「それで
貴女とう/\
離婚れてしまいましたので……丁度、昨年の春の事で御座いました」
「まーとう/\。ほんまに憎らしいのは其
女の
奴どすえなー、
妾なら死んでも其家を動いてやりや
致やしませんで、」
あんまり今の女の声が高かつたので、思はずわれも其話しの方に釣り込まれた。
我は少し用事があつたので神戸の伯母さんの家へ、暑中休暇に成るとすぐから行つて居たのであつたが、つい/\長くなつたので有つた、処が此間大坂の
我家から、もー学校の始まるのも
近々になつたのだから早く帰れと云ふて手紙が来たので仕方がなく帰る事にした で、
今朝立つと云ふ処であつたのが、
馴染になつた
姪や、
従妹に引とめられてしまつて、汽車に乗つたのはかれこれ晩の六時すぎでもあつたであらう、
夜の
故か乗客は割合に少ない、
今朝手紙を
出して
置いたから
家でも待つて居るであらう、此
土産を弟に出してやつた時、どんなに喜ぶであらう、などゝ考えて腰かけて居る内に今の女の大声に破られたのであつた。
合憎われとは
大分はなれて居たのでよくは分らぬが、年は廿七、八まだ三十には成るまい、
不絶、
点頭勝に、こちらに
脊を
向けて腰かけて居る、薄暗いランプの光に照されて
透通るやうに白い
襟足に乱れかゝつて居る
後毛が何となくさびしげで、其根のがつくりした
銀杏返しが時々
慄へて居るのは泣いてゐるのでもあるのか、これと向ひあいに腰かけてゐるのが今大声をだしたので、年は四十位に見えるが、其
赤ら
顔は酒を呑む
証なのであらう、見るから
逞しそうな、そして其の袖口の赤ひのや、
薄紅をさして居るのが
一層いやらしく見える、が、
一更すましたもので、其だるい
京訛を大声で
饒舌べつて居る、勿論
絶えず
煙草はすつて居るので。他の四五人の男の乗客は大概うつら/\してゐる、やうである。
「それから
貴女神戸に
腹更りの兄が一人御座いますので それに今では
厄介になつて居るので御座います」
「第一
貴女が御ゆるいのどすえなー、れつきとした女房で居やはつてなー、そんな
何処の馬の骨だか牛の骨
見たやうな
女に、
何程御亭主が
御好ぢや
云ふたつて、
自分から身を御引きやすと云ふ事が御ますか、ほんまに、……」
一人で
怒つて、カン/\と
叩く
煙管の音も前よりは
烈しくをぼへた。
「そして又えらう
心気な
御様子でおますが、
何処に
御行やすのどすえ」
暫しして
忍び
音に
語り
出したのは銀杏返しの女である
「…………どをせ
貴女……
妾は
泣きに
生れて
来たやうなもので御
座います………それも
妾の
不運と存じては居りますが………まだ
一しよで居りました時に信太郎と云ふ男の子が一人御座いましたので……丁度今年で六つで
御座います、……それを
貴女離嫁れる
折に
置いて
行けと申しましたので、しかたなく置いて帰つたので御座います」
「まー御ぼんさん
迄御有りやしたので」
と又横槍を入れる、
「それが只一つ
心残で御座いましたので、返ります折に隣りにそれは/\親切な御婆さんが御座いましてそれに気を付けてもらうやうにたのんで置きました、私が帰りました
当座は………毎日/\
私を
尋ねて泣いて居たそうで御座います……」
後毛のぶる/\とふるえるのが見えた。
「
御無理はありまへん、」
赤良顔もしばし
煙管を
置いてかなし
気に
見えた、
噫何と云ふ
薄命な
女であらうと
我も同情の涙に
絶えなかつた、
「その御婆さんの
処から
今朝、
貴女、信太郎が大病でむづかしいと云ふてよこしたので御座います……まー其時の私の心は……………それで貴女、
家に居た処で
何事も手に付きはしませず、
家には
一寸そこまでと云ふて置いて出て
参たので御座います………」
「まーそれで、
御可憐さうなは信太郎とやら云ふ
御子どすえなー、
大方其女に毎々/\、いぢめられて
居やはりなはつたでしやろ、
妾の
家の
隣にも
貴女継子がありましてなー、ほんまに毎日/\たゝかれて
泣かぬ日はないのどすえ、」
「まーそうで
御座いますか、」
心配そうに顔をあげて
対手の
赤良顔を
眺めた、
赤良顔はあー
悪い
言を云つたと云ふ
風であつたが
「なに
貴女それ
程でも有りますまいで……
何でも
聞いた
程ではないものどす……そー御心配しやはると
御子はんより
貴女の
方が御よはりどすえ」
と云つたものゝ
猶気の毒そうに眺めてゐた、
うす暗ひランプの光…………彼女のすゝり泣く声………………何と云ふ
薄命な女であるかと
我は
思はず
溜息をついた、やがて汽車は
止つた、
「大坂」※
[#感嘆符三つ、340-16] 「大坂」※
[#感嘆符三つ、340-16]
駅夫の
呼声も
何となく
沈んで
聞えた、もー八時近くである、
乗客も皆出た、われも出た、彼女も出てゐる、
「御心配しなはらんのが……………………」
赤良顔は京都に返ると見えて窓から顔を出して
彼女と
話しをしてゐる、
「はい
有難う
御座います」
やがて彼女は急ぎ足に歩んで行つた、赤良顔も窓から猶見送つてゐる、彼女はふりむいて
点頭をした、われも
思はず
立つて彼女を見送つて居た、
「
兄さん」
はつと思つて見ると弟である、今朝の手紙で下女と弟とがわれを迎ひに
来て
居たのであつた、
「あ、
帰つたよ」「
御土産もたんとあるよ」
やがて弟の手を引いて三人で家路についた。
何処に
行つたか
先の
女はもーそこらに見えぬ、
噫あはれなる彼女、よ
神よ、あはれなる信太郎を救ひ給へ。思はず吾は天にいのつたのであつた。
終