつしやらないんだらうツて。」
「ハツ……。さう云はれると弱るよ。なあに今晩実は行かうと思つてゐたんだがね、姉さんがね政ちやんと一処に銀座迄来るつてえんで……それでうちの光子も来る筈だつたんだがね、愚図/\してゐたから置いて来ちやつたんだが……」伴れて来ればよかつたな、と口のうちで云つた。
「あつちにはいついらつしやるの?」と延子が訊ねた。
「明日の朝にした。」延子にも出来るだけ気軽さを装はなければならなかつた。「あれからずつと頭の具合がどうもよくないんでね。毎日どうも酷くメランコリツクで、自分ぢや一刻も早く出掛けなければ堪らないんだが……それにどうも叔母の家も不愉快でね。」
「毎日あつちから手紙の来るのを待つてゐたのよ。行かなかつたのなら電話位ひ掛けて寄してもいゝぢやないの。」
「悪かつた/\。――然し明日こそはもう大丈夫だ、明日やり損つた日には第一叔母にも具合が悪いんでね。」
「屹度よ。」
「あゝ。」行つたらワザと手紙を出さないで置いて見やうかなどゝ思つて、慌てゝそんな心を打消した。
「少しは此方の気持だつて考へて貰はなけりや……」
「気持ツて、何あにさ?」延子の言葉が気に懸つたがそれ以上訊きたゞすわけにゆかなかつた。延子はたゞ笑つて黙つて了つても別に不自然ではなかつた位ひで、純造の質問は調子の上では甚だ無責任な――遊蕩的だつた。「ハツ……気六ヶしやさんだから、どうもうつかりしたことは云えないよ。ね、政ちやん、さうだね。今でも家で喧嘩をする?」
 こんな仰山な言葉に答えられる筈はない、まして「きようだい」などの場合その目の前で自分達に就いて傍から何とか云はれる場合は当人達は大概の場合テレて了ふ……政子は鳥渡延子の方を見て笑はうかと顔色を窺つたが延子がすましてゐるので、困つたやうに純造の顔を見た。
 気軽さで覆つてゐた「落胆さ」が次第に露骨に増長して来るのを彼は覚え初めた。出来るだけ邪推は避けようとした。――男は何と云つたつて二人だけになると悩ましさを感ずるんでね、と云つて延子の顔をあかくさせたことがあつた。転地へ行かせようとする延子の好意と同じ様に、「政子を一処に伴れて来たこと」を――口にこそ出さないが事実もさうらしい――嬉しく思ひ度かつた。それだのに無暗と、腹が立つてならなかつた、堪らなく焦々した。不気嫌さを示すことを政子に依つて遮られることは自分に取つても寧ろ気味がよかつた。
 休むだらいゝ加減で帰つて了はうと思つてゐたにも係はらず、カフエーを出てからも彼はどうしてもその機会を見出すことが出来なかつた。一体純造は散歩を余り好まない性質だつた。
 もう少したつたら、もう少したつたら、何かちよつとした満足を与へられさうな機会がありさうに思えてならなかつた。「自分は決して延子に恋してゐるわけでもない。」――そんなことも思はれた。思ふ様の毒言を吐くか、でなければ「接吻をし度い」――その二つが他合もない幼稚な興味なんだ、と思へば思ふ程、それすら満足させられないのが堪らなく残念に思はれてならなかつた。
「あゝ妾足労れたわ。」尾張町を右に曲つて数寄屋橋の手前を山下門の方へ、そろそろと歩いてゐた時政子が云つた。
「こうしてゐてもつまらないね。然し弱つたな……だけどこうゆう晩は歩くことは好きさ、気持がいゝぢやないか、えゝ?」純造は仕方がなくワザと応揚に駒下駄を引きずつて「春宵の一刻……と云ふ詩を知つてるかえ――僕はね昨べもこんな風に独りで随分遅く迄散歩したんだよ。両国から河岸を伝つて新大橋を渡つてそれから永代へ出てそれで未だ足りないで千代田橋へ来てそれから到々銀座迄歩いちやつたよ。」などゝ出鱈目を云つた。
「詩人なのね。」
「ハツ……さう云はれると弱るが、ちよつと詩人にもなりさうなイヽ夜ぢやないか。」
「それもさうね。」
 純造はいくらか安心した。「帰る?」と延子に訊ねた。延子に何か好い智慧がありさうな気がした。
「新橋でまた乗りませう。」
 純造はムツとした。河に並行したガードを汽車が走つて来た。その灯がチラチラと水に映つた。京浜電車が青い火花を散らして通る。空は湿気を帯びて白く煙つてゐたが点々と星は瞬いてゐた。霞が降りたやうな夜になつてゐた。
「明日の朝は新橋で乗るの?」
「東京駅だ、その方が近いもの。」――まさか延子はこの儘帰つて了ひはしなからう、そんな気がしてゐた。「ぢや乗る?」と純造は情けない気持で訊ねた。
「えゝ。あなたも帰るでせう。」
「そりや帰るさ――だけど田町迄送つて行つてやらうか。」
「いゝわよ。」
「何処かでもう一辺お茶でも喫まうか?」
「また!」
「あゝさうか――それでは……と、兎に角送つて行つてやらう、友達の家に寄りたいんだ。」
「止しなさいよ、もう他所の家へ寄るには遅過ぎるわ。」
「それもさうだね。――ところで……と。」
「何云つてんのさ。今晩は早く帰つた方がいゝわ。」
 たつたこればかりの子供染みた散歩位ひの為に俺がワザワザ出掛けて来ると思ふか、――延子と同じ目的で、其方の行動に依つて自分の一夜を限定されることが酷く癪に触つた、子供ツぽい感傷的な交際に此方が満足してゐると思はれてはやりきれない――そんなことが考えられた。
 自分は高輪の友達を訪れるから――そんな見得を張らなければならないやうな気がして――田町迄一処に乗らう、と少しでも延子に負担を覚えさせないやうにして、「だから遠慮は要らないよ。」などゝ云ひながら一処に乗つた。田町へ着くと彼は「序でだから家の前迄行つてやらう。」と云つた。「その位ひなら家へお寄りなさいよ。」と政子が云ふ、「いやさうすると友達の方が遅くなるから。」と彼は慌てゝ答えた、――。
「熱海からは何時頃帰ります?」と延子が云つた。
「仲々帰つて来ないんだ、つまらないや。」
「ぢやいづれ……手紙はね。」
「どうだか解らないよ――」
「政ちやん足労れたらう、足労れたら一足先へ家へ行つてゐて、妾鳥渡……」
「もう遅いよ、ぢや、さよなら……」
「どうしたの? 厭だわ。」
「何でもないさ、いや手紙はぢや明日出すから――政ちやんにも出すぜ、食べたいものをさう云つて寄すから頼むよ、いゝかえ、ハ……ぢや、さよなら、遅いから。」
「さう、そんなら気を附けてね。」
 威勢よく彼女等に別れた純造は、――わけもなくホツとすると急に疲労を覚えたので一刻も早く家へ帰らうとした。延子も此方と別れてこんな気持になりはしないかと想つて見ると軽い嫉妬も感じたが、それよりも莫迦気た時間を潰して損をしたやうな後悔と疲労の方が余程強かつた。家へ帰つて、さつぱりとした気持で何にも想はずにグツスリと眠つたらどんなに好いだらう――明日は早く起きて出発なんだ、「嬉しいな。」と彼は思つた。「延子と会はなかつた宵の中と同じ気持だ、感情がある以上女が目の前に現れゝば、それに囚はれることは俺に取つては不思議はないんだ。延子に恋してゐるわけでもないんだ。相手が誰れにしろ目の前であんな芝居を演ぜられゝば俺の心は焦々するのは当り前なんだ。この分なら延子のことなんて日増に他合もなく忘れて了ふに相違ない。早く帰つて今晩のうちにすつかり仕度をして置かう。」

 それから一時間ばかり経つた十時少し過ぎに高輪の西岡の家を突然訪問したのは純造だつた。
「多分留守だらうと思つたが今、人を送つて品川迄来たから寄つて見た。」
「何だ今時分になつて、ぼんやりした顔をしてゐるぢやないか。」
「ぼんやりしてゐる? そんな筈はないよ。僕は此頃面白いんだよ。」
「またあんなことを云つてやがら、それはさうと論文は書いたのか。僕は今晩徹夜で片附けて了はうかと思つてゐたんだ。」
「いくらか書いたよ。」純造はその話をするのが厭だつたので、イヽ加減な返事をして、僕はビール位ひでも飲むと帰つてから何も出来ないから、などゝ云ひながら出されたビールの洋盃を傾けて居た。腹が空いてゐたので美味かつた。
「どうもいけないな、僕は君に会ふとどうも心が遊蕩的になつていけない、――ビールは止めて一杯飲まうか。」西岡は何を思つたのかニヤニヤ笑ひながら純造の背中をドシンと打つた。
「失敬なことを云ふねえ――俺は酒なんて厭なこつた。それに自分は徹夜をすると云つてるんぢやないか、バカだな。」
