私は戦場から帰って、まもなくO君を
寺に行って、O君に会って、種々戦場の話などをしたが、ふと思い出して、「小林秀三っていう墓があったが、きいたような名だが、あれは去年、一昨年あたり君の寺に下宿していた青年じゃないかね」
「そうだよ」
「いつ死んだんだえ?」
「つい、この間だ。
「かわいそうなことをしたね、何だえ、病気は?」
「肺病だよ」
「それは気の毒なことをしたね」
私はその前に一二度会ったことがあるので、かすかながらもその姿を思い浮かべることができた。私は一番先に思った。「遼陽陥落の日に……日本の世界的発展のもっとも光栄ある日に、万人の狂喜している日に、そうしてさびしく死んで行く青年もあるのだ。事業もせずに、戦場へ兵士となってさえ行かれずに」こう思うと、その青年、田舎に埋もれた青年の志ということについて、脈々とした哀愁が私の胸を打った。つづいて、『親々と子供』の中の墓場のシーンが眼に浮かんできた。バザロフとはまるで違ってはいるけれども……。
私は青年――明治三十四五年から七八年代の日本の青年を調べて書いてみようと思った。そして、これを日本の世界発展の光栄ある日に結びつけようと思い立った。ことに、幸いであったのは、その小林秀三氏の日記が、中学生時代のものと、小学校教師時代と、死ぬ年一年と、こうまとまってO君の手もとにあったことであった。私はさっそくそれを借りてきて読んだ。
この日記がなくとも、『田舎教師』はできたであろうけれども、とにかくその日記が非常によい材料になったことは事実であった。ことに、死一年前の日記が……。
この日記は、あるいはこの小林君の一生の事業であったかもしれなかった。私はその日記の中に、志を抱いて田舎に埋もれて行く多くの青年たちと、事業を成しえずに亡びていくさびしい多くの心とを発見した。私は『田舎教師』の中心をつかみ得たような気がした。
日記は、その死の前一日までつけてある。もちろん、寝ながら、かつ苦みながら書いたろうとおぼしく、墨もうすく、字も大きなまずく書いてあるけれども……。私はそれを見て泣きたいような気がした。遼陽の攻略の結果を、死の床に横たわって考えている小さなあわれな日本国民の心は、やがてこの世界的光栄をもたらしえた日本国民すべての心ではないか。
それに、舞台が私の故郷に近いので、いっそうその若い心が私の心に
かれの眼に映ったシーン、風景、感じ、すべてそれは私のものであった。私はそこの垣の
H町の寺に行くと、いつもきまって私はその墓の前に立った。
そこにはすでに友人たちの立てた自然石の大きな石碑が立てられてあった。そこに、恋もあり、涙もあり、未死の魂もあり、日本国民としての
私は秋の日など、寺の本堂から、ひろびろとした野を見渡した。黄いろく色ついた稲、それにさし通った明るい夕日、どこか遠くを通って行く車の音、
「
こうした嘆声がいつとなく私の口に上るのであった。
戦場でのすさまじい砲声、
ある日、O君に言った。
「
で、秋のある静かな日が選ばれた。私達は三里の道、小林君が毎日通って行ったその同じ道を静かにたどった。野には明るい日が照り、秋草が咲き、里川が静かに流れ、角のうどん屋では、かみさんがせっせとうどんを伸していた。
私は最初に、かれのつとめていた学校をたずねた。かれの宿直をした室、いっしょに
弥勒の村は、今では変わってにぎやかになったけれども、その時分はさびしいさびしい村だッた、その湯屋の煙突からは、静かに白い煙が立ち、用水
私とO君とは、その小川屋で、さいの煮つけで酒を飲んだ。
学校の校長が、私が話を聞きに行ったのを探偵にでも来たのかと思って、非常に恐れていたのも
それから私は一度小林君の親たちの住んでいる家を訪ねた。やはり、小林君のことを小説にするとは言えないので、書画の話を聞くふりして出かけた。私はやさしい母親とのんきな父親とを見た。その家はじつに小林君の死の床の横たわったところであった。
この家を訪問してから、『田舎教師』における私の計画は、やや秩序正しい形を取って来た。日記に書いてあることがすべてはっきりと私の眼に映って見えた。で、さらに行田から弥勒に行く道、かれの毎日通った路を歩いてみることにした。
私はいろいろに考えた。寺に寄宿した時代のかれは、かなりにくわしくわかったが、その交遊の間のことがどうものみ込めない。中学校時代の日記は、空想たくさんで、どれが本当かうそかわからない。
二年、三年は経過した。
この作は、『
しかし、日記を
石島君は忙しい身であるにかかわらず、私にいろいろな事を示してくれた。士族屋敷にも行けば、かれの住んでいた家の址にもつれていってくれた。
で、その足で、熊谷町まで車を飛ばした。例の用水に添った描写は、この時に写生したものである。それから萩原君を、町の通りの郵便局に訪ねた。ちょうど、執務中なので、君の家の泉州という料理屋に行って待っていた。萩原君はそこの二男か三男で、今はH町の郵便局長をしているが、情深い、義理に固い人であるのは、『日記』の中にもたびたび書いてあった。その日はそこでご馳走になって、種々と小林君の話を聞き、また一面萩原君の性情をも観察した。
女たちのほうの観察をもう少ししたいと思ったけれど、どうもそのほうは誰も遠慮して話してくれない。それに、その女たちにも会う機会がない。遺憾だとは思ったが、しかたがないので、そのまま筆をとることにした。
六月の二日か三日から稿を起こした。梅雨の降りしきる窓ぎわでは、ことに気が落ちついて、筆が静かな作の気分と相一致するのを感じた。そのくせ、その時分の私の生活は『田舎教師』を書くにはふさわしくない気分に満たされていた。
しかし、八月いっぱいには、約その三分の二を書き上げることができた。で、原稿を関君に渡して、ほっと呼吸をついた。
それから後は、なかば校正の筆を動かしつつ書いた。関君と柴田流星君が毎日のように催促に来る。社のほうだってそう毎日休むわけには行かない。夜は遅くまで灯の影が庭の
反響はかなりにあった。新時代の作物としてはもの足らないという評、自分でも予期していた評がかなり多かった。それに、青年の心理の描写がピタリと行っていない。こうも言われた。やはり自分で、すっかりのみ込んでしまわなかった部分が、どこか影が薄いのであった。
巻頭に入れた地図は、
関東平野の人たちの中には、この『田舎教師』を手にしているのをそこここで見かけた。乗合馬車の中で女教員らしい女の読んでいるのを見たこともあれば、こんな旅館にと思われるような帳場に放り出されてあるのを見たことがあった。「中田の
実際、中田の遊廓の一条は、仮構であった。しかし、青年の一生としては、そうしたシーンが、形は違っても、どこかにあったに相違ないと私は信じた。一年間、『日記』がとだえているのなども、私にそういう仮構をさせる余地を与えた。それに、その一条は、多少、作者と主人公と深く交り合っているような形である。
刀根川の土手の上の草花の名をならべた一章、これを見ると、いかにも作者は植物通らしいが、これは『日記』に書いてあるままを引いたのである。
しかし、とにかく、一青年の志を描き出したことは、私にとって愉快であった。『生』で描いた母親の肖像よりも、つきすぎていないゆえか、いっそう愉快であった。私は人間の魂を取り扱ったような気がした。一青年の魂を墓の下から呼び起こして来たような気がした。
今でも、私はH町の寺に行くと、きっとその自然石の墓の前に行った。そして花などを供えた。その墓石は私にとっては、決してもう他人の墓石ではなかった。その友だちの植えた
――『東京の三十年』より――