『水野仙子集』と其他

田山録弥




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 水野仙子の集が、今度叢文閣から公にせられることゝなつた。喜ばしいことである。かの女は純粋に『文章世界』をその故郷にして、そして文壇に出て行つた人である。私は『暗い家』だの、『お寺の児』だの『徒労』などを思ひ出さずには居られない。

 純な、正直な性質と、真面目な気分と、飽まで進んで行くべきところに進んで行く心と――。

 私の家には、一年とはゐなかつた。五月に来て、十二月には、もう別な家を代々木の奥の、林に近いところに持つてゐた。狭い二間きりの家、松の音の常にきこえるやうな家、八ツ手の葉のバサバサする家、そこに私はかの女を置いて見ることが好きだ。無邪気の文学書生として、専念に芸術に熱中した娘として。私はその時分、よく出かけて行つては言つた。『好いぢやないか。かうして、静かに、専念に、芸術に耽り得るといふことは――。なまなか、実人生に触れるよりは、落附いてゐて、何んなに好いか知れない』

 しかし、矢張、触れずにはゐられなかつた実人生であつた。私はその時かの女がもう少しさうして落附いてゐることを何んなに望んだか知れなかつた。もう少し丈夫な羽翼の生へるまでは、自分から自分を護る事の出来る力の湧き出して来るまでは――。かの女はしかし私の言ふことをきかなかつた。かの女は一目散に実人生に向つて触れて行つた。

 その実人生に向つて触れて行つたことが、かの女に何ういふ影響を来したか。それを私は今此処で言はうとはしてゐない。しかし、少くとも、かの女の芸術が一時そのために頓挫したのは争ふべからざる事実であつた。実人生はかの女に取つてかなりに辛く且つ重荷であつたらしかつた。実際に触れゝば触れるほど、芸術の鏡が曇つて行くといふことは、今も昔も変るところがなかつた。

 しかしかの女が、さうして一度浸つた実人生の中から、常に浮び出さう浮び出さうと心がけてゐたのは、雄々しかつた。かの女は倦まずに作を続けた。

 私の考では、矢張、『道』だの、『輝ける朝』などよりも、初期の『四十余日』や『お寺の児』や『暗い家』などの方が光つてゐるやうに思はれた。少くとも、初期の作には、小さな反感がなかつた。何でも素直に、素直に受け入ることが出来た。それと言ふのも、病気になつたり何かした為めもあるであらうけれども――それは察してやらなければならないけれども、『輝ける朝』の尖つた神経や、『沈める日』の自己に対する鞭などは、決して大きいといふ感を読者に与へない。『道』などでも、ある点までは、初期のまことを失なはないけれども、何処か自己を弁護したやうなところのあるのを見遁すことが出来ない。矢張、私は、後期の作では、『お三輪』などにあらはれた作者の静かにさびしい姿をなつかしまずにはゐられなかつた。

 自己の生活に捉へられるのも結構だ。それを私は咎めるのではない。何故と言へば、すべては捉へられて行くところから始まつて来るのであるからである。しかし、芸術に表現される形は、そのまゝではいけない。その捉へられたまゝではいけない。否、実生活でも、少しすぐれた実生活ならば、矢張、さうした表現された生活といふやうな形を備へて来るであらうと思はれる。惜しいことには、かの女はそれを十分に破つて進んで行くことが出来なかつた。しかし、病気が一面さうした形を形成したと共に、一面、益々深い、真面目な境にかの女を伴れて行つたのは事実だつた。

 草津に於ての一年に近い生活、その生活が一層かの女に取つて意味のある生活であらねばならなかつた。しかし、惜しいことには、二三の感想の他、その生活を語るやうなものは残つてゐなかつた。従つてその感想は、かの女を知るに於て、殊に、貴重なるものとしなければならなかつた。
 私は白雪に照りかゝる明るい日影を見た。そしてそこに立つてその日影を見てゐるかの女を見た。堆雪の中に残された些かな青い草と、それを啄む小鳥とを見てゐるかの女を見た。私は何とも言はれないやうな悲哀の胸に一杯になつて来るのを感じた。
 その山の中に於ては、恐らくかの女は、あの実生活に対する小さな反感を捨てたであらう。また、その病気から起つて来る苦悩をも捨てたであらう。あらゆるものを捨てゝ捨てゝ、更に再生の途上へと上つて行つたであらう。それを思ふと、芸術と実生活の交錯などは、何うでも好くなつて来るのを感ずる。

 何は措いても、これだけは確かだ。私の一生の道にあらはれて来た多くの女性の中で、かの女が最も純な、最も本当な、最も一本筋な、最も正しい異性であつたといふことは――。

