ふつと、軽い夢が消えると、窓先を白い花が散つてゐた。何かにギクリと悸された鼓動の余韻が、同じやうに静かに、心から散つて行くのを、私は感じた。
「桜の花だつたか。」、私はさう思つた。
ガジガジと、インク壺の中へペン先を突き込む音がする、慌しく「ノート」の頁をめくる音がする。
「……即ち、ヘラクライトスは常住の実体を根底より否定し、世界の真相は生成を以てなさるべきものとなしたる為に、クセノフアネースの思想を継いだエレア学派との激しい論争を醸すに至つたのであるが、飽くまでも万物流転の説に立脚して……」
重い抑揚のあるH教授の声量が、快く私の鼓膜を打つた。同時に私の注意が教授の言葉に注がれようとした時、突然に、今迄蛙のやうにペつたりとテーブルにへばりついてゐた無数の頭が、ニヨキニヨキと浮動し始めた。教室全体が大きな吐息を一つ衝いて、さうして喧ましい咳払ひや、テーブルの下で蠢く下駄や靴の音が雑然として鳴り初めたので、未だH教授は口を動かせてゐるらしく見へたが、末席に腰掛けてゐる私の耳には、もうその声は伝はらなかつた。
講義が、一区切り終つたところだつたのである。H教授は、これから、この時間の題目であるところのヘラクライトスの「ロゴス」に就いての講義に取り掛る前の一段落を済したところだつた。
ハンカチーフで、顔を拭いてゐる者もあつた。聴き洩したところを傍の者に訊ねて、大急ぎで書き加へてゐる者もあつた。書きかけた「ノート」を黙読して、訂正を施したり、吸取紙でおさへてゐる者もあつた。
「流転のこう常の、こうといふ字はどう書くんだ。」
私の前に居る男が、その隣りの者にそんなことを囁いてゐた。問はれた方の男は、持つてゐたペンを置くと懐中から鉛筆を取り出して「ノート」の上の方に「恒常」と書いた。
「うん、さうかさうか。」
「こんな字を知らんのか、馬鹿な野郎ぢやな。」
さう云ひながら鉛筆を倒にして、ゴシゴシとその字を消してゐた。
私の「ノート」は、拡げてはあつたが一行も汚れてゐなかつた。H教授の時間は、出来るだけ熱心に傍聴する筈だつたのだが――と、私は思つた。
間もなく、教授は椅子から立ちあがつて、静かな咳私ひをした。さうすると、凡ての頭は一勢に机の上に打ち伏した。さうして、今や突撃の号令の掛るのを待つてゐる兵隊のやうに、ペン先を擬すと、部屋中の空気は、ひとつになつて息を殺してゐた。
徐ろに、教授の微音が唇から洩れ初めると、待ち構へてゐた無数のペン先は、機織機械のやうにサラサラと活動し初めた。
私は、背筋を延して、眼ばたきもしないで、ぼんやりとH教授の顔を眺めてゐた。――一脚に三四人座れる程のベンチであるが、前へ前へと詰め寄せて掛けてゐるので、一番終りの列には、私がたつた独り腰掛けてゐるばかりだつた。私の眼の前は、平坦な西瓜畑のやうなもので、ひとつの頭もはみ出てゐなかつたから、さうしてゐると教壇までがすつかりと見透されるのだつた。
H教授の視線が、ふいと私の顔の上に止つたかのやうに見へたが、私は、
「まさか……」といふ気がしたので、なほもその儘凝と眼を視張つてゐた。私の頭は、何かとりとめのない夢でも追つてゐるかのやうに、無暗と軽いばかりだつた。頭の中心が、微風に靡いて微かに浮遊してゐるやうな心持だつた。「火の根本原理」「流転の恒常」「神の摂理」と、そんな言葉が、止絶れ止絶れに脳裡をかすめたかと思ふ間もなく、直ぐに風のやうに後ろの方へ消へて行つて了つて、あとは一瞬時前と同様茫漠とした白い幻がフワフワと漂ふてゐるばかりで、H教授のおだやかな声が帷の彼方で、私の愚かな夢の伴奏であるかのやうに微かに聞へてゐる。
暫くの間、私はそんな姿勢で呆然としてゐたが、気の為か知らなかつたが、どうもH教授の眼が、責めるやうに此方に注がれるやうな気がしてならなかつたので、私は仕方がなく前の者の背中の影に首を垂らしたのだつた。で、私も少しでも筆記しやうかと思つて、ペンを執つたが、折角の講義の印象が一行も文字となつては残つてゐなかつた。
「何といふ馬鹿気た頭だらう。」私はさう思ふと、妙な焦燥を覚へながら、コツコツと額を叩いてゐた。
「叱ツ!」
前の方で、そんな声がした。
いつか私のペン先は「ノート」の上に、丸を描いたり、三角形の連続を描いたり、ピラミツトを描いてそれに丹念な影をつけたりしてゐた。
「おい! おい! 何してゐるんだい? 馬鹿だな!」
さう云つて、私の腿を突いた者があつたので、私は驚いて首を挙げた。
「此奴、居眠りばかりしてゐやアがるな! 俺、さつきから向方で眺めてゐたんだが、君の居眠りが気になつて堪らないんだ………」
いつの間に来たものか気付かなかつたが、私の傍に来て座つてゐる山村が、憤つたやうな口調で囁いたのだつた。
「出ようか?」と私は云つた。
「まア待てよ、もう少し落着いて聴かうよ。今日のところは非常に面白いんだぜ。」
「ともかく出よう。」
「失敬な奴だな。」と云つて山村は「ノート」を伏せた。「ぢや、行かうよ。」
私達の直ぐ右手が扉だつた。私は、講義の途中で往々凝としてゐられなくなるやうな我儘な発作に備へる為に、大概の場合はこの席を選んで置くのだつた。――そこで、私は教授が黒板に向つたところを見定めて、ソツと扉を忍び出た。私は、廊下の隅にたゞずむで山村の来るのを待つてゐたが、硝子窓から覗いて見ると、H教授は正面を向いて滔々と講義を続けてゐるので、其処にうろついてゐるのも具合が悪くなつたので、校庭の芝生に行つて待たうと思ひながら、靴音を忍ばせて階段を降りて行つた。
芝生には、あちこちに寝転んだり、円くなつて雑談に耽つたりしてゐる学生達が、群がつてゐた。私は、其処に胡座をかいて、たつた今自分が出て来た二階の教室の窓を見あげてゐた。
空は、一点の曇もなく蒼々と晴れ渡つて、やはらかな春の陽の光りが、万遍なく地上のものと溶け合つてゐた。
山村は、容易に来さうもなかつた。私は堪らなくなつて立ちあがると、
「チヨツ!」と、舌を鳴して、歩き出した。――照子の家へ行つて見ようか? それともこの儘ずつと叔父の家へ帰つて了はうか? などゝいふことを考へながら、
「どつちを選ぶだらうか?」と、心に易を立てるやうな気持で、のろのろと学校の門を出て行つた。毎朝、新聞の九星で自分の運勢を見るのが癖だつたが、その日はどうしたものか見るのを忘れてゐたのに気附いた。で、私は早速校門のところで、三枚ばかり新聞を買つた。
五黄は、どの新聞を見ても皆な駄目だつた。諸事控へ目にすべし、とか、金談縁談凶などゝいふものばかりだつた。いつでも私は、好くない運勢の時は、そんなものは軽蔑して顧みないことにした。こんなもので、それ位ひ気を腐らす私だつたから、この時も妙に心が迷つてならなかつた。
私は、直ぐ近所にある山村の下宿の栄進館へ行くことに決めた。そこは帳場とも女中達とも墾意だつたから、独りで山村の部屋へ入つてゐても差支へなかつた。
私は、座蒲団を四ツ折りにして、それを枕にして天井を眺めてゐた。――天井に、巻煙草の吸口が五つ六つ投げつけられたまゝに、くつ付いてゐた。――今迄一度も、そんなものに気が付かなかつたが……と私は思つた。
「退屈な余りに、山村がこんないたづらをしたのかしら?」
さう思ふと、私は可笑しくてならなかつた。――が、私は、煙草を途中まで喫ふと、火を揉み消して、紙の一端を切り開いて、唾で濡らして――垂直に指先で撮むと、勢ひよく天井を眼がけて投げ付けた。
私は、いつの間にか一生懸命になつて、何度も何度も繰り反して、その吸口を投げ付けて見たが、一つとしてうまくは止まらなかつた。
「やつぱり今日は悪い日なのかしら!」
そんな気さへ起つたのだつた。然し私は、尚も切りにポンポンと試みてゐた。たつた一つでいゝからうまく止めたいものだ、と思つた。――「どうしてもうまく行かなければ、踏み台をして天井に貼り付けてやらうか知ら?」などゝいふことさへ考へてゐた。そんなことを思ひながら、工夫を凝すやうなつもりで天井を視詰めてゐるところに、山村が帰つて来たので、私は起きあがつて胡座をかいた。
「H――さんの講義は実に面白い。到々終ひまで聞いてしまつた。」
「何だ、失敬な! 僕はまた、逃げ出す機会がなくつて君がジリジリしてゐるんぢやないか? と思つて、可成り骨を折つて待つてゐたのに……」
私は、さう云つたものゝ、もう少し遅く山村が帰つてくればよかつたのに――といふ気がしてゐた。私の心は未だ大方「煙草の吸ひ口」の方に未練を持つてゐた。
「暫く顔を見せなかつたぢやないか? 一体何してゐたんだ?」
「僕か?」と、私は今更らしく呟いた。何気なく云つた言葉で、案外にも私が居住ひを直したやうな格構をしたので山村は、また何か煩い事件でも引き起したのか? と云はんばかりに不安さうな眼を挙げて、私の顔を見守つた。
「遂に病気になつてしまつたよ。」私は、顔を顰めて、わざと戯けるやうな調子で云つた。
