『蒲団』を書いた頃

田山録弥





『何うして、あんな「蒲団」のやうな作が歓迎されたでせうな?』かうある人が言つたが、作者自身でも、何うしてあんな作が今でも売れてゐるかと思はれるほどである。少くともあの作は四五万は売れた。
 しかし、あの時分のことを思ひ出すのは愉快だ。あの時分のことを思ふと、国木田君の顔と一緒に渋谷のさびしい別荘のやうな家が浮び出して来る。小諸から『破戒』の未成稿を抱いて出京して来た島崎君のあの大久保の通りに面したトタン屋根の狭い二畳が浮び出して来る。皆な元気で『今に見てをれ!』といふやうな心持が潮のやうに私達の心に漲つてゐた。
 何うして私達のグルウプが出来たらう? 何の縁故も持たず、何の学歴をも同じうせず、また何の生立をも同じうしないで、何うして私達のあのグルウプが出来て行つたらう? 私達は言はゞ彼方此方あちこちから流れ出て来た川が、水源では何の関係をも持つてゐない川が、ある期間、ひとりでさびしく流れて来て、微かな微かな音を立てて流れて来て、そして一緒に落合つて、一つの大きな流れを成したやうなものであつた。国木田君は「国民新聞」派から、島崎君は「文学界」派から、私は何方かといへば「硯友社」派から出て来て、そして次第に一緒にまざり合つて行つた。
 何を目当に雑り合つて行つたかといふのに、それは『新しさ』といふことと『真面目さ』といふこととを以て。また現代の外国文学、ことに大陸の文学に互に同じやうにあくがれてゐたといふ形を以て。またあまりに多い文壇の党閥を憎んで、それから離れるといふ心持を抱いて。何の不自然もなしに、静かに落附いて雑り合つて行つたのであつた。一番先きに国木田君が『運命』を書き、次に島崎君が『破戒』を書き、私は一番おくれて『蒲団』を書いた。


 今日から見ても、矢張、ああいふ作品の生れて行くに都合の好いやうな当時の文壇の潮流であつた。硯友社は既に崩れた。その後身であつたさう社も、若い人達の集合であつたにも拘らず、新しいヨウロツパの思潮に触れず、唯、単に技巧と娯楽とを基礎にしたやうな作品ばかりを公にしてゐた。当時の大家連も、新進作家征伐に倦んで、皆な田舎に行つたり、筆を絶つたり、口を噤んだりしてゐた。鴎外漁史すら、小倉の師団に赴任して、『末流文壇』などと言つて、その当時の文壇を罵倒してゐた。それに、見遁すことの出来ないのは、その当時、新聞や雑誌の小説のレベルがぐつと下つて、草村北星や田口掬汀きくていの通俗小説が到るところに歓迎されてゐたことであつた。
 何方かといへば、小説はすたれて詩が盛んになつてゐた。
 時代の推移といふことは、その社会の空気の一張一弛に常に関係があるものだが、矢張十九世紀の個人思想、科学思想、虚無思想が微かながらもこの東洋の一孤島にその波動を打寄せつつあつたので、そこから『新しさ』は常に孕まれつつあつたのであつた。
 その頃、私達の体に一番強く響いて来たことは、義理とか人情とかいふものに捉へられて――否、社会に、社会の道徳律に、伝統的社会の慣習に捉へられて、人間の多くが思ふままに振舞ふことが出来ず、そのため表と裏と言つたやうな不自然な二元的行動に落ちて行つてゐたことであつた。『つかへた溝はくさくつてしやうがない。ドシドシ流して了はなければいけない。さうしなくては、新しい水は流れて行かない――』かういつて、私達はその抱いてゐた心持をグングン出した。
 だから、イブセンだの、ニイチエだの、トルストイだのが非常に私達に共鳴したのである。ハウプトマン、ズウデルマン、カルル・ブライブトロオなどがこの上もない好い伴侶となつたのである。だから『蒲団』はさういふ意味において世間を動かしたといふことは出来るかも知れない。否、その後に書いた『兄』とか『生』とかいふ作品にも、さうした幻滅的気分が非常に漲つてゐて、少くともその一二年前の硯友社中心の作品とは、感情に於いても、気分に於いても、またその観察に於いても、非常に違つたところがあつたに相違ない。しかし今日になつて考へて見れば、さうしたことは芸術上大したことでなく、作の価値といふものは、全く別の方面にあるといふことはわかつては来たが――。


 しかし、先駆といふ意味では、『蒲団』も文芸上ある位置を占めることは出来たかも知れなかつた。私はその後何遍も『蒲団』と同じ題材を用ゐた作品に逢つて、その度毎に微笑を禁ずることが出来なかつた。
 私が『蒲団』を書くについては、何と言つても一番参考になつたのは、ハウプトマンの『寂しき人々』であらねばならなかつた。勿論、あれがあつても私の実際生活に私のアンナ・マアルが入つて来なかつたならば、あの『蒲団』は出来なかつたであらうけれども、兎も角もあの『寂しき人々』は実際さびしき人々のひとりであつた当時の私達に深い暗示と憧憬とを与へたに相違なかつた。『山中やまなかの夕日白壁やすらかに君がゐまさんことをのみこそ』この歌は今でもをりをり私の口に上つて来るが、それを低声にうたふと、備後の山の中――福山から府中を通つて十里も山の中に入つて行つた上下町あたりの山のたたずまひが、白壁にさし添つた夕日が、そのままはつきりと眼の前に浮んで来るのであつた。『蒲団』は何とも思はないが、あの頃の若さは、純な心持は、今考へて見ても、たまらなくなつかしかつた。
 それに、あの頃はあの若い、やさしい、ロマンチツクなツルゲネフ式な感情とペソスとが流行はやつた。誰でも『ルジン』や『処女地』を持つて歩かないものはないくらゐであつた。私も私のアンナ・マアルにツルゲネフの『フアウスト』を輪講してやつたことを思ひ起さずにはゐられなかつた。
 今日に於いては、『蒲団』にあらはれた程度のモデル問題などは何でもなく、あれ以上のものが沢山に沢山にあらはれて来てゐるけれども、しかも世間ではそれを余り問題にしないのに引かへて、『蒲団』時代に於いては、何んなにそれが問題になつたことだらう? 私は机を並べて仕事をしてゐた人達からもじろじろといやに顔を見られたばかりでなく、ある人からはそれがために絶交状に近い手紙をさへつきつけられた。つまりそれだけその時分の世間が、社会が、伝統的慣習に捉はれてゐたのである。さういふ形から見れば、さうした社会から今の自由な心持を持つた社会になつて来るための材料のひとつとして『蒲団』も立派にその使命を果して来たものであるとは言へた。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「夜坐」金星堂
   1925(大正14)年6月20日
初出:「サンデー毎日 第三年第十六号」
   1924(大正13)年4月6日
※初出時の表題は「その頃の話」です。
※中見出し「一」が8字下げは、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2021年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード