北朗来庵

尾崎放哉




 その昔し、豊臣家が亡びかけてからの事、和寇と云ふものがあつて支那の東南の海岸を荒す、其の勢すさまじく、支那人大に恐れをなして、南清のある孤島に高い/\見張所をこしらへて、いつもその見張所の上に番人が居て、和奴来るや否やと眼を皿大にして見て居る。若しそれ、日の丸だとか、丸に二ツ引きだとか、丸に十の字だとか、さう云ふ旗じるしを差上げた船が見えようものなら、和寇来る、と八方に打電(でもあるまいが)したものだと云ふ。その和寇とは一寸ちがふが、北朗襲庵の通知が実は一ヶ月以前から已にその予告があり、殊に最近、北朗自身その例の名筆をふるつて姫路より来信して曰く、姫路の展覧会大成功裡に終りそれから跡片付やらなんとかかんとかして二十六日には正に庵に行くべしと、愈和寇襲来と思つて、毎日/\待つたの待たんの。庵のうしろの山に登つては朝来る船、昼来る船……高松から……を眺めて居るが、日の丸の旗処かそんな旗じるしは無い、北朗家の定紋も私は聞いて置かなかつたのだが、一向にそれらしい物騒な船は一つも見えない、只、ブー/\と笛をならしてはいつて来ては又ブー/\と出て行つてしまふ。こんな風で或は一日や二日位早くやつて来るかも知れぬと心待ちにして居たのだが、絶望に終り、遂に二十六日となつてしまつた。二十六日は北朗自身で知らして来た日故、之はまちがひあるまいと思つて待つた待つた。処が、朝の船でも来ない、昼の船でもやつて来ない、たうとう夜になつてしまつた、……とてもイマ/\しくなつて来て、こんな時の不平はいつでも井師の処にもつて行くのが私の憲法となつてるもんだから、遂に井師の処に一本ハガキをとばして曰く、北朗といふ男は「ソノチナンジツク」と云ふ打電の便利があると云ふ事を知らぬ男と見える、待つ身を想像されたし、こんなに待たせるやうなら、イツソ来ぬ方がよし云々……之は後日話しだが、其後井師から「京都ニハ電報アリ」云々と云つて、わざ/\頼信紙へ書いたものを三銭で封入した手紙が来たので一人で腹をかゝへた事であつた。此の話しを北朗にして聞かせたら、北朗その時の云ひ草に曰く、人間が予定と云ふもので行動すると身体をいためるネ……放哉その時正にあいた口がふさがらず只なるほど、北朗と云ふ男は芸術家だなあ……と大に感心した事であつた。人間予定で動くとからだを毀すからネとは正に人を喰つた話しなれども、彼れ北朗の芸術味は正に茲にこゝにありとつく/″\感心してしまつた。放哉と云ふ男……、一寸見るとダラシの無い男のやうだが、此の予定の行動と云ふ事は今迄ずい分馴らされて来て居る、所謂腰弁生活の時代に、支店や出張所や代理店やの間を旅行するとき、旅館にとまると、マヅ真つ先きに電報用紙を出して来て、昨日の店に今此の地に着いたと云ふ礼状の電報、それから明日行く店に、明日何時にその地に行くと云ふ電報之丈を打電してしまつてから扨……酒となり飯になるといふわけ……此の癖が未だに残つて居るものと見えて北朗が電報打つて来ないので少々中ツ腹になつて居たものなり、そこで、扨、夜となり、井師にハガキを送り……処が此の四五日前から私の肩が非常にこる普通のこり方ではないので、実にイヤこり方だ、これは私の病気のセイから来るのでもあるが、益ひどくなつて来たので、こんな時には按摩さんにもんでもらつて寝た方がよいと思ひ付いて、村の按摩さんを呼んで来て、これから愈もんでもらふとなつた途端に、ガラ/\と障子をあけて、ヒヨコ/\と這入つて来た者あり……北朗正に夜中に出現せり……全くこれでは和寇以上であり、正に夜中の押し込みである呵々……扨愈北朗出現……処がこれからが又頗るダラシの無いもので、(按摩さんは勿論直ちにいんでもらふ)「オイ、何故もつと早く来なかつたのだい、待つたぜ、待つたぜ」、「ウン船の出る時間がよくわからなかつたもんだから」……これでお終ひ、今迄長たらしくダラ/\書いて来た事は、たつた此の一ト口宛の会話でそれでお終ひとはなんと云ふダラシの無い事だらう。扨それからの一幕(之は井師には秘密)「オイ、これを持つて来たぜ」……北朗のふところからコロ/\と上等な正宗の二合瓶が出て来る、「イヤさうだらうと思つて居た処サ、実はあんまり待ちくたびれて、サツキちよいと買つて来てちよいとやつた処だよ」両人顔を見合せてアハヽヽヽそして大に声をひそめて放哉曰く「コレは井師には内密だよ、井師を心配させるとこの身を切られるやうだよ」、北朗同じく声を低くして「ソヲトモナ、/\」……之で第一幕終り。
 扨北朗昼間来てくれると大に都合がよかつたのだが、今は夜、と云ふのは庵には布団無し喰べものは焼キ米とお粥ばかりだから、於茲放哉嬉しまぎれに病躯を引つさげて、前の石屋さんの亭主にたのみ込み布団を借りて来てもらふ様に交渉してまづ之で一方は一安心、扨扨喰べ物……此の時北朗「ワシパンを持つて来たよ」、よし/\之でまづ片つ方も安心、北朗又曰く「処でね放哉、わしは五日間庵にとまるよ」愈出でゝ愈彼は芸術家なるかな、「とまるのは何日でもかまはぬが、イヤに落付いたネ、第一妻君が待つとるぢやないか」、実は放哉、北朗のこと故、多分一晩位庵にとまつて、大急ぎであの可愛いゝ妻君の顔を見にかへる位なとこだらうと思つて居たのだ、「イヤそれがね、実は姫路の展覧会の収入を全部妻君に持たせて返してしまつたので、北朗カラツけつ也、故に妻君は大に安心してると云ふわけだ」、「ウフ……さうか、さうか、わかつた、わかつた」、「ソレニネ今一度丸亀市で展覧会を開いて大に四国人の壺に対する識見の蒙を啓かうといふ考なのだ」、「さう云ふ事なら何日でも居てくれ、そして二人で大に句作しようぢやないか」、「その事その事、わしも大に君と句作しようと思つてやつて来たのだ」、「さうか/\」、之より両人あれこれと積る話を交した後、まだ夜中と云ふわけでも無いのだから、これから西光寺さんと井上家とを訪問して、放哉がお世話になつて居る御礼を北朗に申してもらふ事と話しがきまつて二人で夜中に出かける。「西光寺サンてどんな人だい」、「それは、とても、エライ坊さんだよ、マアあつて見給へ」……之は後日話しなれ共北朗出発する時曰く、西光寺の和尚さんはエライ人だなあメツタに見た事が無い云々……これから西光寺さんと、井上家とを訪問して(一二君上阪中にて留守)帰つて庵で寝る、此の間に西光寺さんから北朗のために上等の布団が持つて来てあつたので、北朗全くホクホク物でその布団のなかにはいつて寝た。……今夜の庵の賑かなことかな、但之も亦五日後にはモトの静寂の庵に帰らなければならない、イヤそんな事思ふまい思ふまい。
 日日是好日の筈では無いか、……放哉もいつしか寝込んでしまふ。扨これから北朗五日庵に居たのだけれ共、今書かうと思つても書くことが無い、不思議なことだが、なんにも無いやうな気がする、マトマツタ事がなんにも無い、只馬鹿な顔をして、二人でゴタ/\してニコ/\して居たものと見える、第一、放哉も北朗も、ソレ程意気込んで居た句が一句も出来なんだことを以つて見ても、たゞ、ボンヤリして喜んで居たことが解ると思ふ。中津の同人、丁哉氏が送つて来てくれた、小供が三人で蟹に小便かけて居る絵を壁にはり付けて放哉が毎日見て喜んで居るのだが、之を二人で眺めては、只五日間と云ふものニコ/\ゴタ/\、して居たものと見える、強ひて個条書きにでもして見れば、次のやうな事があつたやうに思ふ。――
 △北朗、毎朝お経をあげてくれて、放哉大に感銘せしこと、そして北朗の読経中々うまくなつたこと。
 △北朗の朝寝坊と寒がりとには、放哉あきれながら成る程/\と思へり、それは、女房を持つてる奴は贅沢だなあ……と云ふこと。
 △北朗一日寒霞渓に至りおみやげに紅葉の枝をもつて帰る、それが甚だ汚ない紅葉、放哉未だ寒霞渓を知らず、其の紅葉を活けてながめて居ること。
 △北朗、放哉の手の黒いのを見て(垢で)如何に女に近づかぬからとてアンマリひどいと云ふ、処が放哉茲三ヶ月間一度も風呂にはいつた事がないので当り前也、洗へば白くなるのは茲だよとて大笑せしこと。
 △北朗来の翌日より井上家から毎日、御馳走をもつて来て下さる、(一二君のオツ母さんと云ふ人が実に料理の妙手で専門家正にはだし也)北朗は勿論、放哉大に悦に入りて毎日いただいたこと。
 以上位なものであらうか、北朗全く和寇の如く、風の如く来り而して又風の如く去る、北朗、あの芸術家の北朗よ健在なれ、放哉いつ又君に逢へることやらな。





底本:「尾崎放哉全集 増補改訂版」彌生書房
   1972(昭和47)年6月10日初版発行
   1980(昭和55)年6月10日増補改訂版発行
   1988(昭和63)年10月20日増補改訂二版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2006年1月2日作成
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