J. K. Huys Mans の小説

田山録弥





 J. K. Huys Mans あたりで、フランスの新らしい文章は一変したと言はれてゐる。文体、文章などゝ言ふものは、十年の間にはいつ変るともなく変つて行くものださうだが、実際さうだと私は思つてゐる。で、私はその意味でも Huys Mans の文章を面白いと思つてゐる。
 Huys Mans の文章はゾラの系統をひいてゐる。それはその出立点が其処から出発したからである。此人も矢張ルーアンの大家の書斎にはよく出かけて行つた人だが、それよりも却つてゾラの感化を受けたといふやうなところが多い。洗煉したと言ふよりも、むしろ達者で、そして細かく入つて行くといふ趣がある。ゾラがモウパッサンよりもこの人の方が豪いなどゝ言つたのも無理はないと思ふ。
 Huys Mans の描法は内面にかなり深く入つてゐる。人間の心理を描く時に、会話のやうにクォテイシヨンをつかつて、そしていくらでも長く続けてゐる。紅葉の『多情多恨』の長い会話や長い独語などに似たやうなやり方をしてゐる。
 それにき方が、ある人には煩瑣はんさにすぎると思はれるやうな細かい描写をやつてゐる。一分間の独想を二頁も三頁も書いてゐるところがある。モウパツサンの気の利いた短かい巧みなあらはし方などゝは丸で違つてゐる。その代り文字の末に捉はれないやうな長所があつて、技巧でない生気が全篇に漲つてゐるといつて好い。


 ゾラが破産したナチュラリズムの境を頑固ぐわんこに守って[#「守って」はママ]、そして最後は憐れな浅薄なシンボリズムに堕ちて行つたのに比べると Huys Mans が中世紀の芸術といふところから神秘主義に入つて行つたのは、大変に面白いと思ふ。そして、それが幾らかフロオベルの歴史小説あたりから根を発してゐる様なのは一層面白い。然し、全体のトオンが最後までナチユラリズムの調子を帯びてはゐる。
 フロオベルは近代小説の祖だと言はれてゐる。こゝからあらゆる流れが流れ出してゐると言はれてゐる。ナチユラリズム、ミスチシズム、シンボリズム、皆そこから泉を発してゐる。かうある批評家は言つてゐる。Huys Mans も矢張そのシンボリカルなところを受継いでゐる。
 フロオベルのシンボリズムとゾラのナチユラリズムとを合せて、そしてその上にいくらか Flander の血を混ぜたやうなところが Huys Mans の芸術である。


 マアテルリンクのミスチシズムと Huys Mans のミスチシズムとを比べて見ると、そこに面白い対照がみとめられる。何処か似てゐるところがあつて、そして後者の方のが何処か手堅い真面目なところがある。マーテルリンクの芸術と芸術論とは、余程詩人らしい空想的なところが特徴だが Huys Mans のは、ある境をぐつと押詰めてそして得て来たといふところがある。前者は浅いがしかし多方面だ。後者は一本筋であるが、しかし深い。
 フランスの芸術家としては Huys Mans などはやゝ特徴の多い方である。モウパツサンとかダンヌンチオとか言ふ南方の自由な明るい豊かな気分よりは、寧ろ暗い、まじめな執着の深い方で、張りつめた弓の弦と言つたやうな感じがする。
 E. Rod の行つたみちとは方向を異にしてはゐるが、純フランスでないところは同じである。


 ブールジエの芸術は、ナチユラリズムの人達の行つたところとは余程趣を異にしてゐる。かれの作は心理の研究といふことを以て聞こえてゐる。しかし、多くのフランスの作者が辿つて来た明るい芸術的の気分は矢張その作に漲つてゐる。矢張、フランスの芸術だといふ気が起る。もう少し詳しく云へば、生活に即く心よりも芸術に即く心の方が勝つてゐるといふことである。それに、ブウルジエにイヤなことは、その作品に、何処か堅苦しいモラルの匂ひのあることである。同じフランスの芸術でもすつきりしてゐない。どこかに俗気がある。イギリス人の書いたフランスの芸術と言つたやうなところがある。
 モウパツサンが『小説論』の中で、客観派と心理派と二つにわけて言つてゐるが、それで見ると内面と外面との描写は、矢張フランスあたりでもやかましく言はれてゐるものと見える。モウパツサンがフロオベルの『感情教育』を評した言葉と、『小説論』の中にある一節とを並べて読んで見ると、その間の消息――描写の方法などにそれと点頭かれて来る。
 ブールジエは無論その心理派に属してゐたんであらう。外面ばかりを書いて内面を作の背景にしてゐるやうな『客観派』では無論なかつたであらうと思はれる理由がある。
 しかし、ブウルジエの作で面白いことは――むしろかれの作の特色としては、貴族の間のことを書いたものが多いといふことである。ある人が言つたことである。『ブウルジエのやうな作をするには、余程の金がなくつては駄目だ。一ヶ月数千フランの金がなければ駄目だ』かう言つてゐるが、それほど貴族の生活を細かく書いてゐる。ドオデヱなどの描いたものよりも余程実際に近くなつてゐる。“Cosmopolis”にあらはれたシーンなどはことにさうである。“Pastils of Men”の中の短編などにも、さういふ社会を描いて、そして匂ひの高いものがある。


 Huys Mans の作は英訳されたものは沢山ない。“En Route”“The Cathedrel”位のものである。しかも、それが芸術といふ意味よりも、布教の意味で飜訳されてある。かういふ風に信仰に入つて行つたといふ処に意味を認めて、そして、それを信者に読ませる為に飜訳されてゐるのである。Huys Mans の芸術を認めてそして飜訳したのではないといふことは、飜訳者の序文を読んで見れば分る。
 イギリスで飜訳された大陸文学と言ふものは、だから、余程イギリス化されたものである。イギリス語に飜訳されるのは、ある意味に於ては、むしろ作者の耻辱だと思はれるやうなところすらある。その証拠にはイギリスに伝へられた文学者をあげて見ればわかる。ツルゲネフ、ドオデエ、ロチ、マアテルリンク、ブウルジエ――から数へて来ると、イギリス人が何ういふ作者を好むかといふことがわかるではないか。
 オスカーワイルドなどは、その思想や芸術が本国に容れられなかつた人である。それにも拘らず、何処かイギリス臭いところがある。ドリアン、グレーなどは標式的デカダンには相違ないが、しかし何処かまだ自由でないやうなところがあると思ふ。囚へられたやうな堅苦しいところがあると思ふ。


 Huys Mans の芸術は、トルストイの芸術にフランスと Flander の血を交へたやうなものである。
 芸術家と言ふものは何故かう満足が出来ないものだらう。『真心ハートの何物をも持たない』と言つてフロオベルは慨嘆した。トルストイはトルストイで、矛盾に矛盾をかさねて、そして最後は修道院に入るやうな結果を得た。モウパツサンは狂死した。Huys Mans はカソリツクに遁れた。
 私の考では、普通人間は、最後に横つてゐる自然といふものに対して、何等の疑惑をも煩悶をも起さないのであらう。そのまゝにそつとして置くのであらう。であるから、それで満足して生きて行かれるのである。閉つた扉は閉つたまゝにして置くのである。
 ところが芸術家にはそれが出来ない。閉つた扉の前に立つて、三日も四日も見詰めてゐたりする。そつと行つて覗いて見たりする。千万年に一度も開くか開かないかわからない扉に向つて、それを開けようとしてゐる。いや、無理にも開けて見ようとしたりする。
 扉の中は神秘だ。ある人はその光に打たれて死んだ。ある人はその中に直ちに飛び入つて、そしてもう再びと人間界には出て来られなくなつた。ある人は扉の風に煽られて跳ね飛ばされた。

 自然は決して其総てを人間には示さない。自然は常に人間の前に其扉を閉めてゐるものである。


 寺の和尚さんが、来て話した。
『さうですね、人間は何ういふ境遇にも生きて行かれるものですね……。さういふ風に出来てゐるもんですね。牢獄の中でも、冷めたい石の上にも……』
 私達は自然と人間との関係を話した。人間が何処まで自然に似てゐるかゐないかといふことをも話した。男女のことなども話した。
『経文に書いてあります。淫を行ふところ、男に二所ふたところ、女に三所みところと、かう書いてあります。男の二所は口と肛門、女は口と肛門とその他にもう一つ……実際、何んな境遇でも生きてゐられるやうに出来てゐられるんです』寺の和尚さんはこんなことを云つた。
 私は言つた、『人間の大事と言ふものゝ中に、男女の錯綜と心理といふことがあります、それが経文に書いてありさうなものですね。……』
『それは小乗の中にあるかも知れませんね』
『イヤ、しかし、何うですか。私の経験では、仏教の方の人などは、男女の問題になると、皆避けてゐる。婦人のことは、これは仕方がないと言つた風だ。そして、最後に女人は済度すべからざるものなどゝ云つてゐる。男女の関係に関して、仏教の方の人は、頗る卑怯のやうなところがある。避けてゐる。その深い関係を知らずにそれを避けてゐる。男女の問題にかけては勇気に乏しい点がありますね。経文の中には、それが何ういふ風に書いてあるか、知りたいものですね』
 私は此頃かういふことを考へた。女が一人で長い間暮してゐると、その性質が段々男に似て来る。あら/\しくなつて来る。男まさりと言つた風になつて来る。その反対に男が一人で長い間暮してゐると、その性質が段々女性化して来る。優しい女らしい処が出来て来る。子供などを可愛がる性質が出て来る……。
 男が恋しくなると、女が奇麗になつて来るのと同じである。自然の力の消長である。一方高くなれば一方低くなる力の平均である。芸術家はこの力の平均に人一倍眼を注ぐことが肝心であると私は思つてゐる。
 すぐれた小説をよんでゐると、作者がさういふところに注目してゐるのがよく解つて来て、何とも言はれないやうな深い深い自然の力を渾身に覚えて来る。
 Huys Mans の Durtal は、“La Trappe”にある月日をすごして、巴里の熱閙ねつたうの中に帰つて行くやうに書いてある。寺を別れて出て行く処がよく書いてある。その世離れた生活――かういふ生活が巴里から僅か離れた処にあるかと思はれるやうな生活から出て、再び元のたゞれたやうな都会生活に帰つて行く処にかう書いてある。『私は此儘此寺の生活に入つて了ひたいが、しかし僧侶となるには、まだ余に文学者だ、さうかと言つて、文学者としては余りに思想が僧侶になりすぎてゐる』かう言つて Durtal は慨嘆して、『巴里に帰れば、仲間の文学者に逢はない訳には行かない。其文学者が A Trappist よりも遙かに価値ねうちがないことを自覚して呉れたならば! 豚を飼つたり労働をしたりすることの方がどれほど文学者の話や作物より価値があるかをかれ等は知つてゐて呉れたならば! 神よ、神よ、あはれなるものをして、同胞 Simeon の祈祷の影の下にあらしめよ!』かう言つて叫んでゐる。芸術から実際を望んだ作者の心持を私はよく解することが出来た。
『爾、思ひあがれる芸術家よ。先づその矜持ほこりを捨てよ。次に、その中に淀める汚濁けがれを浄めよ、次に、小さなる皮肉と小さなる観察とを捨てよ。しかして、野にある羊かひの如く賤しかれ』
 かういふ Durtal の心持を私は深く深く考へて見た。
 真の生活をするといふことが、此頃よく言はれる。芸術よりも生活、かうも言はれてゐる。しかし真の生活をするといふことが生活をする人其人に取つて、誇りであり飾りである中は、其人はまだ真の生活をしたものと言ふことは出来ない。自己の生活が一番真剣な真面目な生活だと思つてゐる中は、まだ其処に真剣でない真面目でないところがあるのだ。『Simeon 老人にすらも及ばない』といふ Durtal の心持に至つて、始めて真の生活に入つて行くのである。
 自己の生活を真剣な真面目な生活にしたいと思つて Durtal は“la trappe”に入つて行つたのである。そして自己より真面目な生活を却つて豚を飼つてゐる一老人に発見したのである。ハンブル、謙遜な、自由な、神につかへるその生活に……。
 自我の権威といふ言葉を此頃よく聞く、自己を重んずるといふ点に於ては、非常に好いことだと思ふ。然し『自己の権威』といふ言葉の中には、何処か思ひあがつた、自己の生活をのみ肯定したやうな所がある。内省的の所が欠けてゐる。自ら発して自ら築いて行つたといふやうな所が欠けてゐる。多少さういふところがあるにしても、それはごく外面的でそして輪廓的りんくわくてきである。抽象的であつて具象的でないと私は思ふ。
 次に、論議には背景がすべて必要である。背景のない論議ほど空疎でそして崩落し易いものはない。具象的の背景があつてこそ其の論議は始めて細かい気分まで触れて行くのである。
 しかしながら、具象的の背景といふことは中々難かしいことである。Durtal は真の生活に入らうとして少くとも多艱多難のその前半生を背景としてゐる。だから、細かい細かいところまでも入つて行くことが出来るのである。その煩悶の多い生活も肯定されるのである。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「毒と薬」耕文堂
   1918(大正7)年11月5日
初出:「新潮 第十九巻第三号」
   1913(大正2)年9月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「モウパッサン」と「モウパツサン」、「ナチュラリズム」と「ナチユラリズム」、「マアテルリンク」と「マーテルリンク」、「ブールジエ」と「ブウルジエ」、「ドオデヱ」と「ドオデエ」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「渓声を前にして」です。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2018年4月26日作成
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