「えツ! ほんとか?」
「すつかり参つてしまつた。」私は、なるべく大胆らしく装ひたかつたが、自分の全身はすつかり汚れて仕舞つたんだといふ弱い心が一杯に胸に張り詰めてゐた。
「さうか。」山村は、こゝでどんな友情を示したらいゝか? といふことを考へてゐる者のやうに黙つた。
「然し、こんなもの直ぐに治るだらう?」
「そりア、治すことはわけはないが――」
私と仝じ「悪い病気」には、山村の方がずつと先に罹つてゐたのである。
「つまり此間のところが――無論、原因なんだらう?」と、山村は続けた。
私は、この二ヶ月ばかり前に初めて山村と一処に、或る場末の遊里へ行つたのだつた。山村は責任を感じて、その後も決して私を誘ふようなことはなかつたが、十日ばかり前、私は大変興奮して、山村に取り縋らんばかりにして漸く二度目を伴れて行つて貰つたのだつた。
「叔母の家は、何とかごまかして、当分深川の叔父の処へ行つてゐることにしたよ。何しろあの照子ツて奴ね、彼奴にでも見つかると煩いからね。」
「あゝ、あの君の従姉か――さうだらう、あの人に見つかつたら弱るね。」
「全く彼奴と来たら煩い奴だよ。無暗に変な虚栄心ばかり強くつて――僕は此頃思つたばかりでもゾツとするぜ。」
私が、つい言葉を荒くしたので、山村は一寸具合が悪さうな顔をした。
「未だ嫁には行かないのか?」
こんな場合に照子の攻撃をしたつて始まらない、とは思ひながらも、
「早く嫁にでも行つて了ふと、ほんとに清々するんだが――おそらく、貰ひ手なんてあるまいよ。彼奴は、つい此間まで帝大の学生とかといふ男があつたらしいんだ。先達ても十日ばかり田舎へ行つてゐたら、近所ではお産に行つたなんて噂をしてゐるんだつて――尤もそれは噂に過ぎなかつたんだが。」などゝ幾らでも口が滑りさうになるのだつた。
「君は、また莫迦に仲が悪いんだね。始終一処に居るとお互ひにアラばかしが見へて、そんな風になるものさ。――ところで君、病気の方はどうする?」
「叔父の家が医者だから、助手の奴にお世辞をつかつて内緒で治して貰はうか、とも思つてゐるんだ。」
「そんなことが出来るか?」
「…………」
私は、山村から薬のことや、食物のことなど細い注意を教はつて、それだけさへ守つてゐれば兎に角治ると云はれたので、それ位いのことならば堅く守らうと決心して、幾分か安心した。
山村と一処に栄進館を出たのは、もう夕暮れ近い頃だつた。
「歩くことは最も好くないんだから、そいつは好く気を附けなければいけないぜ。」
「さうらしいね。今でも何となく大儀だよ、僕の歩き方は少し妙だらう。」
そんなことを話し合ひながら二人りは、運動場を横切つてゐた。運動場では、未だ大勢の学生が汗みどろになつて盛んに運動の練習をしてゐた。虎斑のシヤツを着てまくわ瓜のやうなフツトボールを蹴つてゐる一群もあつた。たつた独りで運動場の周囲を夢中になつて駆けてゐる者もあつた。おそろしく長い竿を持つてスルスルと飛びあがつてゐる者もあつた。向ふの隅では、これもたつた独りで丘のスロープの上に立上つて、大声を張り挙げて切りに何か怒鳴つてゐる者もあつた。
「こんなに歩いても差支へないだらうか。」
「無論よくはないが、あれ位ひ静かに歩いて来たんだから大したことはないさ。」
私達は、いつの間にか神楽坂迄歩いて来て了つた。露店の商人が、そろそろ荷物を拡げてゐた。私達は「お敬ちやん」といふ看板娘の居る小さな洋食屋へ入つて、ビールを飲んだ。私は怖る怖るコツプを口もとへ当てがつて、そつと甜める真似をしてゐた。
叔父は、往診に行つてゐるといふ。薬局の須藤は、浅草へ活動写真を見に行つたといふ。奥の茶の間で、助手の福山と看護婦の三村と家政婦といふやうな仕事をしてゐる多田と入院患者の瀬戸といふ株屋の番頭などが集つて花を引いてゐた。(叔父は独身者だつた。)私は、叔父と兼帯で二階の八畳の間を書斎に定めてゐた。私は、薬局から白檀油とカフセルとを盗んで来て、机の上でカフセルの蓋を一つ一つ空けてゐた。
窓の下には、小名木川の沼のやうな水が流れてゐる。その水の上に浮んだ達磨船の舵の音が、折々響いて来る静かな夕暮だつた。
「純造さん、ゐらつしやいますか?」階下から三村の声がした。「山村さんといふ方からお電話ですよ。」
私は、慌てゝ机の上の物を抽出に蔵つて、電話口へ出た。山村は、私が未だ堀留の叔母の家に居るのかと思つて訪れたのだ、と云ふ。明治座の立見場で待つてゐるから直ぐに来て呉れ、と云ふ。少し話したいことがある、と云ふ。
私は、「叔母の家へ行つて話さう。」と云つて、山村を立見場から伴れ出した。
「君は此間の晩、神楽坂で別れてから何処へ回つたんだ。」
私の方が不快を覚へた程、山村の調子は鋭かつた。余外なことを云ふな! といふ気がした。
「君は僕に嘘ばかしついてゐるんだね。」
「嘘?」私は、思はず眼を視張つた。
「嘘さ!」といつて、山村は横を向いた。
「照子から何か聞いたのか?」
「…………」
私は、わくわくと胸の戦いてくるのを覚へた。私は、まさか自分の馬鹿気た気持を説明するわけにもゆかなかつた。山村には、別段嘘をついたわけではなかつたが、斯う心が離れてゐる場合では、今更私が、照子に云つてゐることは悉く嘘なのだ、といふことを白状したつて始まらなかつた。第一、私が照子に従令嘘であるにせよ、今山村に責められるやうなことを云つてゐる上は、普段私が照子のことを山村に話してゐる事実とは余りに相違してゐることなので、私の人格の劣等さ加減は、どうしたつて山村から許されることは出来ないのだ。
「この男とも、もうこれでだんだん遠ざかつて了ふのか。」
さう思ふと私は寂しかつた。一体私は、余り親しい友達といふ者が持てない性分だつた。始めのうちは大騒ぎをして一生懸命につき合ふのだが、いつの間にか私は友達から離れて了ふのである。それも此方が離れるといふのではなく大概相手の方で、私のカラ元気でお調子者で、性格にも思想にも生活にも何の厚みもなく、ペラペラと安ツぽいことばかりを喋舌つたり、薄ツぺらな感情に動かされて酷く感傷家がつたりするより他に何もないことを見抜いて、誰でも愛想を尽かして了ふのが常だつた。加けに私のすることなすことは悉く気障で厭味たらしく、さうして酷くしみつたれなのである。
私は、まだ飯前だつたので何処かで山村と一処に食べようかと思つてゐたのだつたが、こんなに私を不愉快がつてゐる山村を誘ふのは馬鹿気てゐる、と思つた。怒るのなら幾ら怒つても仕方がない、此方はもうすつかり参つてゐるんだから、横ツ面を擲るともどうともして、さつさと帰つて行つたらよからう、俺はもう何よりも腹が空いてゐて口を利くのも面倒なんだ……私は、そんなこと以外には何も考へなかつた。
「君は、そんな空虚な生活をしてゐて、よく苦しくないね。君の為を思つて君を憎むよ。僕は、自分としては決して君を憎まうとは思はない。こんな露骨な云ひ方をしたら失敬かも知れないが、僕個人としては、君のうちに憎まうとする程のものすら見出せない。たゞ、もつと君に反省を求めるまでだよ。」
「……」私は山村の好意を感じなければならない、と思つた。然し、どうしても、山村の言葉が胸に響いて来ないので、かへつて落胆した。上滑りな生活ばかりしてゐるうちに、いつの間にか自分の感情は、一寸入り組むだ気持と気持の接触に何の理解も持てない程、鈍くなつてしまつたのではあるまいか、などゝいふことも考へた。
「君は……」と、また山村は云つた。私は、一寸好奇心を起した。
「君は、どんな理想をもつて文学なんてやらうと思つたのさ。」
さう云つて、初めて山村は微笑を洩した。私も、仕方がなく苦笑ひしてゐるばかりだつた。
電車通りに添ふた賑かな人形町通りを、小伝馬町の方へ向つて私達は歩いてゐるうちに、叔母の家へ曲る角迄来た。私は、もう山村は帰るだらう、と思つてゐた。
「寄つて行くか?」と云つて私は立ち止つた。
「さア?」山村は、ぼんやり突ツ立つて電車を見送つてゐた。――私は、照子に会ひ度くなつてゐた。
「一寸寄つて見ないか?」
「寄つても仕方がないよ。」
「ぢや僕は、実はまだ飯前なんだが、何処かで一処につき合つて呉れないか。」
「僕は今日は酒は飲みたくないし……そんなら、ぢや、別れよう。」と云つたかと思ふと、山村は私の返事も待たずにスタスタと今来た道を帰つて行つた。私は、此方の心を見透されたのではあるまいか、といふ不安も起つたが、さすがに嚇ツとイラ立たずには居られなかつた。
私は、駆けるやうにして叔母の家へ入つて行つた。
「純造さんは深川から来たの?」さう云つて叔母は、私の顔を見上げた。「照子が行つたでせう?」
「さうですか! ぢや僕一寸寄り道をしてゐたから大方行き違ひにでもなつたんでせう。」
「だつて、何時頃出かけたの?」
「六時頃だつたかしら。」
「そんなら妙だね。照子は三時前に出たんだぜ。お前さんが加減が悪いとかで寝てゐるから、見て来ようと云つて……。ぢや、またあの子は嘘をついたのか知ら?」
「そんなことはないでせう、尤も僕此二三日風邪を引いて寝てゐましたから。――山村がさつき来たでせう。」
「いゝえ。」
私は、一寸心の見当がつかなくなつた。私は、好い加減に叔母をあしらつて置いて、慌てゝ引き返した。山村と照子は途中で出遇つたんだらう、それにしても照子は山村にどんなことを喋舌つたんだらう、といふことが堪らなく気になるのだつた。
照子は、二階で私の机に凭つて障子を開け拡げて、ぼんやり水の上を見降してゐた。
「山村にさつき遇つたらう?」と、私は直ぐに訊ねた。
「えゝ、遇つてよ。」それがどうしたんだと、云ふ風に照子はすましてゐた。
「照ちやんは、僕のことを何てツたんだい、山村によ。」
「何が? 妾、何ともあんたのことなんて云やアしないわよ、だつて別に云ふことなんてありやアしないぢやないの。」
「だつて馬鹿にプンプンしてゐたぜ。僕は、照ちやんのお蔭で山村にすつかり怒られてしまつた。」
「どうしてよ。随分変だわね。――山村さんてエ人も余ツ程可笑しな人ね。妾だつて今日はすつかり参つちやつたわ。妙なことばかし云ふんですもの。――それに彼奴、厭に偉がるのね、ドストイエフスキーが何う云つてゐるとか、ボリー夫人を読んだことがあるかとか、恰で此方を文学少女かなんぞのやうに考へてゐるのさ、あんなことを云ふ人に限つてドストイフスキーなんて解つてゐるもんか。」照子は、余程気に触つたことがあつたと見へて、私の問ひなどには頓着なく斯んな愚にもつかぬことを云つて、勝手な気焔を挙げるのだつた。
「何云つてやがるんだい。手前エの方が余ツ程馬鹿だい。」私は、堪らなくなつて毒々しく云ひ放つた。私が、ふと気がついて見ると照子の膝の上にはポケツトウヰスキイの瓶が乗つてゐた。
「照ちやん、お前こんなものを飲んだのか?」私は、一寸驚いたのでうつかりそんな風な訊ね方をして了つた。
「飲んだわよ、純ちやんの机の抽出しから出して飲んだんだわよ。」
私は「秘密の薬」を発見されはしなかつたか、と思つてギクリとした。見られたにしろ、まさか照子がその薬の用途を知りはしまい、訊ねられたら胃の薬なんだ位ひでごまかして仕舞ふ……などゝ私は突差の間に考へた。
「純ちやん、体の具合はどんな? 大分気の利いた病気になつたツてエんぢやないの?」
「なアんだ、もう知つてるのか? どうして解つた。」
「どうしてツて、皆な山村さんから聞いて了ツたわよ。この人、これで口ばかしで案外気が小ツちやいのね。」
私は、仕方がなかつたのでワザと頓着なさゝうに「ハツハツヽヽ。」と笑つた。が、私は、
「山村もおかしなことを云ふ男だな。」と呟かずには居られなかつた。
「純ちやんはそんなことを妾に秘さうと思つてゐたの、自分の方が余ツ程おかしいや。」
照子は、好い心持になつて、兜さへ脱いで来ればどんなことだつて面倒を見てやらないとも限らない、とでも云ひたげな微笑を洩した。
「此頃では大変美しい恋人が出来て、すつかり烏頂点になつてゐるところなんだから、それ位ひのお灸もいゝでせう、とさう山村さんに云つてやつたら、山村さんは未だ知らないのね、純ちやんの嬉しいことをさ。」
「当り前さ照ちやんぢやあるまいし、うつかり他人にそんな厭味ツたらしいことが喋舌れるもんかね。」さう云つたものゝ私は、蝋燭の灯かなんかを吹き消すやうに自分の肉体をソツと何処かへ吹き飛して了ひたい程の羞しさを覚へた。照子の前で、くだらない虚勢を示す為に出放題なことを捏造して、如何にも自分は粋な人間であるかのやうに思はせてゐるにも係はらず、事実は山村の爪先にも及ばぬ幼稚な態で、然も山村は照子から私のことを聞いて、私が何か山村に秘密なことでもしてゐるかのやうに憤慨してゐるのを思ふと、私はもう滑稽でならなかつた。従令自分が蒔いた種とは云へ、余り自分が馬鹿気てゐて笑へもしなかつた。
「ところでね、純ちやん!」と、照子は今迄の戯けた調子から醒めたやうに、
「叔父さんのことは、よく解つてゐるでせうね。」と、云つて、眼ばたいた。
「そりやア解つてゐるさ、解つてゐればこそ僕だつて此方へ来てゐるんぢやないか。」私は未だ前の気持にこだわりながら、そんなことを云つた。初めから照子達にはさう云つてゐたが、実は私は、山村に云つた通りの事情で此方に移つたのである。
叔父の亮造は、一ヶ月ばかり前から狂気の徴があつた。私達が知つてから、三度目の発狂なのである。酒癖の好くない人だ、といふことで他人の眼は偽つて置いたが、私達にはさうでないことが明らかに解るのである。普段、殊に他人に対しては大変に当りがよく愛想も好いので、医院の者でさへ未だ気がついてゐないのである。患者の数も多くなるばかりだつた。それを見ると、私は不思議な気がした。親切な医者――それが他人の眼に触れぬ場所では純然たる精神病患者であること……斯う想ふと私は、戯曲的な恐怖を感じた。
「私達さへ、注意してゐれば、あれで立派に医者として通つて行くのだから不思議だね。」
「まるで芝居だね!」
「純ちやんの家には、あの病気の血統があるんだつてね。さう云へば、あんたも何となく妙なところがあつてよ、気をつけて頂戴ね、厭アよ、狂ひになんてなつては、フツ……」
「僕は、狂ひになる位ひなら猛烈な奴になりたいね。昼夜の差別もつかない、といふやうな凄しい奴にさ。さうしたら僕は先づ第一番に照ちやんを殺すぜ。」
照子と話してゐると、いつも私は遊蕩的な気分になるのだつた。照子が、真面目になればなる程私の心は上滑りをするのが癖だつた。
「妾達は、純ちやんが此方へ来てゐて呉れるんで安心してゐるけれど、ほんとに叔父さんのことは頼んでよ。でもね、一日に一度はどうしても妾が見に来ないと、阿母さんの気も済まないんだよ。」
私は、照子とこんな話をしてゐるのは退屈だつた。早く叔父の亮造が帰つて来ればいゝが、などゝ思つた。
「それはさうと、此間の晩は何処へ行つたの。――あんたは、そんな態になつてゐながら未だ懲りないの。今に大変なことになつてしまふわよ。」
私は、照子の気持がこんな風に正面から動いてゐるにも関はらず、此奴俺が独りで余程面白いことでもしてゐると思つて嫉妬してゐやアがるんだな、などゝ途方もない自惚れを起して、ワザと意味あり気にニヤニヤと思はせ振りな笑ひ方をしてゐた。
「この陽気さへ通り過せば、叔父さんの病気は治るんだからね、もう少しの辛棒よ。」と、云つたかと思ふと照子は、「あゝ、妾も此頃皆なの病気がうつツたのか知ら……滅茶滅茶な気持だ。」と、ほんとうにヤケ糞らしい顔付をして、ゴクリと音をたてゝ瓶の口からウヰスキイをラツパ飲みにすると、畳に突ツ伏してシクシクと泣き始めた。――「叔父さんがあんなになつたのはみんな妾の罪だ。」突然、照子はそんなことを云つた。さう云はれて見れば私にも種々思ひ当ることがあつた。――。私は、酷く驚いたが、
「何をくだらないことを云つてゐるんだね、好い加減にふざけなよ。」などゝ、慰めるともつかず嘲笑するともつかぬ、事更に高飛車な調子で、お前はイヤに自分ばかしを主人公にしたがるんだな、とでもいふ風に飽までも不当な観察を施した。その癖、私は漠然とした嫉妬心に駆られてゐた。――照子は、私の膝の傍らで、フーフーと苦しさうな息を吐いてゐた。それから、またふツと顔を挙げて、
「山村さんも、妾のためにすつかり心を滅茶苦茶にしてゐるのさ。妾だつて、堪らなく気の毒に思ふけれど……」と、云つた。
私は、荒立たしく立ちあがると窓に凭つて、河を見降した。滞船の灯が、蒼白い霧の底でヒラヒラと点つてゐた。……「好い気味だ。」と思つた。無論、邪推深くて狭量な私は、勝手な想像を回らせて、その小さな幻の中で、独りよがりな解剖を縦にして、出放題に照子を嘲笑しようとするのだつた。……畜生奴、こんな体裁のいゝことばかり云つてゐるが――うん、さうだ、さう云へばいつか山村が自作の小説を見せたことがあつた……ふと、斯う気が附いた私は、不思議な快感を覚へた。「純ちやんの友達は皆な純ちやんに似て気の利かない田舎者ばかしだ。第一あの一番親しい山村さんと来たら見るからに野暮臭いイヤらしい奴だ。妾は一体あの学校が大嫌ひだ。」などゝ照子は常々から私の周囲を悉く軽蔑してゐた。
照子が山村に、あの小説に現れてゐる如くさんざんに弄れてゐるとしたならば(山村は、架空的なことは決して創作にしないと云つてゐる男なのだから、あれは事実に相違ない。)、何といふ痛快なことだらう――と私は思つた。私は、今すぐにも山村のところへ飛んで行つて大いに彼を賞讚してやりたいやうな気がした。
「ほう! 初めて聞きましたね。それはどうも、困つたことになりましたね。……」私は、ワザと仰山に首を振り動かしながら、ニユツと照子の鼻先へ自分の顔を突きつけた。「態ア見やがれ。」と、肚の中で呟いだ。
「何云ツてるの! 純ちやん!」照子は、剣想を変へて屹と、私を睨んだ。その言葉の調子に、私をムツとさせた程の冷たさが含まれてゐた。「あんたは、どうしてさう気持がひねくれてゐるんだらう。」
さう云はれると、私は、「ひねくれてゐる。」と云はれた言葉を善意にとつて、何か傑れた力量でも認められたやうに誤解して、如何にも飄逸な皮肉な男でもあるかのやうなつもりで、しまりのない口もとを仰山に歪めながら「なにしろお照さんの威光は大したもんだなア! ハツハツハ。」と、笑つたが、――さすがに私も、取るに足りない愚かな感情にこだわつて、馬鹿気た回り灯籠に夢中になつて息を吹きかけてゐるやうな自らを眺めて、ウンザリした。如何に鈍感な照子でも、斯う執念深く見当違ひな気持の上で、こんな無技巧な言葉を浴せられては到底じつとしては居られなかつた。
「ふざけでないよ。――純ちやんが考へてゐるやうに私達は呑気な場合ぢやありやアしないぜ。」
「自分こそ、ちつと考へ直したらよからう。自惚れてなんてゐられる場合ぢやありやアしまい。何だい、女の癖にそんなものを飲みやアがつて、それも心からのヤケ糞ぢやなくつて、イヽ気になつて、見物人が居るかと思つて面白がつてゐやアがる。」私は、するする科白が舌を滑り出るやうな爽やかさを覚へた。此方こそ、芝居の真似事でもしてゐるやうな面白さを感じた。「イヽ加減人を馬鹿にしてゐやアがら! 畜生奴、それツぽツちのことにいちいち驚いてゐられるもんか……俺は何も照ちやんのことを……」私が、調子づいてペラペラと喋舌つてゐると、突然頬ツぺたのあたりに生温い物体がグシヤツといふ音を立てゝ突き当ツた。私は、フラフラと眩惑ひして、もう少しで倒れるところだつた。
「馬鹿! 馬鹿! エヽツ、ぢれツたい。」
照子は、ワツと声を挙げて泣きながら私の顔や頭をつかみかゝつたかとみると、眼も鼻もなく滅茶滅茶に私の顔を掻きつた。同時に、ムツとする程な甘い香りが、無遠慮に私の体の上に覆ひ被さつて来た。
「さアさア! 擲るんならいくらでも勝手にお擲り、俺は決して手出しはしないから落着いてやつたらいゝだらう……だが、可愛想にお前もまるで狂ひだね。」私は、胸のうちでそんなことを呟きながら、半眼を視開いて、なほも皮肉な眼を輝かせてゐるつもりで、ニタニタと嘲笑つてゐた。
その刹那の光景は鮮かに眼蓋の裏に痕つてゐる、けれどそれがあんまり馬鹿気てゐるので、私は不快さを其儘投げやりにしておいて、ピツカリと眼を視開いた儘、肚のなかの苦笑ひさへ口もとには浮んで来なかつた。――私は、蒼白い壁とすれすれのところで眼をあけてゐた。私の頭は、枕から転げ落ちてゐた。首筋のあたりが、厭に窮屈で、痛い。口のまはりがねばねばしてゐる。屹度私は、だらしもなく口を空けて、加けに涎を垂して眠つてゐたに相違ない。――何しろ、醒めて見たら怖ろしく不愉快な夢だつた。前には往々こんなこともあつたが、久しくそんな不健康な夢を見ないで好いあんばいだ、と思つてゐたところが、計らずも今、この夢の女が照子で、それがまた夥しくきわどい光景だつたので、私は恥しさの余り酷い冷汗を覚へたり、堪らない疳癪を起したりした。
私は、枕もとのタオルを取つて、両脇から脊筋へかけてべツとりと滲み出た不気味な汗を拭ひとつた。
十燭ばかりの薄暗い電灯が、丁度頭の上に点つてゐた。――何時頃なんだらう、と思つて、枕の下に埋れてゐた時計を探し出して見ると、マキが切れて分針は三時二十分のところで行儀よく止つてゐる。――すると俺は、何時間位ひ眠つたんだらう、それにしても今は何時頃なんだらう……などゝ、私は考へるともなく夢を追ふやうに、呆然と電灯の灯を眺めてゐた。
「叔父は、どうしたらう?」さう思ふと私は、胸のなかを掻きられるやうな不安が起つた。
表面は、叔父の附き添ひであるかのやうになつてゐたが、私が傍に居る為に反つて叔父の病気を助長させるやうなものだつた。私は、此間中は毎晩のやうに叔父に随つて、夜になると外出するのだつた。さうして、二人は同じ程度に酒に酔つた。あべこべに私の方が、酔つた上句には厄介な駄々をこねたり、先へ立つて吉原などへ繰り込んだりするやうなこともあつた。洲崎の土堤で、二人とも酔ひ潰れて明方になつて気が附いたこともあつた。……私には、叔父が何れ程の狂態を示すかすら明らかには解つてゐなかつた。
昼間になると叔父はケロリとしてゐるのが常だつた。さうして当り前の通りに元気よく往診に出かけたり、処方を書いたりしてゐるのだつた。だから叔父の病気のことは、私達の以外には誰にも知れなかつた。
他人の眼を眩ます、何か特別のものを叔父は持つてゐるのぢやないか知ら――さう思つて私は不気味な戦慄を覚ゆるのだつた。
そんな夜ばかり送つてゐたので私は、到々淋巴腺が腫れてしまつた。臆病な私は、大変に慌てゝ、照子に頼んで、一週間程前に此のS病院に入院させて貰つたのだつた。叔父のことは照子に托して置いて、今度こそは充分養生しようと思つてゐた。
前の晩、私は退屈の余り叔父を見に行つたところが、未だ照子は来てゐなかつたので、つい二人で外出して了つたのだつた。
「照子達は、一体俺を何だと思つてゐるんだらう、俺がまるで狂ひでもあるかのやうに思つてビクビクしてゐやアがるんで、癪に触るよ。やつぱり俺の味方は、お前だけだ。」
叔父に、そんなことを云はれると、私は妙に嬉しくなつたやうな気がした。然し私は、此の晩は、自分の体を気にして盃を口にしなかつたから「成る程――」と、思はれる細かな点を観察することが出来た。「夜の狂人といふと何だか新しい芝居の外題にでもなりさうだが、叔父さんのは全く夜の狂人といふわけだね。」照子が、そんなことを云つたことがあつたが、それも「成る程」と思はれた。
一銭蒸汽で吾妻橋迄行つた頃日が暮れた。ビールばかしをチビチビ甜めてゐる私を伴れて、叔父は小さなバーを三四軒飲み歩いた。私は、怖ろしくなつてゐた。うつかり止めさせようとでもすれば、どんなに怒るかも知れなかつた。活動写真に入らうといふので、入ると、直ぐに此処はつまらないから隣りへ入らう、といふ。電気館で「フアントマ」といふ探偵劇をやつてゐたが、これは幾らか面白いと云つて一時間ばかし見物した。
釣り堀、玉転がし、射的などゝ渡り歩いてから私達は「十二階下」の怪し気な露地へ紛れ込んだ。
「照子の奴が居ないと、俺は全く清々とするよ。何だか明るい処へ投げ出されたやうな気がするんだ。」
「どうしてゞす、照子なんて居ようと居まいと問題ぢやないぢやありませんか。」私は、叔父が照子のことを口にする度に妙に照子を羨望するやうな気が起つてならなかつた。照子の云つてることは、矢張り真実なのかしら? ――さう思ふからだつた。
「彼奴には、どうも敵はない。」
「冗談ぢやありませんよ、叔父さんはもう酔つ張らつたんですね。尤も彼奴は厭に仰山で口が煩いから堪りませんね。何でも他人のすることに嘴を容れたがるんだから、煩さくつてやり切れませんよ。」
「いや俺の云ふのは、さういふ意味ぢやないんだがね。――まア、いゝ、お前は未だ子供だから何も知らないんだ。」
そんなことを話し合ひながら、私達は、騒々しくはあるが陰気な露地をグルグルと回つてゐた。
扉を叩く音がする。――私は、返事をした。「なアんだ! 照ちやんか。」私は、つまらなさうに視線を脱したが、堪らなくきまりが悪かつた。確かに、夢で見た女は照子だつた。
「あゝ、気味が悪かつた。」軽い紙包みのものを私の脚の上に投げ出した照子は、厭にソワソワしてゐるやうなこなしで「其処の横町は随分怖いわね。」と、云つた。
「どうして?」
照子は、返事をしないでコートを脱いだり襟を直したりしながら、未だ椅子にも掛けなかつた。
私は、もう照子がどんなことを云ひ出すか大概見当がついたので、焦々して、決してお前の云はうとしてゐることなどには興味は持つては居ないのだが、前置きばかりを勿体振つてする云はれ方が堪らないんだ、といふ風に、眉を顰めて、
「何がよツ。」と、吐き出した。
「何がツて、もう厭になつちやつた。」照子は、未だ私の気持などには気附かずに落着きはらつてゐた。
「僕に聞せる必要がないのなら、僕の前で独り言を云ふのは止めて呉れ。」
「もう始まつた、折角ひとが来てやつたのに。」
「何が気味が悪いんだい。」と、私は怒鳴つた。「そこの横町は、もう少し明るくしてもよさゝうなもんだね。――それがね、厭になつてしまつたのよ。電車の中から、厭にひとの顔ばかしジロジロ見て、変な奴が居るなと思つてゐたら、妾が直ぐ其処で降りると、其奴も降りて来るんぢやないか、さうしてね、到々此処の前迄くつゝいて来たのさ。電事の中で妾の手をそつと握つたのよ。」
照子が来ない前から焦ら立つてゐる私の神経は、ガミガミと震へるのだつた。私は、横を向いて唇を噛んでゐた。
「それがね、一寸綺麗な大学生なのよ。」
「そんなら、ちつとも気味なんて悪かないぢやないか、此方から誘惑したい位ひだつたらう。」