「少し位ひいゝさ、何云ツてやがるんでえ、小僧ツ子!」
 厭だよ、俺は帰るぞ、などゝ純造が云つてゐるのも諾かずに西岡は階段を降りて行つた。純造は実際に酒は飲み度くなかつた。それよりも何か喰べたい位ひだつた。打水をした庭を見降ろしながら、そこに在つた餠菓子を抓んでニヤグニヤグと頬張つてゐた。
「おい、よせ菓子なんて食ふのは。此奴は変だな。酒が好きな癖に――」
 頬張つてゐた菓子が呑み込めないうちで、西岡にさう云はれると純造は鳥渡あかい顔をした。間もなく食卓が新しくされた。西岡の家の者に対して何だか気まりの悪い思ひがした。
「少し君に訊き度いことがあるんだが、仏蘭西語のことなんだが。」と純造が云つた。
「柄にないことはよせよ。それより少し飲めよ。」西岡は盃を純造の鼻の先へ持つて行つた。西岡は純造の年上の古い友達だつたが、未だ何も知らない頃純造が少しばかり遊蕩めいた話をして以来、その点では変に純造に、一目置いて実質以上な蕩児として彼を扱つてゐる風だつた。それが習慣のやうになつてゐた。
「酒は確かに俺の方が強いな。」と西岡は云つた。「力も強いぞ。」
「そんなことをするから厭だよ、僕は。兵隊には敵はないよ。」少し酔つて来ると人の首根ツこを鷲攫みにするのが西岡の癖で、その時ももう腕をまくつてさうした。純造はそんなふざけ方が嫌ひだつたから露はに不愉快な顔を示した。
「お前えの首ツ玉は細くつて攫みいゝんだ、ヒヨロ/\してゐやがるな、口惜しくつても兵隊にはなれまい。」純造の露骨な不快の色を見た西岡は鳥渡テレたらしく「到々俺も兵隊に取られちやつた。芳村の奴酷いこと云つたよ、俺のことをね、西岡が兵隊に取られたかと思ふと何だか西岡は取られない前から兵隊のやうな顔をしてゐたツて……」
「さうかも知れないよ。」純造は西岡のテレた気持を取り返してやらうと思つて笑つた。
「芳村はもうさツき迄遊びに来てゐたよ。今日は惨々だつた。芳村にイヽ話をすつかりきかされて了つてね。」
「羨しいやうだな、芳村は今でも未だ先の女に惚れてるのかえ。」
「惚れたなんて言葉を用ふと憤られるぜ。或る女性との愛の交渉に就いて云々と云ふんだよ。」
「もう関係があるのか知ら?」
 露骨な言葉に極めて初心な西岡は、応揚な手付で盃を運むでゐる態度に似つかずクスクスと笑ひながら、「或は……ぢやない。それは確からしいよ。」と云つた。西岡の前に限つて純造は多少そんなことを云ふのが興味もあつたのである。
「あゝ、癪に障るなあ――」純造は大袈裟に首を反らせて見得を切つた。その前迄固くなつてゐた気持が、慌かに道化始めた。
「そろそろ面白くなりやがつたな。君は何時もさうだな。酒を飲まうと云ふと屹度始めは断る、さうして見るからに苦い顔をしてゐる、その癖少しお神酒が回つて来ると独りではしやぎ出すんだ。いくら尤もらしい顔付をしてゐたつて俺なんか欺されないよ。」
 さう云はれても純造の気持は――いつもならこゝで少しは変化が起るのだが――うわづつた儘浮々となり始めた。「芳村は幸福だな。」
「君は少しいけないよ、確かにそれは邪道だ。僕は沁々と近頃斯う思つてゐるんだ、たゞね、可愛い少女を思ひつきり愛し度いよ。」
「莫迦/\しいやそんなこと……それはね、極めて幼稚な興味だよ、ほんとに興味だよ。」とムキになつて純造は口走つた。――「もつともそれは一種の変態性慾でもあるがね。」――と、口のうちで付け足した。
「厭なことを云ふなよ。さうぢやないよ、その点ではいつも君が僕をセンチメンタルだと云つて笑ふけれど、実際僕のセンチメンタルに起因するんだよ、何でもいゝ、俺はほんとに恋――といふのでなくつていゝ、たゞそれを欲する。」
「ぢや芳村のやうなのは羨しくないか。」
「寧ろ羨しくない。」
「さう云はれて見ると……さうかな。」純造は何か凝と怺えるやうなものが胸にあつたが黙つて飲み続けた。
「然し今日は実際参つた。」
「さうだらう。ハツハ……」
「君の立場とは少し違ふやうだがね。」
「そんなことがあるもんかよ。」
