これは、ガデャーチからよくやつて来たステパン・イワーノ
ッチ・クーロチカに聞いた
ッチをたづねることを忘れまいとて、わざわざ*忘れな結びをしておいたほどぢや。それだけならまだしも、
ッチに訊ねていただくまでのことぢや。あの仁は大悦びでこの物語を、恐らくは初めからしまひまで、お話しすることぢやらう。住ひは石造の教会堂のつい近所でな。あすこのとつつきに小さい横町があるが、その横町へ曲るとすぐ、二つめか三つめの門がそれぢや。あ、さうさう、それよりもよい
ッチが独り者だといふことを御承知おき願ふのも妨げにはなるまい)と、それが彼の邸なのぢや。それとも市場で先生をつかまへることも出来る。奴さんはそこへ毎朝、九時までには必らず出かけて、自分の食膳を賑はす魚菜をみたてたり、アンティープ神父や、それから請負商の猶太人などと話し込んでゐるのが
ッチは、遠くから彼の姿を見かけると、
御覧なさい、御覧なさい、そら、あすこへ
と、きまつてさう言つたものぢや。忘れな結び 用事を忘れず思ひ出すよすがに、ハンカチに結びこぶを作ること。
イワン・フョードロ
ッチ・シュポーニカは、もう四年まへから軍職を退いて、
ッチ・デェプリチャースティエは、いつも、受持児童が残らずシュポーニカのやうな勤勉家ばかりだつたら、自分は
ッチが何時もナイフを用意してゐることがわかつてゐたので、取敢へず彼に借用を申し込んだものだ。するとイワン・フョードロ
ッチは――いやそのころは単にワニューシャだつたが、――鼠色の制服の
ッチを
ッチは公明な心の持主だつたが、をり悪しくその時はひどく空腹だつたため、この誘惑に打ち克つことが出来なかつた。彼は
つてゐる児童たちに向つて、それを拾つちやならんぞと厳しく禁じておいてから、すぐにその場でイワン・フョードロ
ッチの両手をいやといふほど鞭打つた。――いかさま彼が二学年に進級して、それまでの簡易釈義書や四則算の代りに、詳細釈義書だの、修身だの分数だのを習ひかかつた時には、年ももう満十五歳になつてゐた。だが、深く進めば進むほどいよいよ学課は煩瑣になるばかりだつたし、ちやうど、父の訃報にも接したりしたので、それからあと二年のあひだ在学してから、母の諒解を得て、P××歩兵聯隊へ入隊した。
このP××歩兵聯隊は、他の多くの歩兵聯隊が属してゐる類ひとは全く趣きを異にして、たいてい村落に駐屯してゐたにも拘らず、へたな騎兵聯隊などの及びもつかぬくらゐ、素晴らしく景気のいい聯隊であつた。大部分の士官が竜騎兵にも負けず
した。中にはマヅルカを踊る者さへあつて、P××歩兵聯隊の聯隊長は社交の席で人と談話を交はすやうな場合には、いつも口癖のやうに、それを吹聴することを忘れなかつた。『自分の聯隊には、』と、彼はいつでも一言いつては腹を撫でながら、語るのだつた。『マヅルカを踊る者が沢山をりますぢや、いや実に沢山をりますぢや、非常に沢山!』このP××歩兵聯隊の発展ぶりを更によく読者に示すため、士官のうちに、途方もない
つても到底見つかりさうにない下著の端に至るまで、すつかり賭けてしまふといつた、恐ろしい豪傑が二人もゐたことを、つけ加へておく。かうした同僚にとりまかれてをりながら、イワン・フョードロ
ッチの臆病さ加減には少しも変りがなかつた。彼は
銀行
もやらなかつたので、自然、いつも独りぼつちでゐる他はなかつた。そんな訳で、他の連中がそれぞれ土地の馬を雇つて小地主の家々へ出かけて行くやうな時にも、彼は自分の室にぽつねんと坐つて、ひとり、善良で、もの静かな気性に適つた所作に耽るのが常で、釦を磨いたり、占ひ本を読んだり、部屋の隅に鼠罠を仕掛けて見たりしたが、最後には、軍服を脱ぎ棄てて、寝台の上に横たはるのがその代り聯隊ぢゆうにイワン・フョードロ
ッチくらゐ几帳面な者はなく、また自分の分隊の指揮が非常に良く行き届いてゐたので、中隊長はいつも彼を模範下士に選んだ。そんな次第で昇進もはやく、旗手の地位を贏ち得てから十一年たつて、少尉に任命された。この
ッチは絶えて久しく会はなかつたが)――この叔母が、もちまへの親切気から、彼の小さい持村の管理を引き受けたといふことを、事の序でに手紙で彼の許へいつてよこした。イワン・フョードロ
ッチは、この叔母の行き届いた思慮分別を信じきつてゐたので、従前どほり引きつづき勤務につくことが出来た。他の者が彼の地位に在つたならば、これだけの官等を贏ち得ては、さぞかし思ひあがつたことであらうが、驕り高ぶるなどといふことは、まるで彼の与かり知らぬところで、少尉になつてからも、その昔、旗手の地位にあつた頃のイワン・フョードロ
ッチといささかの変りもなかつた。この、彼にとつて特筆すべき出来ごとがあつてから四年の後、彼は聯隊と共に、マギリョフスカヤ県から大露西亜への行軍に出発しようとする間際になつて、次ぎのやうな手紙を受け取つた――
拝啓、御許さま宛に肌着として毛糸の靴下五足と薄麻の襯衣四枚、お送り申しあげ候。なほ御相談申し上げ度き儀は、御承知の如く御許様にも最早重要なる官位を得られ候ことにもあり、且つ今ははや家事に携はるべき年配ともお成りなされ候こと故、このうへ軍隊に御奉公なさる筋はさらさら之無かるべく存じ候。妾ことも最早寄る年波にて御許さまに代りて家事万端のきりもりをするのにいたく難渋いたし居り候。なほ親しくお目もじ致し御許さまに申しあげ度きくさぐさの用件も之有り候へば、是非とも御帰省なさるべく申し入れ候。呉々も嬉しき嬉しきお目もじの叶ふことを念じて相待ち居り候。かしこ。ワシリーサ・ツプチェ
スカ
スカ
愛甥イワン・フョードロ
ッチどの
ッチどの
二伸、うちの畠に誠に珍らしい蕪が出来ました。蕪といふよりはいつそじやがいもに似た恰好をしてをりますよ。

