ある土曜日の放課後、清一はカバンを確かりとおさへて、家ンなかへ慌しく駆け込むやいなや、其の儘帽子も脱がず、
「お母さん!」と叫んだ。
「何だね、騒々しいぢやないか。お前またお友達と喧嘩でもしたんぢやないの?」と、縫物をしてゐた彼の母は、驚いたやうに軽く眼を挙げて彼を睨んだ。
学校から家までかなりの
「どうしたんだね、清一!」
母は清一が眼を白黒させてゐる様子を見ると、思はずプツと笑ひ出した。
「あの……ね、お母さん……ぼゝゝゝ僕ツ……!」
「慌てることはないよ。御用があるんならゆつくりお云ひよ。落着いて……」
此の一言に力を得て、清一は漸くの事で、之から直ぐに鎌倉の叔父さんのところへ行きたいといふ意味を母に伝へる事が出来た。といふ訳は、清一の学校では今度展覧会が開かれることになつたので、
「今度の展覧会は、諸君も承知の通り一年に一回しか催されない、云はゞ諸君の晴れの舞台なのだから、そのつもりで大いに腕を奮つて下さい。」と、一同を激励したあとで、先生は、期日も迫つて来た事だから、そろ/\製作に取り掛つたらいゝだらうと、深切な注意を与へた。
「山野清一君、君は何を出すつもりか?」
銘々の者に向つて質問した挙句、先生はかう清一にも訊ねた。
「画を出します。」と清一は大した分別もなく、殆ど夢中でさう答へて了つた。
「写生かい?」
「はい! さうです。」
清一は体中が熱くなる程興奮して、
「何もそんなに大袈裟に、鎌倉くんだりまで出掛けなくつてもいゝぢやないの。どうせ碌なものが出来るわけぢやあるまいし。」と笑はれたが、清一はどうしても承知しなかつた。
それから間もなく絵具箱、紙挟み、水筒――そんなものをカバンの中へ入れて、清一は鎌倉へ写生の旅に向つた。
翌朝、清一は夜明け頃から眼を覚して、ひそかに胸を躍らせてゐた。朝飯をそこそこに済ますと、早速カバンを抱へて海辺へと急いだ。空は好く晴れてゐた。緑の松、紺碧の海原、白く輝く砂、雲の影もなく晴れた空、雅致ある漁船――至るところに好画題が満ち溢れてゐた。――が、清一にとつてはそんなことは第二の問題だつた。――人の居ないところ……そればかりをキヨロ/\して探し索めた。朝の海辺は殊の他賑はつてゐた。――清一は気がもめてならなかつた。彼は、誰が見たつて決して写生へ行く子とは見られない様に、いろ/\の道具をば悉くカバンに収めて、ぶら/\散歩してゐるやうに見せかけた。それにしても、学校へ行きもしないのに、カバンを掛けてゐるのは少し可笑しい――そんなことを思つて、彼は
やがて彼は小さな松林を発見した。その中へ入つて見ると青い松葉がこんもりと繁つて、中央に坐つてゐれば誰の目にもふれる気遣ひはなさゝうだつた。丁度其処から紫色の海がチラチラと見えて、その前には恰好の好い二三本の松もあり、砂地に置き棄てられた漁船などが程よい点景となつて見渡された。清一は松の根に腰を据えてカバンを卸した。さうしてそろそろ写生の仕度に取りかゝつた。
丁度清一が仕度を整へて、いざ初筆を下さうとして心を据え、遠景近景の具合を凝と視つめた時であつた。うしろの方でこんな声がした。
「おや! あそこで写生してゐるよ。」
「小さい子なのにえらいなア! 屹度画の天才だよ。見て行かうぢやないか。」
清一はドキツと胸が鳴つた。同時に彼は立ちあがつて、さりげない様子で、口笛を吹きながら松林を脱け出した。清一はホツとして空を見あげた。
今度は一艘の船が斜になつて、丘の麓にあるのを見出して、その舟の中へ入つた。ポカポカと暖い日光が一ぱいに射込んで、その中は大へんに快かつた。清一は此処で遠く霞んだ薄紫の岬のあたりを写生しようと思つた。この中に入つてゐれば、何処からも見へる筈はないと思ふと、いくらか落着くことが出来た。
海の上には白い鳥が群をなして浮んだり舞ひ上つたりしてゐた。波の音が静かにさわさわと懶い響をたてゝゐた。あたりは晴れやかな夢のやうに朗らかな陽炎がたちのぼつてゐた。
「鎌倉へ来てよかつた。」と、清一は沁々さう思ひながら静かに筆を運ばせ始めた。
空は水色に薄い紫をかけて、それを地色にして塗り纏めた。それからグリーンと赤とを幾分か強めていざ岬の突鼻に筆を下さうとした時、突然清一の目の前に赤銅色の鬼のやうな顔が現はれた。と見る間に、その顔が怖ろしい口を開けると、白い歯をむき出して、
「何だい、この小僧奴! 舟の中へなんか入りやアがつて何を悪戯をしてゐるんだ。」と呶鳴つた。――悪戯ぢやない、画を描いてゐるんだ、と云はうとしたが、その言葉がつかへて、口へのぼつて来なかつた。それにこんな生蕃人見たいな爺に向つて、何を云つたつて仕方がないと思つたから、不精無精に道具を片附けて「チエツ!」と舌打をして舟から飛び降りた。
「ほんとに仕様のねえ小僧だ!」
老漁夫はそんなことをブツブツ云ひながら、担いで来た網を舟の中へ卸すと、自分も中へ入つて、背中を丸くして網を繕ひ始めた。――それが人形のやうに小さく見えるあたりまで来た清一は、振り返つて、
「意地悪る爺イ!」と声を張り挙げて叫んだ。その声が聞えたのか、爺は頭をあげたが、向方の声は聞えなかつた。
そのうちに清一は腹が空いたので、叔父の家へ帰つた。――なアに
「清ちやん、お前は海が随分好きだね。東京から来るとそんなに珍しいかね。」
「何ぼなんだつて、まだ泳ぐことは出来まい。だから独で行つても大丈夫だらう。夕方までたんと遊んで来るがいゝさ。」
清一の心配を知らない叔父や叔母は、そんなたわいもないことを、呑気さうに云ひ合つては笑つてゐた。清一はいくらか腹がたつたが黙つてゐた。
「清ちやん! それで何か画がかけたの?」
「あゝ半分ばかり……」
「どれ、叔母さんに見せて御覧。」
「いゝえ、未だいけないの。書き上がつたら見せますよ。」と清一は慌てゝさう答へると、直ぐにカバンを荷つて再び海辺へ走つて行つた。――今度こそは万難を排しても……清一は胸の底で呟いた。
同じ日の夕暮時、東京の
清一はそつと格子戸に手を掛けると、努めて静かに開けたつもりだつたが、けたゝましい
「あら! 坊ちやん、随分お遅うございましたのねえ。」と頓狂な声を張りあげたので、直ぐに母もそれと気付いて出て来るや、
「まア清一! 今時分まで掛つたの? みんな心配してゐるぢやないか。」と、上りかけた清一の手を取ると、
「それでお前、どんな絵が描けたの? 早く此方へ来て見せて御覧!」と優しく訊ねるのであつた。
清一は、もう堪へきれなくなつて、ワツと声を挙げるや否や、鞄を投げ出して母に縋りついた。