 いつの間にか二人とも可成り酔つてゐた。
「どつかへ出掛けようか。」と純造が云つた。
「止さうよ、それは。君は厭だ、終ひにはそれなんだから。もう少し飲まう。」
 純造はたゞ西岡の言葉に反感を覚えて、彼の心を動かすことに興味を感じた。それに自らも欲し初めてゐたが、それにも増して熱海行の功利的な理性を充分持つてゐたから。どうにもならない迄この儘西岡と一処に飲むで夜だけを潰して終電車で家へ帰つて一刻も早く朝にしてしまはう、といふ心だつた。
「飲むでもいゝがね。然し何だね、こう……」
 純造はニヤニヤと笑つた。純造がそれから何か云ふと西岡は可笑しがつてクツクツと笑つた。到々純造は調子に乗つて了つて、半分は西岡を可笑しがらせる興味と半分は自分の言葉に自分が挑発されて、到底こゝに書くに忍びないやうなことを喋舌つた。純造の口先に翻弄されて西岡は怖ろしく昂奮して了つて、
「行かう、行かう、未だ電車はある。」と云ひながら立ち上つた。
「そんなら行くか。」と純造は座つた儘冷静と皮肉を装つて彼を見上げた。
 外へ出ると思つたより西岡が酷く酔つてゐるのには純造は少なからず驚いた位ひだつた。西岡に謝り度いやうな好意を持つた。純造よりも五寸がた丈の高い西岡はそのガツシリした偉躯を蹣跚とさせながら洞ろな声を張り挙げて切りに拙い歌をうたつた。
 チエツ、困つた事になつたぞ、と純造は思つた。一刻前、西岡が到底動きさうもない時に、金なら俺は今日可成り持つてゐるんだぜ、などゝも云つた。その時西岡が、また費つて了ふと後が困るだらう、と云ふと、純造は、さう見くびつたもんぢやないよ、俺だつて稀には余外なものだつて持つてゐるさ、などゝ大いに鼻を高くして見せたりしたのだつた。こんな事になるのを純造は大して予想はしてゐなかつた。尤もその場の気分では、ならなかつたら矢張り物足りなかつたには相違なかつた。厭だと云へば誰が何と云つても動かない、その代り自分から云ひ出せば相手がどうであらうと云ふことは諾かぬ――常々西岡はさうした頑迷さを自ら誇つてゐた。だから純造は、初めそれを云ひ出した時の様子で、此分では西岡はいくら此方が挑発的なことを云つたつて動く筈はない、と高を括つての上でもあつたのだ。
 薄暗い屋敷町の小路である。西岡は鳥打帽子をアミダに被つて、クルクルとステツキを振り回して居た。人通りは無論止絶えて居た。月が出てゐた、路だけが白く光つてゐた。
「何だか古い芝居の書生見たいだな、俺達は。」と純造はイヤな心を見せるのが悪いやうな気がしたので殊更に豪放を示した。
「おーい。純公。逃げると承知しねえぞ。」西岡は大きな声で怒鳴つた。純造はヒヤツとした。「この気持が西岡にも見え透いてゐるのかしら――」然しさう云はれて見ると、うまく其辺でごまかしてまいて了ひたいやうな狡い謀みも起らないでもなかつた。
「厭なことを云ふなよ。僕は今小便をしてゐるんだよ。」
 そこの生垣のうちから丁子の香りが漂ふて来た。こゝにもあの花が咲いてゐるな、と純造は思つた。
「おい、早く来ないか!」
「さうはいかないよ、余り大きな声を立てるな、みつともないから。」
「あすこ迄どの位ひ時間が掛るかしら?」
「かれこれ一時間掛るだらう、後先を入れたら。」
「ちよと遠くないこともないな。」
「ほんとに遠えや!」純造は力を込めて叫むだ。
「院線なら他合もないや。――それともタクシイを戛ツ飛ばさうか?」
「さうするか? 然し面倒だな。」
「何が面倒なんだい、馬鹿! それがいゝ。」
「停車場のところにあるかしら?」
「なけりや、君、あそこに店があるよ。」
「さうかい。」
「とにかく、急がう!」
「あゝ。」純造は渋々ながら答えた。
 その狭い屋敷町を出ると、一直線に品川の停車場を見降した毛利邸の前の広い大きな坂道なのである。巨大な俎板のやうな感じのする平坦な長い坂である。路の果には、駅の賑かな灯が静かに光つて見渡された。
「見えてるくせにこの坂は歩いて見ると随分長いんで厭になつちまふね。――僕は、今夜はさつきから随分歩いたんで可成り足労れちやつたよ。」