この手紙を受け取つてから一週間の後、イワン・フョードロ
ッチは次ぎのやうな返事を書いた。
拝復、下着お送り下され有難く御礼申し上げ候。殊に小生の靴下は何れも甚だしく古もののみにて、既に再三再四従卒をして繕はしめ候ため、著しく窮屈を覚えをりし次第に候。さて御申越しの小生が服務に関しての御意見、一々御尤もと存じ候。就ては、一昨日退職願ひを差出し置き候へば、許可の辞令さがり次第、早速、幌馬車を傭ひ、帰郷の途に上るべき予定に御座候。先般御申越しの、西比利亜麦とか申す小麦の種子に就いての御依頼は、甚だ残念ながら、叔母上の御満足を充たし申すこと能はず候。当マギリョフスカヤ県下一帯、何処にも左様な物は見当り申さず候。なほ当地に於ては大部分養豚には*ブラーガに十分
々 敬具小甥イワン・シュポーニカ
ワシリーサ・カシュパーロヴナ叔母様

ブラーガ 白色を帯び、ビールに似た、下等な酒精飲料。又、ビール醸造用の麦芽汁の醗酵したものもブラーガと呼ぶ。
つひに、中尉に昇進して退職の許可を得たイワン・フョードロ
ッチは、*マギリョーフからガデャーチまで四十マギリョーフ マギリョフスカヤ県の首都。ドニェープルに臨んだ河港。
道中には、さして目覚しい出来ごともなかつた。彼はもう二週間あまり旅をつづけてゐた。恐らく、それよりずつと前にイワン・フョードロ
ッチは村へ帰り著いてゐた筈であるが、信心ぶかい馭者の猶太人が土曜日ごとに安息日を守り、馬衣に身を
ッチは、先刻も述べた通り、つひぞ退屈といふものを感じたことのない人物であつた。で、その暇に彼は鞄を開けて、下著を取り出し、ためつすがめつ、それが十分に洗濯が出来てをるか、きちんと畳まれてをるかと、検査をしたり、もはや肩章掛のない、新調の軍服についてゐる
ああ、イワン・ガウリーロ
ッチ
こんな風にその官吏は独りでぼんやり繰返すのだ。
ああ! 此処に俺れも出てをるわい! ふうむ!……
かうして次ぎにも亦、再び同じ感歎詞を以つて、それを読み返すのである。二週間の旅程を経て、イワン・フョードロ
ッチは、ガデャーチの手前百露里足らずの地点にある一部落へ到着した。それは金曜日だつた。彼が猶太人とともに幌馬車で旅舎へ乗りつけた時には、もうとうに日は沈んでゐた。その旅宿は、田舎の小さい村々に設けられてゐる他の旅宿と何ら異るところがなかつた。そこではきまつて、旅客に、駅馬か何ぞのやうに、乾草と燕麦とをひどく熱心に
ッチは前以つて、二さうかうしてゐるところへ、馬車の轍の音がしたけれど、その馬車は長いこと内庭へ入つて来なかつた。甲高い声が、この居酒屋をやつてゐる老婆と罵りあつてゐた。『ぢやあ馬車を入れるけれど、』さういふ声がイワン・フョードロ
ッチの耳に入つた。『その代り、お前んとこで、ただの一匹でも南京虫が俺を刺したが最後、擲りつけて呉れるぞ、誓つて擲りつけて呉れるぞ、このおいぼれ一分ばかりの後、入口の戸があいて、紺のフロックコートを著こんだ、恐ろしくふとつた男が入つて来た、といふよりは這ひずり込んだと言つた方がよいかもしれない。彼の頭は短かい猪頸の上に泰然自若として鎮座してゐたが、そのまた頸が、彼の二重頤のために一層ふとく思はれた。この男は一見して、些々たることには決して心を労することなく、その全生活が坦々として油の上を辷るやうに滑らかに
転してゆくといつた人物であることが頷かれた。「いや、今晩は!」と、その男はイワン・フョードロ
ッチを眺めて、挨拶した。イワン・フョードロ
ッチは無言のまま、会釈を返した。「失礼ですが、どなた様でございましたかしら?」と、肥つた新来の客は言葉をつづけた。
かうした質問に依つて、イワン・フョードロ
ッチは、是非なく席を立つて、聯隊長から物を尋ねられる時にいつもしたやうに、直立不動の姿勢を取つた。「退職歩兵中尉イワン・フョードロフ・シュポーニカと申します。」さう彼は答へた。
「甚だ立入つたことをお尋ねいたしますが、どちらへお越しになるのでございますか?」
「自分の
「なに、ウイトゥレベニキですつて!」と、この無遠慮な質問者は叫び声をあげた。「いや、これはどうも、あなた、いや、これはどうも!」さう言ひながら彼は、まるで誰かが捉まへてゐて放さないのか、それとも人ごみの中を掻き分ける時のやうに、両手を振りまはしながら、こちらへ近づくと同時に、イワン・フョードロ
ッチを抱きかかへて、まづ右の頬を、次ぎに左の頬を接吻した。イワン・フョードロ
ッチにはこの接吻がひどく気持がよかつた。といふのは、この見知らぬ男の大きな頬が、彼の唇に柔かい「いやはや、これはどうも、あなた、どうかひとつお心易く願ひたいもので!」と
ッチ・ストルチェンコといひますんで。是非とも、是非とも、あなたがホルトゥイシチェへ御来遊下さらなきやあ承知いたしませんよ。今はちよつと急用でいそいでをりますが……。これあどうしたんだい?」と、肘に
ッチの声はいつとはなしに段々荒くなつた。「俺がそれを此処へ持つて来いとお前にいひつけたのか、おい? それを此処へ持つて来いと言つたかといふのだよ、恥しらずめ! 俺は鶏を先きにあたためるやうにいひつけたぢやないか、悪党め! あつちへ行つてろつ!」彼は足を踏み鳴らしながら呶鳴りつけた。「待て、化物野郎! 罎の入つとる小函は何処にあるのだ? さて、イワン・フョードロ
ッチ!」と、彼は盃に「いや、実のところ、から駄目なんでして……もうやりましたので……。」イワン・フョードロ
ッチは、しどろもどろに口ごもりながら、答へた。「いや、そんなことを仰つしやるものぢやありませんよ、あなた!」と、地主は声を高めて言つた。「それあいけませんよ! 召し上つて下さるまでは此処を動きませんからね……。」
イワン・フョードロ
ッチは、いなみ難きを見て取ると、まんざら悪くもなささうに、ぐつと一と息に呑み乾した。「これは
ッチは、木箱の中で丸焼の鶏をナイフで切り取りながら、語をついだ。「お断わりしておかなければなりませんが、宅のヤヴドーハといふ料理婦は時々ひどい大酒を「いやまつたく、あなたのお言葉は至極御尤もです。どうかすると、その、実に……。」茲でイワン・フョードロ
ッチは、続けて言ふべき適当な言葉が見出されないもののやうに口を噤んでしまつた。序でに、彼が概して口の軽い方ではなかつたことを申し添へておく必要がある。恐らくそれは例の弱気から来てゐるのだらう、が、或は又、もつと美しい言ひ現はし方をしようと思つたからかも知れない。「ようく、乾草を振り捌くのだぞ!」と、グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチは自分の従僕に対つて言つた。「この辺の乾草は実にひどいから、ひよつとすると、小枝などが混つてゐるかもしれんぞ。ぢやあ、あなた、お寝みなさいまし! 明朝はもうお目にかかれますまい。私は夜明け前に出発いたしますからね。明日は土曜のことで、あなたの猶太人は安息日を守りませうから何も早くお起きになることはありませんよ。どうか私のお願ひをお忘れにならないで下さい。ホルトゥイシチェへお出かけ下さらないと、ほんとに承知いたしませんよ。」そこでグリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチの従僕が、主人のフロックコートと長靴を脱がせて寝衣に著かへさせた。するとグリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチは、いきなり寝床の上へごろりと横になつたが、それは、まるで厖大な羽根蒲団がもう一つの羽根蒲団の上へ重なつたやうな恰好であつた。「えい、小僧つ! どこへ行くんだ、悪党! ここへ来て、掛蒲団を直すんだ! こら、やい、枕の下へ乾草を押し込めといつたら! どうだ、もう馬には水を飲ませたか? もつと乾草だ! ここんとこへ、この脇腹の下へだ! それから掛蒲団をよく直すんだ! さうさう、もう少し! あ、あーつ!……」
茲でグリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチは、もう二度ばかり溜息をつくと、直ぐさま部屋ぢゆうに轟ろき渡るやうなおつそろしい鼾をかき出したが、時々猛烈な鼻号を立てたものだから、寝棚に寝てゐた老婆が目を醒まして、不意にキョトキョトとあたりに目を配つたが、何事もないのを見ると、やれよかつたと安心して、再び睡りに落ちた。翌朝、イワン・フョードロ
ッチが目覚めた時には、やがて風車場が翼を振り振り見えはじめ、猶太人がその痩馬を鞭打つて丘の上へ登るにつれて下の方に柳の並木が姿を現はした時、イワン・フョードロ
ッチは自分の胸が激しく鼓動しはじめるのを感じた。柳の木の間からは池が生々として明るい光りを放ち、すがすがしい息吹を吐いてゐた。曾て彼はそこで
ッチの眼には、懐かしい茅葺きの古びた家や、いつか彼がこつそり登り登りした林檎や
るのもあつた。一匹の犬は台所の傍で、骨を押へて立つたまま、声を限りに吠え立てた。もう一匹の犬は、遠くから吠えながら、前へ出たり、後へ戻つたりして、
どうです、見て下さい、何と私は立派な若者でせうが!
とでも言つてゐるやうだつた。汚れたイワン・フョードロ
ッチはひどく夢中になつて、さうしたものに見惚れてゐたが、馭者台から降りたばかりの猶太人の
あれまあ、お邸の旦那様だよ!
と、先づ一言おつたまげた声で叫んでから、叔母さんは女中のパラーシュカと、それから、時には作男や夜番の役目まで引きうける馭者のオメーリコを連れて、畠へ麦を蒔きつけに行つてゐると告げた。しかし、目ざとくも遠くから
ッチは彼女が殆んど彼を両の手で持ちあげるやうにしたので、びつくりして、これが自分の老衰と病弱を訴へてよこした、あの当の叔母かしらと怪しんだ。叔母のワシリーサ・カシュパーロヴナは、当時五十歳前後であつた。彼女は一度も良人を持つたことがなく、いつも、未婚の生活が自分にとつては何より大切だといふことを口癖にしてゐた。だが、私の憶えてゐるかぎりでは、彼女を嫁に世話しようとする者が一人もなかつたのだ。それは、男といふ男がみな、彼女の前へ出ると、妙に気おくれがして、彼女を口説くだけの勇気が出なかつたことに起因してゐる。
とても、ワシリーサ・カシュパーロヴナの気性にはかなはん!
さう未婚の男たちは言ふのだつたが、それは至極尤もなことであつた。ワシリーサ・カシュパーロヴナにかかつては、誰彼なしに、青菜に塩も同様だつたから。全くどうにも始末におへない酔つぱらひの粉屋の大将を、彼女は、男のやうなその手で、彼の
つて、何処ひとところとして顔出しをせぬ処がない。その結果、イワン・フョードロ
ッチの、この小さな故郷へ帰ると同時にイワン・フョードロ
ッチの生活はがらりと一変して、それまでとは全く別個の軌道をとつて進んだ。恰かも彼は生まれながらにして十八人の農奴の村を監理するためにつくられてゐるかの観があつた。当の叔母も、まだ家政の全般に亘つては彼に手出をさせなかつたけれど、ゆくゆくはこの甥が申し分のない一家の
あれは、まだまだ若い小僧つ子だもの!
と、彼女はイワン・フョードロ
ッチがもう四十の声をきくのに間もない歳であつたにも拘らず、いつも、かう言ひ言ひした――
何ひとつ、あれにわかつてゐるものか!
だが、彼はいつも欠かさず、麦刈の人夫について野良へも出た。それがまた、彼の温良な魂に何ともいへぬ歓びを与へた。十挺から、それ以上もの、ピカピカ光る大鎌の一致した動き、整然と列になつて倒れる草の音、或は友に逢へるが如く喜ばしげに、或は別離の如く悲しげに、相間々々に歌ひ出される刈手の唄、静かな明朗な夕べ――それがまた、何といふ夕べだらう! 何と奔放で、すがすがしい大気だらう! その時、

ッチが、どんな好い気持になつたかは、口では言ひ表はすことも難かしいくらゐだ。彼は刈手たちの仲間いりをして大好物の水団を賞味するのも忘れて、じつとひとつ処に立ちつくしたまま、空の彼方に消えゆく鴎を見おくつたり、野良につらなる、刈り取られた麦の程なく、イワン・フョードロ
ッチは、到るところで偉い旦那だと取り沙汰されるやうになつた。叔母さんは自分の甥が自慢で自慢で堪らず、何かといへば彼のことを吹聴せずにはゐなかつた。或る日――それは、もう
ッチの手を執りながら、もう永いあひだ気がかりになつてゐた或る用件について、今、相談がしたいと言つた。「な、イワン・フョードロ
ッチ、」さう彼女はきり出した。「知つてのとほり、お前さんの「ええ、それあ知つてゐますとも、叔母さん、とても素晴らしい、好い草ですよ。」
「その、草がとても好いつてことは妾だつて知つてゐますよ。でもお前さん、あの地所がみんな、事実上お前さんのものだつてことは御存じかえ? 何だつてそんなに眼を丸くしたりなどするのです? まあ、お聴き、イワン・フョードロ
ッチ! お前さんはあの、ステパン・クジミッチを憶えておいでかえ? まあ、妾としたことが、憶えておいでかもないもんだ! お前さんはまだ、その頃は、あの人の名前もよう言はんくらゐ小さかつたんだもの。どうして憶えてなどゐるものか! さうさう、*
ッチ・ストルチェンコといふ、独身の古狸の手に握り潰されてゐるのに違ひないと、妾は睨んでゐます。あの太鼓腹の曲者が、遺産をすつかり横領してしまつたのだよ。あの男がその証文を隠してゐなかつたら、何だつて賭けますよ。」
ッチは、自分の遭遇した一部始終を物語つた。「それあ、あの人のことはよくは知らないよ!」と、少し考へてから叔母さんが答へた。「ひよつとしたら、そんなに悪い人間ではないのかもしれん。実際、あの人がこちらへ引移つて来てから、まだ半年にしかならないのだから、そんな僅かの
「なあに、叔母さん。僕は叔母さんが鳥を射ちに行くとき乗つておいでになる、あの馬車で行きますよ。」
かういふことで、この話には鳧がついた。
イワン・フョードロ
ッチがホルトゥイシチェ村へ乗り込んだのは、ちやうど
ッチは、ちやうど、舞踏会に乗りつけた洒落者が、どちらを見ても自分より優れた服装をした客ばかりなのに、聊か「あつ、イワン・フョードロ
ッチだ!」と、庭を歩いてゐたグリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチが喚き出した。彼はフロックを著てゐたが、ネクタイもチョツキもズボン釣りもつけてゐなかつた。それでも彼の肥つたからだには余程その服装がこたへるらしく、顔からは汗が玉をなして流れてゐた。「どうなすつたんです。あなたは叔母さんに一と目会つておいてすぐ様こちらへいらして下さるといふお約束でしたのに、どうして今日までおいでにならなかつたんです?」かうした言葉に次いでイワン・フョードロ
ッチの唇は、例のお馴染の「どうも家事に追はれ勝ちでして……。今日はほんのちよつとお邪魔に上りました、実は少しその……。」
「ほんのちよつとですつて? そんなことは言はせませんよ。おい小僧つ!」さう肥つた主人が呶鳴ると、哥薩克風の長上衣をきた、いつかの少年が台所から駈け出して来た。「早くカシヤンにさう言つて門を閉めさせてしまへ――分つたか! しつかり閉め切つてしまへつて! そして早速この旦那の馬を
イワン・フョードロ
ッチは部屋へ通ると、もちまへの小胆にも拘らず、無駄に時間をつひやすことなく、てきぱき事を運ばうと、肚を決めた。「叔母がその……私に申しますには、何でも亡くなられたステパン・クジミッチの御遺言書とかが、その……。」
この言葉にグリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチのだだつ広い顔がどんな不愉快な表情を現はしたかは、ちよつと形容に困るくらゐである。「いや、とんと仰つしやることがよく聴えませんよ!」と、彼は答へた。「お断わりしておかなければなりませんが、私の左の耳へあぶら虫が這入りましてね、(あの碌でなしの大露西亜の髯もぢや先生たちと来たら、もう、家ん中ぢゆう、あぶら虫でうじやうじやさせてをりますからね)その気持の悪さ加減といつたら、とても筆紙に尽すことは出来ません。いやどうも、擽つたくつて擽つたくつて。しかし、さる老婆がごく簡単な方法で癒してくれましたよ……。」
「私がお話をいたしたいと思ひますのは……」と、イワン・フョードロ
ッチはグリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチがわざと余所事に言ひ紛らさうとするのを見て、思ひ切つてそれを遮ぎつた。「ステパン・クジミッチの遺言の中に、その何です、贈与契約書とかがあつて……それが、この私に……。」「いや分りました、叔母さんがあなたにそれを吹き込まれたのですね。それはまつたく根も葉もないことです! 伯父はどんな贈与契約もしませんでしたよ。尤も遺言の中に何かの証文のことは書いてありましたが、いつたいそれは何処にあるのです? 誰ひとりそれを提出しなかつたのです。かう申し上げるのも、真実あなたのお為めを思ふからですよ。誓つてそれは、根も葉もないことです!」
イワン・フョードロ
ッチは、ひよつとしたら、実は叔母がそんな風に邪推をしたに過ぎないのかもしれないと思つて、口をつぐんだ。「おや、母が妹たちといつしよにこちらへ参るやうです!」と、グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチが言つた。「てつきり午餐の用意が出来たのです。さあ参りませう!」そこで彼はイワン・フョードロ
ッチの手を執つて一室へ招じ入れた。そこにはウォツカの罎と丁度その時、まるきり珈琲沸しに頭巾をかぶせたやうな、背の低い老婆が二人の令嬢――一人は
ッチは物馴れた「お母さん、この方はお隣り村のイワン・フョードロ
ッチ・シュポーニカさんですよ!」とグリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチが紹介した。老婆はじつとイワン・フョードロ
ッチの顔を眺めた。或は、ただ眺めたやうに見えただけかもしれない。しかし、それはほんとに人の好ささうな顔つきで、あだかも、イワン・フョードロ
ッチに
あなたは冬の用意に胡瓜をどれほどお漬けになりますか?
と訊いてでもゐるやうに思はれた。「ウォツカは召上りましたかの?」と、老婆が訊ねた。
「お母さん、あなたはきつと寝惚けていらつしやるんですね。」と、グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチが言つた。「お客さんに対つてウォツカを召上つたかなどとおたづねする人があるもんですか? あなたはおとりもちをして下さりさへすればいいんです。ウォツカを飲む飲まないはこつちのことです。イワン・フョードロ
ッチ! どうぞ、ウォツカは矢車菊を浸けたのにしませうか、それとも、*トゥロヒーモフのにしませうか? どちらをお好みですか? おや、イワン・イワーノ
ッチ、君はまた何だつて、そんな処に突つ立つてゐるんだね?」と、グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチは後ろを振り返りながら声を掛けた。イワン・フョードロ
ッチがそちらを見ると、イワン・イワーノ
ッチはウォツカの方へ近づかうとしてゐるところだつた。その人は裾の長いフロックを著て、巨大な立衿の中へ頤をすつかり埋めてゐたので、その首はまるで馬車にでも乗つたやうに、衿の中に坐つてゐた。トゥロフィーモフ[#「トゥロフィーモフ」はママ] 当時の火酒醸造所の名前。
イワン・イワーノ
ッチはウォツカの傍へ近寄ると、先づ手を拭いて、さかづきを仔細に検査してから酒を注いで、ちよつと明りにすかして見て、一度にそのさかづきのウォツカを口の中へ流し込んだが、直ぐにはそれをのみくださないで、口中をよく洗ふやうにしてから、ゴクリと飲みくだして、平茸の塩漬を添へた麺麭で口直しをしてから、イワン・フョードロ
ッチの方へ向き直つた。「いや、失礼ですが、あなた様はイワン・フョードロ
ッチではいらつしやいませんか、あのシュポーニカさんでは?」「仰せの通りです。」と、イワン・フョードロ
ッチが答へた。「いやどうも、私が存じあげてゐた頃のあなたとは実にえらいお変り方で、いや実にどうも!」さう言つて、イワン・イワーノ
ッチはなほも言葉をつづけた。「私はあなたがこんなくらゐでいらつしやつた頃のことを、よく存じてをりますよ!」さう言ひながら、彼は掌を床から二尺あまりの高さに上げて見せた。「お亡くなりになりました御尊父は――どうぞあの方に天国の恵みがありまするやうに!――実に稀に見る御仁でした。あの方のおつくりになるやうな西瓜や甜瓜は、たうてい今時、どこを捜し
つても見つかりつこないほどの逸物でしたつけ。けふもこの
ッチを傍へ引つぱつて行つて耳こすりをした。「屹度あなたに甜瓜をすすめますがね――それが、いやはや、どんな甜瓜でせう? 見るのも嫌になりますよ! ところで、どうでせう、御尊父のおつくりになつた西瓜と来たら、」さう言ひながら彼は荘重な顔つきをして、大木の幹でも抱へるやうに両腕を拡げた。「慥かにこれ位はありましたよ!」「どうぞ
ッチがイワン・フョードロ
ッチの手を執つて言つた。グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチは、いつも自分の坐る食卓の一端に、恐ろしく大きなナフキンを胸に捲きつけて、席についた。その恰好が、まるで
ッチは顔を赧らめながら、指定された席に、二人の令嬢と差し向ひに坐つた。イワン・イワーノ
ッチはすかさず彼の隣りに陣取つて、内心、自分の博識を見せびらかす相手の出来たことを悦んだ。「おや、イワン・フョードロ
ッチ、あなたはそんな
ッチの前へ、黒い「お母さん! 誰もあなたに余計な世話を焼いて下さいと頼みやしませんよ!」と、グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチが咎めた。「お客様は何処を取つたらいいか、ちやんとお心得になつてをりますよ! イワン・フョードロ
ッチ!
イワン・フョードロ
ッチ、どうぞ股肉をお取り下さいまし
つて!」「イワン・フョードロ
ッチ、どうぞ股肉をお取り下さいまし!」さう、膝まづいて皿を捧げたまま、給仕が言つた。「ふん、これが七面鳥か!」と、蔑むやうな顔つきでイワン・イワーノ
ッチが、自分の隣人を顧みながら、小声で言つた。「これが七面鳥でなければならんものでせうかね? ほんとに、手前どもの七面鳥を御覧に入れたいもんで! まつたくの話が、一羽でこんなのの十羽分以上は「嘘を
ッチ!」その話を小耳にはさんで、グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチが口を入れた。「お話いたしますが」と、イワン・イワーノ
ッチはまるでグリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチの言葉が聞えなかつたやうな振りをしながら、自分の隣人に同じ調子で語りつづけた。「去年、私が七面鳥をガデャーチへ持つて行きましたところ、一羽五十哥づつで引き取ると申しましたが、それでも売るのが惜しかつたくらゐですよ。」「イワン・イワーノ
ッチ! 君は、出鱈目を言つてるんだといつたら!」グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチは、一層はつきり聞えるやうに、一語々々句切つて声を張りあげた。しかし、イワン・イワーノ
ッチは、まるで自分には関係のないことのやうな振りをしながら、同じ調子で言葉をつづけたが、それでも余ほど声を落して、「実際、惜しいと思ひましたよ、あなた。ガデャーチ郡の地主のうち一人だつて……。」「イワン・イワーノ
ッチ! 君は馬鹿だよ、それつきりのことさ。」と、グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチは大声に呶鳴つた。「イワン・フョードロ
ッチは、そんなこたあ何もかも、君より良く御存じなんで、君の法螺なんか信用されるもんか。」茲でイワン・イワーノ
ッチはすつかり機嫌を損じて口をつぐみ、見るのも気味が悪いといふほどにはナイフやスプーンや皿の音が、暫らくの間は談話に取つて代つたが、グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチが仔羊の骨の髄をしやぶる音が何よりも騒々しかつた。「時に、あれをお読みになりましたですか?」と、暫らくの間だまつてゐてから、例の馬車のやうな立衿からイワン・フョードロ
ッチの方へ首を差し出しながら、イワン・イワーノ
ッチが訊ねた。「あの*
コロベイニコフの聖地巡礼記
といふ書物を? 実にどうも、素晴らしく面白い本ですねえ! 今時ああした書物はからつきし出ませんね。あれは何年の出版だつたか、つい見落したのが残念ですよ。」コロベイニコフ 初め莫斯科の商人であつたが、一五八二年ヨハン四世(雷帝イワン)の命により、父帝の手にかかつて薨じたイワン皇子の冥福祈願のため、聖地アソスの山へ行き、一度帰国してから再び聖地巡拝に赴き、パレスティナから基督の霊柩模型を莫斯科へ携へ帰つた(一五九三年)。彼の著書といはれる、浩瀚な『聖地巡礼記』は、露西亜の宗教界に於て非常に有名なものであつた。
イワン・フョードロ
ッチは書物の話が出たなと思ふと、てれかくしに、せつせとソースを自分の皿へよそひ始めた。「実に驚ろくべきではありませんか、下賤な町人の身を以つて聖地を残らず巡つたのですからね。実に三千露里以上ですよ! 三千露里以上! 彼がパレスチナやエルサレムに行くことが出来たのは、一に上帝の御恵みに他なりませんて。」
「では、何ですか、その人は、」と、エルサレムのことを、よく従卒から聞かされてゐたイワン・フョードロ
ッチが言つた。「その、エルサレムへも行つたとおつしやるので?」「何のお話ですか、イワン・フョードロ
ッチ?」と、食卓の端からグリゴリイ・グリゴーリエ
ッチが[#「グリゴリイ・グリゴーリエ
ッチが」はママ]口を挿んだ。「私は、つまり、その、なんです、実にどうも、そんな遠い国々がこの世にあるのかと、さう申しただけなんです!」と、イワン・フョードロ
ッチが言つた。彼はこんなに長い、むつかしい文句を一気に言つてしまつたことに心から満足してゐた。「その男の言ふことなんぞ
ッチ!」と、碌に相手のいふことも聴かないで、グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチが言つた。「みんな、口から出まかせですよ!」さうかうするうちに午餐は終つた。グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチは、いつもの万事にグリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチのゐないことが目立つた。老主婦の口は一段と軽くなつて、誰も頼みもしないのに、自ら進んで、*パスチーラや乾梨の拵らへ方の秘訣をいろいろ打明けた。令嬢たちも談話の仲間いりをしたが、しかし二十五歳ぐらゐに見える姉娘より六つばかりも年下らしい、金髪の妹娘の方は沈黙がちであつた。パスチーラ 果実や漿果を砂糖蜜で煮とかし、型に入れて半ば固めたもの。
だが、イワン・イワーノ
ッチが誰よりもよく話したり、動きまはつたりした。今や誰も自分を貶したり混ぜつかへしたりする者のないことを確信した彼は、胡瓜に就いて論じたり、馬鈴薯の植ゑ方を説いたり、また昔は実に賢い人々があつた――たうてい今時の連中とは同日に談ずべくもない!――などと言ふかと思へば、日進月歩の勢ひでますます人智が進んで、実に巧妙極まる物が発明されるなどと感嘆する。一口に言へば、彼は心を浮き立たせるやうな雑談が何よりも好きで、しまひにはただ口にのぼすことの出来る限り矢鱈にしやべり散らすといつた類ひの人物であつた。話が厳粛敬虔な問題に触れる時には、イワン・イワーノ
ッチは一語々々の後で頷いては溜息をつくのだつた。農作上のこととなると、例の馬車のやうな立衿から首をぬつともたげて、一と目みれば、梨入りのもう日暮になつてから、やつと、イワン・フョードロ
ッチは暇を告げることが出来た。もちまへのおとなしさにも似ず、泊つて行けと言つて、たつて引き止められたにも拘らず、彼は帰らうといふ初一念を貫いて、つひに帰途についたのであつた。「さあ、どうだつたえ? あの
ッチの顔を見ると同時に、叔母さんはいきなりかう訊ねた。彼女は辛抱がしきれずに、もう幾時間も前から玄関へ出て甥の帰りを待ちあぐねてゐたが、たうとう我慢がならなくなつて、門前まで飛び出してきてゐたのだ。「いいえ、それがねえ、叔母さん、」と、馬車を降りながらイワン・フョードロ
ッチは答へた。「グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチの手許には、そんな証文は無いのださうですよ!」「それをお前さんは真に受けて来たのかえ? 嘘を吐いてるんだよ。あの碌でなしめ! いつか今度出会つたら、ほんとに、この手でひつぱたいて呉れるのに、ううん、屹度あいつの
「素晴らしく……いや大したものでしたよ、叔母さん!」
「へえ、それでどんな料理が出たといふのだえ? 一つ話しておくれ、何でもあすこのお婆さんと来ては、台所の監督の名人だつてことだから。」
「
「梅を詰めた七面鳥は出なかつたかえ?」と、その料理にかけては自分が非常な名人であつただけに、叔母さんはさういつて訊ねたものだ。
「七面鳥も出ました!……それよりも、たいへん美しいお嬢さんがゐましたよ――グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチの妹さんたちですが、中でも金髪の娘さんがきれいでした!」「おや、おや!」さういつて叔母さんは、イワン・フョードロ
ッチの顔をまじまじと見まもつた。イワン・フョードロ
ッチはまつ赤になつて眼を伏せた。新らしい考へが忽ち叔母さんの頭に閃めいた。「さあ、それでどうしたといふのだえ?」と、彼女は好奇心に駆られながら、まくし立てるやうに訊ねた。「いつたい、その娘の眉はどんなだつたえ?」この叔母さんが女の美しさを口にする時には、いつも先づ眉のよしあしを第一にいふのが常であつたことを申し添へておく必要がある。「その眉がですよ、叔母さん、あなたが常々お話になる、その、叔母さんのお若い頃の眉にそつくりなんですよ。そして顔ぢゆうに細かい
「おや、さうかえ!」と、別段お世辞にいつた
ッチの、その註釈に満足して叔母さんが語をついだ。「それで、着物はどんなのを著てゐたえ? それあね、何といつたつて今時この妾の「と仰つしやるとつまり、何ですか……僕がその、ねえ叔母さん? その、ひよつと叔母さんは、もうそんな風に……。」
「何がどうしたとお言ひなんだえ? 別に不思議なことがあるものか? それが神様のお思召なのさ! 若しかしたらお前さんとその娘とは、
「何だつて叔母さんはそんな風に仰つしやるのか、とんと僕には分りませんよ。それが、この僕といふものをちつとも御存じない証拠ですよ……。」
「そうら、もう腹を立ててるんだよ!」と、叔母さんは言つた。
ほんとにまだ、からつきしのねんねえだ!
と、彼女は心の中で呟やいた。
何にも知らないんだよ! これは一つ、
茲で叔母さんは、イワン・フョードロ
ッチを一人のこしておいて、台所を覗きに立つて行つた。だがこの時以来、彼女はひたすら一日も早く甥に妻帯させて、初孫の守をしたいものだと、ただ一
それから四日ばかり経つと、納屋から
ッチが左側から、叔母さんが右側からそれに乗り込むと、馬車は動き出した。途中で出会つた百姓どもは、この立派な馬車を見ると、(叔母さんは滅多にこの馬車で出かけなかつたので)恭々しく立ち停つては、帽子を脱いで最敬礼をした。二時間ばかりの後、馬車が玄関さきに停つた――いふまでもなくストルチェンコ家の玄関さきである。グリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチは不在だつた。老婆が二人の令嬢と共に客を食堂へ迎へ入れた。叔母さんはさつさと大股に進み寄るなり、非常に素早く片方の足をにゆつと前へ踏み出して、声高らかに次ぎのやうな挨拶をのべた。「奥様、かうして直々お目通りをして御機嫌を伺ふことの出来ましたのを何より喜ばしく存じます。それに、先だつてはまた、甥めが、お手厚い御歓待に預りまして、有難うございました。イワン・フョードロ
ッチはそれを大変自慢に致してをります。時に、奥様のお宅の蕎麦の出来栄は大層お見事でございますこと――こちらへ上ります道すがら拝見いたして参りましたよ。いつたい一町歩からこの挨拶に次いで、先づ一同の接吻が交はされた。客間に通つてから、老主婦は初めて口を切つた。
「蕎麦のことはいつかうに存じませんので。さういふことはグリゴーリイ・グリゴーリエ
ッチに委せきりでございまして、もう妾は「お宅様の女中さん方はまた、大層上手に段通をお織りだといふお話を承はつてをりますが。」と、ワシリーサ・カシュパーロヴナが言つた。それが老婆の最も感じ易い神経を刺戟して、この言葉に依つて、まるで蘇つたやうに元気づいた彼女は、
談話は忽ち段通のことから胡瓜漬や乾梨のことに移つた。一言にしていへば、一時間と経たぬ間に、この二人の老婦人は、百年も前から懇意な仲であつたかの如く、盛んに話し込んでゐたのである。やがてワシリーサ・カシュパーロヴナは妙にひそひそと、小声でばかり話し出したので、イワン・フョードロ
ッチは何ひとこと聞き取ることが出来なかつた。「それでは一つお目にかけませうかな?」さう言つて、老主婦は立ちあがつた。
それに次いで令嬢たちとワシリーサ・カシュパーロヴナが座を立つた。そして一同は女中部屋をさしてぞろぞろと歩き出した。だが、叔母さんはイワン・フョードロ
ッチに、後に残るやうにと目くばせをして、老婆に何やら小声で囁やいた。すると老婆は金髪の令嬢の方を振り返つて、かう言つた。
「マーシェンカ! お前はお客さまと御一緒に此処に待つておいで、そしてお退屈だらうから何かお話のお相手でもしていらつしやい!」
金髪の令嬢は客間に残つて、長椅子に坐つた。イワン・フョードロ
ッチは、さながら針の蓆に坐る思ひで椅子に就くと、まつ赤になつて眼を伏せた。しかし令嬢は、まるでそんなことは気にも止めないもののやうに、すました顔をして、長椅子に腰かけたまま、しきりに窓や壁を眺めたり、椅子の下をコソコソ駈け抜ける仔猫を見やつたりしてゐた。イワン・フョードロ
ッチはやや勇気を取り戻して、何か話しかけようと思つたけれど、まるでこちらへ来る途中、すつかり言葉といふものを落つことして来でもしたやうに、彼の頭には何一つ、話題を思ひつくことが出来なかつた。沈黙が十五分くらゐも続いた。令嬢は依然として坐つてゐる。
やつとのことに、イワン・フョードロ
ッチは勇を鼓して、半ば顫へ声で口を切つた。「夏はどうも、たいへん蠅が多いですねえ、お嬢さん!」
「ほんとに大変なんですわ!」と、令嬢が答へた。「兄がわざわざ、母の古靴で蠅叩きを拵らへましたのですけれど、やつぱり、まだとても大変ですわ。」
これで会話は再び杜絶えてしまつて、イワン・フョードロ
ッチには最早それ以上、どうにも言葉のいとぐちを見つけることが出来なかつた。その中に老主婦が、叔母さんや
ッチとに何時までも会釈を送つた。「さあ、イワン・フョードロ
ッチ、お前さんは、あのお嬢さんと二人きりで、どんなことをお話しだつたえ!」と、叔母さんが途々たづねた。「たいへん気立ての優しい、上品な娘さんですねえ、あのマリヤ・グリゴーリエヴナは!」とイワン・フョードロ
ッチが答へた。「時にイワン・フョードロ
ッチ、妾お前さんに真面目に話したいことがあるのだよ。お前さんもお蔭でもう三十八にもおなりだし、官等も決して恥かしくはないのだから、そろそろ子供のことを考へなきやなりません! 何は措いてもお嫁を迎へることにしないでは……。」「何ですつて、叔母さん!」と、びつくりしてイワン・フョードロ
ッチが叫んだ。「ヨ、嫁ですつて! 以つての外です。叔母さん、ほんとに後生です……。あなたはまつたくこの僕に恥をかかせなさるんです……。僕はこれまで、まだ一度も、妻を持つたことはないんです……。妻なんて、いつたいどうするものだか、まるきり知らないんです!」「ぢきお分りだよ、イワン・フョードロ
ッチ、お分りだとも。」と、叔母さんは笑ひながら言つた。そして心の内で、
しやうのない! まるでねんねえで、何にも知りやあしないのだよ!
と呟やいた。それから声に出して彼女はつづけた。「でね、イワン・フョードロ
ッチ! お前さんには、あのマリヤ・グリゴーリエヴナがほんとに似合ひだよ、あれ以上の嫁を探さうたつて、見つかるこつちやありません。それにお前さんにはあの
ッチが何と言ふか、それは分らないけれど、あの人のことは考へないことにしよう。ただ万一にも持参金を呉れないやうだつたら、その時こそ訴訟を起してちやうどその時、馬車は邸に近づき、年老いた痩馬は、己が厩の間近くなつたことを感づいて、急に活気づいた。
「いいかえ、オメーリコ! 馬には先づ、よく息を入れさせるんだよ。軛をはづして直ぐに水を飲ましちやいけないよ、癇が立つてをるから。それでさ、イワン・フョードロ
ッチ」と、馬車を降りながら言葉をつづけた。「妾はお前さんに、ようく、このことを考へておいて貰ひ度いのですよ。妾はまだちよつと台所を覗いて来なきやなりません。ソローハに夕食を言ひつけることを忘れてゐたが、あのぼんやりが独りで気を利かせるやうなことは、ほつても無いからね。」しかし、イワン・フョードロ
ッチはまるで雷にでも撃たれたやうに立ち竦んでしまつた。なるほどマリヤ・グリゴーリエヴナは大変いい娘だ、しかし結婚!……それは彼には実に奇妙なことに思はれて、考へただけでもぞつとした。妻との同棲! さつぱり分らない! 自分の部屋に独りで落つくといふことも出来ず、年がら年ぢゆう、妻と鼻を突き合はせてゐなければならないなんて!……彼は考へれば考へるほど、その顔に、脂汗がにじみ出して来るのであつた。いつもより早目に彼は寝床へ入つたが、どんなに眠らうとしても、寐つくことが出来なかつた。しかし、やがてのことに、待ちに待つた、あの万人に共通な慰藉である睡魔が彼を訪れた。だが何といふ奇妙な夢を見たことだらう! 彼は未だかつてこれほど辻褄の合はぬ夢を見たことがなかつた。見ると、ぐるりがガヤガヤとざはめき、グルグル
つてをり、彼自身は力かぎり根かぎり一散に駈けてゐるのだ……。ところが、もうどうにも根がつづかなくなつてしまふ。と、突然、誰かが彼の耳をつかまへる。
おい、誰だ?
――
あたしよ、あなたの妻よ!
さういふ声がざはめきの中から彼に答へた。そして不意に彼は夢から覚めた。と、今度はもう彼は妻帯してゐるのだが、彼等の家の中は実に奇妙なのだ。彼の部屋には一人用の寝台ではなく二人用の寝台があつて、椅子には妻がかけてゐる。彼には実に変てこで、どうして妻の傍へ行つたものか、何といつて彼女に話しかけたものか、さつぱり分らない。よく見ると、妻の顔が鵞鳥の顔をしてゐる。傍らを見ると、もう一人の妻がゐて、やつぱり鵞鳥の顔をしてゐる。また反対側を見ると、そこにも妻が立つてゐる。うしろを向くと、そこにも妻が一人ゐる。そこで彼はすつかりおびえあがつてしまひ、一目散に庭へ駈け出した。ところが、庭は蒸暑いので帽子を脱ぐと、帽子の中にも妻が一人坐つてゐる。汗がタラタラと顔を流れる。ハンカチを取り出さうとしてポケットへ手を突つ込むと、そのポケットの中にも妻がゐる。耳に詰めてあつた綿を取ると、そこにも妻が坐つてゐる……。そこで不意に、彼は片足でピョンとはねあがつた。すると、叔母さんが彼を見ながら、真面目くさつた顔つきで、
さうさう、はねあがらなきや駄目だよ。今ぢや、お前さんはもう女房持ちだから。
といふ。彼が傍へ近寄つて見ると、叔母さんだと思つたのが、もう叔母さんではなく、鐘楼になつてゐる。そして気がつくと、誰かが彼を綱でその鐘楼へ釣りあげようとしてゐる。
誰だ、俺を釣りあげようとしてるのは?
と、イワン・フョードロ
ッチが情けない声で訴へた。
あたしよ、あなたの妻よ、あなたは釣鐘だから、釣りあげるのよ!
――
違ふよ、俺は釣鐘ぢやないよ、俺はイワン・フョードロ
ッチだよ!
と、彼が叫んだ。
いや、君は釣鐘だよ。
と、P××歩兵聯隊の聯隊長が、傍をとほりながら言つた。すると今度は不意に、妻といふものが全く人間ではなく、一種の毛織物になつてゐるのだ。彼はマギリョーフ市の或る商店へやつて行く。すると、
どういふ
と、商人が訊ねるのだ。
妻をお持ちなさいませ、近頃、これが最新流行の織物でございますよ! 素晴らしく上等の
商人が尺を計つて、妻を断つ。イワン・フョードロ
ッチはそれを、小腋に抱へて猶太人の裁縫師の店へ行く。
これあ駄目です。
と、猶太人が言ふのだ。
これはくだらない
恐怖のあまり、正気を失つたやうになつて、イワン・フョードロ
ッチは夢から醒めた。冷汗がタラタラと流れた。朝になつて起きあがるなり、彼は占ひ本を開けて見た。その巻末には、珍らしく行き届いた
それはさて、一方、叔母さんの頭の中には、全く新規な計画が成熟しつつあつた。それは次ぎの章を見てのお楽しみ。
――一八三二年――