返事なんてするもんか、と思ひながらも私はつい堪らなくなつて、斯んな毒口をついた。
「冗談ぢやないわよ、純ちやんぢやあるまいし……」照子は、笑ひながらやつと椅子に腰を降した。
「そんなことは、家へ帰つて阿母さんとでも話したらいゝだらう。」
私は、雑誌を拾ひあげて口絵を眺めた。勿論、照子は影程のことを誇張してゐるか、或は全くの出たらめに違ひない、それにしても好くもこんなに白々しく巧みな態度で喋舌れたものだなどゝ邪推して、反つて照子のグロテスクな度量に感心した。
「花を持つて来てあげたわ、綺麗でせう、カーネシヨン。」
「そんなものを眺める程、気の利いた病気ぢやないよ。」
「そりやあさうだけれどさ、斯うして置けばいくらかしほらしいぢやないか。」云ひながら照子は、コツプの中へ花の束を入れて窓枠に置いた。
「滑稽だ。」と、私は云つた。
「滑稽だね、ちよつと。」
私は、幾分か心が快く落着いた。
「今、何時だらう。」
「六時半。」
私は、一寸所在がなくて時間を合せた。六時過ぎだとすると、俺は恰で一日眠り続けて了つたのだ、今夜も亦眠れないのかな、などと思ふと私は何よりも心細かつた。
「深川へ行つた?」
「お午前に一寸行つて見たんだけれど、叔父さんは昨夜から帰つて来ないんだつて。だけど、もう帰つて来てゐるでせう。」
私の不安は一層深い影に覆はれた。――私は、前の晩程叔父の烈しい狂気を見たことはなかつたのである。照子をたつた今此処へ伴れて来い、彼奴の頬ツぺたを力一杯抓りあげたいんだ、叔父はそんなことを怒鳴つたりした。終ひには私も、酔つても居ないのにフラフラとして、叔父の気持と溶け合つて了つたかのやうな安易な心になつて、もう遅いから吉原へ行つて泊つて了はう、などゝ促して、暗い裏道を駆けるやうに歩いた。
「あんな馬鹿気たところへは行きたくない。もつと俺は酒を飲むんだ。」亮造は、さう云つて諾かなかつた。さうして、到々私の腕を振りもぎつて、八幡知らずのやうな露地に迷ひ込んで了つたのだつた。
「純ちやんが、居ない方が反つて叔父さんの具合ひはいゝやうだわ。夜だつて、早く寝て了ふし、此頃では殆どもう怪しいところなんてないわよ。妾達が心配なんてすると反つて増長するんだね、昨夜はどうしたんだか珍らしく出かけたのよ、妾はもう此頃叔父さんのことなんてちつとも心配しないわ。」
私が、伴れ出したことを照子は少しも知らなかつた。
「大丈夫もう帰つてゐるか知ら?」
「大丈夫よ、あんたは気がちいちやいからいけないのよ、純ちやんが傍に居た頃は、あれぢや恰で何方が病気なんだか解らなかつたぢやないか、こまかく気を回したりすると、あゝゆう病気には反つて悪いんだよ。」
「さうかなア……」
でも、若し気になるなら電話で聞いて置かう、と照子が云ふので、若し居れば、私は、救かる、と思つた。照子が軽々しく取扱へば扱ふ程私は心細かつた。
「居るわよ、ちやんと帰つてゐるつて。今怪我人を担ぎ込まれて夢中になつて手当をしてゐるところだつてさ。」照子は、当然の結果のやうに、電話を掛けて戻つて来た。私は、寧ろ居ないことの方を当然に思つてゐたのだつた。前の晩のことを思へば、どうしてその人が、あの烈しい狂態から醒めてゐられるだらう、と思はれるのだつた。私は、何だか出し抜かれたやうな気がした。全く叔父は、照子の云ふ通り半ばそらつかひで、心配する者を反つて肚では嘲笑してゐるんぢやないかしら、といふやうな気もした。叔父よりも自分の方が凡ての点で余程だらしがない、といふ気もした。
「叔父さんは割合ひに妾の云ふことは好く聞いて呉れるわ、全く妾達は今迄心配し過ぎてゐたかたちだつたんだね。純造が居なくなつてから急に静かになつたのを見ると、屹度今迄は純造が悪かつたんだ、なんて云つて阿母さんも笑つてゐたわ。」
「さうかも知れないよ。」珍らしく私は、照子の云ふことを素直に受け入れた。
「お見舞ひに来た?」
「誰が?」
「何とかといふ人がよ。」
「あゝ、時々来るよ。」私は、夢にもない嘘をついた。それにしても私は、もう照子にそんな風な嘘を信じさせてゐたことなどは、自分ながら忘れてゐた位ひだつた。
「でも変だわね。斯うして妾は時々来るんだから稀には出遇ひさうなものぢやないか。」
「ところが其辺はちやんとうまく出来てゐるさ、大概照ちやんの来る日は決つてゐるぢやアないか。実は、昨夜も来たよ。」
「妾に見られると恥しいもんで。」
「どうもさう自尊心が強くつては手がつけられないね。」などゝ、私は呑気さうに笑つてゐたが、もうこんなことを云ひ合ふのは退屈でならなかつた。たゞ、照子が執拗にも未だそんなことを気にしてゐるかと思ふと、一寸愉快な気もした。さう思ふと、実際に自分がそんな恵まれた身分に在るかのやうな淡い陶酔を感じたりした。
「嘘つき!」突然に照子は、叫ぶやうに口走つた。「なアんだ出放題!」
私の胸は、ドキツと鳴つた。知らばつくれては居るものゝ、若しや照子は昨夜のことをすつかり知つてゐるのぢやないかしら! と思つたが、私もすかさず、どうせ白状するからにはもう少し様子を窺つてからでも遅くはない、と気づいたので、
「ハツハツハ……僕が悪かつた、謝るよ、謝るよ、照ちやんの御機嫌を損じて了つたら形無しだからね、はい、誠にどうも申し訳のないことで……」などゝ、お前が気にしてゐるのは飽く迄も競争的な嫉妬心からなのだらう、そんならば斯うやつて謝つてゐる俺の方が勝利者なんだぜ、と云ふ風に出来るだけ此方のゆとりを示しながら相手の心を観察しようと謀むでゐた。
「酷いよツ、余り好い気になると……」
「一体何が気に喰はないんだい。」私は、もう待ち切れなくなつて訊ねた。
「一体、具合は何んななの? もう大分日数もたつたぢやアないか。」照子は、強ひて心を落着けたやうにして訊ねた。
「どうも未だ思はしくないね、つくづく弱つてゐるのさ、ほんとに照ちやんばかしに厄介になつて、加けに心配ばかし掛けて済まないね。」斯んな云ひ方をすると大概照子は悦んで了つて、何をつまらないことを気にしてゐるのさ、妾に出来ることなら何んなことだつて遠慮することはないやね、などゝ直ぐに砕けて来ることを知つてゐたので、私は努めて恐縮さうに呟いた。
「思はしくないことが、自分にも解つてゐるの?」案外にも照子は容易には打ち溶けさうもない気勢を示してゐた。
「さう厭に角々しく云はないでもいゝぢやないか、何が気に障つたんだか知らないが若少し落着いてはつきり話して呉れても好ささうなものぢやアないか、えゝ?」
「冗談も、好い加減にしな。」
「何が?」
「何がもないもんだ。」
私には当りがつかなくなつた。それにしても、この照子の理由もなく高飛車な、自分だけでは此方の弱点を握つてゐて、その程度が何れ位ひなものかを明さないことで此方の不安を唆り、自由な嬲り者にでもしてゐるかのやうな態度に、私は到々我慢し切れなくなつた。
「もう帰つて呉れ、気持が悪いツ!」と、私は怒鳴つた。
「帰るわよ、いくらでも。だけど、好い加減に我儘なさい、妾が何も知らないと思つてゐると大間違ひだわよ。」
「何が……何だい?」一瞬間前の疳癪はジクジクと燻つた儘に圧し潰された私は、たゞ、見るからに不平さうに口のうちで唸つた。
「病人の癖にして毎晩々々、一体何処へ行くの。ひとが黙つてゐるかと思つて余り馬鹿にしてるわ。」緒口に赴りついた照子の怒りは、急に夥しい能弁に変つた。「夜だと誰にも知れないかと思つてゐると、どつこいさうは行かないよ。一体あんたは何と思つて入院してゐるの、そんな事ぢや何時迄たつても治りつこはないよ。それとも、もう平気なのなら家へ帰りなさい。……」照子は、ワナワナと唇を震はせてゐた。
若少しきつぱりと要領を得た手酷い叱責を予期してゐたにも係はらず、案外生温い言葉の連続ばかしで、私は何となく飽き足らなく思つた。冗談だとか、徒らな嘲笑などゝかの場合には人一倍お喋舌りな癖にして、いざとなると恰で訥弁で、同じことばかし繰り反してゐる。他合もない奴だ、と思つた。が、私は若少し辛棒して見やうと思つた。或は肚の中では大変なことを決心してゐるのかも知れない、斯うゆう単純な女が一度あきらめたとなると反つて仕末に終へないものだ、口惜し紛れに家にでも喋舌られたらそれこそ取り返しがつかなくなる……などゝ私は、至つて巧利的な懸念から可笑しさを怺へて、凝と神妙に黙つてゐた。全く私が、斯うして易々と入院してゐられるのは照子の力より他にはなかつたから。
然し、私が懸念した程のことはなかつた。照子の云ふところは、私が斯んな状態に陥つてゐるにも係はらず未だ毎晩のやうに人目を盗んで女にでも会ひに行くと思つて、それだけを責めやうとしてゐるらしかつた。私は、前の晩のことさへ知られてゐなければ、平気なものだつた。さうだとすると一寸面白い、いくらでも、反対に照子の気持を焦らしたり怒らせたりしてやることも出来る。
実際私は、夜になると毎晩のやうに病院を出るには出た。が、無論行くところなんてある筈はなかつた。退屈晴しに近所の寄席へ続きものゝ講談を聞きに行つたのだつた。それにも飽きたので、つい前の晩始めて叔父に会つて、飛んだ失敗をして了つたことを後悔してゐるばかりだつた。時には小供らしい見得で、病気なんて他合もあるもんか、などゝ如何にも乱暴に無頓着らしく振舞つたりすることもあつたが(それも此度といふ此度は、照子の前では云へた義理ではなかつたが。)、その実私は非常に臆病で決して不養生なんてしなかつた。「いくら注意をしても不摂生をするならお断りするより他はない。」医者がそんなことを云つてゐるなどゝ照子が悸したりしたのには馬鹿らしくて笑へもしなかつた。
「そんなら何とでも、叔母さんにでも誰れにでも云ひつけるが好いさ、さうなれば俺だつて勝手にすらア。」すつかり落着いて了つた私は、事更に憤つとした顔付きをして、云ひ付けられては堪らないと思つてゐたので、ワザと念の為にさう云つて見た。
「まア驚いた、根性まがり。いつ妾が云ひ付けるなんて云つたのさ、何て男らしくもなく気を回す人なんだらう。」
斯うなると、私が図太い文句を吐けば吐く程、反対な効果を奏するのである。
「僕は、照ちやんが思つてゐる程、叔母さんやうちの親爺のことなんて気に懸けては居ないぜ。」
「まア変な人ね……」と云つた照子は、明らかに私の芝居に瞞著されて、宥めようとでもするやうに軽く笑つた。私は、好い心持になつて、ヤケ糞になれば何だつてするぞ、とでも云ふやうに更に仰山な渋ツ面を作つた。
「まさかお酒は飲みはしなからうね。」
「――」さア、どうだかね、多分飲むだらうよ、といふ意味を黙つてゐて悟らせるつもりで、私は黙つてゐた。斯んな憎態な奴のことがどうしてそんなに気に懸るのだらう、――私は寧ろそんな気がして、照子の好人物の程度が解らないやうな気がした。
「お酒と歩くことゝ、それから……」照子は一寸笑つた。「……一番いけないんだつて。」
「あゝ……」私は、照子の言葉で返つて挑発されて思はず嘆息を洩した。
「ほんとうよ。」
「さうだ。」私は、何の意味もなく答へた。何となくぐつたりとして了つて、もう言葉を交へるのも億劫な気になつた。
「当分だから出歩くことだけはお止めよ、ね。」
「うむ……」いつの間にか私は、照子の気持に引き入れられてゐた。私は、絶へ入るやうに心細く呟いた。いつそ真実のことを、弱い気持のことばかりを照子が安心の行く迄白状して了つた方が何んなに清々するか解らないと思はれたが、余り表を返したやうな態度になることも感傷過ぎて出来なかつた。
「それぢや、妾もう帰るからね、いゝかへ、もう屹度出掛けてはいけないぜ。俥を呼んで貰はうや。」照子は、帰るのなら今のうちだとでもいふやうにそわそわとして立ちあがつた。――私は、帰したくなかつた。どうせ照子が居たつて不愉快にされることの方が多かつたが、独りで退屈な不安な夜を過すことを思へば、未だしも照子の心を操り人形のやうに弄んでやることの方が余程興味のあることだつた。私は、被着を頭からすつぽりと引き被つて、
「あゝツ、あゝ。」と、自分ながら一寸ヒヤリとした程仰山な溜息を洩した。照子は驚いて、
「どうしたの? え? 何がさ?」などゝ、いつもならお戯けでないよ位ひで済して了ふ処なのに、早く帰りたいもので巧みに妥協した。
「淋しいのなら妾もう少し居てもいゝぜ。」
「そんなんぢやないよ。」私は、慌てゝ口走つた。「直ぐにさう取るんだね、馬鹿だな。」
「ぢや何がさ。」
照子が肚を立てないので、私は返つて都合が悪かつた。一刻前の薬りが余り利き過ぎたんだ、などゝ私は思つた。――。
「純ちやんは山村さんに会つて?」
「会ふもんか。あれツきりだ。」
「まア! ぢや山村さんが今晩国へ帰ることを知らないの。」
「知らない。」私は、具合が悪かつたが有りの儘を云ふより他はなかつた。
「何だね、友達の癖に――」照子は、私が予期した通り僭越な微笑を浮べた。お前のたつた一人りの友達だつて既にもうお前を裏切つて此方のものになつてゐる、それも妾は殆ど相手にしないのに――さういふ意味を明らかに私に伝へた。
「でね、昨夜山村さんは家へ暇乞ひに来たのよ。だから妾は、これから上野迄送りに行つて来なければならないのさ。」
自分の心に引き比べて何でも照子の云ふことを軽蔑しようとしてゐる私も、叔父のことを想ひまた今度の山村のことを考へて見ると私の邪推は殆ど見当違ひだつたやうな気がした。感情では飽くまでも照子に逆ふ意気はあつたが、理性が既に照子に屈服されたかたちで胸の中心に止つてゐた。
私は、立ち止つて空を見あげた。顔の真上に星が光つてゐた。――街を一回り散歩して来るつもりで出掛けたのだが、それも余り寂し過ぎて堪らないやうな気がしたので、私は悄れ返つて病院の方へ戻り初めた。照子のことなんて考へれば考へる程自分を醜くするやうなものだから、これからはもう一切念頭に置くまい、と私は思つた。さう思ふと他合もなく照子の幻なんて頭から消へ去つて不思議な程爽々しい気持が、泉のやうに胸の底から涌きあがつて来るのを覚へた。
病院の前迄来ると、玄関から出て来る女があつた。照子だつた。大概照子の来るのは隔日で、それも夜は深川の方へ行かなければならなかつたので滅多に来る筈はなかつた。
「まア……」照子は、私の顔を凝視した。「何処へ行つたの?」
「余り退屈したから一寸出かけたんだが――財布を忘れたんで取りに来たんだが、また出直すんだ。」私は、もう斯んな嘘をついてゐた。照子の顔を見ると、極めて自然に嘘が出て来るのだつた。この私の全く相手を無視した傲慢な言葉で照子はかツと怒りに炎へて、ピクピクと唇を震はせた。
「それはさうと照ちやんは何しに今頃やつて来たんだ。」昨夜お前に云つたことは皆な口先ばかしで、お前の監視のないところでは俺は自分勝手に動くまでだ、といふ風にさもさも迷惑さうに云ひ放つた。
「勝手になさいツ、妾はもう知らないツ!」照子はグングンと門を出て行つた。
「悪かつた/\、冗談だよ、遊びになんて出掛けるものかね………」私は、快さゝうに笑ひながら「まア怒るもんぢやないよ、堪忍してお呉れなね。」などと云ひながら追ひ縋つた。
「これから家へお出でな。」照子は、何か心に決したものがあるやうに屹として立ち止つた。
「それは厭だ。」
「お出でなさい。」照子は命令した。
「意見は御免だ。」私は、一寸気味悪さを感じたので、例の手段で、出来るだけ仏頂面をしたものゝ息の抜けた風船のやうに見る見る力が消へて行くのを感じた。
「病院は妾が断つて来るから、兎も角家へお出で――」そんな虚勢にだまされて堪るものかといふやうに頑として照子は意を翻さなかつた。――私は、初めて心底から無茶苦茶に肚立しくなつた。醜い心の技巧を一撃の許に発き出された恥しさの余り、厚顔にも私の意識は怒りに炎へたのだ。
「どうとでも勝手にしろ!」と、私は叫ぶといきなり帽子をり取つて力一杯地面へ叩きつけた。素ツ裸になつて身ぐるみ大地へ叩きつけたかつた。私は、夢中になつて駆け出した。――涙がだらしもなく頬を滾び落つるのが快かつた。――同時に照子も、何か云つたらしかつたが私には聞へなかつたが、私の後を追つて来た。
「狂ひツ!」確か斯う叫んだ照子の声が、私の耳に響いた。――私は、竦然として気勢を挫かれた。――失敗ツた、……わけもなく私はさう思つた。私は、もう発作的の怒りから醒めて、が仕方がなく厭々ながら駆けなければならなかつた。
間もなく私は、左の腿の関節に非常な痛みが涌きあがつて、到底その脚が役に立たなくなつたのを知つた。然し私は、どうしても照子に捕まりたくなかつた。私は、一本の脚で一生懸命にピヨンピヨンと HOPPING した。さうしてこの惨めな遁走を励ますために、一、二、三、四と胸のうちで号令した。人通りのない暗い小路で、ぼんやりと蒼白く瞬いてゐる瓦斯灯の灯が、この跳躍に伴れて、涙に濡れた私の眼に印象派の画のやうにチカチカと反映して、美しかつた。
「駄目だよう。」私が、もういよいよ動けなくなつて蹲つた時、追ひついて来た照子はドシンと私の背中を叩いた。私は、眼の据へどころに困つた。私は、瓦斯灯の灯を眺めてゐた。
「馬鹿ツ!」と、照子は云つた。私は、振り向いてその顔を見た。照子の眼も涙に濡れてゐた。
「叔父さんより酷いや。」と云つて照子は笑つた。テレかくしに丁度よかつたので、私も笑つた。二人は何とも云はずに暫らく其儘に立ち尽した。私は、たゞ無暗と気まりが悪くてならなかつた。
「泣いてゐやアがる。」黙つてゐるのも具合が悪くなつて私は、また笑つた。
「少し歩かうよ。」と、照子は云つた。私の心は、割合ひに照子の気持にピツタリしてゐた。――瓦斯灯の周囲が莫迦に白いと思つたら、桜の花が咲いてゐるのだつた。
「叔父さんがね、どうしたんだか今夜は珍しく気嫌が悪くつてね、恰で妾の云ふことを聞かないのさ、それで到々独りで何処かへ出掛けちやつたんだぜ。」
「手に負へなかつた?」
「さすがに……」
「さう照ちやんの云ふことばかし聞くもんぢやない……」
「いゝえ、さういふわけぢやなかつたんだが、妾が少しからかつたんで悪かつたのさ……」
その先は遠慮するやうに照子は笑つてゐた。
「少し歩いて帰らうね、病院へ。若しかしたら妾病院へ泊つてあげてもいゝわ。」
「そいつは御免だ。」私は、突拍子もない声で打ち消したが、妙に華やかな気持がして、ハツハツハと晴々しく、不調和な笑ひを洩した。照子は、一寸驚いたやうな顔をした。
「関やしないわよ、付添ひだもの、」
「だつて変だ。」私は、擽られるやうな快感を覚へた。
「尤も付添ひがいるやうな病人ぢやないからね。」
「…………」
「一体純ちやんは何にでも大袈裟なのね。ほんとなら入院なんてするには当らないのよ。」
「ぢや偽病だとでも思つてるのか?」
「そんなこともなからうが……だけど叔父さんの病気は妾はどうも半分は偽病のやうな気がしてならないわ。」
「そんな馬鹿なことがあるもんか――」
「それはさうと純ちやんは、さつき何処へ行かうと思つてゐたの? 今でも行くの?」
「嘘だよ。照ちやんは僕が今でも怪しい処へでも行くかと思つて心配してゐるが、実はそんなことはありやしないんだよ。今だつて、たゞ一寸余り退屈したから散歩に出かけたんだが、それもつまらないので引き返して来たところだつたのさ。」私は、うつかり照子の調子に引き入れられて本当のことを云つて了ふと、照子は、私が未だ言葉を続けようとしてゐたにも関はらず、
「なアんだ嘘なのか、妾だつてそんなことだらうとは思つてゐたんだが、ほんとは妾初から純ちやんをからかつてゐたのさ、だつて妾が少しでも心配してゐるかのやうに見せかけると、あんたは好い気になつて増長するんだもの、妾はそれが可笑しくつて堪らなかつたのさ。」などと嬉しがつて、避つた。これ位ひのことには、私は少しも驚かなかつた。この調子で照子を図に乗らせて、秘かに嬲つてやることは余りに容易だつた。「叔父さんにもあんたによく似たところがあるわ、臆病で好人物な人間に限つて悪辣がつて小細工をするものなのさ。」照子は、余程穿つた厭がらせを浴せたつもりでゐるらしかつた。私も、負けずに、酷くからかつてやらうかとも思つたが、どういふものか此時に限つてそんな興味が起つて来なかつた。
「どうも歩き憎くていけない。好い加減にして帰らうかな。」
「なアんだ、意久地なし。未だ早いんだから賑やかな方へ行つて見ようよ。妾、お腹が空いちやつたわ、未だ御飯前なんだもの。」
斯んな無謀な言葉に乗つて病気でも悪くしては堪らない、と私は要心した。全くもう歩くのは大儀でならなかつたから、私は黙つて苦い顔をしてゐた。照子は此方などには頓着なく徐ろに歩を速めながら、「厭に寒い晩だね。」などゝ呟くと、仰山に「ブルブルツ。」と唇を鳴した。私は、心配の余りそつと手の平を額に当てゝ見た。
「少し熱があるやうだ。」
「熱なんてあるわけがないよ。そんな神経は少しばかりお酒でも飲めばどつかへ行つて了ふよ。――妾が一処ならば、少し位ひ飲むことは許してやるさ。」私がおとなしく聞いてゐるものと思ひ違へた照子は、無暗に野蛮な虚勢を示してゐたが、私は馬鹿らしくて相手にもなれなかつた。――そのうちに私達は明るい街に出てゐた。私は、ほつとした気持になつて、遠くの屋根の上で青や赤に変りながら瞬いてゐる広告灯の光りを眺めた。
照子は、鰻を喰ひ度いと云つた。私は、大禁物だと云つた。そんなら傍で見てゐればいゝ、どうせ妾の奢りなんだからね、などゝ冗談を云ひながら照子は先へ立つて其処の店へ入つて行つた。お酒を取らなければ気まりが悪い、と照子は云ふ。私は、取つても飲まないよ、と固く断つた。
照子は、帰りがけに顔が赤くなつたのを恥しがつて、袂でおさへると、小走りに其処の暖簾を抜け出た。私も同じ程度の酔ひを顔に発してゐた。照子に強請されて、非常に心配しながらつい飲み過して了つた。
「真赤になつてるわ、あれツぱかしで。」照子は私の顔を眺めて、普段私が、如何にも酒が強さうなことを自慢してゐるのを覚へてゐて嘲笑した。私は、殆ど照子と同量位ひしか飲んでゐなかつたにも関はらず(確か二本目の銚子は大分残して来た。)それで私の酔はもう充分だつた。照子の顔は、頬紅を薄めて拡くはいた位ひに幾分かほんのりとしてゐたが、それも白粉の下にぽつと滲んでゐるので殆ど目立なかつた。
「眼を瞑つてヤケに飲んだりするやうな幼稚な飲み手は、気持が悪くなつて倒れて了ふか、でなければ無暗に無抵抗で、つまり酒の妙味の解らない奴は無茶苦茶なんだから、一向感じがないわけさ。僕なんてのやうにしよつちゆう飲んでゐると、従令一合の酒を飲んでも陶然としてその心は……」私は、自分が山村にだつたか? そんな風に揶揄されてゐたことを思ひ出したので、その聞き覚への極めて怪しげな標語を、おぼつかない舌の先で得意気に講釈したが、内心照子の図太いのには舌を巻いてゐた。
「それよりも照ちやん、お前はよくお酒なんて飲めたものだね。」
「妾平気だわ。それに此頃すつかりヤケ糞な気持になつてゐるんだもの。厭なことばかし多くつて、自分の思ふやうにはならないし……いつそ妾は家を飛び出して了はうかなどゝさへ考へることもあるんだよ。」
「おい、おい、ひとが黙つて聞いてゐると思つて、余り歯の浮くことを云ふのは止して貰い度いね。一体それはお惚気なのかえ。」私は、もう頭までフラフラと酔つてゐて、たゞ口先だけが勝手にそんな下品なことを喋舌つてゐた。
「いゝえ、冗談でなく、妾はどうしたんだか解らないけれども此頃自分でも自分が気味悪く思はれる程そんな馬鹿気たことまでが真面目に考へられるんだよ。純ちやんの言ひ草ぢやないけれど、妾も無茶苦茶な狂ひにでもなつてしまひたいわ。」照子の云ふところは嘘でもないらしく――何故なら、照子はさう云つて了ふと私の返答なんて恰で気にしてゐないらしく、凝と目瞬きもしないで前の方を視詰めてゐた。私は、不安と嫉妬とを強請された。私は、自分が照子の前で冗談にそれに似たことを云つた時には、決して斯んな落着いた態度は取れなかつた。
「自分で自分のことを、どうしたんだらう? なんて疑問の形で云ひかけられる位ひ、相手が退屈なことはありやしないぜ――気障なことを云つてやアがる。」
「どうせ純ちやん見たいな浅薄な人間は話相手になりはしないよ。」
「家出でも何でも勝手にしたらよからう、俺なんて用なしだ。」
それぎり照子は、そんなことを口にしなくなつたが、私の心には何時迄も不安の影が尾を引いてゐた。
私は、腿の関節がヅキヅキと痛んでゐるのを、どうやら我慢してはゐたが、刻々にその痛みは増して来るばかしだつたので、人目に触れぬやうに注意しながら軽く跛を引いてゐた。さうすると余程楽だつた。
「純ちやん、ほんとに酔つてるの?」
「あゝ酔つたよ。」私は、腹の底から酒臭い息を荒々しく吐き出した。「あゝ、いゝ心持だ。」私は、自若として独り恍惚の夢を貪りながら飽くことのない者のやうに浩然として見せた。酔つてゐるから脚がフラつくのだといふことを見せかけたら、巧に跛をごまかせるだらうなどゝ思つた。
「それで、もう山村は帰つて来ないつもりなのかしら。」照子が山村のことを話し初めたので、私も前の日から種々山村のことは考へてゐたから、斯う訊ねた。
「帰らないかも知れないわ。妾にね、随分思ひ切つた手紙を書いて置いてつたわ。純ちやんには、まさか話せないがね――。妾も気の毒には思ふけれど……それよりもね、妾今晩は叔父さんの事の方が余程気になつてゐるのよ。……」照子は、亮造のことに就いて細かく話した。――。
「大丈夫だよ、僕だつてそんな心配はよくしたが……大丈夫、明日は帰つて来るさ。」と、脚のことばかりが気になつて其方に充分な注意を向ける予猶はなかつたので、軽々しく慰めたが、照子は、私の場合とは立場が違ふんだと云つたきりで、黙つて首垂れてしまつた。さうして、
「あゝ厭だ/\。つくづくつまらない。」などゝ独り言つてゐた。
「照ちやん、お前少し酔つたね。」
「酔つたつて何だつて関はないよ。」
私は、照子の心配の内容が解らないから如何することも出来ない、といふ風に黙つて、主に自分のことばかりを考へながら、ちよつと先へたつて歩いてゐた。もう少し行つたら、俥を雇つていゝ加減で照子と別れよう、などゝ思つてゐた。
この時、不意に何を思ひ出したのか私の後ろを歩いて来る照子が、クスクスと笑ひ出した。――私は、頓着なく徐ろに煙草の煙りを吹しながら悠々と歩いてゐた。
「可笑しい、可笑しい、みつともないわよ。」照子は、執拗に笑ひながら、振り向かうともせずに、平気で歩いて行かうとする私に駈け寄ると、ドンと背中を叩いた。
「跛!」
「えツ!」ギヨツとして私は、思はず照子の顔を見守つた。この一瞬間の私の気持は、殆ど空虚だつた。……早く笑つてしまへ……そんな囁きを自分の胸のうちに感じた。……何でもないぢやないか、何も驚くことはなからう……そんな気もした。
「厭アよ、こんな人と一処に歩くのは――」
それで私は、初めてニヤニヤと笑ひ出しながら、突然と、今度は極めて大袈裟に、
「斯うかい?」と云ふが早いか、滑稽な足取りで二三歩ピヨコピヨコと歩いて見せた。失敗つた/\、大変な弱味を見付けられてしまつた――などゝ後悔しながら。――その歩き方が、安楽で痛みを忘れさせたのには、苦笑ひを覚へずには居られなかつた。
「ほんとうだもので上手なこと。」照子は、腹を抱へて笑つた。私は、恥しさの余り竦然として立ち止まると、テレかくしの為に、
「ところで照ちやん、もう少し何処かで飲みたいものだね。僕は、さつきから酒が足りないんで妙に気が沈んでならなかつたのさ。」などゝ云つた。
「飲んでもいゝけれど、ほんとに脚が痛いの。」
さうだ、と云つて了へば何でもないのに、
「嘘だよ/\、脚なんて痛いもんか。是非飲みたいね。この通りだ。」などゝ、自分ながら何の意味も感ぜられない虚勢を示すと、それは何のわけか解らなかつたが、私は懐ろ手をして、懐ろのなかでピタピタと胸板を叩いたりした。
「そんなことをしたつて、ちつとも似合ひはしない。」
私は、睾丸に酷い痛みを覚へた。――斯んな乱暴な真似をして、若しや睾丸炎にでもなるんぢやないか知ら……さう思ふと、私は堪らなく情けなかつた。――ヅキンヅキンと圧搾されるやうな痛みが、脳天まで響いた。私は、思はず唇を噛んで痛さを堪へた。
「何をそんなに意張つて、顰ツ面をしてゐるのさ。」
「もう少し飲みたくて喉がビクビクと鳴るんですよ。」
「まア何てエ下素な真似をする人だらう! ――だけど、もう今日はヤケ糞だから二人でウンと遅くまで遊んぢまはうか。」
「ヤケ糞も何もないがね、僕は――」さう云つた私は、照子のセンチメタルな興奮を避つて横を向いたが、――何となく愉快なことにでもなる前兆のやうに微かに胸の躍るのを覚へた。そこで私が、再び照子を見直すと、照子は右の手で鼻と眼を覆つた儘、フラフラとする身体を辛うじて支へてゐるらしく、ジツと彳んでゐた。
「おい、おい、冗談ぢやないぜ。照ちやん、酔つぱらつては仕様がねエぜ。それとも気持でも悪くなつたのか? え?」
私が、さもさも迷惑さうに小言を云つても、照子は逆らはうともせず、身動きもしなかつた。
「妾、何だか気がスーツとして来たわ。」
「チヨツ! 弱つちまふな、しつかりしなよ。だから云はねエこつちやないんだ。」
酔つてゐるやうに見へても、慣れてゐる者はイザといふ時になれば心はしつかりしてゐるんだ、といふやうな落着きを示したが、私とても頭や脚が驚く程フラフラしてならなかつた。
「少しつかまらせて呉れないか。」照子は、私の肩にしなだれかゝつて来た。――これは大変なことになつたぞ――と、私は思つた。が、この儘俥に乗せて送り届けてさへ了へば、結局此方の為には幸せなことだ、後で、ウンと誇張して、照子のあぶらを搾つてやることは、此頃に[#「ことは、此頃に」は底本では「ことは、、此頃に」]ない痛快なことに違ひない――などゝいふ冷やゝかな画策を回したりした。「そんなら、此処ぢやみつともなくつてやり切れないから、どつかそつちの暗い方へ行かうぢやないか。」
ちよつと普通にあり得ない光景なので、私は何よりも人目を怖れて、先へ歩き出しながらさう云つたが、照子は聞き取れなかつたと見へて従いて来ない、私は顔をあかくして、もう一度引き返して、同じことを囁いた。それで漸く気がついた照子は、好いあんばいにひよろ/\と歩き初めた。私は、伴れの者ではないやうな顔をして、さつさと先へ歩いて行つた。後になつて恩を着せるには、余り冷淡過ぎる態度だつた。
曲り角で、一寸振り返つて見ると、照子は疲れきつた者のやうに脚を引づつてゐた。――あんなに見得坊な女の癖に、斯うなると案外厚顔なものだ――さう思ふと、私は、妙に性慾的な連想を唆られた。
「もう少し速く歩けさうなものぢやないかね、何ぼなんだつて……」私は、苦々しさうに照子の姿を打ち眺めた。
私達は、月のあかりだけで、道も水の上も仄白く煙つてゐる川端を歩いてゐた。黒い塀が長々と連つてゐるところだつた。此処まで来て見ると、風に吹かれた為か、思つたより照子はしつかりしてゐた。
「何で帰る?」
「大丈夫よ、何でもありやアしないわよ。純ちやん、飲むんならもつとお飲みよ。妾は、もう平気よ。」
「もう沢山だ、照ちやんのお伴はもう懲り/\だ。」
「ほんとに妾は何でもないよ。さつきのは一寸悸してやつたんだよ。」
何云ツてやがるんだ――と私は、思つた。
「さア行かうよ、未だ時間だつてそんなに遅いわけはなし、それに妾は今晩はどうせ深川の家へ泊る筈になつてゐるんだから、いくら遅くなつたつて関やしないよ。」
「僕は、もう歩くのが厭になつちやつた。」私は腹の底から呻き出すやうに心細く呟くと、其儘其処にしやがんで了つた。もう、一歩も歩けさうもなかつた。
「あら、あら! 何だね、困つて了ふぢやないかよ。――さつさつとお歩きよ。」と、照子は笑ひながら、私の手を取つてグイと引つぱりあげた。「さア! さつきのやうに景気よくおなりよ。よう!」
安ツぽくはしやぎ出した照子を、心底から軽蔑した私は、憤ツとしてその顔を睨めた。
「もう、厭だ。」
「チエツ! 何云ツてんのさ。」と云つたかと思ふと照子は、拳を固めて私の肩先を突いた。
「もう一度跛を引いてお見せよ。」
「僕は、もう脚が痛くつて堪らない。」私は、思はず泣き出しさうな声を出した。「それに随分寒いなア。」
「だから、飲むともどうともしようよ。」
私は、口惜し紛れにヌツと立ちあがると、
「ぢやほんとうに飲むか。」と、恰も何か大きな決心でもしたものゝやうに云ひ放つた。
「ほんとも何もないぢやないか、何をそんなにイキリ立つてるのさ。」
私は、胸のなかを見透されたやうな気遅れを覚へたのを、ごまかす為に、
「飲むと決まれば、元気づくぞ。」と仕方がなしに云つた。
「速く歩かう、歩けるだらう。」さう云つてスタスタと歩き出した照子に、調子づけられた私は、もう無茶苦茶な気持になつて、
「歩けるとも/\。いくらでも歩ける。」と、云ひながら、大股で元気よく照子を駆け抜けた。が、同時に私は、到底満足な格構では歩けないことに気がつくと、
「照ちやん、見て御覧よ、斯うやるのか。」と、仰山な跛を引いて見せた。
「さうだ、さうだ、あゝ面白い/\。」
私は、歯を喰ひしばらずには居られなかつた。涙が、ほろほろと頬を伝つた。
「それでね、純ちやん、さつきのやうに駆け出して御覧よ、さうすれば偉いわ。」
「うむよしよし、斯うか?」
私は、尻をまくつて、一本の脚でピヨンピヨンと飛んで行つた。すると、照子は今それを始めて見せられたものゝやうに可笑しがつた。――さつきは、この飛び方は照子に見られなかつたのかも知れないぞ……さうだとするとまた一つ余外な弱味を握られてしまつたものだ、あゝ止せばよかつた――と、私は気付いたが、余り照子が嬉しがるので、加けにこの方が余程安楽だつたので、ヤケ糞の余り調子づいて、更に妙な格構をして飛びあがつた。
「畜生奴!」「どうとでもなれ。」「死んだつて何だつて関ふものか。」私は、夢中になつてそんなことを呟きながら、さながらカンガールのやうに快活に飛んで行つた。
照子といふ奴は、何といふ馬鹿な女だらう。あんな女に真実云ひ寄るやうな男なんてあるかしら……――私は、ふつとそんなことを考へた。極めて古い朧ろげな記憶のうちに、そんな女があつたやうな、それにしてもあの照子といふ女は馬鹿な女だつた――私の頭の中に照子の姿が、そんなかたちで漂ふてゐた。「詳しいことは知らないが、若し照子の云つたことが真実だとすれば、山村にしろ叔父にしろ何といふくだらない人間だらう。」
私は橋の欄干に赴り付いて、もう自分の肉体なんて何処の空へ飛んで行つて了つたか忘れて了つたかのやうに、ぐつたりとして、無稽なことばかしが煙りのやうに想はれたが、それもいつの間にか消へ去つて、洞ろな眼を空へ挙げてゐるばかしだつた。
「妄想の縄に縛せられ、空しく無明の酒に酔ふ。」私は、ふとさう想つて憮然としかゝつた時に、思はず竦ツとして、力一杯自分の頭を擲つた。――その言葉は、此間の晩亮造が怖ろしく興奮した上句、私の前で独り語のやうに呟いたのだが、さすがの狂人もうつかりそんなことを呟いたことを恥ずるやうに「秘蔵法論の中に斯んな文句があるが、決して面白い言葉だとは思はれないな。」と、慌てゝ打ち消したものだつた。――。
「純ちやん、純ちやん、待つてお呉れよ、そんなに先へ行つて了つては、妾が怖いぢやないか。妾、もうすつかり疲れて了つたわ。」
間もなく、息を切らして追ひついて来る照子の姿が、白く、蒼白い月の光りのなかにチラチラと浮び出た。
河向ひの黒い屋根の上に、まんまるい春の月がひよつこりと懸つてゐた。
(十一年七月作)