いや、まつたく、もう話には倦きてしまつた! あなた方はどうお考へかしらんが、ほんとにうんざりしてしまふ。あとからあとから話せ話せで、捉まつたが最後、とんと、逃げ出すことも出来はせぬ。ぢや、まあ、お話をするが、もう金輪際、これがほんとのおしまひですよ。さて、あなた方のお説では、人間の力で、いはゆる悪霊を制御することが出来る、と言はれるのぢやが、それあもう、無論のこと、よく考へてみれば、この世にはどんなこともあり得る……。だが、こればかりは、さう一概に片づけてしまふことは出来ませぬ。
祖父もまだその頃は健在で――ああ、どうか、今頃は、あの世で楽にしやつくりをしてござるやうに――しやんしやんしてをつた。さうさう、何でも、ある時のこと……。それはさて、何のためにこんな話をするのだらう? もうまる一時間も
まだ、春のはじめのころから、父は煙草を売り捌きに、クリミヤ地方へ出向いてゐて留守だつた。荷馬車を二台仕立てて行つたのか、三台仕立てて行つたのか、その辺のことははつきり憶えてゐないが、何でもその頃は煙草の値のいいころだつた。父は三つになる弟をいつしよに連れて行つた――早くから行商を見習はせておかうといふ下心だつたのだらう。で、我れ我れは、祖父に、母に、私に、兄に、それから弟の五人で家にのこつた。祖父は街道筋に瓜畑を拵らへて、そこの番小舎で寝とまりをしてゐたが、瓜畑から雀や鵲を追つぱらふ役目に、私たちをいつしよにそこへ連れて行つた。私たちにそれが悪からう筈はない。何しろ、日にどれだけといふことなく、胡瓜だの、甜瓜だの、蕪だの、葱だの、豌豆だのを、矢鱈に詰めこむものだから、始終、まつたく雄鶏の鳴き声そつくりの腹鳴りがしたものだ。さて、そのうへに旨いことは、相次いで街道をとほる人々が、つい一つ食つてみたくなつては、てんでに、西瓜だの甜瓜だのを買つてゆく。界隈の村々からは、鶏や玉子や七面鳥を持つて交易に来る、といつた塩梅で。日々の暮しは、なかなか悪いどころではなかつた。
しかし祖父には、街道筋を運送屋が毎日、五十台くらゐづつもとほるのが、何より嬉しかつた。馬車曳きどもといへば、御承知のやうに、世間のひろい連中だから、この手合が話をし始めたが最後、どうしてどうして、聴耳を立てずにゐられたものではない! 祖父にはそれがまた、
さて、或る時のこと――いや、ほんの、まるで今の先きのことのやうに思へるが――ちやうど日の入り頃、祖父は瓜畑へ、
「御覧よ、オスタップ」と、私が兄に対つて、「ほら、またあすこへ運送が来たよ!」
「どこへ運送が来ただ?」と、祖父は、ひよつと若い衆連に取つて食はれるやうなことのないやうにと、大きい甜瓜に
街道を、正に、荷馬車が六台ほどつながつてやつて来る。先頭に立つたのは、もう髭に胡麻塩のまじつた運送屋だ。それが、さうだ、ものの十
「やあ、御機嫌さんで、マクシム! 不思議なところでお目にかかるもんだね!」
祖父は眼をぱちくりさせて、「ああ! 御機嫌さん、御機嫌さん! いつたい、どちらから来なすつた? ボリャーチカもをるぢやないか? 御機嫌さん、御機嫌さん、兄弟! おや、これはどうぢや! みんながいつしよぢやないか、クルトゥイシチェンコも! ペチェルイツィヤも! コヴェリョークも! ステツィコも! みんな、御機嫌さん! あつはつはつ! おつほつほ!」
そして一同は接吻しあつたものだ。
「どうしたんだ、子供たち。」と、祖父が言つた。「何をぼんやり口を開けてをるのぢや? 踊りな、穀潰しども! オスタップや、お主の笛は何処にあるのぢや? さあさあ、カザーチカを踊るのぢや! フォマや、両手を腰にかつて! うん! さうぢや、さうぢや! ほら、サッサ! と。」
その頃の私はずゐぶん身のこなしが敏捷だつた。年を取るとから駄目で! 今ぢやもう、ああはいかん。脚を輪にさうとするたんびに躓いてばかりをる始末だから。さて、祖父は運送曳きの連中といつしよに長いこと私たちの踊りを見まもつてゐた。私は、祖父の足がまるで何かに引つぱられるやうに、ちよつとの間もじつと一と処に停つてゐないのに気がついた。
「フォマ、御覧つたら。」と、オスタップが言つた。「きつとあの耄碌爺さんが踊りだすから!」
どうだらう! 兄がさう言ふか言はぬに、もう爺さん辛抱を切らしてしまつたのだ。運送屋たちを前において、ひとつ達者なところを見せてやらうと思ひついたわけだ。
「かう、餓鬼ども! それが踊りぢやと思つとるのか? そうら、かういふ風に踊るもんぢやぞ!」祖父は踵で地面を蹴つて、両手をのばして、立ちあがりざま、さう言つた。
さあ、かうなつては何も言ふがものはない。踊りと来たら、祖父は総督夫人の相手だつて立派にやつてのける達人だつた。私たち兄弟は脇へのいた。すると爺さん、胡瓜畑の傍の平らなところで、足をぐるぐる旋させながら踊りだした。ところが、ちやうど半ばまで踊つて行つて、そこで一つうんと調子をつけて、旋風のやうに足をぱつぱつと投げ出しながら、得意のひと手を見せようとした時だ――足をあげようとしても、どうにも足があがらないではないか! 何といふ奇妙なことだらう! で、改めて踊り直しにかかつたが、まんなかまでゆくと、やつぱり駄目だ。どうしても、まるきり駄目なんだ! 両足が棒のやうに固くなつてしまふのだ。かう、魔性の
いやはや、運送屋たちの前で何といふ恥さらしなことだらう! そこで、また改めて踊り直しにかかつたが、まつたく、端から見てゐても気持よささうに、細かい達者なステップを踏んでゐる。ところが、中途まで来ると矢張り駄目だ! どうしても踊りぬくことが出来ない!ええい性悪な悪魔めが!
で、爺さんが振りかへつて見ると、どうだらう、瓜畑もなければ、運送屋たちの姿も見えぬ。前後左右とも、がらんとした原つぱなのだ。うへつ! 南無三……これはどうぢや!さう言つて、眼をぱちくりやりだしたものだ。が――どうやら、まんざら初めての
そこで、つむじ風に吹き折られたらしい手頃の枝をもぎ取つて、それを火のともつた塚の上へ載せておいて、小径について歩き出した。樫の若木の林はやがてまばらになつて、ちらほら籬が見え出した。そうら、どうぢや? 俺が言はんこつちやないて、と、祖父は心の中で呟やいた。これあ、
だが、祖父が戻つたのはかなり夜更で、
その翌る日、野良が、うつすら白みかけるが早いか、祖父は
忌々しい悪魔めが、貴様なんざあ、我が子の顔も見られねえで、くたばつてしまやがるとええだ!やがて、雨は盆を覆へすやうな大降りになつた。
そこで爺さん、新らしい靴を脱ぐと、雨にあてて
その
夕方、晩飯をすますが早いか、祖父は鋤を持つて、
彼は鋤を振りあげて、まるで瓜畑へ闖入した野豚に一撃を喰はせようとでもするやうに、こつそり走り寄つて、塚の前で立ちどまつた。火は消えて、塚の上には草に蔽はれた石が一つあるだけだ。この石を持ちあげにやならんて!さう考へた祖父は、四方からその石のまはりを掘りはじめた。それがまた、恐ろしく大きな石だ! しかし、うんと足を地面に突つ張つてそれを塚から押しこかした。と、その石はごろごろつと音を立てて谷底へ落ちて行つた。そこがお主の行くところだよ! さあ、これで仕事が楽になつたわい。
ここで祖父は手を休めて、嗅煙草入を取り出すと、拳の上へ煙草をばら撒いて、今しも鼻へ持つてゆかうとした時だつた、突然、彼の頭上に当つて、くしよつ!と、あたりの樹木が揺れ動いたくらゐ、ひどい嚔みをした奴がある。そして祖父の顔いつぱいに、鼻汁がひつかけられた。くしやめが出かかつたら、せめて、わきでも向きやがれ!さう言つて祖父は眼を拭つた。あたりを見まはしたが、誰もゐない! いや、悪魔の奴あ煙草が嫌ひぢやと見える!と、彼は嗅煙草入を懐ろへしまつて、鋤を手に執りながら言葉をつづけた。馬鹿な奴ぢやて、こんな良い煙草は、彼奴の親爺も
「ああ、奴さんここにござつたのかい!」と、祖父は壺のしたへ鋤を突つこみながら叫んだ。
「ああ、奴さんここにござつたのかい!」と、鳥の頭が嘴で壺をほつつきながら、ピイピイ声で口真似をした。
祖父は脇へ飛びさがるなり、鋤を取り落してしまつた。
「ああ、奴さんここにござつたのかい!」と、木の
「ああ、奴さんここにござつたのかい!」と、木のうしろから熊が鼻づらを突き出して吼えた。
祖父はぞつとした。
「ここぢやあ、物をいふのも怖ろしいわい!」さう、彼はひとりごとをいつた。
「ここぢやあ、物をいふのも怖ろしいわい!」と、鳥の頭がピイピイ声で口真似をした。
「物を言ふのも怖ろしいわい!」と、羊の頭が
「物を言ふのも怖ろしいわい!」と、熊が吼えた。
「ふうむ……」さう言つてから、祖父は自分でびつくりした。
「ふうむ!」と、嘴が鳴いた。
「ふうむ!」と、羊が嘶いた。
「ふうむ!」と、熊が吼えた。
祖父は胆をつぶして、うしろを振りかへつた。いやはや、何といふ夜だらう! 星もなければ月もなく、ぐるりはとんでもない難所だ。足もとは底もしれない懸崖で、頭上には山がさし迫つてゐて、今にも彼の上へ崩れ落ちて来さうに思はれる! そして祖父には、その山の蔭からへんな醜い
で、またもや壺を掘りおこしにかかつたが、いけない、とても重くて駄目だ! どうしたものだらう! 今更手をひくことは出来ない! そこで、全身の力を籠めて、両手でその壺を掴んだ。そら、よいしよ、よいしよ! もう一つだ、もう一つだ!と、やつとのことで引きずり出した。ふーつ! 先づ一服やらかさう!
嗅煙草入を取り出した。だが、先づ煙草を振り撒くに先きだつて、誰かをりはせぬかと、よくよくあたりを見まはしたものだ。どうやら、誰もゐなささうだ。ところが、おつ魂消たことには、不意に木の切株が喘ぎながら、むくむくとむくれあがつて来ると、耳があらはれ、真赤な眼がかつと見開かれ、鼻孔がふくらみ、鼻柱に皺がよつて、今にもくしやみをしさうになつた。いや、煙草を嗅ぐのは止めておかう!と、彼は嗅煙草入をしまひ込みながら呟やいた。また、悪魔の野郎に唾をひつかけられにやならんから。そこで彼は手ばやく壺を手に取ると、息のつづくかぎり、一目散に駈け出したが、どうやら後ろから、何者かが木の枝で彼の足を擲つやうな気配がする……。はあ! はあ! はあ!と声を出すだけで、祖父はただもう、無我夢中に駈けた。そして祭司の家の野菜畑まで駈けつけて、やつと息を入れたものだ。
祖父さんはいつたい何処へ行つてるんだらう?と、もう三時間ばかりも待ちくたびれた私たちは、怪訝に思つた。もうとつくに、家からは、母が温い水団を壺に入れて持つて来てゐた。いつまで待つても祖父は帰つて来ない。で、私たちはまた、寂しく夜食をすました。夜食がすむと、母は壺を洗つて、さてその洗ひ水を何処へ棄てたものかとためらつた。何しろ辺りは、処きらはず畝になつてゐたものだから。すると、母のゐる方へ向つて桶が一つ、よちよち歩いて来るではないか。尤も空はかなり薄暗かつた。おほかた、誰か若い衆が巫山戯けて、うしろに隠れて桶を押して来るのだらう。ちやうどいい幸ひだ、この桶へ洗ひ水をぶちまけてやらう!母はさう呟やくと、熱い洗ひ水をザンブとぶちまけたものだ。
「あつ!」と、だみごゑの悲鳴があがつた。と見れば――祖父だ。それが祖父だらうなどとは思ひも寄らぬことだつた! まつたく桶が這つて来たものとしか思はれなかつたんで! ありやうを言へば、少し罪な話だけれど、祖父の白髪頭がすつかり洗ひ水でずぶぬれになつて、西瓜や甜瓜の皮をいつぱい引つかけた
「見ろやい、糞婆あ!」と、祖父は着物の裾で頭を拭きながら言つた。「まるで降誕祭まへの豚か何ぞのやうに、頭から煮え湯をぶつかけをつて! 時に子供たち、これからはな、お主たちも
さあ、いつたい何がその中に入つてゐたと思し召す? まあ、何はともあれ、よく考へてから一つ言ひ当てて戴きたい。ええ? 黄金だと? それとはまるで大違ひ、黄金どころか、
このことがあつてから、祖父は、どんなことがあつても悪魔のいふことなど信用しちやならんと、かたく私たちを戒めた。
「どうしてどうして!」と彼はよく私たちに言つて聴かせたものだ。「あの基督の
かういふ塩梅に、悪霊が人間を誑かしをつたのぢや! 私はその土地をよく知つてをる。その後、そこを隣りの哥薩克が瓜畑にすると言つて、私の父から借り受けた。非常によい土地で、いつも驚くほど物がよく出来たが、くだんの呪ひのかかつた場所にだけは、決して好いことがなかつた。ちやんと、するだけのことをして
――一八三二年――