留吉は稲田の
畦に腰かけて遠い山を見ていました。いつも留吉の考えることでありましたが、あの山の向うに、留吉が長いこと行って見たいと思っている都があるのでした。
そこには天子様のお城があって、町はいつもお祭りのように
賑かで、町の人達は
綺麗な服をきたり、うまいものを食べて、みんな結構な
暮をしているのだ。欲しいものは何でも得られるし、見たいものはどんな面白いものでも、いつでも見ることが出来るし、どこへゆくにも電車や自動車があって、ちょっと手を挙げると思うところへゆけるのだ。
おなじ人間に生れながら、こんな
田舎で、朝から晩まで山ばかり見て暮すのはつまらない。いくら働いても働いても、親の代から子の代まで、いやおそらくいつまでたっても、もっと生活がよくなることはないだろう。牛や馬の生活と
異ったことはない。たとえ馬であっても都で暮して見たいものだ。広い都のことだから、馬よりはすこしはましな生活が出来るだろう。
留吉はそう考えると、もうじっとしていられないような気がするのでした。
それから三日目の朝、留吉は都の停車場へ降りていました。絵葉書や雑誌の写真で見て想像はしていたが、さて、ほんとうに都へ来てみると、どうしてこんなに沢山な人間が、集っているのだろう、そしてなんのためにこの大勢の人間は
忙しそうにあっちこっちと歩いているのだろう。ちょっと立っている間にさえ、自動車が二十台も留吉の前を走って行きました。
唐草模様のついた
鞄一つさげた留吉は、右手に
洋傘を持って、停車場を出て、歩きだしました。
「おいおい
危い!」腕に青い
布をつけた巡査がそう言って、留吉を電車線路から押しだして、
路よりもすこし小高くなった敷石の上へ連れていって、「電車に乗るなら、ここで待っていて下さい」と言いました。
そこには立札があって「帯地全く安し」と書いてあるのです。留吉は「呉服屋の広告だな」と思いましたが、帯地の安いことは留吉には用のないことでした。それよりも、今夜留吉はどこへ寝たら
好いだろうと考えました。
留吉は、小学校時代の友達で、村長の次男がいま都に住んで
好い位置を得てくらしていることを
思出しました。
卒業試験の時、算術の問題を彼に教えてやったことがあるから、訪ねてゆけば、彼もあの時の友情を思出すに違いない。留吉は、昔
馴染の友達の住所をやっと思出しました。
そこは山の手の高台で、門のある家がずらりと並んでいるのでした。
二十四番地、都は掛値をする所だから、なんでも半分に値切って、十二番地、だなんて、村で
物識の老人がいつか話してくれたのを思い出したが、まさかそれは話だと、留吉は考えました。
さて、二十四番地はどこだろう。
細っこい白い
木柵に、
紅い
薔薇をからませた門がありました。石を畳みあげてそのうえにガラスを植えつけた塀がありました。またある所には、まるで西洋菓子のようにべたべたいろんな色のついた、ちょっと食べて見たいような西洋風な家もありました。紅い丸屋根をもった、窓掛の桃色の、お
伽噺の子供の家のような家もありました。
二十四番地! さあここだぞ。
今田時雄、ああこれだ、これが昔の友達、
時公の家だ。白い石の柱が左右に立って、鉄の
飾格子の
扉のような門がそれでした。まるで郡役所のような門だなと、
留吉は考えました。
門からずっと玄関まで石を敷きつめて、両側に
造花のような舶来花を咲かせてありました。
「
時公もエラクなったもんだな、算術なんかあんな
下手糞でも、都へ出るとエラクなれるものだな」留吉は、昔の友達の門をはいって、玄関の方へずんずん歩いてゆきました。
すると、なんだか変てこな心持が、留吉の心をいやに重くしはじめました。変だぞ、留吉は生れてはじめて、こんな厄介な気持を経験したので、自分にははっきり
解らないが、留吉はすこし気まりがわるくなったのです。それはたいへん留吉を不愉快にしました。
「時公におれは竹馬を作ってやったこともあるんだ。あいつはその事もまだ覚えているだろう」
この
考は、留吉をたいへん気安くして、元気よく玄関の前まで、留吉を歩かせました。「御用の方はこの
釦を押されたし」と柱の釦のわきに書いてある。留吉は読みました。
「おれは用があるのだ。それにここの主人はおれの友達だからな」留吉は釦を押した。ヂリヂリヂリとどこか家の奥の方で音がしました。そういう仕かけかなと思って、留吉は、入口のガラス戸のとこを見ていますと、そこに一寸角ほどの穴があいています。そこで大きな一つ
眼がぎらっと光ったかと思うと、頭の上でヂリヂリヂリと、舶来の半鐘のような音がしました。留吉はもうとてもびっくりして、何を考える暇もなく、どんどん門の方へ
駈けだしました。
するとその拍子に、留吉の帽子が留吉の頭から飛去って、ころころと
転ってゆきました。こいつは大変だと思っていると、悪い時には悪いことがあるもので、造花の西洋花の中から、歯をむいたチンのような顔をした、しかしずっと
愛嬌のない大犬が出てきて留吉を追いかけました。
留吉は、十一番地のところまでまるで夢中で
駈出しました。やれやれとそこで立どまると、あとから
今田家と襟を染めぬいた法被をきた男が、留吉の帽子を持って立っていました。「どうも、これはお世話をかけました」と言って留吉がその帽子を受取ろうとしますと、その手をぐっとその男は
掴んで「ちょっと来い」と言ってペンキ
塗の白い家へ連れてゆきました。
椅子に腰かけた人間の眼が十三ほど、一度にぎろっと留吉の方を見ました。それは巡査でした。
「先程電話でお話のあったのはそいつですね」一人の巡査が立ってきて、法被の男に言いました。
「こいつですよ、
旦那」法被の男が言いました。
「私はその、なんにも悪いことをしたのではないですよ。その、私は、その、昔の友達を訪ねていったですよ。ただその、
眼が、眼がそのヂリヂリヂリっと言ったでがすよ」
留吉は巡査に言いました。巡査は
髭を
引張って言いました。
「お前は
今田氏の昔の友達だと言うのだね。それに違いないか、何という名だ」。
巡査は今田氏へ電話をかけました。
「ははあなるほど、昔の友達だなどと当人は申して
居りますが……ははあ、いやわかりました。では、とりあえずですな、
外に窃盗などの目的はなかったものと推定して、放免することにいたしましょう。……はい……はい、どうもお手数をかけました。」チリンチリン
電話をかけ終った巡査は、また留吉の方へ出て、さて言うには、
「今田氏はお前のような友達は持ったことはないと
仰言るよ」
「今田
時雄は、その、算術の試験の時……」
「もう
好い。
兎に
角この帽子はお前に返してやるが、今後は、他人の邸宅へ無断で侵入しては相ならぬぞ、よしか」
留吉は、とある公園のベンチに腰かけて、つくづくと帽子を眺めました。
この帽子が悪いのだ。とにかくこの帽子は、おれを今よりもっと不幸にするかも知れない。田の草をとる時にも、峠を越す時にも、この帽子はおれの
連だったが、今は別れる時だ。留吉は、帽子を
捨てしまおうと決心しました。そこで、腰かけていたベンチの下へ、その帽子をそっとかくして、そこを立ちさりました。公園の門を二三間歩くと、
「おいおい」と言って巡査が追いかけてきました。
「これは、君のだろう」と言って、帽子を留吉に渡しました。
「いや、その、これはその……」留吉が、何か言おうとするうちに、もう巡査は、ほかの帽子か何かを探しにいってしまいました。
留吉は、不幸な帽子を手に持って歩いているうちに、たいへん腹がへってきました。
「民衆食堂一食金十銭」と書いてある西洋館がありました。留吉は、そこへ
這入っていって、隅っこのあいた
椅子に腰かけて、帽子を
卓子の上へおきました。
十銭の食事が終ると、留吉は帽子を椅子の下へかくして、何食わぬ顔をして、出てきました。「君の帽子だろう」あとから食堂を出てきた車屋さんが、すっぽりと
留吉の頭へ、帽子
ははめてしまいました。
留吉は、長い間こがれていた都を見物することも、何か仕事を見つけることも、また昔のお友達を
思出すことも忘れてしまったように見えました。ただもう、どうして、この不幸な帽子と別れたものかと、その事ばかり考えて、知らない街を
通から通へと歩きつづけるのでした。
日が暮れて街の
人通が
少くなった時分に、留吉は街はずれの汚い一軒の安宿を探しあてました。
「今度はうまくいったぞ」留吉は、宿の二階の窓から、裏の空き地へ帽子を投出しました。それで安心して、その夜はぐっすり眠ってしまいました。人の知らないうちに出立しようとおも
て、
眼をさますと、帽子は
枕元にちゃんとおいてあります。
留吉は、また不幸な帽子を持って、宿を立ちました。留吉は、とある大川の
堤の上を歩いていました。
「ここだ帽子を捨てるのは。川へ流してしまえば、もう返って来ないだろう」
留吉は、橋の上から力一ぱい帽子を川の中へ投げやりました。帽子は、小さな波に乗って、ぶっくりぶっくり、川下の方へ流れてゆきました。
「あばよ、おととい来いだ!」
留吉は、泣きたいような
好い気持ちで、だんだん遠くなってゆく帽子に別れをつげました。すると一
艘のモーターボートが、ポクン、ポクン、ポクンと言いながら、帽子の方へ
走出しました。ボートの中には、白い服をきた男が二人と巡査が一人乗っていました。まもなく帽子に追いついて、一人が帽子を救いあげると、急いでボートを岸へつなぎました。留吉があっけらかんとして見物しているうちに、帽子はいつの間にかまた留吉の頭の上へのっかっていました。
留吉は、なぜか
嬉しくなって、不幸な帽子を頭へのっけたままで泣出しました。しかし、どう考えても、
今田時雄の玄関の一寸角のガラスの穴からのぞいた眼が、公園のベンチのうしろの木の
蔭からも、公衆食堂の
椅子の下からも、宿屋の裏の空地にも、大川の橋の下にも、いつもぎらぎらと光って、留吉のすることを見ているように思えるのでした。これは留吉には、たまらないことでした。
留吉が、不幸な帽子をかぶって、都の停車場からまた
田舎の方へ帰ったのは、それからまもないことでした。
(一九二三、七、二四)