『静かに、静かにして置いて下さい――』
 かうかの女は、墓の中から言ふかも知れなかつた。
 今になつても、さう思はれるほど、それほどかの女は、音も香もなく死んで行くことを望んだのであつた。かの女はあらゆるものゝ仕末をした。日記もいた。手紙も焚いた。かうした一人の女性が曾てこの世の中にゐたことをすら知られないやうにして死ぬことを望んだ。この心、この心は悲しいではないか。

 かの女は曾て、『青鞜』の同人の一人となつたことがあつた。しかし、かの女は到底、さうした軽い、うはついた心持ではゐられなかつたらしかつた。かの女は言つた。『とても、私には、あゝいふ人達と一緒になつて騒ぐことは出来ません』それほどかの女の心はさびしく且つ真面目であつた。
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 ある人が話した。『さう言つたさうですが、さういふことが考へられるでせうか。この社会に交渉を持たないものは、それは小説と言ふことは出来ないなんて……?』
『それは、ちよつと極端ですね』
『つまり、かう言ふんださうです。ツルゲネフの作品の価値のあるのは、それは農奴解放に役立つたからで、さういふ風に、世の中にある交渉を持つてゐない者は、それは小説ではないと言ふんださうです』
『それは極端ですな……。さうすると、社会の下に芸術があるといふ形になるんですね。つまり、芸術が社会に圧せられた形ですね。成ほど、さういふ時代も、時に由つてはあるかも知れませんね。しかし、僕は今がそんな時代だとは思ひませんね』
『何うも、不思議ですよ』
『僕の今の心持から言ふと、それとは丸で正反対かも知れない。ツルゲネフの作の価値は、さうした社会に触れたところにあるのではなくて、さういふのは、むしろ、第二義的に附属して来たもので、本当の価値は、もつと別なところにあると思ふ。でなくては、芸術といふものが、全く実際に隷属して了ふことになつて了ひますからね』
『さう思ふんですけれども――』
『つまり、時代、時代によつて、いろ/\になるんですね。しかし、それは表面だけですよ。その枢軸を成したものは、矢張り金剛不壊ですからね。ビクともしやしませんからね』
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『寧ろ、かう言へば、わかるかも知れない。つまり人間の心へ、現に触れなければいけない。それでなければ小説でない。かう言つたのかも知れない。それが、次第に曲つて、よぢれて、そんなことになつたのではないか。さうだらう。それに違ひなからう。さうでなくつては、余りに浅すぎる』
 こんなことをも私は言はずにはゐられなかつた。
 心へ、魂へ。それが第二義的に間接に社会へ。かうでなくてはならないのである。だから、我らは社会の根元を成す心にこそ、魂にこそ向つて進め、何も退いて、社会と妥協する必要はないのである。もし、それを敢てするものがあれば、それは即ち芸術の堕落でなければならぬ。
 芸術を旨とするものは、何うしても、外よりも内に向はなければならない。内部の煩悶と苦痛と歓喜とに心を伴つて行かなければならない。外から起る刺戟よりも、内から起る刺戟に一層深く心を動かさなければならない。
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 クロポトキンとトルストイとの相違、外と内との相違、心を問題にしたものと社会を問題にしたものとの相違、これなども大いに考へて見なければならないものではないか。
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 何も実行に趨らなくつても好いのではないか。実行は絶対に芸術と伴はないといふことを君は知らないのか。実行が重ぜられるやうになれば、芸術はひとり手に衰へなければならないのを知らないのか。しかし、かうは言ふものゝ、私とて実行を軽んじてゐるのではない。私とて、すぐ眼の前に、実行しなければならない危機がぶら下つて来たとすれば、直ちにその巴渦の中に入つて行くに相違ない。しかし、今はまだそんな時代だとは私には思はれない。もう少し静かにしてゐて好いと私は思ふ。
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 外より内へ、内より外へ。これが私達の生活であらねばならぬ。
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 何う考へて見ても、今の思潮は科学的すぎる、客観的すぎる。あまり外的に拘泥しすぎて、内部はそのまゝ放つたらかしてある。もう少し個人が落附いて考へて見る必要はないか。
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 生温い自由がいくらあつたツて為方がない。事に触れ、時に際して、すぐ妥協して了ふやうな自由が――。
 自由といふことは、先づ自己の自由からはかつて行かなければならない。自己の自由すら完全に保持することの出来ないものが、何うして自由を要求する資格があるであらうか。ある人に取つては、自由は却つてその身を滅ぼす動機になるものであることを忘れてはならない。
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 自由は結構だ。しかし本当の自由といふことは、人間に取つて、一生かゝつても得られるか何うか疑問である。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
   1923(大正12)年4月15日
初出:「文章世界 第十五巻第六号」博文館
   1920(大正9)年6月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2022年4月27日作成
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