「そいつは可愛想だね。――うむ、よし。そんなら斯うしてやらう――後おしをしてやらうよ。」
 西岡は右の腕を延すと、純造の首ツ玉をギユツと攫むだ。
「オイオイ、そればつかりは止して呉れろよ、頼むから、僕は大嫌ひなんだ、君のその癖がよ。君は酔ツぱらふと直ぐにこれをやるんで厭になるんだ、大嫌ひさ。」そんな真似をされては堪らなかつたので純造は早口に苦言を吐きながら、その手を放さうとして見ると、それは樫の棒のやうに堅くて到底動かうともしなかつた。
「おしてやるんだよ。」
「チエツ、ほんとうに止して呉れろよ。」
 純造は涙が滲む程な口惜しさの余り、頭の後ろに拳固を持つていつて西岡の腕を力一杯殴らうとした。ところが初めの一撃は、余りいきり立つた為か狙ひがはずれて、イヤといふ程自分の頭を殴つて了つた。彼は、腹の底から怖ろしい疳癪が起つた。
「ウヽンだツ! 畜生!」それはうまく的つた。柱を殴ったやうな感じだつた。
「痛ツ! 畜生ツ! やツたな!」
 西岡は面白さうに笑つて、更に力を込めて、――純造が爪立たなければ居られなかつた位ひに、猫を抓み上げるやうにした。
「さあどうだ。」
「苦しいよう、馬鹿ア!」純造は思はず声を張り挙げて叫むだ。
 それで西岡は少し緩めた。――純造は仕方がなく案山子のやうに頤を引いて薄笑つた。
「逃げようたつてこれぢや逃げられめえ。」
「戯談云ふな、いつ逃げるなんて云つた。」
「とにかく少し危ツ気がある。」
「厭な奴だな、此奴は。――実際莫迦なことをするなよ、子供見たいなふざけ方をよ。――戯談にも程があらあ!」
「やあ面白い/\、憤つた/\。」
 純造は、どうすることも出来ない、と思つた。
「俺はもう今日家へ帰る、行かないよ、――愚劣なふざけ方は不愉快だツ!」
「帰るツて、偉さうなことを云ふねえ。」
「痛いよう! 馬鹿! とにかくまあこれは放せよ。帰るなんて嘘だよ。」
「まあいゝ、――早く行かう。」と云つたかと思ふと西岡は、ワツシヨイ、ワツシヨイと仰山な掛声をしながら、駆け足を初めた。純造は自分の体が、たゞ無暗と困つた一個の物体になつたやうな気がして、憎悪も憤怒も消え去つたやうだつた。
 厭々の余り斜めになつた純造の体は、天秤棒のやうに堅くなつて後ろに傾いたが、足だけはどうしても西岡の速度と同じ速さで運ばなければならなかつた。加けに坂は降りである。……純造は観念の眼を閉ぢた。――すると、眼蓋の裏に様々な幻が静かに浮むでゐた。……。
「おい西岡、ちよいと待つて呉れよ――これが滾れるといけないから。」
 当り前の調子の言葉で、ふと気附いてさう云つた純造は懐中に手を入れて香水の瓶を取り出すと、掌にしつかりと握つた。
 そんなことを云つても西岡は耳をも借さず、尚もワツシヨイ、ワツシヨイなどゝ云ひながらだんだんに速度を増して居た。
 純造は、何だか面白いやうな明るさが頭の中をぼんやりと照して、淡い陶酔も感じた。
 彼は、時々香水の瓶を気にして、それを鼻先へもつて行つて鳥渡嗅いで見たり、また懐中の財布を落さないやうにたしかめて見たり、――(それもその儘では不安になつて別の掌に握つた。)ずりつこけさうになる帯をたくしあげたりしながら、一刻前よりはいくらか軽く、恰で操り人形でゞもあるかのやうに、手足をギゴツチなく活動させながら西岡におされて駆けてゐた。――。
 それにしても西岡の鷲攫みの力が堅くて、首だけが別なものになつて了つたやうでもあり、また若し放されても首曲りにでもなつて仕舞ひはしないだらうかなどゝ思はれるほどの苦しみだつた。
――十年七月――





底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「人間 第三巻第八号(八月号)」人間社出版部
   1921(大正10)年8月1日発行
初出:「人間 第三巻第八号(八月号)」人間社出版部
   1921(大正10)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード