現代語訳 方丈記

鴨長明

佐藤春夫訳




 河の流れは常に絶える事がなく、しかも流れ行く河の水は移り変って絶間がない。奔流に現われる飛沫ひまつは一瞬も止る事がなく、現れるやすぐに消えてしまって又新しく現れるのである。世の中の人々の運命や、人々の住家すみかの移り変りの激しい事等は丁度河の流れにもたとえられ、又奔流に現われては消えさる飛沫の様に極めてはかないものである。壮麗を極めた花の都の中にぎっしりと立ち並んでいる家々は各々の美しく高いいらかをお互に競争し合っている。これ等の色々な人々の住家は何時いつの時代にでもあるもので決して絶えるものではないのであるが、さてこういう貴賤様々な人々の住家のうちに不変のものを見出すと云う事は出来るものではなく、昔のままに現在までも続いていると云う住家はほとんんどなく、極めてまれに昔の美しさのある物を発見するのがすこぶる難しいことなのである。この辺に美しい立派な住家があったのだがと見て見るともうその家は去年焼け失せて無くなっていたりする。又こんな所にこんな立派な住家は無かったのにと思って見ると前の貧しい家は焼け失せて現在はこれほどの立派な住家になっていたりするものである。この様に昔お金持であって立派な美しい住家に住んでいた人が今は見る陰もなく落ちぶれて昔の住家に比ぶれば掘立小屋同様の住家に住んでいたりする。こんな運命が人々の歩まねばならないものなのである。
 昔からの知り合いは居ないものかと見て見るとそうした人は中々に見付ける事が出来なくて、所も昔の儘の所であるのに、又そこに住んでいる人々も昔の様に多数の人々が住んでいるにかかわらず、十人の中わずかに二、三人しか見出す事が出来ない有様であって、真に人々の歩むべき運命の路のあまりにも変転極まりないのを見ると感動に堪えないものがある。
 人間のこういう運命、あしたに生れてはゆうべに死して行かなくてはならない果敢はかない運命、変転極りない運命、こういう事を深く考えて見ると全く、結んでは直に消え、消えては又結ぶ水流の泡沫の如きものではないかと思ったりする。奔流に結びつ消ゆる飛沫の運命、それがせんずる所人々の歩むべき運命なのである。
 一体多くの人々がこの世に生れ出て来るのであるが、これらの人々は何処どこから来たものであろうか。そして又何処へ行ってしまうのであろうか。等と考えて見ると何処から来、何処へ行くかと云う問いに対して答え得るものは何処にも居るものではなく、何処から来て何処へ行くかは永遠に解くを得ない謎であって人々はこの謎の中に生れ、そうして死して行くのである。水に浮ぶ泡が結び且つ消える様に。
 かく果敢なく、解くを得ない運命を歩まなくてはならない人々は又この世において何を楽しみ、何を苦しんで生きているのであろうか。
 泡のごとくに消えなくてはならない儘かの人生の中でどんな仕事に面白味を見出し又どんな事で苦しんでいるのかと多くの人々の答を求めたとすれば各種各様に答が出て決して一つのものにはならず、結局何を苦しみ、何を楽しんでいるのか、また何をすべきか等と云う事も一つの永遠に解き得ない謎になってしまうのである。
 長い年月の間に火事のために、地震の為、あるいは他の色んな変事の為に、立派な美しい家が無くなってしまったり、又お金持の家が貧しくなったり、とうとい地位にあった人がいやしい身分に落ちぶれたりする、こうした人々やその住家の移り変りの極りない事はあたかも朝顔の花に置く朝露と、その花との様なものである。花は露の住家である。露は朝顔の住人である。
 露が先に地に落ちるか、花が先にしぼんでしまうか、どちらにしても所詮は落ち、萎むべきものである。露が夕陽ゆうひの頃まで残る事はなく、又朝顔とても同じ事、朝日が高く登れば萎むべき運命なのである。人々と人々の住家も所詮は朝顔に置く朝露と、朝顔の運命とを辿たどらねばならないものである。どちらが先に落ちぶれるか、それはわからないが所詮は落ちぶれるものなのである。

 自分はこの世に生れて早くも四十年と云う長い年月を暮して来たのであるが、物心が付いてから色々と見聞して来た世間の事には全く不思議なものが数々あるのである。これらの多くの見聞したものを少し思い出して書いて見る事にし様。
 昔の事ではっきりとは覚えていないのだが確か安元三年四月二十八日位であったと思うが、風の物すごく吹いている日で、ついには大嵐となった日の事である。京都の東南部の某の家から折り悪しく火が出たのである。何しろ強風の吹きすさぶ時であったからたまったものではない。たちまちの中に火は東北の方へと燃え拡がって行った。そして遂には朱雀門や大極殿、大学寮、民部省等の重要な建築を一夜の中にことごと灰塵かいじんとしてしまった。
 この大火の火元の某家と云うのはのちの調査によると樋口富ひぐちとみ小路こうじにある住家で、病人の住んでいたものであった。燃え上った火炎は折からの突風におられ煽おられて、それこそ扇を広げた様な型になって末ひろがりに広がって行った。火元から遠くにある家々は猛烈な煙の為に全く囲まれてしまって、人々は煙にむせび、呼吸すら全く自由には出来ない有様ありさまであった。炎上している家々の近くの道路は火炎が溢れ出て来る為に人々の通行を全く阻止してしまった。都の大空は炎々と燃え上る炎の為に夜は火の海の如く真紅まっかで、どれだけ強い火がどれだけ多くの家々を燃やさんとしているかを物語っていた。又一方風は益々ますます強くなるばかりで一向に静まりそうにもなく、その強風は時々火炎を遠い所へ吹き飛ばして又新しく火事を起して益々火事は広がって行くのであった。
 嵐と火事の真只中まっただなかに囲まれた京の人々は全く半狂乱でその為す所を知らずと云う有様、皆もう生きた心持もなく、唯々ただただ自然の成り行きにまかせて見ているより仕方がなかった。何をする等と云う頭はまるで働かず、茫然自失、全く手の下し様がなかった。吹き付けて来る煙に巻き込まれた人は呼吸を止められてパッタリと倒れ、人事不省になり、又吹き付ける火災にその身を巻き込まれた人々は直にその場で貴い一命を奪われてしまう事も頻多であった。こんな混乱と危険との間をさいわいにも辛うじてその生命を全うして無事に脱出し得た人々でも自分の住家から大切な家財道具を持ち出す事はまるで不可能で、大切な家財が皆火災の為に灰塵とされてしまうのを目の前に見ていた。それでいてどうする事も出来なかったのである。この様にして焼け失せてしまった諸々の家財、道具、或いは宝物、その中には定めし先祖伝来、父祖伝来のものもあったであろうに、それらのものの価はどれだけであったか考えて見る事も出来ない程に莫大なものであったろうと思われるのである。
 公卿の屋敷がこのたびの大火の為に十六と云う多数も焼け失せてしまった程であるから、まして身分の賤しい素町人達の屋敷の焼け失せた数は数える事も出来ない程に多くあった事と思われる。この大火は京の街の三分の一と云うものを僅かの間に灰にしてしまったのである。
 数多くの人々がこの大火の為にその尊い生命までも落しているのである。これ等の中には青年少年で将来どれだけ偉大な仕事をやったであろうと思われる人々もすくなくなかったであろうに、惜しい事をしたものである。人間でさえこんな事になったのであるから、まして畜生である馬や牛の焼死やけじにしたものは数知れずあった訳である。人間は本来、色んな愚にも付かない事をするものであるが、とり分けこん度の様に一朝にしてすべてを灰塵に帰すると云う様な危険性の多分にある都会の中にあって、一朝にして灰となる運命も知らぬげに、自分の住家に、大層なお金を掛けて、ああでもない、こうでもないと色々と苦心して、建てる事程間抜けな愚かしい事はないとしみじみと思い当った。こうして苦労して建てても一朝火炎に見舞われれば直に灰塵となってしまうのであるのに、全く建物にお金を掛けたり苦労する程馬鹿らしい事はない。
 治承四年の四月の頃には又大きな旋風の起った事があった。京極のほとりに起って六条のあたりまで吹いたものであった。全く物すさまじいいきおいのもので、三、四丁も吹いて行く間に、ぶっつかる所の大きなうちでも、小さなのでも、どんな家でも殆どくつがえしたり、破壊したり、破損したりしたものであった。それ程すさまじい勢に吹きつのった事であった。
 旋風に巻き込まれてその儘地上の上にペシャンコに倒されてしまったものや、けたと柱だけが残って障子や、壁はすっかり吹き抜かれてしまったのもあった。そうかと思うと門を吹き飛ばして四、五丁も先に持って行ってしまったり、垣を吹きとばしてしまって隣家との境を取りのけてしまって庭続きにしたりして方々にとんだ悲喜劇を起させた。家々にある色んな家財道具の類も根こそぎにすっかり空に吹き上げてしまった。屋根を覆っている所の檜皮ひわだ葺板ふきいたの類は丁度冬の頃に木の葉が風に舞い上る様に乱れて空に吹き上げられた。
 煙が都の空を全く覆ってしまったのではないかと思われる程に都の空には塵や埃が舞い上って天日てんじつ為に暗きを感じた程であった。人々の話し声等は荒れ狂う強風の為に全く掻き消されてしまって聞える所の騒ぎではなかった。都の街々に聞えるものは唯風の吹き荒れるすさまじい音響のみであった。その風の荒れる様のすさまじさはまるで伝え聞く地獄の業の風が現実の世に吹くのかと思われる程のものであった。吹き倒された家、破損された家、それ等家々の無残な様子は全く目も当てられない程である。又住家等の破損した場所を修繕し様として外に出て仕事をしているとそこへ何か大きなものが吹き付けて来て哀れにも不具者となると云う様な人々も数多くあった。まことに気の毒な人々である。この旋風は又西南の方に向って動いて行って其処そこに住んでいる人々に対しても前同様に色々な損害を与えて人々を悲しませた。春夏秋冬を通じて風が吹かない時は無いものであるが、何時もの風は風情のある心持の好い風であるのに今度の風はすさまじい風で、数多くの損害を人々に与えたのである。こんな風は何年かの間に一度とあるか無きかの風であって真に珍しい例外とも云うべきものである。今度の大惨事の事を深く考えて見るとこれはきっと天の神様が地上に住む人々に対して一つの警告として与えて下さったものだと考えざるを得ないのである。
 治承四年六月頃の出来事であったのだが、にわかに都が他の場所に移った事があった。この事が非常に急に、不意打ちに行われたので都の住人は驚きかつは狼狽したのであった。
 大体京都に都が定められたのは嵯峨天皇の御時であって、もう既に四百余年も経っているのであるから、何か特別の事情の無い限りはそう易々やすやすと都を改める等と云う事はあるべからざる事なのである。だから人々はどんな特別の事情があるのかと心配して、その心配の余りに平和であった人心が乱されてしまったのも真に無理からぬ事ではあった。けれども人々の心配も何もあったものでなく、遂に天子様はもとより、大臣、公卿達も皆ことごとく新しい都である福原へ移転してしまった。世に重要な地位を占めて働いている人々はもう誰一人として古い都の京都に住んでいる人は居なくなってしまった。くらい人身じんしんを極める事を唯一の希望とも理想ともする人々や、天子様の御覚えの目出度い事を願っている人々は一日も早く古い都を捨て去って新しい都の福原へ移り住む事を一途に心がけた。けれども世に取り残されて位もなく何等の望も、理想もない人々はこの出来事に対して悲しみ、愁えながらも古き都を捨て得ずに淋しく残っていたのである。
 高位高官の人々、富有な人々の居なくなった古き都の有様はあまりにも物淋しかった。軒並にその美しさを争っていた堂々たる住家は、日が経つにつれてだんだんと住む人もなく手入も行き届き兼ねて荒廃し果てた。又その住家の中には打ち壊されて福原へといかだに組まれて淀川に浮べ送られて行ったのも多い。こわれた屋敷の跡は見ている間に畑になってしまった。真に昔の面影すら見るすべもない有様であった。こんな大きな変事は人心にも多大な影響変化を与えずには措かなかった。見る見る中に都会人としての優雅な気持はすっかり無くしてしまった。そんな気持が色んな所に現れたものであるがず昔の様に牛車等に公家達が乗ったのも、もうそんなものには乗らずに武家風に馬に乗ってその敏捷な所を好むと云う様な所に現れて来た。これを見ても昔の如く優雅なのんびりとした風はなくなってしまった。又その所領の望みでも今は平家に縁故の多い西南海の所領を人々は目ざしたけれども新都に遠く離れた東北の庄園は誰も望むものはなくなってしまった。この様に総てのものが変ってしまったのである。
 私はふとした偶然の事から摂津の国の福原の新しい都の有様を見る機会を得たのでその状態を述べて見ると、先ずその広さと云うものは京都に比べると実に狭いもので、京都に習ってその市街を碁盤の目の様に区劃する事さえ出来ない有様なのである。北の方は山になっていて高く、南の方は海に面して低くなっている。そして海岸に近いので浪の音が絶えず騒々しく響いて来るのである。海から吹いてくる潮風が殊の外に強い所であまり恵まれた土地と云う事が出来ない有様である。さて最も重要な皇居は山の中に建てられてあった。ふとその建物を見て斉明天皇の朝倉の行宮あんぐうの木の丸殿まろどのもこんなのではなかったかと思えて考え様によっては存外に風情があって、風変りなだけに雅致のあるものであるかも知れないとも思われた。こう云う新しい皇居のお有様、新しい都の状態であった。
 京都の方では毎日毎日引越に人々は忙しかった。多くの住居は毀されては筏に組まれて河を下って運ばれるので、さしもに広い淀河も如何いかにも狭い様に思われる程筏で一杯になってしまった。この様にして多くの家が福原へと運ばれているのであるが、福原の土地を考えて見るとこちらから送られた程には家が建っていないからまだまだいている土地が多くあった。建ててある家の数は少ししかない。一体あれだけ、河幅が狭く見える位に送られた家は何処に建てられるつもりか又何処に建てているのか一向に見当も付きそうにはないのであった。
 京都は益々、日々と荒れ果てて行く、そして新しい都福原が都として完備するにはまだまだ日数が必要なのである。こんな時勢の間に住む人々の心持の落ち着こう道理もない。まるで青空に浮び漂う雲の如くに風の間に間に動いて真に不安定そのもの、人々の心は暗かった。元から福原に住んでいた人々は新しくお天子様と一緒にやって来た官人達の為にその土地を奪われてしまって嘆き悲しんでいる。又新しくやって来たそれらの官人達は自分達の住家を建てなくてはならないので、その面倒な仕事の為に苦しんでいる。どのみち好もしい事どもではないのである、ふと往来を行き交う人々に目をやって見ると牛車に乗るべきである所の貴い身分のものがそんなものには乗らずに馬に乗ったり、衣冠いかん布衣ほいを着ていなければならないはずの大宮人達は新興の勢力に媚びて武家の着る筈の直垂ひたたれなどを着て大宮人の優美な風俗を無くしてしまい、そうして遂には都らしい優美に、雅致のある風俗は見る見る中に無くなって唯もう田舎めいた荒々しい武士と少しも変る所のない真に情けない有様となった。
 ほのかに聞き伝える所によると昔の聖天子様の御代には御政治の中心点は一般庶民を憐れむと云う所にあった様である。民草達が貧乏の為に苦しんでいる時とか、何かの変事の為に苦しんでいる時などは尊貴の御身であらせられながら御自身のお住いの皇居の事などは少しもお構いなさらずに、軒の端に不揃いなかやの端が出ていてもそれさえお切りにならせられずに、その上に民草が食べるお米のない時には年貢さえも免除された程なのである。こうした御事は世を平和にお治めなされたいというかたじけない大御心から出るのであって有り難いものなのである。所が現在の有様はどうであろうか、やれ都の移転だとか何だかと云っては人心を平和に治める所か不安のどん底に落し入れている有様ではないか、もっともこれは清盛が無道の極端な専横の現れなのであるが、何にせよ昔の聖天子様の御代の事を考え合せて見ると実に隔世の感に堪えぬ有様は、真に嘆かわしい事である。
 養和の頃の出来事であったと覚えているが何分なにぶんにも古い事ではっきりした時は云われないのだが、その頃の二年の間と云うもの実にひどい飢饉のあった事があった。実に惨憺たる状態ありさまを呈した事があった。春から夏にかけての長い間に一滴の雨すら降らず、毎日毎日の日照り続きで田畑でんぱたの作物は皆枯死してしまう有様であった。それかと思うと秋になると大風があったり、大雨が降って大洪水になったりして全く目も当てられない様子で穀物等の収穫はまるで無く、唯いたずらに田を耕し畑に種を蒔いたのみでその甲斐はなく、秋の忙しい苅入れ時には何もする事がなく、全くの、前代未聞の災難が起ったのである。だから一年分の米もなく、食物もない有様である。
 食物の無い先祖伝来の土地の生活、それは苦難の連続でなければならない。だから人々はその先祖代々住みなれた土地を見捨ててしまって諸国を放浪して歩いたりする様になった。またある人々は家や耕地をまるで見忘れたかの様に見捨ててしまって山の中に入り込んで暮らしたりしていた。山の方がまだまだ木の実等の食物があったからであろうと思われる。
 こうした真に惨憺たる状態にあっては人々は自滅の途を辿るより他に道がないと天子様の方でも御心配にならせられて色々な御祈祷や特別に霊験あらたかなと云われている修法等を執り行わせられたものであるが、一向にそのしるしも現れては来なかったのであった。
 元来京都の人々は何事によらずその物資の供給を総て田舎から受けているのであるから、その供給者である田舎が天災の為に物資が全然取れなかったのであるから、京都の人々は勿論もちろん物資の不足を告げる様になって来たのである。京都は全く物資の供給者を失った事になったのである。こうなると困るのは京都の人々である。第一に食物を得る事が出来ない。
 それでその食物を得る為にとうとう恥も外聞もなく、家財道具を捨て売りにしてはお米を持っている人々の所へ買いに行くのだけれどもこう物資の不足している時に大事なお米は売れないとあって、とても高い値でなければ売ってくれない。こう云う状態だから、どれだけお金があっても宝物があってもどうにもならない有様である。だからだんだんと日の経つにつれて乞食共が多くなって来て、路傍に一杯群がって食を乞うその哀れな叫び声が道に満ち溢れて聞えて来る様になって来たのである。しかし養和元年もこの様な惨憺たる有様の中にどうやら暮れてしまったのである。
 明けて養和二年、人々は今年こそは物資の豊かな、平和な世に立ち直るものと期待していたのであるが、その期待は見事に裏切られてしまった。と云うのはこういう飢饉の惨状の上に、またその惨状を上塗りするかの様に疫病が流行し出したのである。人々の惨状は目も当てられず、益々ひどいものとなって行ったのである。元の様な平和な世は何処へ一体行ってしまったのかとうらみたくなる位であった。
 人々は飢饉で弱っている身に疫病の難にかかり、多くの人々はその生命を落して行った。一方物資の欠乏は益々ひどく人々は苦難のどん底に落ちて行った。この有様は丁度水の少い所に沢山の魚を入れた様なものであって、所詮は皆その生命を奪われる悲しい運命にあったのである。遂には相当な身分の人達でさえ脚絆きゃはんに足を包み、顔を笠にかくして、恥しさを忍びながら軒並に食を乞いながら歩くと云う有様になった。この様に食を乞いながら歩いたとて食を与えてくれる家とてあろう筈がないので、人々は疲労困憊こんぱいその極に達してしまって、今そこを歩いていたかと思うとただちにバッタリとたおれてその貴い生命を落すと云う事は、もうく普通に有り得ると云ういとも哀れな状態にまでなってしまった。だから街路には何処へ行っても行き倒れた哀れな人々の死骸が見出された。あちらの土塀の前、こちらの門の前と云う様に全く目も当てられない有様だった。その上にこれらの餓死し行き倒れた人々のしかばねを取かたづけ様とするものがないので、日が経つにつれてだんだんと屍は腐って行って、型が崩れ、悪臭は芬々ふんぷんとして街中に溢れていたのである。街がこの様な状態なのであるから、鴨の河原などに至っては、実に数多くの屍が一杯に溢れていて、その為に牛車や、馬車の通る道すらもないと云うひどい有様であった。
 山へ行って薪を取って、これを都の人々に売ってその日の暮しを立てている賤民や、樵夫達は飢の為に最早その毎日毎日の仕事すら出来ないのである。その為に都の人々は薪が不足して来たのである。だから全くのよるべのない一人者等は、自分の住家を破壊しては薪にこしらえて、これを薪に困っている人に売ろうとするのであるが、一人が街に出て売って来る代価だけでは、その人一人すらの生命を保つだけの価にもならないと云う悲惨な有様である。それにも増して奇怪と云うか、哀れと云うか、真に変な事があった、と云うのはこうして薪の不足を補うべきものの中に立派な塗のしてあるのや、金銀の箔の付いた材木が時々混っている事であった。これは真に奇怪千万と色々と考えて見ると、いよいよ飢の為に困った人々が、売るべきものは皆売りつくしてしまったものだから、寺院の中へこっそりと入って行って仏像を盗んで来たり、御堂の道具をむしり取ったりして、それを薪にして売りに出したものだと云う事が解って来たのである。物資の欠乏がかくまでに人の心を濁らせるものかと暗然たるものがあった。こうした大変な世の中に生れ合したばかりに楽しかるべき人生に、こうした悪濁あくじょくの姿を見なければならないのは真に情けない事である。
 世を挙げての悲惨な中にもまして最も哀れであるのは、お互に愛し合っている人々の運命である。相愛の夫婦、深く愛している夫を持ち妻を持つ人々は自分はかくとして先ず愛する夫へ、愛する妻へとなけなしの食物すらも与えるのが人情である。こうした人々は必ず深く愛する者が先に餓死しなくてはならないのはあまりにも明白な事である。
 この事は親と子の間には最も明白に現れるのであった。親を愛さない子は世にあるとしても、子を愛さない所の親は無い筈である。だから親は必ずその得た食物を子供に与えてしまうので、親は必ず先に餓死しなくてはならないのである。真に最も強き愛は親の子に対する愛と云わねばならない。こうした変事の時には最も明らかに現れるのである。母親の乳房を求めて泣く子供が方々に見られるのであるが、既に母親は死しているのに、その屍に取り付いて泣く赤んぼのいたいけな姿は、この世での地獄と云っても決して言い過ぎでない様な気がするのである。全く京の街々は昔の平和はどこへやら、今は生きながらの地獄の責苦に遭っている有様である。
 その頃仁和寺にんなじ隆暁りゅうぎょう法印と云う出家があった。この人はあまりにも悲惨な世の中の有様を見、またかくも多くの人々が日々に死して行くのを嘆き悲しむのあまり、何とかして死した人々に仏縁を結ばせてやりたいものだと発願したので、毎日毎日街を歩き廻って屍を発見する度に、その額に阿の字を書いて極楽往生を念じたのであった。こうして阿の字を書いて成仏させた人数はどれ程あったかと云うと、四月と五月の二ヶ月の間に阿の字を書いた死骸の数は、都の一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、その間だけでも驚くなかれ総て四万二千三百余もあったと云うのだから、どれだけ大きな変事であったかと云う事が解ることと思われる。二ヶ月と云う短い間にさえこれだけの死者を出しているのだから、ましてその前後に於て死している人々の数を入れて考えて見ると、莫大なる数になり、都の住人の総てが死したのではないかとさえ思われたかも知れない。その上に河原や、白河や、西の京の死者をもそれに加え、全日本の死者の数をも加えて行ったならば全く際限もない、途方もない数になったのは云うまでもない事である。その昔崇徳天皇の御代の長承の頃にも、この様な飢饉のあったと云うことを私は聞いているのであるが、その時の状況はのあたり見たのではないから全く知らない。が今度の飢饉は目のあたりにその惨状を見せられて、如何に飢饉のひどいものであったか、今度のは全く稀有の椿事であり、前代未聞のものである事には違いなく、全くって何とも言い得ぬ哀れな出来事であった。
 同じ頃の出来事なのであるが、もう一つその上に大きな地震と云う災難に見舞われた事があった。その地震と云うのが今まであったどれよりも強く、従ってまたその被害も常日頃の様なものではなく実にひどいものであった。大きな山は地震の為に崩れて来て、下に流れている河を埋めてしまったり、海の水は逆行して岸辺に上り、更に人の住家のある所まで流れて来たりした程であった。又土地が二つに割れてその間から水が湧出して来たり、大きな岩がゴロゴロと谷間にころげ落ちたりして、いやもう大変な物すごさであった。海に出ていた船は地震の為に、大波の為に木葉の如くに翻弄され、道を歩いている人々や、馬や牛などはひょろひょろとしてその足場を失って倒れたりする始末で大変な騒ぎであった。
 都にある所の立派な家や、大きな家や、小さな家は一軒として満足なものはなく、総てが倒されてしまっている。神社や仏閣等も数多くその立派な建造物を倒されている有様である。完全に倒されたのや、半分倒された家々のあたりには、まるで盛んな煙の様に塵や灰が立ち登っている。地面が、ゆり返しの地震にゆれたり、大きな家が倒されたりする時には、雷様のなる様なすさまじい音がするのである。
 人々は落ち付く所もなかった。家の中に居れば今にも家が圧しつぶされはしないかと心配でじっとしてはいられないし、外へ走り出れば地面が割れて来る始末、何処にも行き様がなかった。もしも空へ逃げる事が出来さえしたならば、一番好いのだが、情けないかな人々には羽がなくてそれすら出来ず、まことに又飢饉以上の情けない哀れな状態と云うべきだ。
 もしもこの場合に竜にでも成り得たならば、雲に乗って昇天すると云う手も考えられはするのだが、情けない事には竜ではなく人間なのだからどうする事も出来ない有様である。
 世の中には恐ろしいものは他にも幾らもあるのだけれども、地震の大きくて強いの程、恐ろしいものはないものだとつくづく悟る事が出来た次第である。人々の落ち付き場所もなくなる程に強く激しく震動する所の地震は、しばらくの後に止んでしまったのであるが、その後に来る所の余震と云うものは中々に止みそうもなかった。その余震さえもが普通には誰でもが驚く底の強さのもので、これ位のが日に二、三十度は必ず起ったのである。しかしだんだんと日が経ち、十日過ぎ二十日過ぎ、となって行く中に、さしもにひどかった余震もだんだんと度数が少なくなり、間を置く様になって来た。日に四、五度の少なさになり、二、三度になって、遂に一日置きになり、二、三日に一度とだんだんに少なくなっては行ったものの、大体に於て三月と云うものの間は余震がずっと続いていたのである。火水風は絶えず人々に災害を与えているものであるのだが、大地はあまり災害を与えるものではないものなのに、今度ばかりはちと見当違いにひどく大きな災害を与えたものである。今度の地震と昔の斉衡さいこうの年間にあった地震で、東大寺の大仏様の頭を地に落したと云って騒いだ時のと比較して見ても、今度の地震から見ると、そんなのは物の数でもない小さいものなのであった。それ程に今度のはひどかったのである。
 この様に色んな災難に遭遇して見ると、人の生活と云うものが如何につまらなく、人生そのものさえ味気ないものに思われてきて、せめてこの世に居る間だけでもとお互い相助け合い、気持好く、私利私慾を貪る事なく暮したいものだと人々は考える様になって来た。少しは濁っていた人々の心も打ち続く災難の為に改まったのであろう。けれども人々の心持なんてあてになるものではなく、だんだんと日が立ち月が経ち年が経つにつれて、そう云った大きな災害のあった事など何時の間にか忘れてしまって、お互に助け合うの、お互に、私利私慾を貪らずに気持よく暮らそうなんて云う気持はもうどこへやら行ってしまって、又元の私利私慾のみを考える様になり、いやな世の中にだんだんとなって行ってしまった。真に情ない事である。
 総て世の中は無情であって、中々に住み難い所であると云う事は上述の通りであり、又自分自身の運命の果敢なく頼りない事も同じであり、その住家さえ何時何時いつなんどきどんな災害に見舞われないとも限らないのも同様のことである。まして人々はその上に住む場所や、身分に応じて世の絆の拘束の為にどれ程に悩んでいる事か知れやしない。この様に世の中はむずかしく住み難い所なのである。一方には自然の災害があり、一方ではお互が愛し合う事もなく一人一人が勝手に暮らしているこんな世の中は全く地獄も同然と云っても好いのだ。
 住む場所にした所で、家のぎっしりとつまっている所の狭い街の中に住んでいるとしたならば一度猛火に遭遇した場合には必ずそのわざわいを受けなければならないのだし、それが嫌だと云ってずっと街を離れた田舎の方に住むとして、火災の難はのがれるとしても、一寸外出したり散歩したりするにも道路の悪い田舎道を長く歩かねばならぬと云う不便なこともあるし、あまり人里離れた場所ではしばしば盗賊に襲われると云う事も覚悟しなければならないのである。これでは落ち付いた暮しも出来たものではない。
 権勢のあるものはその現在持っている権勢では決して満足していないで、もっと強い権勢をと望んでその為に色々と苦労をするのだし、それかと云って何らの権勢もなく、身分も低くて孤独なものは人々の軽蔑の対象となって苦しまなければならず、又財産があまりに沢山あると日夜盗賊に襲われはしないかと心配して夜もあまり落ち付いては寝られないであろうし、それかと云って貧乏であって見ればその日の食の為に日夜心配し苦労しなければならないであろうし、これも又相当に苦しい事である。それかと云って人のお世話になっていれば自分自身は何だかその人の奴隷の様に扱われて苦しまなければならない。かと云って人に情けをかけて世話をしてやるとしても又その情けに引かされて一苦労しなければならず、為す事総てがこの有様では苦痛の種となってやり切れやしない。世俗一般の人々が普通にやっている生活の法則、道徳律等を守って生活しようとすれば何処かに空虚な所があって本心からこれで満足だと思う事がなくて苦しいし、そうかと云って普通の人々の生活を全く離れて自分の思っている通りに生活すれば自分の本心は非常に満足に思うのであるが世間の人々から狂人扱いをされてこれまた苦しまねばならないのである。こう考えて見るとんな事をしても苦しまなくてはならない世の中にあって自分は一体どうすれば苦しみもなく落ち付いて暮らす事が出来るかと全く解らなくなって来る。何を為し、何処に住めば一体私の心は永遠の平和を得、本心の満足を得、落ち付いて生活する事が出来るのであろうか。つまる所は私はまだまだこの俗世に執着を感じているのではあるまいか。もしそれだとするならばこの俗世を脱れる事が最も私の生活に満足を与え、平安を与え、落ち付きを与えてくれる事になるのかも知れない。

 私は父方の祖母の家督を継いでその家屋敷をも受け継いでそこに住む為に、祖母の永く住んで居た土地に永く居たのであるが、家族の者に先だたれたり、色んな不幸が打ち続いてあった為にすっかり私は元気を失ってしまい、遂にはそこに住んでいると色んな過ぎ去った不幸を思い出すので嫌になってとうとうその土地を見捨てる決心をしてしまった。そうして自分はもう俗世では決して満足が得られないのでこれをも捨ててしまって人の来ない所に小さいいおりを作って住む事に定めたのである。その時私は丁度三十歳であった。この庵は祖母から受け継いだ家と比較すればその十分の一位のものでまことに小さいものであった。それでもその中に自分の居間だけは作る事が出来たのであるが住家と名付けるだけの部屋を作る事は出来なかった。ささやかなまがきを作ったけれども、これを飾る所の立派やかな門は作る事が出来なかった。竹を柱にして車を入れる所を作って居た。がこの庵は少し風が強く吹きでもすると吹き飛ばされはしまいかと心配になり、又その上に雪でも荒れ狂ったならば何時圧しつぶされてしまうか解らないと云う様な真実まことに以って危険千万な建物なのである。その上に河原の近くに位置している為に洪水が出たとすればひとたまりもなく圧し流されてしまう危険があり、あまりに人里離れた土地故に盗賊の心配又大変なものである。こうして俗世を脱れて来ても色々な心配は常に絶えるものではないのである。
 心配事や苦しい事ばかりが世の中には多くて少しも落ち付いて暮らす事も出来ず、まことに住み難い世の中だ、嫌な世の中だと、何だと不平を云いながらも私は既にもう三十年と云う長い間この苦しい、つらい世の中に堪え忍びながらも住んで来たのである。そしてその間にあった色々な出来事や、嬉しい事よりも悲しい事の多かった事、思い掛けない災難に遭ったこと、失敗した事等によってしみじみと自分の運命の情けない事を悟る事が出来た。それでもまだまだ全く世を捨てる事は出来なかったのであるが、遂に五十歳の春には全く家を捨て、苦しい世を捨て、全くの遁世を決心してそれを実行したのである。
 もとより私は孤独の身で妻や子はないのであるからそうした家族の愛に引かされると云う事は全然ないのだからそう云った事には全然悩まされる事もなかった。又高位高官や、貴い官職や、沢山の俸給等と云うものには全然用事のない身であるのだから何一つとして俗世に引き付けられる様なものもなく、大変に楽に世を捨てる事が出来たのである。
 こうして全くの遁世の生活を、人里離れた大原山の雪深い所に送る様になってからもう長い間の時が経ち、何回かの春秋を送り迎えしたわけである。
 もう齢も六十近くなり、あともう余命幾何いくばくもない時になってから一つの新しい住いを造って住んだ事があった。丁度これは遂に行き暮れた旅人がやっとの思いで一夜の宿りの場所を見付けてほっとした様なものであり、又これは年老いたかいこが繭を作って籠る様なもので真にはかないものではあるが何か心楽しいものではあるのである。この新しい住家は以前に造って住んでいたものに比ぶればその百分の一にも及びも付かない、小さいものではあった。こう云う風にだんだんと年を取って行くにつれて自分の住家までがだんだんと狭くなって行く、何だか如何にも自分の運命そのものの様に思われて淋しい。
 現在自分の住家はどんなものであるかと云うと世間に普通一般に住家と言われているものと比較すればそれは、もう住家と云う事さえ出来ない様なちゃちなものである。がこれで自分一人が住むにはまことに相応していて心持の好い住家である事には間違いはないのである。広さは僅かに一丈四方と云う小さなもので高さもそれに相当して七尺に満たないものなのである。一体私は何処に住まなくてはならないと云う考えは全然無いのであるからここが好いとかあそこが好いとかなんて事は少しも考えないで唯気の向くままに何処へでも土台を組み、屋根を組んで板と板との継ぎ目には掛金を掛けるのみで至って粗末なものではあるが、それだけは何時でも気の向く所に至って簡単に建てられると云う便利があるのである。だから建ててしまってからでもそこに何か気の向かない事でもあれば直に壊してしまって他の場所へ移って行くのである。
 他の場所へ移るにしても少しの費用しか要らないのである。せいぜい車が二輛ばかりあれば結構なので、この車の借賃さえ支払えば労力は自分で出来るのだから至って易々と引越しも出来るのである。
 現在の日野山の草庵を建ててから後にその草庵の東側に粗末ながらも三尺余のひさしを取付けて日除ひよけにして、その下で柴を折ったりするのに楽な様にした。南には竹の縁側をこしらえたり、北に寄った方に障子を隔てて阿弥陀様の絵像を安置してその傍に普賢様の像をかけ、その前に法華経を置いた。西の端には物を置くのに便利な様に閼伽棚あかだなを造ったりして色々と住居らしい設備をして行った。自分の寝床には東の端にわらびの穂を取って来て敷いて置いた。西南の方には竹のつり棚を造った。それは真黒な皮の籠三つばかりを置く為でありその籠の中には幾冊かの和歌の書物や、音楽の書物、又は「往生要集」等の抜書したものが入っている。これはつれづれなる折に読みかつ慰めにする為である。その傍には「おり琴」と「つぎ琵琶」と名付けてある琴と琵琶とを一張ずつ立て掛けて置いた。上述の如きものが現在の私の住いである。
 住家の周囲の景色はどんなものかと言うと、南の方には石で造ってある水溜へ水を引く為の懸樋が造ってある。毎日の必要な品である薪は直ぐ近所に森があるので少しも苦労する事もなく集めて来る事が出来るのである。直ぐ傍には外山とやまと云う山があるのであるが、この山への道にはまさきかずらが、一面に生い茂っていて、全くその道を埋めてしまって登るのには少し困難を感ずる様である。谷間には鬱蒼たる草木が繁っているので少し暗さを感ずる程ではあるが、西の方はからりと打ち開けているので、西方にあると云われている浄土の事や、仏様の事を、そちらの方を向きながら黙想するには真に好い場所である。
 春は藤の花が谷間に一面に咲いて紫の雲が棚引いている様で全くうっとりとする様な景色が西の方に見られるのである。
 夏が来れば郭公ほととぎすがしきりとあの哀切な声でなき、昔の人の言った様に、死出の旅路の道案内をすると云われているこの鳥の鳴き声は何だか自分が死んだ時には必ず道案内をして極楽往生をさせてやると約束している様に聞かれて真にうれしく感ずるのである。
 秋はひぐらしが山一面に鳴き出して私にその悲しげな声を聞かせてくれる。その声は私にこの世のはかない運命に対する悲歌を聞かせてくれる様な気がして何だか物悲しく物思いに沈ませるのである。
 冬になると全山雪に覆われてしまう時が時々あって、しみじみと雪の山の美しさを味わわせてくれるのである。又降った雪がだんだんと消えて行って無くなってしまったり、又降って積ったりするのを眺めていると、人間の罪悪と云うものも丁度この雪の様に積っては仏様の大きな御心によって浄めて失くなったり、又罪を犯して又浄められたりする有様を想い出さずにはいられないのである。
 毎日毎日仏様にお念仏を申しているのであるがどうしてもそれがおっくうになったり、又仏様への読経が大儀で仕様のない時には自分から怠けて見たり、お念仏も、読経をしない時さえもあるのだが、そうしたと云った所でここには誰も居ないのだから、怠けた事を恥しいと思う様な友も居ないものだからつい怠けてしまうのである。こうした人里離れた山の中にたった一人で暮しているのだから、自然に無言の業をしなければならないのだし、又自分から必ずしも仏のおいましめを守ろうと勉めている解ではないのだがこんな山の中では仏様の戒律を破る様な誘惑は全く無いのであるから自然と戒律を守ることになってしまうのである。何も聖人、君子に成ろうとしているのではないけれども話す相手とてもないこんな所では自然と無言の行を為す事になり又自然と仏様の道を行う様になってしまうのであって何も自分からの助力でこうなったのでは決してないのである。
 あまりに退屈で仕方のない時には岡の屋のあたりを通る船を眺めては、船の後に残る泡の消えたり現われたりするのを見て人間の運命の果敢なさを考えたりする事もある。又古人の満沙弥まんしゃみが行った所の風流を真似て歌を詠んで見たりするのである。又ゆうべともなって夕風が桂の樹にあたってさやさやと樹の騒ぐ時には潯陽江じんようこうの夕景色を想ったりするのである。時には桂大納言に真似て「秋風」と云う曲を琵琶で弾いたりすると松風のがこれにまるで和する様に聞えてくるのである。「流泉」と云う曲を弾くと谷間を流れる水の音がこれに和するかの様に聞えて来るのである。私の琵琶を弾ずる技能は決して上手であるとは言い得ないのであるが、誰の為に弾くと云う事もなく、唯自分で弾いて自分で楽しむのだからこれで充分なのである。自分はその曲を弾いて爽かな気持になって落ち付いて自分の生きている事を楽しみ、山の孤独の淋しさを慰められればそれで結構なのである。
 草庵から少し行った山の麓に一つの小さな小屋があってそこには山番の人が住んでいるのである。そこには一人の子供がいて、その子供が時に私の庵を訪ねて来て私と話し合うのである。まあ私の庵の唯一人の客人と云っても好いのである。話す事も別段に無く、それかと云って為す事もない時にはこの子供を友としてその辺の山を逍遥するのである、その子供は十歳で私は六十の坂を越している年寄ではあるが、年こそ違っているけれども二人で山を歩いてお互に楽しむと云う事には少しも差しつかえはなく、全くの好い友達同志なのである。ある時には山を歩きながら草花を取ったり、岩梨を取ったりするのである。また時には零余子ぬかごを拾ったり、せりをつんだりする時もあるのである。そんな事にもあきた時には山麓まで行って田にある所の落穂を拾って穂組を造ったりするのである。又あまりにお天気の好い和やかな日には峯に登って見て、遠く古里の空を眺めたり、木幡山こはたやま、伏見の里、鳥羽、羽束師はつかし等の辺を見渡したりするのである。こうした景色の勝れた山々は誰と云ってこれを専有する人がないので、心一杯に楽しむのには何の障りもないので真に心楽しい事である。心が朗らかであって少しも歩き疲れると云う事のない時には遠くへ行く事もあるのである。そんな時にはすみ山を越えて笠取を過ぎて行って岩間の神社に参詣をして石山にもお参りをすることになっているのである。もう少し遠くの方にある粟津の原に行っていにしえの蝉丸の住んだと云われている仮屋の廃墟を訪ねて蝉丸の霊を慰めたり、田上たなかみ川の彼方にある所の猿丸太夫の墓所にお参りする事などもあるのである。こうした遠出の帰りには季節季節に従って春は桜の花の小枝を折り帰り、秋は楓の一枝を折り帰る。又は一束の羊歯を、一籠の木の実を取って帰って仏様にお供え申したり、又自らの食料にしたりするのである。
 月の美しく冴え渡った夜には、月光美しく射す窓辺によって昔お互に付き合った古い友達の事を思い出しながら、悲しげに月に叫ぶ猿の泣き声を聞いたりすると思わずも涙の眼に浮ぶ事さえもある。
 草叢くさむらにいる蛍の灯はまるで真木島まきしま炬火かがりびではないかと思われるばかりに沢山谷間に輝いていて私の淋しい心を慰めてくれるし、又暁方あけがたの眠りを覚す暁の驟雨しゅううは何だか木の葉を吹き散す嵐の様に思われたりするので、何だか物淋しく、その音に聴き入るのである。
 ほろほろと鳴く野の鳥の啼き声を聞くにつけても今の一声は父の声ではなかったか、それ共母の声ではなかったかと疑って見たりして昔、父母の居ます頃の生活を懐しく思い出して見たりするのである。こんなに山深く住んでいると同じく山深くに住む鹿などが馴れ馴れしく庵の近くまでやって来るのを見ても自分がどれだけ俗世から遠く離れて暮しているかと云う事を示された様に思われて何か知ら淋しい様な感も抱かれたりする事もある。
 六十余りの老境に入って見ると夜の眠れない事が時々にあるのだがそうした時の唯一の楽しみは炭火をかきおこしてこれに暖まるのが何よりである。こうした時には炭火でも大切な友達になってくれるものなのである。別に恐ろしい事のあると云う程に山奥でもないのであるけれども陰気な梟の鳴き声を聞いたりすると何だか心淋しく哀れさをしみじみと感じさせられて感に堪えぬ事もないではない。
 この様に山の中の景物は春夏秋冬それぞれに面白味のあるものを与えてくれて中々に尽きるものではない。まして私達よりも内省の深く、知覚の鋭い人々であったならば私の感じた物以外にもまだまだ面白味のあるものを発見してこれを楽しむ事が出来たであろうけれども私の様なものでは以上の様なものにしか楽しみを見出すことも出来ず何だか身を哀れに思うのである。

 私がこうやって山の中に入って住む様になってから早や五年の月日が立ってしまった。月日の経つにつれて庵も所々が破れ損じているし、軒下には落葉が深く積っているし、そしてその葉は朽ちるにまかせてあるのだ。又苔が床の上に一杯に生える様にさえなった。
 京からの時々の風の便りに貴い身分の人達の多くが亡くなられたと云う事を聞くことがあるのだが、それと同じ様に身分の賤しい人々も沢山に死んでいる事であろうと思われる。
 多くの住家が度々の火災の為に焼け失せたと云う話を聞くのであるが、この賤しい自分の住家だけは火災にも遭わずまことに平和なものである。どの様に狭いものであった所で夜の寝床はあるのだし、昼の書見をしたりする所もちゃんとあるのだから、自分自身が住む上には何等の不便も不足も感じないのである。やどかりが小さい貝の中に住むのもきっと自分の身の程をわきまえての事で、やどかりには小さい貝が相応した住家なのである、又みさごが人を恐れるのあまりに浪の荒い海岸にいて人々を近づけないのである。やどかりやみさごの様に自分は自分なりの小さい住家に住み、そうして世の中の果敢なさ、自分の運命の哀れを知って世を離れてこうした山の中に住み、富も求めず、位も求めずに、まして俗世間と交際ある様な事もなく、みさごや、やどかりが自分自身だけの平安を楽しむ様に唯一人で何の不安もなく暮しているのである。
 総て世の中の人々が家を建てる目的はほとんど自分自身の為では決してなく、親の為だとか妻子の為だとか、他の家族の為に建てると云うが普通である。又は他人への見栄の為に建てたり、主君や、師匠の為に建てたりするものなのである。財産や宝物を入れる為に建てたりする事もあって決して自分だけの為に建てると云う事はないものなのである。所が現在の私の建物は純粋に私自身の為に建てたものなのである。人の為に建てると云った所で私には既に両親はないのだし、妻や子供すらも無い事だし、又一緒に住む様な友達もなく、使用人も置いてないのだし、全然今の境遇では家を建ててやる様な人は居ないのであるから結局自分自身の為に建てることになったのである。現在の世の中に於ては人の友達になる為には先ず何よりもお金持でなければならず、そしてその人になれ親しむと云う事でなければならず、必ずしも情に深くて素直であると云う事は必要とされないのであるからこの様な軽薄な友達付き合いをする位ならば、それよりも山の中に居て自然を友とし音楽を友としてその日その日を暮らすのがどれだけに好い事か知れやしないのである。
 又人の使用人になろうとする様な人々は先ず給料の多い事を望み、何でもお金になる所へのみ行きたがっている始末で、可愛がって情けをかけてやって養ってやっていても給料が少かったりすると決してそこには使われている事は承知しない有様なのである。これでは人を使って却って苦しまなくてはならないのである。そこで使用人を使わずに自分自身を使用人にするのが一番に好い事なのである。多少はそうすれば厄介な事もあるけれども人を使って苦しむよりはどれだけ好いかも知らないのである。歩かなければならない事があれば自分の足で歩く事にするのである。そうすれば多少は苦しい事ではあるが、牛車や馬車に乗って気を使うよりはどれだけに楽であるか知れないのである。私の身は二つの使用人を兼ねているのである。一つは手でこれは召使の用をしてくれるのだし、一つは足でこれは乗物の役をしてくれてどちらも私を充分に満足させてくれるのである。こうした為に自分の体が苦しくなって来たら使うのを止めて充分に休ませて、又丈夫になったら使うことにしているから決して無理をすると云う事はないのである。だるくなって歩くのも、仕事をするのも気が向かない時でも何も気に病む事はないのである。まして毎日働いたり、歩いたりすることはの上ない身の養生となる事なのである。だからどうしても何もしないで怠けていると云う訳には行かないのである。
 歩いたり、自分の身の廻りの事を他人の手を借りると云う事は明かに一つの罪悪でなければならないのである。
 衣食の事に就ても同じ事が言い得ると思うのである。藤の衣、麻の夜具と云った様なもので着るものは充分に間に合うのであってそれ以上のものは不用なものなのである。又野辺にあるつばなや、峯にあるいわなしの実などを取って食べていればそれで充分に生きて行けるのであってそれ以上は又不用なものなのである。他の人々とは全然交際しないのであるからどんなに貧しい身なりをしていた所で誰も何とも言うものでもないのだし、又食物の至って乏しい山の中であるのだからどんなにまずいものでもおいしく食べられるのである。こうして今の自分の生活を書いて見るのは何も他の富める人々にこうした暮らしをせよと云って教訓するのではなく、唯自分がまだ俗世を捨てずに俗世に住んでいた時の生活と今の生活とを比較するために書いて見たまでの事なのである。
 この世の中と云うものは心の持ち方一つで苦しい世の中にもなり、楽しい世の中にもなるものである。精神がもし安心立命の境地に立っていなかったならばどれだけお金があり立派な住家に住んでいてもそれは何もならないのであって、やはり苦しい暮しをしなければならないのである。今自分はこうして淋しい山の中へ来て唯一間ひとましかない所の狭い家に住んでいるけれども精神は真に平安で、毎日毎日を非常に楽しく暮しているのである。
 その上にこの様に粗末な住家だけれど私はこの住家をこの上もなく愛しているのである。
 たまたま都の方に出て托鉢をするのであるが、そんな時には自分がこんな乞食坊主になった事を恥しいとは思う事があるのだけれども、この小さな自分の住家に帰って見ると、俗世の人々が浮世の名利にのみ執着して暮しているのを考えて見るとそれらの人々が哀れにさえなって来るのである。が私がこんな事を言えば人々はお前は夢の様な事を言うと言うかも知れないが、しかし魚や、鳥の生活を深く考えて見ると好いのである。魚は一生を水の中に暮して少しも水にあきる事がない、又鳥はその一生を林の中で送ることを願っているのである。この鳥の気持や、魚の気持は魚自身、鳥自身でなくては知る事が出来ないのである。私もその様に山の中で世を離れて唯一人住んでいるこの心持はほんとにそうした生活をやって見なくては、解るものではないのである。山の中の閑居の楽しさ、淋しさ等には俗世では味う事の出来ない深い味いのあるものであってほんとに実践した人でなくてはこの味は解るものではない。この味は高位高官に登るよりも、お金持になることよりも数等増しで私には好いことであり楽しい事なのである。

 さて私の一生ももう余命幾何もなくして死出の旅路に出なくてはならないのであるが、もう現在では何も今更に嘆くことも、悲しむ事もないのである。仏様の御教みおしえは何事に対しても執着心を持つなとあるのだが、今こうして心静かに楽しく住み得るこの山の中の草庵を愛することさえ一つの執着心の現れで罪悪なのである。私は仏様の世界から見れば何等価値のない楽しみをごたごたと並べ立てて無駄な時を過したものである。
 物静かな夜明け方にこうした真理を考え続けて行き、自分の心持を深く反省して見ると自分がこうして浮世を脱れて山の中へ入った最初の目的は何だったかと云えばそれは仏様の道に精進しようとしてやった事なのであるが、それにも拘わらず自分の生活というものを考えて見ると外見は聖人の様ではあるがその心持はまだまだ聖人には遠く及びも付かないもので全く俗人の如くに濁ったものなのである。私の住家は昔の維摩ゆいま居士の方丈の庵室を真似て建てたのであるが、自分の行いや信仰の上に於ては一番魯鈍ろどんだったと言われている仏弟子の周利槃特しゅりはんどくのものにすら劣っているではないか。そしてこの原因はあまりにも貧しい苦しみをしたのでその為にあまりに苦しんだから思う様に修業が出来なかったのであろうか、又は煩悩があまりにも強かったが為に心が狂ったのであったか、等と自分がどうして悟入出来得なかったかと自問自答しても何等の答も与えられなかった。それで唯口舌の力を借りて南無阿弥陀仏と二、三度仏の御名を唱えてその加護をお祈りするまでである。
 時に建暦二年三月晦日頃、僧蓮胤れんいんが外山の庵でこれを書きしるしたものである。





底本:「現代語訳 方丈記」岩波現代文庫、岩波書店
   2015(平成27)年3月17日第1刷発行
底本の親本:「浄土」
   1937(昭和12)年4月号〜7月号、9月号
初出:「浄土」
   1937(昭和12)年4月号〜7月号、9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「通俗方丈記」です。
※「現代語訳 方丈記」の表題は、底本編集時に与えられたものです。
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2021年12月27日作成
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