美智子と歯痛

牧野信一




 美智子は、朝から齲歯むしばが痛んで、とう/\朝御飯も喰べませんでした。眼に触れるものが悉く疳癪にさわりました。焦れツたくて/\堪りませんでした。家ぢうを大声あげて、出来るだけの速さで駆け回つても、まだ飽き足りないやうな気がします。鐘をグワン/\と打ち叩くやうに、或ひは歯のなかへ太い釘を叩き込むやうに――その響がビンビンと脳髄にしみ渡ります。
「あゝ。」と云つて美智子は、頬を押さへて太い溜息を洩らしました。頬が行火あんくわのやうに熱くほてつてゐました。たゞでさへ赤い頬が、それこそ林檎のやうに見事にふくれて、鏡で見た時自分ながら思はずフツと笑ひ出すところでしたが、笑ふどころではありません。直ぐに涙が眼に溢れてポタポタとこぼれて来ました。
 その癖、美智子はどうしても歯医者へ行く決心がつきません。美智子は、大へん臆病なのです。若し歯医者に行つてから、
「これはどうしても抜かなければ駄目です。」と云はれはしまいか? その時になつて、抜くのは痛いから嫌だと云へば、歯医者が笑ふだらうし、と云つてあのエンマ様の釘抜きのやうなもので、自分は痛くないのだから平気だといふやうに白々しい顔付で、ギウ/\引ツ張られたら、とても堪らない――。
 想つたゞけでも美智子は身震ひを禁じ得ませんでした。とは云へ、斯うやつてゐたら何時になつたら治ることやら……この痛さが二時間も続いたら、死んでしまふかも知れない。……だけど未だ歯痛みで死んだといふ人の話は聞いたこともない、一体誰でも歯が痛い時は、このやうに自分と同じやうな程度に痛いものか知ら? どうも他の人の痛さは斯んなに激しいとは思はれない。こんなに痛かつたら誰だつて泣く筈だ。此の間お母さんも齲歯が痛んだが、こんなに騒がなかつた。直ぐに歯医者へ駆けつけて直ぐに治つて帰つて来た。お母さんのはこれ程痛まなかつたに違ひない。
「あゝ、あゝ、あゝツ!」
 美智子は、とう/\鏡の前に打伏してしまひました。齲歯の虫が槍を打ち振つて、縦横無尽に口のなかで暴れてゐるやうです。さうしてその虫は凱歌を挙げてピヨン/\ダンスでもしてゐるやうです。
 戦争だ/\、未だ敗けない/\、何の齲歯の虫共ぐらゐ! この美智子の我慢強さを見よ! 暴れるなら幾らでも暴れて見るがよい! 敗けない/\。何といつても敗けない/\、あゝ、あゝ、あゝツ!
 そんな風に美智子は、無茶苦茶なことを胸に繰返しました。さう呟いて見ると、美智子はほんとうに悪魔とでも戦つてゐるやうな気がしました。ふと眼瞼まぶたの裏に勇ましい自分の姿が浮びました。頭上には白金の兜が朝日に輝いてゐます。身には鋼鉄の鎧がまとはれてゐます。高く差し延べた腕の先には月光のやうな剣がさんらんと映え渡つてゐます。猛火を浴び、砲煙をくゞり、馬に鞭ち、敵陣に進んで、軍旗をひるがへし――ジヤンヌは……ジヤンヌは……オルレアンの為に、
「ジヤンヌ、ジヤンヌ、ジヤンヌ……」
 美智子の空想はそんな場面に走りました。
「ジヤンヌ、ジヤンヌ、ジヤンヌ……」
 美智子は夢中になつてさう叫びました。ふつとまた醒めると余り突拍子もない想ひに走つてゐたことに気がついて、何だ馬鹿々々しいと気付きました。さうすると歯の痛みが一層猛烈に、「ジヤンヌ、ジヤンヌ、ジヤンヌ。」といふ風に拍子をとつて痛みました。
「あゝ、あゝ、あゝツ!」
「さア美智子、お医者様へ行きませう。痛みなんか直ぐに治りますよ。さア早く。そんな意気地無しぢや駄目!」
「あゝツ、痛い/\/\ツ。お母さんには解りません。」
「何を云ツてるんだね。そんなことをしてゐる間に行つてしまひますよ。さア早く。」
「あゝ、目がまはる!」
「だから、さア早く、さア、さア。」と、気短なお母さんは、もう仕度をして来て、しきりに美智子を促しました。すると今度は歯の痛みが、さア、さア、さア、といふ風に痛みます。
「ぢや、とにかくこれで少し冷して御覧よ。」お母さんはさう云つて、手拭に包んだ氷を美智子に渡しました。美智子は夢中でそれをうけとると、夢中で頬ツぺたへ押しつけました。
 ジーンといふ音のやうな感じが、頬をとほして口のなかへ沁み渡りました。美智子は力一杯に、氷の包を握りしめました。
「どう? 少しは好い?」
 美智子は、涙で濡れた眼でお母さんを見あげました。雷が少しばかり遠のいたやうな気がしました。だけど痛みは少しも減じたのではありません。たゞ幾分、それは「痛み」が取れでもしたかのやうに、その音楽的の鳴声を休めたらしく、「痛み」は沈黙のうちに厳かに餠をつくやうな力を示してゐました。
「少し静まつたところで出かけませうよ。」


