「ね、お祖母さん――」
半分あまつたれるやうな口調で彼は、もぐ/\云はせながら祖母の炬燵の中へ割込むで行つた。
「厭だよ。お前なんかに入られると寒くつて仕様がありやしない。」
祖母はさう云ひながら、それでも彼の膝のまはりの被着の隙を行儀よく直した。
「ね、お祖母さん、阿父さんは怒つてる?」
「そりやア、怒つてるさ。」
「何と云つて怒つてる?」
「何と云つてるも何もないよ。」
「それでもよ。ほんとに――。余ツ程怒つてる?」
「今度といふ今度は――そりや阿父さんの怒るのが当りまへだ。」
「そりや当りまへさ、そりや解つてゐますよ。」
「そんなら何も聞く事はなからうが。それが生意気といふんだよ。だから……」
「そんなことは聞きたくもない。」
彼は頬ツぺたをやぐらに載せて横を向いた。
「阿父さんは斯う云つてゐたよ。――彼奴は嫁を持つまでは到底なほりつこない人間のさかり……」と云ひかけて祖母は、
「阿父さんの云ひ方も余り乱暴だけれど――」と微かに笑つた。
彼は顔がわけもなくほてつて来るのを覚えた。
「そんなことなら聞き度くないツて云つてるぢやありませんか。止して下さいよ。――もう何にも聞き度くない。怒るともどうとも勝手にしろ、しつてるもんか。」
「あれだ! 何てエ了見だらう。」
彼は、炬燵から飛び出して縁側に立つた。彼は、池の鯡鯉を眺めてゐた。――祖母だけと見て、こんな我むしやらな事を吐いたが、後になつて、父に云ひつけられはしないか? と思ふと、ビクリとした。が、そんな臆病な気持は直ぐに消え去つた。――あんまり人を馬鹿にしてゐる、動物扱ひにするとは失敬だ――彼は無暗に腹がたつて堪らなかつた。どつかへ飛び出して当分帰つて来てやるまいか、などと彼は思つた。その上恥しさが堪らなかつた。ちよつとでも性慾に関することは罪悪であるといふやうな家庭的の因襲に余りに彼は教化されてゐた。
――ふと、彼は幼い時母達に伴れられて墓参りに行つたことを思ひ出してゐた。寒い天気の好い日だつた。裏通りを通つてゆくのが近道なので母達は当然それを選むだ。彼は、表通りを行きたいと云つて諾かなかつた。彼は俥が関はず走るのが堪らなくなつて、無茶苦茶に喚いて母の膝の上で暴れた。母はアツケに取られた。裏通りには長い白壁があつた。その壁に、模様化した素晴しく大きな生殖機の図が落書がしてあるのを彼は知つてゐた。その壁の前を母達と一緒に通るのが無性に厭で恥かしくつて堪らなかつたのである。俥が壁の前に来る頃、彼はあきらめて泣き止むと、どうかして母の注意をそつちに向けまいとして、急に途方もない質問をして反対の方を指した。
彼は池の水を眺めながら、そんなことを考へた。
然し、もうあの可愛らしい雛妓の千代子に会ふことは出来ないのだ。当分の間夜は一歩も出ることは出来ないのか……先刻、父から断然と宣告された言葉を思ひ出した彼はわけもなくむツとして「何だい、これツぱかりのことケチ臭い、――毎日寝てゐてやれ。」と呟いだ。――うしろで祖母の騒ぎ立てる声がしたので、彼は振り反つて見ると、また祖母は(実際一日に何度か知れなかつた。)縁側にあがつた

「ほんとにこれぢややりきれない。阿父さんもこんな道楽を始めて、それも始めのうちだけでもう飽きて了つて、――ほんとにこんなもの何処へでもやつてしまへばいゝ、おれはもう

祖母は柱につかまつて伸びをしてゐた。五六羽の


彼はそんな風に邪推して、黙つて自分の室へ入つて行つた。
「あらお止しよ、いくら「口まがり」だつて可愛想だわよ、お止しツてエばよう。」
妹の悲鳴る声が彼の耳に聞えた。彼は雑誌に落してゐた眼を挙げて、机に頬杖をした儘障子の硝子からそつちを見た。近所の子供が三人集つて、シツシツと云ながら池のまはりをグル/\廻つて、一羽の


「あゝ、やつた/\/\。アツハツハ……」
子供達は大声を挙げて、腹を抱えて笑つた。
「もつと、どん/\追かけてやらう、いくらでもやるぜ。」
回り灯籠のやうになつて子供達は尚も切りに追ひ掛け始めた。
「口まがり」といふのはその雌





「嫉妬を強制されると云つたやうな気持なんだね。」彼は遊びに来た友達にさう語つたこともあつた。
「お父さんに云ひ付けるよ。」
妹はムキになつて男の子に喰つて掛つた。
「何と云つて云ひつけるんだ。やアい。」
「毛があんなに抜けちやつてるぢやアないか。もう病気なんだよ。」
「死んでもいゝぢやないか、こんな

「余外なお世話よ。」
妹はどうしてかプツと笑ひ出した。
「笑つてやがる。自分がほんとは可笑しがつてるんだよ、見たがつてるんだよ。」
彼は障子を力を込めて荒々しく開けて、縁側に出た。子供達は慌てゝ逃げ去つた。
「ほんとにバカな子供達よ。」
妹の頬は上気してゐた。
「お前がいけないんだ。」と彼は怒鳴つた。
妹は彼が怒つてゐるとは思はぬらしかつた。彼も、自分は怒るわけはない、と思つた。怒つたら尚更可笑しい、と思つた。妹は、ピヨツと両肩をすぼめて一寸舌を出して笑ひながら彼の顔を見た。
「

「当り前だ。バカ!」
彼は妹の頬を強くなぐつた。妹は、祖母の室へ駆け込むだ。泣いては居ないらしかつた。
「口まがり」はコツコツと鳴きながら池のまはりを歩いてゐた。喉のあたりが赤むくれになつて肉が見えてゐた。水の上に羽毛がバラ/\に浮いてゐた。
彼は室に入ると寝床を敷いて寝て了つた。どんなことをしても関はないから千代子に会ひ度い、と思つた。
彼は夕方の飯の時も居間へ行かなかつた。母は小さい弟を伴れて泊りがけで親類の家へ行つて留守だつた。
「新太郎はどうした?」と父は妹に訊ねた。
「呼んで来ませう、寝てゐる。」
「いゝ。うつちやらかしとけ。」
「もう今日はうんざりしちやつた。」父は祖母の方を向いて話し掛けた。「街へ行つて験べて見たら片ツ端から借金だらけなんぢやないか。みつともなくて歩けもしねえ。仕様のねえ馬鹿野郎だ。今迄、黙つてゐてやれば、いゝ気になつて甘く見てゐやアがる。」
「二十幾つにもなつてゐるんだから自分にも考へがあるだらう、まア、さう頭から云ふものぢやないよ。」
「どんな嘘を云ふかも知れないから、もう決して夜は出さないことにして下さい。」
「わたしだつて番は出来ないよ。子供ぢやあるまいし。足でも縛つて置いたらよからう。」
「あんまり甘やかし過ぎるからいけないんだ。ほんとにもう承知しねえ、――チヨツ、馬鹿野郎。」
皆なの手前、父も彼と同じやうに家庭では露骨なことは云へないのか、と思ふと、彼にも父の腹の中の擽つたい憤懣がよく解つて彼は返つて父に親しみを覚えた。
「云ふなら云ふでちやんと道理をたてゝ云ひ聞かせたらよからう、たゞ無暗とガミ/\腹をたてたつて――外聞が悪いばかしだ。……それには阿父さんもさうだ、自分が平常から意見の利くやうな態かい、酔ぱらつてばかり帰る癖に。――自分の悴ぢやないか。」
「新太郎を呼べ!」
父は、妹に命じた。妹は半分飯を食べかけた儘、ベソをかきながら湯殿の方へ駆けて行つて了つた。
「うちには他人も居るんだからね、余り人聞きの悪いことをお云ひでないよ。」
父が切りに罵しるので、祖母も立つて了つた。父は「呼べ」といふことはそれぎり云はないで、たゞプン/\怒つてゐた。
二日間外出しないでゐると、もう彼は退屈で堪らなくなつた。母は未だ帰つて来なかつた。
池に蝦の子が沢山かへつてゐた。それをすくつて与へると

台所で大変な騒ぎが起つたので、彼がのぞいて見ると妹が

「お祖母さんお米をこんなにこぼしちやつてよ。」
「何てえ煩い畜生だらう。」
「口まがりツてエば米櫃の中にチヤンと入つてゐるんだぜ。」
「トウ、トウ、トウ、トウ。」
池の傍で父は



「アラ、可笑しい/\口まがりにはどうしてもつかまらない、いゝ気味だ。」
妹は縁側から声をかけた。父は二三尾蝦を殺して「口まがり」にやつた。
「口まがりにやるのは止しなさいよ。ヒト一倍食べてるのよ、その癖ちつとも肥らないのね、卵も生まない。」
「卵はどの

「だつてさ、こいつは屹度いつまでたつても生まないよ。」
「そんなことがあるものか。」
「生んだつて、口まがりの卵ぢやアね。」
「バカだな、お前は!」
父は一つ一つ蝦を殺して「口まがり」に食べさせた。
「こんな

妹は、シツ! と云つて縁側を踏み鳴らした。

「あれだ! 頭を一つひつぱたいてやりなさいよ、憎らしい!」
父はたゞ笑つてゐた。
間もなく父は何処かへ出掛けてしまつた。妹がひとりで縁側から米粒を振りまいてゐた。なるべく「口まがり」の反対の方へ投げてゐた。彼は妹へ傍へ出て行つた。
「阿父さん、何処へ行つた。」
「何処だか知らないわ。」
「此奴をひとつひねつて食つて了はうか。」と彼は「口まがり」のことを云つた。
「食ふのは御免だ。」と妹は鼻と眼の間を仰山に顰めて、ペツと唾を吐いた。二人がそんなことを話してゐると、いつの間にか餌を食ひ尽して一羽が縁端へ飛びのつてキヨロ/\してゐた。
「畜生! また!」
妹はバタ/\と駆け寄つた。
彼は妹が其処に置いてゐた蜜柑を拾つて「口まがり」を眼がけて力一杯投げつけた。蜜柑はその


彼は「仕様のない奴だ。」と云つたものゝ具合が悪くつて妹の方は見られなかつた。妹は空とぼけたやうに、笑ひもせず蜜柑を食べてゐた。
「早く口まがりが死んで了へばいゝ、さうすればそつと棄てゝ了ふんだが。だけど、あれぢや育ちはしないね。」
暫くたつて妹はさう云つた。
「そんなことを云ふもんぢやない。これでも飼つて見ればいくらか可愛いゝものさ、こんなに毛も何もむしれて了つて全く可愛想だよ。ほんとに今度子供達が苛めに来たら、ウンと叱つてやるからお前からもよく云つておきな。」
彼はそんなことを呟きながら、なるべく

「なアんだ、お父さんの真似をしてゐる。」
机に凭りかゝつてゐるうちいつの間にか彼は居眠りをして了つた。苦々しい夢に襲はれて眼を醒すと頭の底がビン/\と痛み始めてゐた。散髪でもして来ようかと思つて、廊下に出ると父の後姿が見へたので止めた。
父は日当りの好い縁端に安座をかいて、「口まがり」をおさへてゐる。
「どうですね、大分弱つてゐますか知ら?」
父は背広服を着た男(獣医)に訊ねた。獣医は

「むづかしいですね。」
「助かりませんか知ら。」
「尤も養生の仕様に依つては、どうにかならないこともありませんが、――加けにこれは酷く傷害をうけてゐますぜ。」
「口まがり」は捕へられてゐるのがイヤなもので切りに悶えだ。その度毎に羽毛がパツ/\と飛び散つた。格構の悪い嘴をパク/\と動かせた。それでも眼だけは、何の変化もなくたゞパチクリとやつてゐるばかりだ。
何てエ可愛気のない

遠くで眺めてゐた彼はそんなことを思つてゐた。
「私が当分お預かりいたしませうか。」
「それにも及びますまいが……」と答へた父は軽く笑つた。
「こうして置けば到底望みはありません。然し絶対に雄

父は「口まがり」を抱いて、獣医と一処に出て行つた。
「あんなもの何が大切なんだらう。」と妹は云つた。
「ほんとだ、あんなもの――」
彼は先刻からの理由のない鬱憤を晴すやうな気持で苦々しく云ひ放つた。二人がそんなことを云ひ合つてゐるところに父が息を切らせて駆け戻つて来た。
「彼奴俺の手から飛び出してしまやアがつた。戻つて来たゞらう。」
さう云はれて彼が池の方を見ると、成程「口まがり」はちやんと池の向ひ側で餌を探してゐた。彼は父と視線を合さぬやうにして、こそ/\と自分の室に入つて了つた。
「あいつをひとつ二人してつかまつて当分箱へいれて置かう。それにしてもあいつを追つかけるに具合が悪いから、つかまへる間だけ他の

父は妹と相談して、二人がゝりで池のまはりを六七辺も駆け廻つて漸く「口まがり」を捕へて箱へ容れた。
「先づこれで当分こゝから出しさへしなければいゝ、時々佐山さんが薬を持つて来て呉れるから、大丈夫治る。」
箱を縁の下に入れて父はさう云つた。
翌朝も父は、背中をまるくして腕組をしたまゝ、長い間椽の下の

「気のせいかも知れないが、何となく元気づいたやうだ。」
父は池で手を洗ひながら独り言のやうに呟いでゐた。祖母は黙つたまゝ日向で古い本を見てゐた。間もなく父はどこかへ出かけて行つた。
彼が散髪を終つて、タオルをブラさげて門を入つて来ると庭の方でワイ/\と子供達の騒ぎ立てる声がしてゐた。彼は慌てゝ庭へ駆けて行つて見た。
「来た! 来た!」
子供のひとりがさう叫ぶと、子供達は生垣の穴をくゞつてバラ/\と逃げ初めた。穴が一つかないので、逃げ迷つてゐた最後の子供を彼は捕へた。
「何だ!」と彼は云つた。
「僕はたゞ見てゐたばかしだ。」
「何故逃げる。」
「逃げるもんか。」
「…………」
彼はたゞギユツと力をこめて子供の襟を捕へてゐた。――縁の下の箱の口は開いてゐた。「口まがり」は池の向ひ側で餌を拾つてゐる。座敷には家の者の姿は見えなかつた。大方天気が好いので祖母達は裏に堀りかけてゐる井戸でも見に行つてゐるのだらう。
「あの

「僕が出したのぢやない。」それにひとりではとても捕へることは出来ない、といふやうなことを子供は不平さうに云つた。
「僕が手伝うよ。」
「それならやつてやらう。」と子供は云つた。
池のまはりをグル/\回つて、二人がさん/″\追ひ回つたがどうしても捕まらなかつた。雄


彼も子供も疲れて、縁端に腰を掛けた。
「鋏打ちにしようか。」と子供が云つた。
「もう少し休まう。」と彼は答へた。
「そんなら僕もうお午だから帰るぜ。」
「まアもう少しお待ちよ。」
「厭だ。」
「帰ると酷いぞ。」と、彼が子供を睨めると、子供はものをも云はず一目散に逃げて了つた。
彼は草履と履き換へて、尻をはしよつた。たるむでゐたメリヤスの股引をたくしあげた。
彼は、足音を忍ばせて「口まがり」の傍へ近づいた。「口まがり」は直ぐに気がついて、仰山に飛びあがつた。彼は唇を噛みしめて、疳癪を起した。もう雄

突然、彼は身を躍らせて駆け寄つた。
池のまはりを、競馬のやうに「口まがり」と雄

「口まがり」が雄


さうして彼はまた一散に追つた。同じやうなことが幾度も繰り反された。
退屈ばらしに丁度いゝ、それに好い運動にもなる――と彼は思つた。
終まひに、雄

「口まがり」は遂々のめつてしまつた。彼が手に取りあげて見ると、一度眼を開いたが直ぐに瞑つた。体全体が大きな波をうつてゐた。
まさか死にもしなからう。――と呟きながら、彼はそつと箱の中へ入れて元の通りに縁の下へ収つた。
またあしたも、誰もゐなかつたら彼奴を苛めてやらう。
彼はそんなことを思ひながら、池のまはりに散らばつた羽毛を拾つてゐた。軽いながらも妙な興味を覚へて、久しぶりで胸の晴々しい気持を味つた。
翌朝「口まがり」が箱の中で死んでゐるのを父が発見した。
彼は、とてもそんな勇気はない癖に、
「食つて了はうぢやないか。」などゝ云つた。勿論誰も相手にしなかつた。
父は何の感情もないものゝやうに、縁の下の箱を物置へ運んで行つた。
妹は縁端を掃きながら、
「あれでも死んだと思ふと可愛想な気がするわね。箱の中へなんか押込めて置いたのが返つて悪かつたのかも知れないよ。」と云つた。
「まさか、そんなこともなからうが……」
彼は何か云ひ続けようとしたが止めて、そんなことには頓着ない者のやうに、見るからに悠然と口笛を吹きながら池のまはりを蹣歩しはじめた。
(十年十一月)