 治療室からはギリギリとやすり[#「やすりを」は底本では「やすりを」]擦る音が聞えました。さうして時々ガチヤリ/\といふ金属性の道具の触れ合ふ音がします。
 美智子は、お母さんの傍に小さくなつて腰掛けてゐました。今度は自分の番かと思ふと、胸がワク/\戦きました。
「薬をつけるだけですね。」と先程から何遍も美智子はお母さんに訊ねたのです。
「大丈夫よ。」とお母さんは点頭きました。
 間もなく美智子の番が来ました。自家で我儘な子は他所へ行くと小さくなつてゐるといふならはしの通り、美智子も無論それで、お母さんと一緒に、ただ眼だけまんまるく見張つてゐました。
 やがて美智子は、治療台の上に載せられました。
「どうも此の子は、意気地なしでほんとに困るんです。」
「ハツハツ……、いやお子さんはどちらのでも同じですよ。」
 お母さんとお医者は、そんな話をしました。美智子はその呑気さうな調子を口惜しく思ひました。
「さア、ちつとも痛いことなんてありませんよ。いゝですか、アーンとお口をあけて。」
 美智子は、小さく口を開きました。唇にヒヤリと冷いものが触りました。口の中に薬が漂うて、チクリと針で刺したかと思ふと、何だか口中がしびれたやうに思はれました。痛くはないが気味の悪い音が耳の神経に伝はります。
 美智子は治療されながら、時々お母さんの方を横目で眺めました。お母さんは自家で約束した通り、ちやんと美智子の傍に立つて、お医者のやうに口の中を覗いてゐます。
「はゝア、なる程。」とお医者は云ひました。
 次の瞬間! 美智子は思はず、キヤツ! と叫びました。同時にお医者が、
「おゝ偉い/\。」と云ひ、お母さんは、
「もうよし/\、まアよかつた。」と云ひました。
 美智子は、フラフラするやうな心持で治療台から降りました。初めて口の中の感覚が、間の抜けたやうにうつろになつてゐるのに気付きました。
「それ戴いて参りませうか。」と、お母さんがお医者に云ひました。
「さア/\お持ちなさい。」と云ひながら、お医者はピンセツトに撮んで、米粒程の小さい焦茶色の歯を渡しました。美智子は、お母さんの後からそつとそれを眺めました。
 あんな小ツちやなものが、あんなに自分を苦しめたのかと思ふと、美智子は何だか可笑しくなりました。誰かに馬鹿にされてゐたやうな気さへいたしました。
 お母さんは、その歯を紙に包んで帯の間に蔵ひました。美智子は、お母さんの袖につかまりながら、帰りに何か買つて貰ふ約束だつたので、賑やかな裏通りに出ました。が、美智子は、容易に、お母さんの帯の間に蔵はれた歯のことを忘れることが出来ませんでした。無暗にそれが気になつて、ぢよの心持は妙な寂しさに覆はれました。哀愁とでも云ふやうなうら悲しさが心に迫つて来るのでした。
「強かつたね、美智子は――。何を買はうか? え何が好いの?」
 お母さんにそんな風に深切な言葉を掛けられると、美智子の胸は一層明かに涙ぐましくなつて来る。
「強いね、ほんとに今日は強かつたね。」お母さんは美智子の心持には少しも気付かず繰返し/\美智子を賞めるのでした。美智子は、出来るだけ快活さうに元気よく歩きました。





底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少女 第一二四号(菜の花の巻 四月号)」時事新報社
   1923(大正12)年3月8日発行
初出:「少女 第一二四号(菜の花の巻 四月号)」時事新報社
   1923(大正12)年3月8日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月6日作成
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